水子は孤児である。
2009/08/26/Wed
キレル、ということ。
ぷつん、となって暴れる、のか。ぷつんと、かどうかわからないが、そうなると本当に記憶がない。いや、自分のしたことという記憶は残っているが、他人事のような、ビデオカメラのような記憶として残っている。
罪悪感は、たとえばマンガの主人公が感じるような罪悪感としてある。わたしはあくまでもマンガの読者だ。
大学生の頃だったか、酔った勢いで、ある女性と大喧嘩したことがある。肉体的につかみ合う喧嘩。気がついたら相手の子が丸まって獣みたいにうめいている。ふざけてんじゃないか、とすら。
手を見ると、黒い髪が一房絡みついていた。ごっそり抜けていた。ぞっとした。
体力テストでは握力も腕力も級外だったわたしにそんな力はないと思う。だから多分その時のわたしは別人だったのだと思う。火事場のクソ力ってのは別人になってるんだと思う。別人だから、その人の限界を超えた力が出せる、と。一種の解離症状なんじゃないだろうか。
その後どうしたかよく覚えていない。我に返って逃げたんだと思う。その子ともそれ以来会ってない。
こんなことを思い出しても罪悪感はない。あると言えばあるけれど、やはり他人事だ。なんせああまでしたのはわたしだけど別人のわたしだから。
いや、あの時のわたしがわたしなんだ。罪悪感を感じる、感じなければならないと思っているわたしが他人だ。だから罪悪感が「他人事」なんだ。髪の毛を引っこ抜いたわたしに責任転嫁しているのではない。髪の毛を引っこ抜いたわたしと、罪悪感を感じるわたしが別人だと言うことを述べたいだけである。
でもまああれだな。剣道部で、それまで普通にチャンバラしてるんだけど、合図が鳴ると道場の隅に竹刀を置いて、取っ組み合いを始める稽古があったんだな。防具が脱げたら負け、って。中学時代は男子ともやらされた(部員数少なかったし)。小学生の頃は柔道もちょっとだけやらされたことがあるので(すぐやめたけど)、体力はなくとも取っ組み合いの経験があったことがそういう結果に繋がったのだろうか。
もう必死だよ。我なんてどっか行ってるよ。
それはそういった出来事そのものであり、それについて被害者に同情したり、加害者に転移して罪悪感を感じたり、というのはメタなんだよ。幻想である。
メタなんて存在しない。そんなものは存在しないんだ。
我なんて存在しない。それは妄想よ。想像よ。
ビルドゥングスロマンにありがちな回帰としての去勢(去勢の否認から承認へ)じゃなく、リアルな鏡像段階としての去勢(未去勢から去勢済みへ)ってなこういうもんだと思う。生々しさが違う。強度が違う。アクチュアリティが違う。「わたし、潰すの、頭、フランシス」。
……傷害罪って時効何年だっけ? ああ、虚実混淆ってことで。こっちだって爪が割れてたんだから。
バッグの紐で首を絞めている。あ、女性だな、と思う。
ある女性の首を絞めている。
体は大きい。彼女の背後に取りつき、振り回されながらも絞め続けている。
他人事の感覚で、水子の霊みたいだと思う。
やがて振り落とされる。
拘束衣でも着せられているかのように動けない。のた打ち回るだけ。バッグの紐じゃなくて拘束衣の腕の部分で締めていたのかもしれない。
女性が逃げる。女性の周りに人が集まる。女性はまるでレイプされたかのようにぼろぼろだ。当然周囲の人間は女性に同情する。何かの魔法でもかかったかのように女性の味方になる。ゲームでもよくあるよな、敵キャラクターを味方にしてしまう魔法。
気がつくとわたしは呆然と立っている。彼女の魔法はわたしに届かない。範囲外らしい。
魔法にかかるのはイヤだ。でも彼女の方へ駆け寄らないと後々大変そうだ、と経験論で思う。どう大変なのか頭の中で検証する。
そんなことをしているうちに、つと女性が叫ぶ。
「そいつを殺して!」
魔法にかかった下僕たちがわたしの方をにらむ。いや、多分、わたしの後方にいる何かを攻撃しようとしているのであり、わたしは無関係である。わたしはあくまで傍観者である。それは事実である。
わたしは後悔する。なんでもっと早く彼女の方へ駆け寄らなかったのか。魔法にかかってしまわなかったのか。そうすれば今のような状況にはならなかっただろう。検証スピードが遅かった。いや検証する必要などなかった。煩を厭う経験則に従えばよかったのだ。
こんなことを考えているのも経験則に逆らっている。なんでわたしはこうとろいのだろう。
狂信者たちがわたしににじり寄る。
わたしじゃない、と主張しようか。それはわたしにとって真実だから、主張することはできる。しかし狂信者たちは信じないだろう。いや、中にはわたしの主張に耳を傾けてくれる人もごく少数はいるかもしれない。しかし魔法使いの一言で覆されるだろう。「犯人は彼女だ!」。
例の水子はどこに行ったのだろう。霊だから見えるわけがない。もしかしたらわたしに取り憑いているのかもしれない。そんなバカな、と思う。後ろを振り向く。狂信者たちがいた。後ろに回られた。わたしは狂信者たちに取り囲まれている。
被害者の魔法はわたしが考えるより強力だったようだ。ならば何故わたしにはかからなかったのだろう? わたしは狂信者になれなかったのだろう? 彼女に同情してやれなかったのだろう? 彼女に転移できなかったのだろう?
