魂が抜ける。
2009/08/17/Mon
京極夏彦『厭な小説』を読んだ。全然厭じゃなく普通におもしろかった。エンタメとして。
ライトノベル作家を目指すアマチュアどもが集う小説サイトで、「とにかく不快な小説を書いてみよう」という企画があったが、その中に混じっていてもおかしかない。当然評価は高い方になるが。
なんていうか、「厭なこと」ということから作家が連想させる断片が普通すぎる。まーここ外したらエンタメじゃなくなるんだけど。従ってわたしから見ると「あー大体普通の人が厭と感じることってこんな感じなのねー」という感じしかしない。
あーそれと文章そんなに上手くないよな。時代物じゃなくなると急にそれがわかる。ってまあ最後でメタ小説手法を取ってて「下手な小説」って自分で評価しているわけだからわざとかもしれんが。
どっちかってと現代に妖怪を復活させる試みって読んだ方がいいのかもね。本来妖怪って「厭な」ものなわけだし。あかなめとか厭な感じじゃん?
んで、じゃあ本当に「厭な小説」ってどんなんだろう、と思って真っ先に思い出すのが車谷長吉だな。最近のはなしで。『鹽壺の匙』とか『漂流物』とかあたりは厭というよりおぞましいって感じだけど、『忌中』あたりはほんと厭な感じがする。だからおもしろい。エンタメとしてじゃないおもしろさ。「厭なこと」の掘り下げがエンタメレベルなんだな。京極の作品は。車谷はもう一歩踏み込んでる。だからエンタメとしては売れなくなる。ほんとに厭なら進んで買うわけないじゃん。
車谷のそれらの作品と比べると、京極がこの作品で書く「厭なこと」はあたかもカタログのようだ。いいも悪いもなく。
「あーこういうのが他の人の厭なことなのねー」という感じ。「厭な感じ」を伝染させる目的だとすれば車谷の方が(わたしにとって)上、ということ。
なんていうか、「厭なこと」を構造的に見るのはいいけれど、そもそも「何故構造化するのか」って不快から逃れるためだと思うのね。こんな風に個人の快・不快を根拠に持ってきがちなのがクリステヴァ論者のだめなところだけど。『厭な小説』で「善悪と好悪は別物だ」なんて一節があったが、わたしから言わせれば、「別物は別物だけど、根っこは好悪だよ。好悪という根っこから枝葉が分かれたのが善悪にすぎないだけで」って感覚なんだな。アブジェクシオン論ってそういうことだ。「善悪なんてもなー(本来それぞれ別々である可能性も充分ある)個人の好き嫌いを集団的に統一させたもの」ってわけ。極端に言うと。
それはともかく、京極夏彦は構造主義者だとわたしは思うのね。本人も自覚しているみたい。なんか中沢との対談でそんなこと言ってたという情報を聞いた。
だけどさっき言ったように構造化志向の根拠って不快の棄却なわけだから、構造主義で不快を語るのはそれこそ数学で不完全性定理を述べるようなことなんだな。自己言及性の不完全さ。
だから構造主義の京極は、そうじゃない車谷より「厭なこと」を書ききれなかった、となる、のかな?
「怪異」に対する京極の思想は評価できるが、「不快」におけるリアリティ(アクチュアリティ)が、京極作品には欠けている。たとえば車谷長吉などと比べて。
車谷についての論述で引き合いに出した京極を「広告代理店派」と松岡正剛が述べたのもそういう感じなのかもしれない。
まー適当。
今ふと思ったが、社会構成主義批判としてのナラティブセラピーとかっておもしろいかも。要するにブラックユーモアとか風刺みたいな。
社会なんてなー単に(言語にしろアイデンティティにしろ)いろんな要素で構成されたもんだ、っていういかにもポモな主張はいいんだが、「そうだけどそれを大事にしよう」っていうのがおかしいんだよな。自虐ネタが自虐になってない。今のオタク文化の自虐ネタと一緒。自虐しているようで自分のアイデンティティ確認になってる。それと同じ構造をしている。社会構成主義って奴は。
「だからそれでいいじゃない」って感覚がいけないんだ。「社会なんてな単に構成されたものにすぎない」って言う視点はいいんだ。それは事実だから。だけどなーんで「それでいいじゃん」ってなるのがわかんねーんだよなー。
昔の『OUT』やらでやってたSFオタの自虐ネタと、現代の自虐ネタの違いってそうじゃん。現代のオタクたちがする自虐ネタって「それでいいじゃん」度が強い。そりゃそーだ。昔と違ってオタク文化は立派に一つの文化として認められてんだから。国内の有望産業として見られてるし、麻生首相なんかいかにも象徴的(すぎてもはやギャグだが。いやわたしのこの論が)。
それと同じ。社会構成主義なんてな。
いろいろやる気がない。
某ネトゲで十何時間ぶっ続けでプレイしたことあるが、最後のパーティでボス倒して、そのままぼーっとしてて、「あれ、○○さん(わたしのキャラネ)寝落ちかな」とか言われて、「魂が抜けてた」と返したことがある。
魂が抜けてる。
ライトノベル作家を目指すアマチュアどもが集う小説サイトで、「とにかく不快な小説を書いてみよう」という企画があったが、その中に混じっていてもおかしかない。当然評価は高い方になるが。
なんていうか、「厭なこと」ということから作家が連想させる断片が普通すぎる。まーここ外したらエンタメじゃなくなるんだけど。従ってわたしから見ると「あー大体普通の人が厭と感じることってこんな感じなのねー」という感じしかしない。
あーそれと文章そんなに上手くないよな。時代物じゃなくなると急にそれがわかる。ってまあ最後でメタ小説手法を取ってて「下手な小説」って自分で評価しているわけだからわざとかもしれんが。
どっちかってと現代に妖怪を復活させる試みって読んだ方がいいのかもね。本来妖怪って「厭な」ものなわけだし。あかなめとか厭な感じじゃん?
