びんたんってDT臭い。
2009/08/23/Sun
木村敏『異常の構造』より。
=====
現代の科学信仰をささえている「自然の合法則性」がこのような虚構にすぎないのだとしたら、その上に基礎をおくいっさいの合理性はみごとな砂上の楼閣だということになってしまう。そのような合理的世界観は、それがいかにみずからの堅固さを妄信していようとも、意識の底においてはつねに、みずからの圧殺した自然本来の非合理性の痛恨の声を聞いているに違いない。それだからこそこの合理的世界観は、いっそう必死になってみずからの正当性を主張するのである。それはあたかも、主権の簒奪者が自己の系譜を贋造して神聖化し、その地位を安泰にしようとする努力にも似ている。その裏で、彼はつねにみずからの抹殺したさきの主権者の亡霊につきまとわれ、報復を恐れてその一族を草の根をわけても根絶やしにしようとするだろう。これは、現代の合理主義社会がいっさいの非合理を許そうとしない警戒心と、あまりにも酷似してはいないだろうか。異常と非合理に対して現代社会の示すかくも大きな関心と不安とは、どうやら合理性が自己の犯罪を隠し、自己の支配権の虚構性を糊塗しようとする努力の反面をなしているように思われるのである。
=====
論旨はおおまかに賛同できる。似たような問題を茶化した記事も書いたことがあるし、現代の科学信仰に対する疑義も唱えたことがある。しかし細かい点を指摘をしておく。
ここで問題になっている「主権の簒奪者」とは合理性そのものではない。あくまで「自然の合法則性」という人間の思い込みの上に成り立つもろもろの理屈体系がそれにあたる。「主権の簒奪者」に圧殺されているのは、「思い込みの上に成り立つ理屈体系」の中から言えば「非合理」になるだけのことである。従ってこの非合理を、思い込みの土台から外れて、合理化しようとすることは、圧殺にあたらない。もちろんそれについて事後的に人間の思い込みが付加されることになるだろう。この時はじめてそれは圧殺されるのである。思い込みの土台から外れて合理性を見つけられる時の自然は、圧殺されているのではなく、理屈により切り刻まれているのである。この時自然は生まれたばかりの赤ん坊のような泣き声をあげているだろう。ナイフを刺された瞬間の叫び声と、刺された後痛みにのた打ち回るうめき声とは別物である。木村がここで述べる「痛恨の声」は後者である。
であるならば問題となるのは「思い込み」である。わたしはこのブログにおいてそれを「確信(感)」と表現することが多い。
要するに、「痛恨の声」をあげるのはあくまで自然であり、非合理性ではない、ということだ。
とはいえ、木村が述べようとしている構造を論じる際、「合理/非合理」という二項対立は、説明するための道具として有効であることはわたしも認める。しかし、同時にただの道具である「合理/非合理」という二項対立に、受取手が惑わされがちであることも、経験により知っている。
従ってこのような余計なお世話のごとき注釈をつけてみたくなったわけだ。
あ、ここで一応クリステヴァ論者の任を果たすなら、「圧殺される自然」こそがアブジェよねえ、とだけ言っとく。木村の論では何故非合理性を含む自然が圧殺されてしまうのか、何故人はそれを圧殺してしまうのか、が実体に即した形で説明できない。ビオンなら物自体的な「β要素」にあたるやろね。
前記事のコメント欄でわたしがごちゃごちゃ言ってるのもそういうことだ。
=====
不安感に似たような、負的な性質。これが、信仰する感覚に似たような、確信感とでも言うべき快楽的な性質にすりかえられたものが「現実」です。
ファルス生成以前の現実とファルス生成後の「現実」は別物です。
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ここで切り刻まれたり圧殺されたりしている自然が上記における「不安感に塗れた現実」であり、それに「思い込み」を付加したのが「確信感に満ちた「現実」」である、ということ。当然前者が「ファルス生成以前の現実」であり後者が「ファルス生成後の「現実」」。
あ、あと「主権の簒奪者」ってもろパラノイアだよな。
余談だけど、さらっと一読した感じ、この本の「語る主体」にすげーDT力感じる。「非合理たる自然」に肩入れしているくせに「砂上の楼閣」たる「思い込みの上に成り立つ合理性」を強化させようって感じ。アブジェを刺激してファルスを勃起させようとしている感じ。一種のオナニーだが、『エヴァンゲリオン』なんか庵野自身がオナニーだと言っているように、おもしろければいい。なんだかんだいって『エヴァンゲリオン』好きだし、わたしゃ。『ラーゼフォン』のが好きだけど。サンデー派だったのでどうしてもBONESの作風になびいてしまうらしい。『エウレカ』も好きだしな。