疑問が増えるわかめのように増殖していく。まさにわけわかめだ。
その間にもわたしを取り囲む包囲網は狭まっている。わたしはホームレスになっている。公園を不法占拠している、という罪状でリンチに遭おうとしている。「無意識の本質は孤児である」なんて叫んでも無駄だろう。狂信者の中には『アンチ・オイディプス』を読んでいる奴もいるのだろうが、誤読しまくっていると思われる。ちゃんと読めているならそもそもこんな魔法にかかるわけがない。
モル的な人間たちが分子的な人間たちを殺戮していく。
分子的だからホームレス仲間たちは既に逃げている。彼らを責めるわけにはいかない。そもそもそういう人間がホームレスになるのだ。「ホームレスにも社会はある」などというドキュメンタリー番組を見たことあるが、ホームレスを美化しようという製作者の意図が見え見えで反吐が出そうだった。「脱領土」などではなく、最初から領土を持っていないのが「ノマド」である。ホームレスである。彼らは「ノマド」だからわたしを見捨てて逃げることができるのだ。わたしは領土ではないから。まるで2ちゃんねらじゃないか。「敵に回すと恐ろしいが、味方にすると頼りない」。
包囲網が狭まるにつれ、わたしは自分が犯人であるような気がしてくる。包囲網が狭まることにより、脱出できなかった水子がわたしに取り憑いてしまったのかもしれない。
わたしでいい、と思う。わたしだ、と思う。おそらくわたしは警察の取調べであっさり嘘の自白をしてしまうタイプの人間なのだろう。
水子も孤児である。水子は警察の取り調べにあっさり嘘の自白をする。水子にとっての出来事は客観的事実ではない。彼の事実は客観そのものを構成する他者たちに共有されない。それが孤児であるということだ。客観的事実自体が成立しないから、嘘の自白をしてしまう。モルが分子を圧殺する。
――殺したい。死にたい。こんな言葉が口癖になっているわたしならやりかねない。
他人事にそう思って、わたしは嘘の自白をする。
この魔法はすごい。一体この魔法はどういうものだ? どんなメカニズムをしているのだ? これを操れるようになったら、こんな目に遭わなくて済むだろう。
とか考えたらだいぶ前に2ちゃんで見つけたこのブログを思い出した。ここからこの記事を見つけた。アメリカの電磁波兵器ねえ。HAARPって『やりすぎ都市伝説』でも出てたな。強力な電磁波を放射して狙った地域に地震を起こさせるんだと。さすがにそれはどーだろ、と思うが飛行機を墜落させた、なんてのは信憑性ある気がする。最近の飛行機は電子機器の塊だしな。
だけど人の心を左右させる、って言う方がよっぽど信憑性がある気がする。警察の取調べでこれを使ったら、自由に嘘の自白させまくることも可能だ。
とはいえそういった論に疑問がないわけではない。それについては後日別の記事で書くかもしれないが、簡単に言っておくと、電磁波により人の心を完全に操作できる、たとえば電磁波によってある個人の感情や日常的行動を完全に操作できる、とはわたしは思えない。しかし先のブログ主が「統合失調症患者の何%かは人為的な電磁波放射の被害者かもしれない」と書いているように、人為的な電磁波放射により統合失調症的症状を惹起させることの可能性は、わたしは否定しない、という立場を取る。要するに、この兵器を警察が使ったとして、百パーセント警察が用意した通りの嘘の自白をさせることは不可能だと思えるが、その犯人に統合失調症的症状を惹起させることは可能だろう、ということである。
このことは逆に言えば、統合失調症者にはこの兵器は通用しない、ということでもある。最初からその状態を生きているのだから。
