Psychoanalysis
2009/08/20/Thu
だから想像できるわ夢の中
今日もマウントの上の血みどろ
俺はシラフだ酔ってるのは路面
それは妄想よ 想像よ
いつまで夢見るつもりなのロマンス
秘めたメカニズム くわしく調べたいの
Ah Psychoanalysis 遠のいてく意識
Ah Psychoanalysis 正三角形の挑発
快楽 タブー ノスタルジア!
逆精神分析のテーマソングにしてあげたいわ。精神分析自体フィーリングとしてこういうイメージが纏わりついた方がおもしろい。安酒場でバイタまがいの女が割れた酒瓶片手に「くわしく調べたいの」とささやきかけるような。グレートマザーとしての対象aではなくテリブルマザーとしての対象a。分析家のディスクールにおいて能動者は対象aである。余談だがこの歌詞における「正三角形」とはおそらくオイディプス関係の理論のことであろう。ラカン論においてそれはS2となる。この歌を「テリブルマザーとしての対象aで分析家のディスクールをする歌」だという解釈を採用するならば、分析家のディスクールにおいてS2は真理の位置にあるため、「正三角形の挑発」は真理の位置から挑発されている、となる。「挑発」という表現に疑問が生じるかもしれないが、たとえばヒステリー者のディスクールにおいては対象aが真理となっていて、ヒステリー者の言葉が愛を挑発するようなものであることと同様である。
「いつまで夢見るつもりなのロマンス」
中沢新一が「愛を学問できるのは精神分析だけだ」と言って精神分析を評価していた。間違いではない。しかしそれは愛を理屈で切り刻むことでもある。中沢はそれを知って精神分析を評価しているのか。自身の愛をずたずたに切り刻まれる覚悟をもってそんなことを言ったのか。
「右から左へララバイ」
結局あれだ。心的距離を自分の意思通り従わせることができるのが正常人なんだな。心的距離なわけだから他人も自分も相関している。
ところが未去勢者にとっては他人も自分も自然物なわけだから、心的距離もコントロールできるわけがない。
他人と自分が相関するものを何故意思通り支配できるのか。「欲望とは他者の欲望である」だからである。いわば八百長である。精神医学における「心的距離」という概念は既に幻想なのだ。未去勢者たちの予測不可能な「興味」とも呼ぶべきそれは他人は関与しない。どちらが現実的な概念と言えるだろう?
BPDの「見捨てられ不安」なんかは(わたしはBPDの多くは去勢済み主体であると考えている。従ってパラノイアとの境界例、となる)、心的距離が近くなきゃ、自分の支配下になきゃ気が済まない、って感じなんだろうな。
あ、そうだ。『厭な彼女』なんだが、若い時分の中森明菜で演技させたら(脳内で)怖いかもしれない。つかリンク先の動画、短冊に書く前後ろ(マッチのいる方向)をちらっと見てるよな(笑)。こええ。
いやそれだけ。
この記事を読んでて脳内反論があった。「たとえば自閉症者の特徴として「こだわりが強い」というのがあるが、それは「満たされない」欲望じゃないのか?」と。
ふむ。それはそうだ。それについてわたしは以前の記事でこのように書いたことがある。
=====
自閉症の特徴である「こだわり」。分裂症の「分裂症者が制作する自己増殖する机」あるいは「「真」の存在との出会いの情熱」。この執着は、先に何度か述べた「「自分という実存在」の熟考」と呼応する。
自閉症者の「こだわり」が「「真」の存在との出会いとの情熱」だとするのはおかしいと思うだろうか? そう思う方はこちらの記事(1,2,3)を読んで欲しい。彼らの「こだわり」がいかに「真なるもの」と出会おうとしてのものであるかわかるだろう。
分裂症者とて同じである。彼は何かを訴えたくて「自己増殖する机」を制作しているのではない。「机」の「真」なる存在と出会おうとして、身を削って机を制作するのだ。
一方、先の二人は、すんでのところで妥協する。快楽原則と現実原則を組み合わせたリミッターによって。心的苦痛に苦しんでいる時は非定型発達的なのではあろうが、すんでのところで定型発達的な自分が、大人の彼女たちが、ストップをかける。
=====
「真」なるものを求めているのなら、それは到達できないものであるため、「満たされない」。すなわち欲望だと言える。