あ、でも『分裂病と他者』にはDT力って言うほどのものは感じなかったな。学者がなんとなくわかっているそれを上手く言語化できない、理屈化できないいらいら感は感じたけど。だいぶ前の本だから若かったのかね。
あ、だめだ。なんか来た。不安、いらいら、わやわや、擬音の方が正確に表せそうな気がするそれ。
殺したい。死にたい。ああくそっ。
わからない。言語化できない。原因なんかわからない。どこに向けていいのかわからない。
とりあえずこの記事から。
=====
もしかしたらたまきんこのブログ読んでんじゃねえか、と思い、わたしの「単に困難を提示しておしまい」的な文章を批判しているのではないか、と気になってしょうがなくなった。思い込みでいいよ。「被害妄想」って書いてるじゃんけ。「フレーム問題」で自閉症を語るのなんかそらパパさんもやってるし大体みんな思いつくことなんだろう、と自分に言い聞かせても気になる気になる。
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ふざけんな! その人間の「困難」を他の人が認知できなかった場合、まず「困難を提示する」ことが工程の一つとして必要だろうが。身体障害者などその困難さが目に見えてわかる。いやわかっていると見ている側が思い込んでいるだけだ。そいつが考える「身体障害者の困難」はあくまでそいつの想像にすぎない。妄想である。身体障害者本人が感じている困難と、それを見ている人間が妄想する「身体障害者の困難」は別物である。ならばそれをすり合わせることが先だろうが。何わかったような口聞いてんだ。お前のやってることなんて要は、数学の公式の内容を理解せずただ暗記して問題を解いているようなもんだ。バカがやることだ。たまきんお前はバカ丸出しだ。この文章において。反省しろ。
=====
たまきんはおそらく無意識的に発達障害児に顔射している。アスペルガー症候群当事者によるこの文章を読んで、たまきんは自分が「発達障害者は支援科学の力によってどうにかできる相手(統御可能な相手)だと言っている」ことに気づくだろうか。気づかないんだろうな。「鈍感」なんだから。
=====
お前は最低の人間だ。見てんだろ? なんとか言えよ。お前は単に他人を支配したいだけの自己愛性人格障害者だ。お前レベルの自己愛性なら他のサンプルとしての人間どもと比べて平均的だから正常人と言われているだけだ。母集団が変わればお前は自己愛性人格障害と診断されかねない。わたしから見ればお前の自己愛は充分過剰だ。異常だ。お前は異常者だ。
キチガイから見て正常人こそが異常者なのだ。
キチガイから見てキチガイも異常者なのだ。
正常人のみが、自分と好みの合う人間を同類とみなしているだけだ。幻想的に相手を正常とみなしみなされているだけだ。
それはただの妄想だ。想像だ。正常なること自体が幻想なのだ。
ラカンやってるならそれくらいわかるだろ? わからないって? だから哲学板で「斎藤のラカン論はレベルが低い」なんて言われんだよ。わたしは思ってないが。どうこう言えるほどお前の文章読んだわけじゃないからな。だから「わかるだろ?」と聞いている。
ふざけんな。
ふざけんな。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
お前みたいな人間がいるから未去勢者にとっての日常がどんどん地獄と化していく。
異常コンプレックスを茶化した記事より。
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――仮に、神がいじめターゲットを決めたのだとしても、あなたは神じゃない。少なくとも、あなたはわたしじゃない。
あなたとわたしは、お互いに異常。
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……とはいえわたしはこうも書いてるしな。
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サイトがサイトだし一般人向けにいい顔してるんだろうな、と解釈しておく。
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この解釈が正しければ、たまきん側から見るとわたしのこの言説は「ネタにマジレス」って奴になるんだろうな。
こういうのも「現実と妄想を混同している」ということになるんですか?