また、ここで主張されている電磁波兵器は、例の魔法とは逆効果を生むものだということである。
……操作じゃなくて読心だけなら別にいいんだけどな。とはいえ観察自体も即ち行為であるため、それらの区別はつけられない、って科学哲学の論をわたしは支持する。従ってやっぱ読心もらめええ、ってなる。一方こんなことも思う。読心してもらえば、このブログに書いていることの裏づけが取れるだろうか、などと。恥ずかしい部分、言いたくない部分もないことはないけれど、裏づけ取れるならある程度は仕方ねーなー、って思うし、汚言症的傾向のあるわたしが今さら何言ってんだ、という気もする。他人事で。
要するに、統合失調症的症状を誘発する兵器は、正常人たちが無意識的につく嘘(とは言っても意識上はそれを嘘だと思っていないため彼ら自身はそれを嘘と認めないだろう)を破壊する役割ともなりえる、ということだ。
とはいえ先の記事内の読心装置は、脳波を読み取ってうんちゃらかんちゃらするものとされている。脳波というデータを心の動向に変換する工程において、基準として採用されるのは、統計的に数が多い正常人の変換システムであろう。従ってその読心装置も信用できない、となる。
こちとら伊達や酔狂で「不信」に満ちた主観を慢性的に何十年も生きてきたんじゃねえんだ。
余談になるが、先のブログでは心霊現象も電磁波の影響である、と主張している。これも部分的に同意する。心霊現象を怖がる人の精神状態は、被害妄想的という意味で統合失調症的な症状だと言える。その個人が統合失調症と診断されるというわけではないが、彼はその瞬間ほんのちょっとだけ統合失調症者の主観世界に近づいた、ということである。キャロル・スミスの論文内にも類似の文章があるが、そういうことだと考える。
精神分析家たちは、あるいは精神分析派の評論家たちは、2ちゃんねるをもっと見るべきじゃないだろうか。わたしが見る限り、そこかしこに鏡像段階的なやり取りがある。「去勢の否認だ」として(傾向の指摘と考えれば、この言葉自体には同意する)一括して棄却するのは、精神医学で言えば患者の言葉に耳を傾けないことと等しい。患者を見捨てているのと等しい。そんな態度でどうやって臨床の学が成立するのか。彼らの行動は矛盾している。自分では精神分析学を発展させているつもりでいながら破壊している。幻想としての生産によって現実の学である精神分析学を幻想化させている。彼らは精神分析という学をただ消費するシロアリである。
そもそも精神分析学とは健全な人間(笑)、即ちモル的な人間が棄却しがちな「便所の落書き」を臨床・分析する学問である。モル的な人間は「便所の落書き」を棄却したがるから、口にしたがらないから、フロイトは夢や言い間違いやジョークに無意識を見出そうとしたのだ。
2ちゃんねるはその匿名性という要件により、利用者たちが本当の本音を、即ち無意識に親近したそれをさらけ出すことが可能となった場所だと、わたしは考える。日常での会話なんかと比べて、だけど。
孤児は名無しなのだ。当然である。名づけ親すらいないのだから。
ここがわからないバカはやらない方がいいよ、精神分析。
「さみしい」という気持ちと、「いなくなると不便だ」という気持ちはどう違うのか。
後者は取り替え可能? 恋人なんて取り替え可能じゃないか。お前は恋に恋しているだけだ。
バカらしい。根拠のない幻想でどれだけ社会が構成されているのか。八割は幻想だ。残りの二割は自然と等値だと言ってやってもいい。
だからわたしはこう言う。正常人は八割死ね、と。
「お前も正常人じゃないか」って? ということはお前はわたしに「死ね」と言っているわけだな。論理的にそうだろ?