しかし、未去勢者の「到達できない「真」なるものを求める」という特徴は、わたしはどうも欲望と思えない。ラカン論を引くなら「欲望とは他者の欲望である」となる。しかし未去勢者の主観世界においては(欲望の根拠となりうる)他者が希薄である。矛盾する。
わたしはここでこうも書いている。
=====
山岸美代子氏の「こだわり」が、不快を避けるためのものでもなく(彼女は自身の「こだわり」を苦痛に感じている)、社会的なルールと妥協(関与)するためのものでもなく(「こだわり」はむしろ社会生活に支障を及ぼしている)、「哲学」的な「真なるもの」を求めてのものであることがわかるだろう。
=====
自分自身についてもこう書いている。
=====
かっこつけて言うならわたしの美学みたいなもの。だけど美学でもなんでもない。証明していない定理を使うのが気持ち悪かっただけ。
(中略)
要するに、わたしはブラックボックスとでも呼べるような、わけのわからないものにとことん弱いのだ。お化け屋敷なんかも、グロ画像愛好家で元オカルト板住人のくせに苦手だ。
=====
未去勢者は「わからない」という不快に敏感である故、それを「避ける」のではなく、それをなんとかしようと不快に向かってしまうのである。これが自閉症者の「こだわり」や分裂症者の「「真」の存在との出会いとの情熱」となる。
一方、去勢済み主体の欲望において、到達できない(満たされない)ものとは、ファルスが生じた瞬間である。去勢の瞬間である。その時の「万能感」であったり、完全な「容器」としての「アガペー」などを求めている。これはつまり幻想である。
「あなたはユートピア、果てはヒーロー。それは妄想よ、想像よ。いつまで夢見るつもりなの? ロマンス」
欲望における到達できない到達点は幻想であり、未去勢者の「こだわり」や「「真」の存在との出会いとの情熱」における到達できない到達点は(ラカン的な意味での)現実なのであり、それらは別物と考えなければならない。たとえ到達できない側面が同じだとしても。
むしろ未去勢者の治療は、到達できない到達点を、現実的なものから幻想的なものへと置換させることが肝要になるのではないか、と心にもないことを言っておこう。
何故ならこの場合の現実とは、物自体の世界であり、クライン論における「妄想分裂態勢」的な主観世界であり、ビオン論における「β要素」の世界であり、クリステヴァ論における「始原の暴力」が渦巻く世界であり、ラカン曰く「しかめっ面」をしているのだから。それは決してファルスが生じた瞬間ではない。鏡像段階ではない。それは分裂症の病根とも呼べる「死の恐怖」と等しいものである。
未去勢者たちは、いやそれに限らず中二病としての若者たちは、しばしば大人たちの日常コミュニケーションについて性的な汚らわしさを連想する。いくら大人たちが性的なつもりでコミュニケーションしていなくても、ファルスが壊れた、あるいは不安定な人間から見れば、そう見えてしまう。まるで男の会話全てに下心を見出してしまうおぼこみたいじゃないか。
それはこういうことを根拠にしているのではないか。すなわち大人たちの日常コミュニケーションが全て(一般的な語用ではない、精神分析ジャーゴンとしての)欲望を根拠にしていることを、未去勢者や中二病者たちは見抜いているのだ。
わたしが正常人の語らいを「精液」と表現しているのは、最初はフィーリングでそう言ったのだが、こうやって理屈づけられる、という話でもある。わたしの言葉に性的な言葉が多いのもこういう理由からである。
わたしは正常人とコミュニケーションするため、こう述べているのである。お前たちが否認するお前たちの心的事実を突きつけているのである。精神分析理論を道具にして。
「煮えきったメカニズム、くわしく調べたいの」
脳内反論があった記事に戻ろう。
そこでわたしは「文明は欲望が築きあげた」と述べているが、文明とは幻想として生産することである。『アンチ・オイディプス』などはこの「生産」という言葉を分裂症者側、すなわち未去勢者側に取り戻す試みとも言える。幻想としての生産ではなく現実としての生産を彼らは強調する。しかしここは一般的な語用における「生産」、すなわち幻想としての生産としよう。