あなたの「現実」は本当に現実ですか?
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現代の科学信仰をささえている「自然の合法則性」がこのような虚構にすぎないのだとしたら、その上に基礎をおくいっさいの合理性はみごとな砂上の楼閣だということになってしまう。そのような合理的世界観は、それがいかにみずからの堅固さを妄信していようとも、意識の底においてはつねに、みずからの圧殺した自然本来の非合理性の痛恨の声を聞いているに違いない。それだからこそこの合理的世界観は、いっそう必死になってみずからの正当性を主張するのである。それはあたかも、主権の簒奪者が自己の系譜を贋造して神聖化し、その地位を安泰にしようとする努力にも似ている。その裏で、彼はつねにみずからの抹殺したさきの主権者の亡霊につきまとわれ、報復を恐れてその一族を草の根をわけても根絶やしにしようとするだろう。これは、現代の合理主義社会がいっさいの非合理を許そうとしない警戒心と、あまりにも酷似してはいないだろうか。異常と非合理に対して現代社会の示すかくも大きな関心と不安とは、どうやら合理性が自己の犯罪を隠し、自己の支配権の虚構性を糊塗しようとする努力の反面をなしているように思われるのである。
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論旨はおおまかに賛同できる。似たような問題を茶化した記事も書いたことがあるし、現代の科学信仰に対する疑義も唱えたことがある。しかし細かい点を指摘をしておく。
ここで問題になっている「主権の簒奪者」とは合理性そのものではない。あくまで「自然の合法則性」という人間の思い込みの上に成り立つもろもろの理屈体系がそれにあたる。「主権の簒奪者」に圧殺されているのは、「思い込みの上に成り立つ理屈体系」の中から言えば「非合理」になるだけのことである。従ってこの非合理を、思い込みの土台から外れて、合理化しようとすることは、圧殺にあたらない。もちろんそれについて事後的に人間の思い込みが付加されることになるだろう。この時はじめてそれは圧殺されるのである。思い込みの土台から外れて合理性を見つけられる時の自然は、圧殺されているのではなく、理屈により切り刻まれているのである。この時自然は生まれたばかりの赤ん坊のような泣き声をあげているだろう。ナイフを刺された瞬間の叫び声と、刺された後痛みにのた打ち回るうめき声とは別物である。木村がここで述べる「痛恨の声」は後者である。
であるならば問題となるのは「思い込み」である。わたしはこのブログにおいてそれを「確信(感)」と表現することが多い。
要するに、「痛恨の声」をあげるのはあくまで自然であり、非合理性ではない、ということだ。
とはいえ、木村が述べようとしている構造を論じる際、「合理/非合理」という二項対立は、説明するための道具として有効であることはわたしも認める。しかし、同時にただの道具である「合理/非合理」という二項対立に、受取手が惑わされがちであることも、経験により知っている。
従ってこのような余計なお世話のごとき注釈をつけてみたくなったわけだ。
あ、ここで一応クリステヴァ論者の任を果たすなら、「圧殺される自然」こそがアブジェよねえ、とだけ言っとく。木村の論では何故非合理性を含む自然が圧殺されてしまうのか、何故人はそれを圧殺してしまうのか、が実体に即した形で説明できない。ビオンなら物自体的な「β要素」にあたるやろね。
前記事のコメント欄でわたしがごちゃごちゃ言ってるのもそういうことだ。
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不安感に似たような、負的な性質。これが、信仰する感覚に似たような、確信感とでも言うべき快楽的な性質にすりかえられたものが「現実」です。
ファルス生成以前の現実とファルス生成後の「現実」は別物です。
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ここで切り刻まれたり圧殺されたりしている自然が上記における「不安感に塗れた現実」であり、それに「思い込み」を付加したのが「確信感に満ちた「現実」」である、ということ。当然前者が「ファルス生成以前の現実」であり後者が「ファルス生成後の「現実」」。
あ、あと「主権の簒奪者」ってもろパラノイアだよな。
余談だけど、さらっと一読した感じ、この本の「語る主体」にすげーDT力感じる。「非合理たる自然」に肩入れしているくせに「砂上の楼閣」たる「思い込みの上に成り立つ合理性」を強化させようって感じ。アブジェを刺激してファルスを勃起させようとしている感じ。一種のオナニーだが、『エヴァンゲリオン』なんか庵野自身がオナニーだと言っているように、おもしろければいい。なんだかんだいって『エヴァンゲリオン』好きだし、わたしゃ。『ラーゼフォン』のが好きだけど。サンデー派だったのでどうしてもBONESの作風になびいてしまうらしい。『エウレカ』も好きだしな。