だから言っているじゃないか。死にたい、と。
わたしは正常人でもあり正常人でもない。わたしにだって罪悪感を感じるわたしがいる。ただそれが他人事なだけである。それらを同一化させたくて死にたいと言っているのだ。
ほんとバカだな、お前らって。お前らがする反論なんて最初からわたしの論に組み込まれてるんだよ。
お前は釈迦の手のひらを飛ぶ孫悟空だ。
手のひらがないだけだ。わたしは手のひらじゃない。
ここはただそうである場だ。道などではない。
ぷつん、となって暴れる、のか。ぷつんと、かどうかわからないが、そうなると本当に記憶がない。いや、自分のしたことという記憶は残っているが、他人事のような、ビデオカメラのような記憶として残っている。
罪悪感は、たとえばマンガの主人公が感じるような罪悪感としてある。わたしはあくまでもマンガの読者だ。
大学生の頃だったか、酔った勢いで、ある女性と大喧嘩したことがある。肉体的につかみ合う喧嘩。気がついたら相手の子が丸まって獣みたいにうめいている。ふざけてんじゃないか、とすら。
手を見ると、黒い髪が一房絡みついていた。ごっそり抜けていた。ぞっとした。
体力テストでは握力も腕力も級外だったわたしにそんな力はないと思う。だから多分その時のわたしは別人だったのだと思う。火事場のクソ力ってのは別人になってるんだと思う。別人だから、その人の限界を超えた力が出せる、と。一種の解離症状なんじゃないだろうか。
その後どうしたかよく覚えていない。我に返って逃げたんだと思う。その子ともそれ以来会ってない。
こんなことを思い出しても罪悪感はない。あると言えばあるけれど、やはり他人事だ。なんせああまでしたのはわたしだけど別人のわたしだから。
いや、あの時のわたしがわたしなんだ。罪悪感を感じる、感じなければならないと思っているわたしが他人だ。だから罪悪感が「他人事」なんだ。髪の毛を引っこ抜いたわたしに責任転嫁しているのではない。髪の毛を引っこ抜いたわたしと、罪悪感を感じるわたしが別人だと言うことを述べたいだけである。
でもまああれだな。剣道部で、それまで普通にチャンバラしてるんだけど、合図が鳴ると道場の隅に竹刀を置いて、取っ組み合いを始める稽古があったんだな。防具が脱げたら負け、って。中学時代は男子ともやらされた(部員数少なかったし)。小学生の頃は柔道もちょっとだけやらされたことがあるので(すぐやめたけど)、体力はなくとも取っ組み合いの経験があったことがそういう結果に繋がったのだろうか。
もう必死だよ。我なんてどっか行ってるよ。
それはそういった出来事そのものであり、それについて被害者に同情したり、加害者に転移して罪悪感を感じたり、というのはメタなんだよ。幻想である。
メタなんて存在しない。そんなものは存在しないんだ。
我なんて存在しない。それは妄想よ。想像よ。
ビルドゥングスロマンにありがちな回帰としての去勢(去勢の否認から承認へ)じゃなく、リアルな鏡像段階としての去勢(未去勢から去勢済みへ)ってなこういうもんだと思う。生々しさが違う。強度が違う。アクチュアリティが違う。「わたし、潰すの、頭、フランシス」。
……傷害罪って時効何年だっけ? ああ、虚実混淆ってことで。こっちだって爪が割れてたんだから。
バッグの紐で首を絞めている。あ、女性だな、と思う。
ある女性の首を絞めている。
体は大きい。彼女の背後に取りつき、振り回されながらも絞め続けている。
他人事の感覚で、水子の霊みたいだと思う。
やがて振り落とされる。
拘束衣でも着せられているかのように動けない。のた打ち回るだけ。バッグの紐じゃなくて拘束衣の腕の部分で締めていたのかもしれない。
女性が逃げる。女性の周りに人が集まる。女性はまるでレイプされたかのようにぼろぼろだ。当然周囲の人間は女性に同情する。何かの魔法でもかかったかのように女性の味方になる。ゲームでもよくあるよな、敵キャラクターを味方にしてしまう魔法。
気がつくとわたしは呆然と立っている。彼女の魔法はわたしに届かない。範囲外らしい。
魔法にかかるのはイヤだ。でも彼女の方へ駆け寄らないと後々大変そうだ、と経験論で思う。どう大変なのか頭の中で検証する。
そんなことをしているうちに、つと女性が叫ぶ。
「そいつを殺して!」
魔法にかかった下僕たちがわたしの方をにらむ。いや、多分、わたしの後方にいる何かを攻撃しようとしているのであり、わたしは無関係である。わたしはあくまで傍観者である。それは事実である。
わたしは後悔する。なんでもっと早く彼女の方へ駆け寄らなかったのか。魔法にかかってしまわなかったのか。そうすれば今のような状況にはならなかっただろう。検証スピードが遅かった。いや検証する必要などなかった。煩を厭う経験則に従えばよかったのだ。
こんなことを考えているのも経験則に逆らっている。なんでわたしはこうとろいのだろう。
狂信者たちがわたしににじり寄る。
わたしじゃない、と主張しようか。それはわたしにとって真実だから、主張することはできる。しかし狂信者たちは信じないだろう。いや、中にはわたしの主張に耳を傾けてくれる人もごく少数はいるかもしれない。しかし魔法使いの一言で覆されるだろう。「犯人は彼女だ!」。
例の水子はどこに行ったのだろう。霊だから見えるわけがない。もしかしたらわたしに取り憑いているのかもしれない。そんなバカな、と思う。後ろを振り向く。狂信者たちがいた。後ろに回られた。わたしは狂信者たちに取り囲まれている。
被害者の魔法はわたしが考えるより強力だったようだ。ならば何故わたしにはかからなかったのだろう? わたしは狂信者になれなかったのだろう? 彼女に同情してやれなかったのだろう? 彼女に転移できなかったのだろう?