んで、じゃあ本当に「厭な小説」ってどんなんだろう、と思って真っ先に思い出すのが車谷長吉だな。最近のはなしで。『鹽壺の匙』とか『漂流物』とかあたりは厭というよりおぞましいって感じだけど、『忌中』あたりはほんと厭な感じがする。だからおもしろい。エンタメとしてじゃないおもしろさ。「厭なこと」の掘り下げがエンタメレベルなんだな。京極の作品は。車谷はもう一歩踏み込んでる。だからエンタメとしては売れなくなる。ほんとに厭なら進んで買うわけないじゃん。
車谷のそれらの作品と比べると、京極がこの作品で書く「厭なこと」はあたかもカタログのようだ。いいも悪いもなく。
「あーこういうのが他の人の厭なことなのねー」という感じ。「厭な感じ」を伝染させる目的だとすれば車谷の方が(わたしにとって)上、ということ。
なんていうか、「厭なこと」を構造的に見るのはいいけれど、そもそも「何故構造化するのか」って不快から逃れるためだと思うのね。こんな風に個人の快・不快を根拠に持ってきがちなのがクリステヴァ論者のだめなところだけど。『厭な小説』で「善悪と好悪は別物だ」なんて一節があったが、わたしから言わせれば、「別物は別物だけど、根っこは好悪だよ。好悪という根っこから枝葉が分かれたのが善悪にすぎないだけで」って感覚なんだな。アブジェクシオン論ってそういうことだ。「善悪なんてもなー(本来それぞれ別々である可能性も充分ある)個人の好き嫌いを集団的に統一させたもの」ってわけ。極端に言うと。
それはともかく、京極夏彦は構造主義者だとわたしは思うのね。本人も自覚しているみたい。なんか中沢との対談でそんなこと言ってたという情報を聞いた。
だけどさっき言ったように構造化志向の根拠って不快の棄却なわけだから、構造主義で不快を語るのはそれこそ数学で不完全性定理を述べるようなことなんだな。自己言及性の不完全さ。
だから構造主義の京極は、そうじゃない車谷より「厭なこと」を書ききれなかった、となる、のかな?
「怪異」に対する京極の思想は評価できるが、「不快」におけるリアリティ(アクチュアリティ)が、京極作品には欠けている。たとえば車谷長吉などと比べて。
車谷についての論述で引き合いに出した京極を「広告代理店派」と松岡正剛が述べたのもそういう感じなのかもしれない。
まー適当。
今ふと思ったが、社会構成主義批判としてのナラティブセラピーとかっておもしろいかも。要するにブラックユーモアとか風刺みたいな。
社会なんてなー単に(言語にしろアイデンティティにしろ)いろんな要素で構成されたもんだ、っていういかにもポモな主張はいいんだが、「そうだけどそれを大事にしよう」っていうのがおかしいんだよな。自虐ネタが自虐になってない。今のオタク文化の自虐ネタと一緒。自虐しているようで自分のアイデンティティ確認になってる。それと同じ構造をしている。社会構成主義って奴は。
「だからそれでいいじゃない」って感覚がいけないんだ。「社会なんてな単に構成されたものにすぎない」って言う視点はいいんだ。それは事実だから。だけどなーんで「それでいいじゃん」ってなるのがわかんねーんだよなー。
昔の『OUT』やらでやってたSFオタの自虐ネタと、現代の自虐ネタの違いってそうじゃん。現代のオタクたちがする自虐ネタって「それでいいじゃん」度が強い。そりゃそーだ。昔と違ってオタク文化は立派に一つの文化として認められてんだから。国内の有望産業として見られてるし、麻生首相なんかいかにも象徴的(すぎてもはやギャグだが。いやわたしのこの論が)。
それと同じ。社会構成主義なんてな。
いろいろやる気がない。
某ネトゲで十何時間ぶっ続けでプレイしたことあるが、最後のパーティでボス倒して、そのままぼーっとしてて、「あれ、○○さん(わたしのキャラネ)寝落ちかな」とか言われて、「魂が抜けてた」と返したことがある。
魂が抜けてる。