あ、でも『分裂病と他者』にはDT力って言うほどのものは感じなかったな。学者がなんとなくわかっているそれを上手く言語化できない、理屈化できないいらいら感は感じたけど。だいぶ前の本だから若かったのかね。
あ、だめだ。なんか来た。不安、いらいら、わやわや、擬音の方が正確に表せそうな気がするそれ。
殺したい。死にたい。ああくそっ。
わからない。言語化できない。原因なんかわからない。どこに向けていいのかわからない。
とりあえずこの記事から。
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もしかしたらたまきんこのブログ読んでんじゃねえか、と思い、わたしの「単に困難を提示しておしまい」的な文章を批判しているのではないか、と気になってしょうがなくなった。思い込みでいいよ。「被害妄想」って書いてるじゃんけ。「フレーム問題」で自閉症を語るのなんかそらパパさんもやってるし大体みんな思いつくことなんだろう、と自分に言い聞かせても気になる気になる。
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ふざけんな! その人間の「困難」を他の人が認知できなかった場合、まず「困難を提示する」ことが工程の一つとして必要だろうが。身体障害者などその困難さが目に見えてわかる。いやわかっていると見ている側が思い込んでいるだけだ。そいつが考える「身体障害者の困難」はあくまでそいつの想像にすぎない。妄想である。身体障害者本人が感じている困難と、それを見ている人間が妄想する「身体障害者の困難」は別物である。ならばそれをすり合わせることが先だろうが。何わかったような口聞いてんだ。お前のやってることなんて要は、数学の公式の内容を理解せずただ暗記して問題を解いているようなもんだ。バカがやることだ。たまきんお前はバカ丸出しだ。この文章において。反省しろ。
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たまきんはおそらく無意識的に発達障害児に顔射している。アスペルガー症候群当事者によるこの文章を読んで、たまきんは自分が「発達障害者は支援科学の力によってどうにかできる相手(統御可能な相手)だと言っている」ことに気づくだろうか。気づかないんだろうな。「鈍感」なんだから。
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お前は最低の人間だ。見てんだろ? なんとか言えよ。お前は単に他人を支配したいだけの自己愛性人格障害者だ。お前レベルの自己愛性なら他のサンプルとしての人間どもと比べて平均的だから正常人と言われているだけだ。母集団が変わればお前は自己愛性人格障害と診断されかねない。わたしから見ればお前の自己愛は充分過剰だ。異常だ。お前は異常者だ。
キチガイから見て正常人こそが異常者なのだ。
キチガイから見てキチガイも異常者なのだ。
正常人のみが、自分と好みの合う人間を同類とみなしているだけだ。幻想的に相手を正常とみなしみなされているだけだ。
それはただの妄想だ。想像だ。正常なること自体が幻想なのだ。
ラカンやってるならそれくらいわかるだろ? わからないって? だから哲学板で「斎藤のラカン論はレベルが低い」なんて言われんだよ。わたしは思ってないが。どうこう言えるほどお前の文章読んだわけじゃないからな。だから「わかるだろ?」と聞いている。
ふざけんな。
ふざけんな。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
お前みたいな人間がいるから未去勢者にとっての日常がどんどん地獄と化していく。
異常コンプレックスを茶化した記事より。
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――仮に、神がいじめターゲットを決めたのだとしても、あなたは神じゃない。少なくとも、あなたはわたしじゃない。
あなたとわたしは、お互いに異常。
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……とはいえわたしはこうも書いてるしな。
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サイトがサイトだし一般人向けにいい顔してるんだろうな、と解釈しておく。
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この解釈が正しければ、たまきん側から見るとわたしのこの言説は「ネタにマジレス」って奴になるんだろうな。
こういうのも「現実と妄想を混同している」ということになるんですか?
あなたの「現実」は本当に現実ですか?