疑問が増えるわかめのように増殖していく。まさにわけわかめだ。
その間にもわたしを取り囲む包囲網は狭まっている。わたしはホームレスになっている。公園を不法占拠している、という罪状でリンチに遭おうとしている。「無意識の本質は孤児である」なんて叫んでも無駄だろう。狂信者の中には『アンチ・オイディプス』を読んでいる奴もいるのだろうが、誤読しまくっていると思われる。ちゃんと読めているならそもそもこんな魔法にかかるわけがない。
モル的な人間たちが分子的な人間たちを殺戮していく。
分子的だからホームレス仲間たちは既に逃げている。彼らを責めるわけにはいかない。そもそもそういう人間がホームレスになるのだ。「ホームレスにも社会はある」などというドキュメンタリー番組を見たことあるが、ホームレスを美化しようという製作者の意図が見え見えで反吐が出そうだった。「脱領土」などではなく、最初から領土を持っていないのが「ノマド」である。ホームレスである。彼らは「ノマド」だからわたしを見捨てて逃げることができるのだ。わたしは領土ではないから。まるで2ちゃんねらじゃないか。「敵に回すと恐ろしいが、味方にすると頼りない」。
包囲網が狭まるにつれ、わたしは自分が犯人であるような気がしてくる。包囲網が狭まることにより、脱出できなかった水子がわたしに取り憑いてしまったのかもしれない。
わたしでいい、と思う。わたしだ、と思う。おそらくわたしは警察の取調べであっさり嘘の自白をしてしまうタイプの人間なのだろう。
水子も孤児である。水子は警察の取り調べにあっさり嘘の自白をする。水子にとっての出来事は客観的事実ではない。彼の事実は客観そのものを構成する他者たちに共有されない。それが孤児であるということだ。客観的事実自体が成立しないから、嘘の自白をしてしまう。モルが分子を圧殺する。
――殺したい。死にたい。こんな言葉が口癖になっているわたしならやりかねない。
他人事にそう思って、わたしは嘘の自白をする。
この魔法はすごい。一体この魔法はどういうものだ? どんなメカニズムをしているのだ? これを操れるようになったら、こんな目に遭わなくて済むだろう。
とか考えたらだいぶ前に2ちゃんで見つけたこのブログを思い出した。ここからこの記事を見つけた。アメリカの電磁波兵器ねえ。HAARPって『やりすぎ都市伝説』でも出てたな。強力な電磁波を放射して狙った地域に地震を起こさせるんだと。さすがにそれはどーだろ、と思うが飛行機を墜落させた、なんてのは信憑性ある気がする。最近の飛行機は電子機器の塊だしな。
だけど人の心を左右させる、って言う方がよっぽど信憑性がある気がする。警察の取調べでこれを使ったら、自由に嘘の自白させまくることも可能だ。
とはいえそういった論に疑問がないわけではない。それについては後日別の記事で書くかもしれないが、簡単に言っておくと、電磁波により人の心を完全に操作できる、たとえば電磁波によってある個人の感情や日常的行動を完全に操作できる、とはわたしは思えない。しかし先のブログ主が「統合失調症患者の何%かは人為的な電磁波放射の被害者かもしれない」と書いているように、人為的な電磁波放射により統合失調症的症状を惹起させることの可能性は、わたしは否定しない、という立場を取る。要するに、この兵器を警察が使ったとして、百パーセント警察が用意した通りの嘘の自白をさせることは不可能だと思えるが、その犯人に統合失調症的症状を惹起させることは可能だろう、ということである。
このことは逆に言えば、統合失調症者にはこの兵器は通用しない、ということでもある。最初からその状態を生きているのだから。
また、ここで主張されている電磁波兵器は、例の魔法とは逆効果を生むものだということである。