一方、分裂症者の「真」なるものへ向かうことは、むしろ分析的であり、解体的である。破壊的と言ってもいい。たとえば物理学を考えよう。高校生の頃だったか参考書にこんなことが書かれていた。「この石は一体どういうものだろう?」という問いを持った人間が、石を半分に切断し、さらにその半分を切断し、さらに……と繰り返した結果、今の原子や分子などを発見するに至ったのだ、と。量子力学もその延長である。物理学者は石を解体し破壊し続けている。こういった意味で、物理学の態度は解体的であり、スキゾフレニックな要請により成立したものだと言える。実際、基礎科学は応用科学側の立場から「生産的じゃねえじゃん」みたいなことをよく言われるが、基礎科学と物理学は親近している。応用科学と親近する工学が関与しなければ、文明は発展しなかっただろう。
一般的な語用を考慮するならば、去勢済み主体の欲望は「生産」的なものであるのに対し、未去勢者の欲望と定義的に言えないそれは「分析」的で「解体」的なものである、と言える。
どこかのコメントで、ある解離性障害者と二階堂奥歯のテクストを対比し、二階堂奥歯の言葉は分析的である故、二階堂は未去勢者である、と書いたことがあるが、それはこういったことを根拠にしている。
この記事書いてる時fc2サーバーむっちゃ重くて困った。
なんかIPアドレスに向けて攻撃できるツールあったなあ、とふと思い出した。ぐぐったらあっさり見つけた。通信速度が落ちるだけらすい。うちも時々やけに遅くなる時あるんだがもしかしてこれか? まあ基本わたしって人間はパラノイアっぽい奴に生理的嫌悪を覚えるわけで、結果的に偏執的な奴らばっか攻撃することになるから仕方ねえか。
そんな感じー。
落ち着かない。わやわやした感じがずっと続いている。頭痛い。お腹がぎゅるぎゅるする。
もういいだろ。終わらせてくれ。
世界を殺したい。死にたい。
今日もマウントの上の血みどろ
俺はシラフだ酔ってるのは路面
それは妄想よ 想像よ
いつまで夢見るつもりなのロマンス
秘めたメカニズム くわしく調べたいの
Ah Psychoanalysis 遠のいてく意識
Ah Psychoanalysis 正三角形の挑発
快楽 タブー ノスタルジア!
逆精神分析のテーマソングにしてあげたいわ。精神分析自体フィーリングとしてこういうイメージが纏わりついた方がおもしろい。安酒場でバイタまがいの女が割れた酒瓶片手に「くわしく調べたいの」とささやきかけるような。グレートマザーとしての対象aではなくテリブルマザーとしての対象a。分析家のディスクールにおいて能動者は対象aである。余談だがこの歌詞における「正三角形」とはおそらくオイディプス関係の理論のことであろう。ラカン論においてそれはS2となる。この歌を「テリブルマザーとしての対象aで分析家のディスクールをする歌」だという解釈を採用するならば、分析家のディスクールにおいてS2は真理の位置にあるため、「正三角形の挑発」は真理の位置から挑発されている、となる。「挑発」という表現に疑問が生じるかもしれないが、たとえばヒステリー者のディスクールにおいては対象aが真理となっていて、ヒステリー者の言葉が愛を挑発するようなものであることと同様である。
「いつまで夢見るつもりなのロマンス」
中沢新一が「愛を学問できるのは精神分析だけだ」と言って精神分析を評価していた。間違いではない。しかしそれは愛を理屈で切り刻むことでもある。中沢はそれを知って精神分析を評価しているのか。自身の愛をずたずたに切り刻まれる覚悟をもってそんなことを言ったのか。
「右から左へララバイ」
結局あれだ。心的距離を自分の意思通り従わせることができるのが正常人なんだな。心的距離なわけだから他人も自分も相関している。
ところが未去勢者にとっては他人も自分も自然物なわけだから、心的距離もコントロールできるわけがない。
他人と自分が相関するものを何故意思通り支配できるのか。「欲望とは他者の欲望である」だからである。いわば八百長である。精神医学における「心的距離」という概念は既に幻想なのだ。未去勢者たちの予測不可能な「興味」とも呼ぶべきそれは他人は関与しない。どちらが現実的な概念と言えるだろう?
