ピシッ
2009/08/21/Fri
頭蓋の内側にさまざまな精密機器らしきものが取りつけられている。
盗聴器。盗撮カメラ。
それそのものが生き物なのかもしれない。
動く。溶ける。混じりあう。
だから手術しても取り除けないと思う。
被害妄想は妄想などではない。たしかに共同幻想としての「現実」から見れば妄想なのだろうが、それはアクチュアリティ溢れる感覚である。従って現実である。正常人たちが思う共同幻想としての「現実」など、多くの人が現実味を感じてないではないか。特に現代では。わたしのこの感覚は、もしこの苦痛を伝染させることができたなら、百人が百人(「現実だ」などと口に出しては言わないかもしれないが)その現実味を痛いほど感じるだろうと思える。
ある分裂症患者が「もうすぐ世界大戦が起きる」という妄想を根拠に犯罪を犯したとする。彼の世界大戦に対する不安感が伝染すれば、「もうすぐ世界大戦が起きる」という彼の予言に人々は重い現実味を感じるだろう。彼の犯罪は予言者の奇跡となるだろう。
彼は苦痛の、不安の、狂気の伝染に失敗しただけである。
焦るな。
用意は周到にしろ。
苦痛の、不安の、狂気の伝染は容易いことではない。
じっくり作戦を練ろ。
じっくり時を待て。
絡めとるように伝染させるのだ。
高度な防衛システムを持つ正常人たちにそれを伝染させるのは困難である。
こちらもそれ相応の作戦が必要である。
このテクニックとして、逆精神分析という概念をわたしは提唱している。
ピシッ。
日常生活に現実味を感じられない、なんてのは(陰性の)統合失調症の典型の症状としてあるが、わたしにしてみれば「え、そんなのいわゆる中二病みたいなもんでしょ?」というくらい日常的な感覚である。むしろそれまでそいつが日常に現実味を感じていた証拠ではないのか? それまで日常に現実味を感じていたからこそ今の状態を「現実味を感じられない」と表現できるというわけだ。比較対照がある。ところがわたしはおそらく生まれてこの方日常に現実味を感じてこなかったらしい。日常とはネタやコントだと思っている。この記事から。
=====
わたしはよくアスペルガー症候群者たちが、社会的なるもの(常識とか道徳とか場の空気とか)を「ネタやコントだ」と言っているのをあげつらっているが、こう思っているのは、本当はわたしだ。いや、この符号があったから自閉症を考えるようになったのは事実だけれど。
=====
わたしは大人の言う「現実」を現実と思えていない。彼らの言う「現実」は嘘だと思えている。まさしく中二病じゃないか。日常に現実味を感じられないからファンタジー作品にのめり込む、などという。
わたしは生まれてこの方ずっと中二病である。治っていない。この記事の論を採用するなら、わたしは思春期病である。
こんな本音を言うと反社会的だなどと言われる。反社会とは社会に思い入れがある故そうなるのであって、わたしは社会に現実味を感じられないだけである。とはいえ、それを言ってもなかなか信じてもらえない。じゃあ証拠を見せよう、となって反社会性人格障害と診断される人もいるかもしれない。
ピシッ。
そろそろ限界かもしれない。
世界の部分が吹き矢の矢になって大量にわたしを貫通している。そんな感覚。他人はわたしだ。わたしは矢だ。花火は外部から見るのできれいなのだ。一つ一つの火花は観客を焼き殺せない。
外を歩くと人がのしかかってくる。わたしは蟻のように踏み潰される。踏み潰した奴は踏み潰したことも気づかない。
もういいだろ。満足だろ。わたしの肉片残さず平らげるつもりか。そんなにわたしを手中に収めたいのか。手中にいるじゃないか。踏み潰されてるじゃないか。地雷として。
もういいだろ。
わたしは重戦車だ。無人の戦車だ。さまざまな兵器を搭載している。
この兵器を持っていくがいい。おそらく正常人には使えまい。彼らが使おうとすると自爆するように作られている。彼らは固定観念が強いので設計するのは楽だった。
もちろん未去勢者が使っても自爆することはありえる。正常人の方が自爆する可能性が高いというだけだ。
それでよければ持っていくがいい。
この戦車の持ち主などいないのだから。
……あ。過去記事読み返して思い出した。この記事。
ここでわたしが告発しようとしているのは、正常人の犯罪などではなく、未去勢者の存在である。闇の人間を光の下に引きずりだそうとしているのである。わたしが光の住人か闇の住人かなどどうでもいい。ただわたしはそうしているだけである。か弱い闇だったなら、そいつは光の中で蒸発してしまうだろう。リアルの去勢。死。
未去勢者たちを応援するブログなどではない。未去勢者の苦しみを増幅させるブログである。もちろん正常人に対してもそうだ。
ただ、わたしの意識として、正常人にしかメスを向けないことにしている。流れ弾に当たって死んでしまう未去勢者がいようが知らない。そんなこともあるだろう。わたしはそれにおいて悲しむかもしれない。傷つくかもしれない。それだけの話である。
ここは場である。現実に親近した場である。