……操作じゃなくて読心だけなら別にいいんだけどな。とはいえ観察自体も即ち行為であるため、それらの区別はつけられない、って科学哲学の論をわたしは支持する。従ってやっぱ読心もらめええ、ってなる。一方こんなことも思う。読心してもらえば、このブログに書いていることの裏づけが取れるだろうか、などと。恥ずかしい部分、言いたくない部分もないことはないけれど、裏づけ取れるならある程度は仕方ねーなー、って思うし、汚言症的傾向のあるわたしが今さら何言ってんだ、という気もする。他人事で。
要するに、統合失調症的症状を誘発する兵器は、正常人たちが無意識的につく嘘(とは言っても意識上はそれを嘘だと思っていないため彼ら自身はそれを嘘と認めないだろう)を破壊する役割ともなりえる、ということだ。
とはいえ先の記事内の読心装置は、脳波を読み取ってうんちゃらかんちゃらするものとされている。脳波というデータを心の動向に変換する工程において、基準として採用されるのは、統計的に数が多い正常人の変換システムであろう。従ってその読心装置も信用できない、となる。
こちとら伊達や酔狂で「不信」に満ちた主観を慢性的に何十年も生きてきたんじゃねえんだ。
余談になるが、先のブログでは心霊現象も電磁波の影響である、と主張している。これも部分的に同意する。心霊現象を怖がる人の精神状態は、被害妄想的という意味で統合失調症的な症状だと言える。その個人が統合失調症と診断されるというわけではないが、彼はその瞬間ほんのちょっとだけ統合失調症者の主観世界に近づいた、ということである。キャロル・スミスの論文内にも類似の文章があるが、そういうことだと考える。
精神分析家たちは、あるいは精神分析派の評論家たちは、2ちゃんねるをもっと見るべきじゃないだろうか。わたしが見る限り、そこかしこに鏡像段階的なやり取りがある。「去勢の否認だ」として(傾向の指摘と考えれば、この言葉自体には同意する)一括して棄却するのは、精神医学で言えば患者の言葉に耳を傾けないことと等しい。患者を見捨てているのと等しい。そんな態度でどうやって臨床の学が成立するのか。彼らの行動は矛盾している。自分では精神分析学を発展させているつもりでいながら破壊している。幻想としての生産によって現実の学である精神分析学を幻想化させている。彼らは精神分析という学をただ消費するシロアリである。
そもそも精神分析学とは健全な人間(笑)、即ちモル的な人間が棄却しがちな「便所の落書き」を臨床・分析する学問である。モル的な人間は「便所の落書き」を棄却したがるから、口にしたがらないから、フロイトは夢や言い間違いやジョークに無意識を見出そうとしたのだ。
2ちゃんねるはその匿名性という要件により、利用者たちが本当の本音を、即ち無意識に親近したそれをさらけ出すことが可能となった場所だと、わたしは考える。日常での会話なんかと比べて、だけど。
孤児は名無しなのだ。当然である。名づけ親すらいないのだから。
ここがわからないバカはやらない方がいいよ、精神分析。
「さみしい」という気持ちと、「いなくなると不便だ」という気持ちはどう違うのか。
後者は取り替え可能? 恋人なんて取り替え可能じゃないか。お前は恋に恋しているだけだ。
バカらしい。根拠のない幻想でどれだけ社会が構成されているのか。八割は幻想だ。残りの二割は自然と等値だと言ってやってもいい。
だからわたしはこう言う。正常人は八割死ね、と。
「お前も正常人じゃないか」って? ということはお前はわたしに「死ね」と言っているわけだな。論理的にそうだろ?
だから言っているじゃないか。死にたい、と。
わたしは正常人でもあり正常人でもない。わたしにだって罪悪感を感じるわたしがいる。ただそれが他人事なだけである。それらを同一化させたくて死にたいと言っているのだ。
ほんとバカだな、お前らって。お前らがする反論なんて最初からわたしの論に組み込まれてるんだよ。
お前は釈迦の手のひらを飛ぶ孫悟空だ。
手のひらがないだけだ。わたしは手のひらじゃない。
ここはただそうである場だ。道などではない。