森の中では、人は誰しもゲリラ兵である。
2009/08/24/Mon
広大な森の中に、小さな村があった。
村人たちは農業と狩猟で生活をしていた。とは言っても完全な自給自足をしているわけではない。森を抜けたところにある他の村々と交易もしていた。また、村人たちのほとんどは見たこともないが、森を抜けさらに行くと海があるらしく、ほんの時々やってくる商人を介し、海産物を手に入れることもあった。
都市に住む人間から見ると、とても貧しい村だった。大雨が降ると傾いてしまうような住居に暮らしていた。
この村を取り囲む森は、とても危険だった。少しでも奥に足を踏み入れると方向感覚を失ってしまう。太陽や月や星の位置で方向を知ればいい、などと考えるかもしれないが、そんなことがわかってもあまり意味はない。たとえば、村から東の方向へと森に入ったとする。迷ってしまう。星の位置で大体の方向を知る。しかし西へ行けばいいとは限らない。迷っているうちに進路が北方向にずれていたとしよう。そこから西へ進んでも、村の北側を素通りして、延々と森の中を歩き続けることになる。
いや、そんなことはない。村には南北に川が走っている。だから村の北側を素通りしても川沿いに出るだろう。そうすれば上流に向かうか下流に向かうかの二択に選択肢は狭められる。その二択を間違えたとしても、川沿いには集落があるものである。
村の子供たちはそう教えられていた。実際、村人が行方不明になった場合、村人たちは川沿いを重点的に捜索する。
川沿いだけではない。近隣の村を行き来するための道路があった。中には馬車が通行可能なものもある。川と同じ理屈で、村人たちは道路周辺も捜索する。
だからと言って、森の中を自由に歩き回っていい、ということにならない。迷い方によっては、川からも道路からも遠い場所で迷ってしまうかもしれない。あるいは、足を滑らせて怪我をしてしまっているかもしれない。その場合、川沿いや道路にたどり着くまでに彼は息絶えてしまうだろう。
こういったことから、村の子供たちは次のようにも教えられていた。
「森の奥深くには怪物が住んでいる。そいつらは人間をさらっていくんだ。昼はまだしも、夜になるとそいつらは活動的になる。だからダメだよ。道や川から外れて、森の深くに入ってっちゃ……」
一方商人たちは、そんな迷信を信じてはいなかったが、だからと言って自ら森の中に入ることもなかった。当然である。商人の目的地は村であり、非効率的な経路を取るわけがなかった。その上商人たちの間で、この森は迷いやすい、という噂もあった。地理に詳しい人間なら、そこは二つの山脈が交差する地域であり、勾配が一定でないことを理由に挙げたりするのだろう。ともかく、ほぼ一本道のそれを歩いていけば目的地に着くのだから、道をそれる理由が全くないのだ。
それ以外にも、ある一つの事件が商人たちの頭に浮かぶ。
何かの理由でたまたま道をそれ、森の中に入ってしまった商人がいた。そこに、狩猟に来ていた村の男たちが出くわしてしまった。森での視界はやはり村人たちの方が広い。彼らは成人していたが、子供の頃から聞かされていた迷信がどこか頭の中にこびりついていたのだろう。狩人は、大量の商品を背負った商人を、怪物だと思い込んでしまった。恐怖した狩人はそれに矢を放った。矢は商人の頭部に刺さり、彼は絶命した……。
商人仲間として、この村人に憤りを覚えるべきかもしれないが、ほとんどの商人たちは、仕方のない事件だった、と考えている。商人たち自身、たとえば、夜、野宿している時、自分のそばにあやしい影が近づいたりしたら、怪物だとは思わないまでも、服の下に隠したナイフを握りしめるだろう。それがわかっていながらあえて森に入ってしまったこの商人に、同情するのは困難だった。
夜の中、森の中では、人は誰しもゲリラ兵なのだ。
わたしは演劇をやっていた。子供の役が得意だったのはこの記事でも書いた。
子供の演技のコツとして、よくこんなことを言っていた。
子供の感情はデジタルである。泣いていると思った次の瞬間笑っている、みたいな。大人の場合、泣いて笑ったとしても、泣くという感情がこびりついた笑いになっている。大人の感情は粘着的なのだ。
要するに子供の場合、AからBへ、という感情の変化が劇的なのだ。
このAからBへ移行する際、間にある感情の動きにおいて、重要になる感情が驚きである。明確に「驚き」と限定するわけではないが、それに似たような感情があるように思う。
つまりこういうことだ。
大人:A→(Aの名残がついたB)→B(?)