正常人にとっても未去勢者にとっても居心地のいい場所とはならない。
盗聴器。盗撮カメラ。
それそのものが生き物なのかもしれない。
動く。溶ける。混じりあう。
だから手術しても取り除けないと思う。
被害妄想は妄想などではない。たしかに共同幻想としての「現実」から見れば妄想なのだろうが、それはアクチュアリティ溢れる感覚である。従って現実である。正常人たちが思う共同幻想としての「現実」など、多くの人が現実味を感じてないではないか。特に現代では。わたしのこの感覚は、もしこの苦痛を伝染させることができたなら、百人が百人(「現実だ」などと口に出しては言わないかもしれないが)その現実味を痛いほど感じるだろうと思える。
ある分裂症患者が「もうすぐ世界大戦が起きる」という妄想を根拠に犯罪を犯したとする。彼の世界大戦に対する不安感が伝染すれば、「もうすぐ世界大戦が起きる」という彼の予言に人々は重い現実味を感じるだろう。彼の犯罪は予言者の奇跡となるだろう。
彼は苦痛の、不安の、狂気の伝染に失敗しただけである。
焦るな。
用意は周到にしろ。
苦痛の、不安の、狂気の伝染は容易いことではない。
じっくり作戦を練ろ。
じっくり時を待て。
絡めとるように伝染させるのだ。
高度な防衛システムを持つ正常人たちにそれを伝染させるのは困難である。
こちらもそれ相応の作戦が必要である。
このテクニックとして、逆精神分析という概念をわたしは提唱している。
ピシッ。
日常生活に現実味を感じられない、なんてのは(陰性の)統合失調症の典型の症状としてあるが、わたしにしてみれば「え、そんなのいわゆる中二病みたいなもんでしょ?」というくらい日常的な感覚である。むしろそれまでそいつが日常に現実味を感じていた証拠ではないのか? それまで日常に現実味を感じていたからこそ今の状態を「現実味を感じられない」と表現できるというわけだ。比較対照がある。ところがわたしはおそらく生まれてこの方日常に現実味を感じてこなかったらしい。日常とはネタやコントだと思っている。この記事から。
=====
わたしはよくアスペルガー症候群者たちが、社会的なるもの(常識とか道徳とか場の空気とか)を「ネタやコントだ」と言っているのをあげつらっているが、こう思っているのは、本当はわたしだ。いや、この符号があったから自閉症を考えるようになったのは事実だけれど。
=====
わたしは大人の言う「現実」を現実と思えていない。彼らの言う「現実」は嘘だと思えている。まさしく中二病じゃないか。日常に現実味を感じられないからファンタジー作品にのめり込む、などという。
わたしは生まれてこの方ずっと中二病である。治っていない。この記事の論を採用するなら、わたしは思春期病である。
こんな本音を言うと反社会的だなどと言われる。反社会とは社会に思い入れがある故そうなるのであって、わたしは社会に現実味を感じられないだけである。とはいえ、それを言ってもなかなか信じてもらえない。じゃあ証拠を見せよう、となって反社会性人格障害と診断される人もいるかもしれない。
ピシッ。
そろそろ限界かもしれない。
世界の部分が吹き矢の矢になって大量にわたしを貫通している。そんな感覚。他人はわたしだ。わたしは矢だ。花火は外部から見るのできれいなのだ。一つ一つの火花は観客を焼き殺せない。
外を歩くと人がのしかかってくる。わたしは蟻のように踏み潰される。踏み潰した奴は踏み潰したことも気づかない。
もういいだろ。満足だろ。わたしの肉片残さず平らげるつもりか。そんなにわたしを手中に収めたいのか。手中にいるじゃないか。踏み潰されてるじゃないか。地雷として。
もういいだろ。
わたしは重戦車だ。無人の戦車だ。さまざまな兵器を搭載している。
この兵器を持っていくがいい。おそらく正常人には使えまい。彼らが使おうとすると自爆するように作られている。彼らは固定観念が強いので設計するのは楽だった。
もちろん未去勢者が使っても自爆することはありえる。正常人の方が自爆する可能性が高いというだけだ。
それでよければ持っていくがいい。
この戦車の持ち主などいないのだから。
……あ。過去記事読み返して思い出した。この記事。
ここでわたしが告発しようとしているのは、正常人の犯罪などではなく、未去勢者の存在である。闇の人間を光の下に引きずりだそうとしているのである。わたしが光の住人か闇の住人かなどどうでもいい。ただわたしはそうしているだけである。か弱い闇だったなら、そいつは光の中で蒸発してしまうだろう。リアルの去勢。死。
未去勢者たちを応援するブログなどではない。未去勢者の苦しみを増幅させるブログである。もちろん正常人に対してもそうだ。
ただ、わたしの意識として、正常人にしかメスを向けないことにしている。流れ弾に当たって死んでしまう未去勢者がいようが知らない。そんなこともあるだろう。わたしはそれにおいて悲しむかもしれない。傷つくかもしれない。それだけの話である。
ここは場である。現実に親近した場である。
正常人にとっても未去勢者にとっても居心地のいい場所とはならない。