BPDの「見捨てられ不安」なんかは(わたしはBPDの多くは去勢済み主体であると考えている。従ってパラノイアとの境界例、となる)、心的距離が近くなきゃ、自分の支配下になきゃ気が済まない、って感じなんだろうな。
あ、そうだ。『厭な彼女』なんだが、若い時分の中森明菜で演技させたら(脳内で)怖いかもしれない。つかリンク先の動画、短冊に書く前後ろ(マッチのいる方向)をちらっと見てるよな(笑)。こええ。
いやそれだけ。
この記事を読んでて脳内反論があった。「たとえば自閉症者の特徴として「こだわりが強い」というのがあるが、それは「満たされない」欲望じゃないのか?」と。
ふむ。それはそうだ。それについてわたしは以前の記事でこのように書いたことがある。
=====
自閉症の特徴である「こだわり」。分裂症の「分裂症者が制作する自己増殖する机」あるいは「「真」の存在との出会いの情熱」。この執着は、先に何度か述べた「「自分という実存在」の熟考」と呼応する。
自閉症者の「こだわり」が「「真」の存在との出会いとの情熱」だとするのはおかしいと思うだろうか? そう思う方はこちらの記事(1,2,3)を読んで欲しい。彼らの「こだわり」がいかに「真なるもの」と出会おうとしてのものであるかわかるだろう。
分裂症者とて同じである。彼は何かを訴えたくて「自己増殖する机」を制作しているのではない。「机」の「真」なる存在と出会おうとして、身を削って机を制作するのだ。
一方、先の二人は、すんでのところで妥協する。快楽原則と現実原則を組み合わせたリミッターによって。心的苦痛に苦しんでいる時は非定型発達的なのではあろうが、すんでのところで定型発達的な自分が、大人の彼女たちが、ストップをかける。
=====
「真」なるものを求めているのなら、それは到達できないものであるため、「満たされない」。すなわち欲望だと言える。
しかし、未去勢者の「到達できない「真」なるものを求める」という特徴は、わたしはどうも欲望と思えない。ラカン論を引くなら「欲望とは他者の欲望である」となる。しかし未去勢者の主観世界においては(欲望の根拠となりうる)他者が希薄である。矛盾する。
わたしはここでこうも書いている。
=====
山岸美代子氏の「こだわり」が、不快を避けるためのものでもなく(彼女は自身の「こだわり」を苦痛に感じている)、社会的なルールと妥協(関与)するためのものでもなく(「こだわり」はむしろ社会生活に支障を及ぼしている)、「哲学」的な「真なるもの」を求めてのものであることがわかるだろう。
=====
自分自身についてもこう書いている。
=====
かっこつけて言うならわたしの美学みたいなもの。だけど美学でもなんでもない。証明していない定理を使うのが気持ち悪かっただけ。
(中略)
要するに、わたしはブラックボックスとでも呼べるような、わけのわからないものにとことん弱いのだ。お化け屋敷なんかも、グロ画像愛好家で元オカルト板住人のくせに苦手だ。
=====
未去勢者は「わからない」という不快に敏感である故、それを「避ける」のではなく、それをなんとかしようと不快に向かってしまうのである。これが自閉症者の「こだわり」や分裂症者の「「真」の存在との出会いとの情熱」となる。
一方、去勢済み主体の欲望において、到達できない(満たされない)ものとは、ファルスが生じた瞬間である。去勢の瞬間である。その時の「万能感」であったり、完全な「容器」としての「アガペー」などを求めている。これはつまり幻想である。
「あなたはユートピア、果てはヒーロー。それは妄想よ、想像よ。いつまで夢見るつもりなの? ロマンス」
欲望における到達できない到達点は幻想であり、未去勢者の「こだわり」や「「真」の存在との出会いとの情熱」における到達できない到達点は(ラカン的な意味での)現実なのであり、それらは別物と考えなければならない。たとえ到達できない側面が同じだとしても。