子供:A→(驚きに似た感情)→B
感情変化の間にある「Aの名残がついたB」と「驚きに似た感情」の違いが問題なのである。
この違いを印象論で述べるなら、「Aの名残がついたB」とはクッションのようなものであり、「驚きに似た感情」とは落とし穴のようなものである。「Aの名残がついたB」によって変化する感情はサイン波、コサイン波のような変化であり、「驚きに似た感情」によって変化する感情はタンジェント波のようなもので、「落とし穴」とはx=π/2の箇所である。
森の中は、不安を助長する。不安のあまり、鳥が羽ばたく音にさえ驚いてしまう。
森の中でさまよっている人々は、いかに成人してようと、子供のような感情変化をしている。タンジェント波のような感情変化をしている。
ゲリラ兵の精神状態は、タンジェント波である。
村人たちは農業と狩猟で生活をしていた。とは言っても完全な自給自足をしているわけではない。森を抜けたところにある他の村々と交易もしていた。また、村人たちのほとんどは見たこともないが、森を抜けさらに行くと海があるらしく、ほんの時々やってくる商人を介し、海産物を手に入れることもあった。
都市に住む人間から見ると、とても貧しい村だった。大雨が降ると傾いてしまうような住居に暮らしていた。
この村を取り囲む森は、とても危険だった。少しでも奥に足を踏み入れると方向感覚を失ってしまう。太陽や月や星の位置で方向を知ればいい、などと考えるかもしれないが、そんなことがわかってもあまり意味はない。たとえば、村から東の方向へと森に入ったとする。迷ってしまう。星の位置で大体の方向を知る。しかし西へ行けばいいとは限らない。迷っているうちに進路が北方向にずれていたとしよう。そこから西へ進んでも、村の北側を素通りして、延々と森の中を歩き続けることになる。
いや、そんなことはない。村には南北に川が走っている。だから村の北側を素通りしても川沿いに出るだろう。そうすれば上流に向かうか下流に向かうかの二択に選択肢は狭められる。その二択を間違えたとしても、川沿いには集落があるものである。
村の子供たちはそう教えられていた。実際、村人が行方不明になった場合、村人たちは川沿いを重点的に捜索する。
川沿いだけではない。近隣の村を行き来するための道路があった。中には馬車が通行可能なものもある。川と同じ理屈で、村人たちは道路周辺も捜索する。
だからと言って、森の中を自由に歩き回っていい、ということにならない。迷い方によっては、川からも道路からも遠い場所で迷ってしまうかもしれない。あるいは、足を滑らせて怪我をしてしまっているかもしれない。その場合、川沿いや道路にたどり着くまでに彼は息絶えてしまうだろう。
こういったことから、村の子供たちは次のようにも教えられていた。
「森の奥深くには怪物が住んでいる。そいつらは人間をさらっていくんだ。昼はまだしも、夜になるとそいつらは活動的になる。だからダメだよ。道や川から外れて、森の深くに入ってっちゃ……」
一方商人たちは、そんな迷信を信じてはいなかったが、だからと言って自ら森の中に入ることもなかった。当然である。商人の目的地は村であり、非効率的な経路を取るわけがなかった。その上商人たちの間で、この森は迷いやすい、という噂もあった。地理に詳しい人間なら、そこは二つの山脈が交差する地域であり、勾配が一定でないことを理由に挙げたりするのだろう。ともかく、ほぼ一本道のそれを歩いていけば目的地に着くのだから、道をそれる理由が全くないのだ。
それ以外にも、ある一つの事件が商人たちの頭に浮かぶ。
何かの理由でたまたま道をそれ、森の中に入ってしまった商人がいた。そこに、狩猟に来ていた村の男たちが出くわしてしまった。森での視界はやはり村人たちの方が広い。彼らは成人していたが、子供の頃から聞かされていた迷信がどこか頭の中にこびりついていたのだろう。狩人は、大量の商品を背負った商人を、怪物だと思い込んでしまった。恐怖した狩人はそれに矢を放った。矢は商人の頭部に刺さり、彼は絶命した……。
商人仲間として、この村人に憤りを覚えるべきかもしれないが、ほとんどの商人たちは、仕方のない事件だった、と考えている。商人たち自身、たとえば、夜、野宿している時、自分のそばにあやしい影が近づいたりしたら、怪物だとは思わないまでも、服の下に隠したナイフを握りしめるだろう。それがわかっていながらあえて森に入ってしまったこの商人に、同情するのは困難だった。
夜の中、森の中では、人は誰しもゲリラ兵なのだ。
わたしは演劇をやっていた。子供の役が得意だったのはこの記事でも書いた。
子供の演技のコツとして、よくこんなことを言っていた。
子供の感情はデジタルである。泣いていると思った次の瞬間笑っている、みたいな。大人の場合、泣いて笑ったとしても、泣くという感情がこびりついた笑いになっている。大人の感情は粘着的なのだ。
要するに子供の場合、AからBへ、という感情の変化が劇的なのだ。
このAからBへ移行する際、間にある感情の動きにおいて、重要になる感情が驚きである。明確に「驚き」と限定するわけではないが、それに似たような感情があるように思う。
つまりこういうことだ。
大人:A→(Aの名残がついたB)→B(?)
子供:A→(驚きに似た感情)→B
感情変化の間にある「Aの名残がついたB」と「驚きに似た感情」の違いが問題なのである。
この違いを印象論で述べるなら、「Aの名残がついたB」とはクッションのようなものであり、「驚きに似た感情」とは落とし穴のようなものである。「Aの名残がついたB」によって変化する感情はサイン波、コサイン波のような変化であり、「驚きに似た感情」によって変化する感情はタンジェント波のようなもので、「落とし穴」とはx=π/2の箇所である。
森の中は、不安を助長する。不安のあまり、鳥が羽ばたく音にさえ驚いてしまう。
森の中でさまよっている人々は、いかに成人してようと、子供のような感情変化をしている。タンジェント波のような感情変化をしている。
ゲリラ兵の精神状態は、タンジェント波である。