むしろ未去勢者の治療は、到達できない到達点を、現実的なものから幻想的なものへと置換させることが肝要になるのではないか、と心にもないことを言っておこう。
何故ならこの場合の現実とは、物自体の世界であり、クライン論における「妄想分裂態勢」的な主観世界であり、ビオン論における「β要素」の世界であり、クリステヴァ論における「始原の暴力」が渦巻く世界であり、ラカン曰く「しかめっ面」をしているのだから。それは決してファルスが生じた瞬間ではない。鏡像段階ではない。それは分裂症の病根とも呼べる「死の恐怖」と等しいものである。
未去勢者たちは、いやそれに限らず中二病としての若者たちは、しばしば大人たちの日常コミュニケーションについて性的な汚らわしさを連想する。いくら大人たちが性的なつもりでコミュニケーションしていなくても、ファルスが壊れた、あるいは不安定な人間から見れば、そう見えてしまう。まるで男の会話全てに下心を見出してしまうおぼこみたいじゃないか。
それはこういうことを根拠にしているのではないか。すなわち大人たちの日常コミュニケーションが全て(一般的な語用ではない、精神分析ジャーゴンとしての)欲望を根拠にしていることを、未去勢者や中二病者たちは見抜いているのだ。
わたしが正常人の語らいを「精液」と表現しているのは、最初はフィーリングでそう言ったのだが、こうやって理屈づけられる、という話でもある。わたしの言葉に性的な言葉が多いのもこういう理由からである。
わたしは正常人とコミュニケーションするため、こう述べているのである。お前たちが否認するお前たちの心的事実を突きつけているのである。精神分析理論を道具にして。
「煮えきったメカニズム、くわしく調べたいの」
脳内反論があった記事に戻ろう。
そこでわたしは「文明は欲望が築きあげた」と述べているが、文明とは幻想として生産することである。『アンチ・オイディプス』などはこの「生産」という言葉を分裂症者側、すなわち未去勢者側に取り戻す試みとも言える。幻想としての生産ではなく現実としての生産を彼らは強調する。しかしここは一般的な語用における「生産」、すなわち幻想としての生産としよう。
一方、分裂症者の「真」なるものへ向かうことは、むしろ分析的であり、解体的である。破壊的と言ってもいい。たとえば物理学を考えよう。高校生の頃だったか参考書にこんなことが書かれていた。「この石は一体どういうものだろう?」という問いを持った人間が、石を半分に切断し、さらにその半分を切断し、さらに……と繰り返した結果、今の原子や分子などを発見するに至ったのだ、と。量子力学もその延長である。物理学者は石を解体し破壊し続けている。こういった意味で、物理学の態度は解体的であり、スキゾフレニックな要請により成立したものだと言える。実際、基礎科学は応用科学側の立場から「生産的じゃねえじゃん」みたいなことをよく言われるが、基礎科学と物理学は親近している。応用科学と親近する工学が関与しなければ、文明は発展しなかっただろう。
一般的な語用を考慮するならば、去勢済み主体の欲望は「生産」的なものであるのに対し、未去勢者の欲望と定義的に言えないそれは「分析」的で「解体」的なものである、と言える。
どこかのコメントで、ある解離性障害者と二階堂奥歯のテクストを対比し、二階堂奥歯の言葉は分析的である故、二階堂は未去勢者である、と書いたことがあるが、それはこういったことを根拠にしている。
この記事書いてる時fc2サーバーむっちゃ重くて困った。
なんかIPアドレスに向けて攻撃できるツールあったなあ、とふと思い出した。ぐぐったらあっさり見つけた。通信速度が落ちるだけらすい。うちも時々やけに遅くなる時あるんだがもしかしてこれか? まあ基本わたしって人間はパラノイアっぽい奴に生理的嫌悪を覚えるわけで、結果的に偏執的な奴らばっか攻撃することになるから仕方ねえか。
そんな感じー。
落ち着かない。わやわやした感じがずっと続いている。頭痛い。お腹がぎゅるぎゅるする。
もういいだろ。終わらせてくれ。
世界を殺したい。死にたい。