精神科医やカウンセラーが考えるクライアントの実態は精神科医やカウンセラーの妄想にすぎない。
2009/08/30/Sun
『アンチ・オイディプス』はエディプスコンプレックスを批判する。いや、これが原理化された(当時の)精神分析業界を批判している。
似たような論はそこかしこで見る。「心理学は心の問題をなんでもかんでも家庭環境に還元するからダメだ」などというもの。
しかしそいつらは臨床していないんじゃないだろうか? と思える。要するに机上の空論主義者である。
実際多くの心に問題を抱えた人間に接すれば、彼らの言葉の端々に親や兄弟に対するコンプレックスが読み取れるだろう。
いや、心理カウンセリングや精神科の診察ではダメかもしれない。事実わたしは患者側だが、カウンセラーや精神科医に本音を言ったことがない。リアルではもともと(酔ってなければ)言葉数が少ないので、話すことすらない。口を開かせようとするあれこれに対して強い拒否反応を示す。カウンセラーは体中にペニスを生やした男根主義者だ。イメージでそう思っていただけだが、精神分析を勉強する際ついでに自我心理学なるものを齧って納得した。これを教義にしていれば男根主義者にもなろう。アナ・フロイトは男根主義者である。いや、ファザコンを体現した典型すぎる臨床実体として捉えなければならないだろう。ラカンはパラノイアコンプレックスな。だからわたしは向いてる方向はラカンと同じになる。立ち位置が違うけど。
一方精神科医はわたしは人間として認めていない。前にも書いたことがあるが、薬の自動販売機である。喋らなくていい。症状だけを喋ってれば薬を割り当ててもらえる。病む前、関西の若い精神科医と飲み屋で知り合ったが、彼女も同じことを言っていた。「精神科医なんて薬を選ぶだけよ」と。それもこの思い込みに一役買っているのだろう。
それと比べるとカウンセラーは人なるものを押しつけてくる。わたしは殻に閉じこもる。正直未去勢者はカウンセリングにかからない方がいいとさえ思える。カウンセラーなる人種は征服者だと思っていた。精神分析を学ぶ以前から。ほどほどに心が強い人間じゃないと応対できない。
正直、気持ち悪い。べとべとする。精液垂れ流しすぎ。
いや殻に閉じこもればそれを割って入ろうとはさすがにしないので(公的空間だからか?)、一般にはカウンセラーよりひどい、気持ち悪さを超えて殺意すら覚えてしまう人間が大量にいるのだが。そういった意味ではカウンセリングルームは「まだマシ」な空間である。
話を戻そう。
精神科の診察室やカウンセリングルームでは、クライアントはなかなか本音を言いたがらない。これは精神科医もカウンセラーも肝に銘じておくべきことだ。少なくともわたしはそうだ。
こう言えばわかってくれるだろうか。精神科医やカウンセラーが考えるクライアントの実態は精神科医やカウンセラーの妄想にすぎない、と。
ではどこならいいのだ? となるだろう。そういう質問こそが言語に無意識を支配されている証拠で答えたくもないのだが、診察室やカウンセリウングルーム、あるいは日常生活と(あくまで)比較して、主体が本音を述べていると思われる場所を一つ紹介しよう。2ちゃんねるである。
2ちゃんねるにはさまざまな板が存在する。精神疾患者たちが集うメンヘラ板というのもある。それらの板では雑談スレなるものがある。これはどの板でも必ず一つはあるものだ。市況板では「雑談」という名称は使われていなかったが、「明日の日経平均を予想するスレ」(だっけか)がその役割を担っていた。
こういったスレで彼らは本音をさらけ出す。当然である。基本名無しなのだから本音が言えるのである。名前を晒すと、本音と自分が結びついてしまう。2ちゃんねらは無意識的に精神分析の重要定理を認知している。「なべて人間の本音は他の人間が眉をしかめるものである」というもの。
こういった本音を聞いていると、いかに彼ら彼女らが、心の問題を吐露している時、親や兄弟へのコンプレックスをさらけ出しているかわかるだろう。本音が渦巻く場所にいると、「心理学は心の問題をなんでもかんでも家庭環境に還元するからダメだ」などという主張は本当に机上の空論に聞こえてくる。こういった臨床をしていれば「なんでもかんでも家庭環境に還元する」のが自然である。もちろん全ての問題を家庭環境に還元するわけではない。たとえば器質因や内因とされている疾患は別のところに原因があるのだろう。
『アンチ・オイディプス』は分裂症者の言葉に耳を傾け、「エディプスコンプレックスが原理化された精神分析業界」を批判する。これは理屈的に正しい。今では統合失調症は環境因ではなく内因の疾患とされている。
しかし、「心理学は心の問題をなんでもかんでも家庭環境に還元するからダメだ」という主張が原理化してしまうと、神経症者の本音は理解できなくなる。
要するに、分裂症者などといった未去勢者と、神経症者即ち去勢済み主体について、解剖する道具を変えなければならない、ということだ。
これが理論を道具として用いるということである。
似たような論はそこかしこで見る。「心理学は心の問題をなんでもかんでも家庭環境に還元するからダメだ」などというもの。
しかしそいつらは臨床していないんじゃないだろうか? と思える。要するに机上の空論主義者である。
実際多くの心に問題を抱えた人間に接すれば、彼らの言葉の端々に親や兄弟に対するコンプレックスが読み取れるだろう。
いや、心理カウンセリングや精神科の診察ではダメかもしれない。事実わたしは患者側だが、カウンセラーや精神科医に本音を言ったことがない。リアルではもともと(酔ってなければ)言葉数が少ないので、話すことすらない。口を開かせようとするあれこれに対して強い拒否反応を示す。カウンセラーは体中にペニスを生やした男根主義者だ。イメージでそう思っていただけだが、精神分析を勉強する際ついでに自我心理学なるものを齧って納得した。これを教義にしていれば男根主義者にもなろう。アナ・フロイトは男根主義者である。いや、ファザコンを体現した典型すぎる臨床実体として捉えなければならないだろう。ラカンはパラノイアコンプレックスな。だからわたしは向いてる方向はラカンと同じになる。立ち位置が違うけど。
一方精神科医はわたしは人間として認めていない。前にも書いたことがあるが、薬の自動販売機である。喋らなくていい。症状だけを喋ってれば薬を割り当ててもらえる。病む前、関西の若い精神科医と飲み屋で知り合ったが、彼女も同じことを言っていた。「精神科医なんて薬を選ぶだけよ」と。それもこの思い込みに一役買っているのだろう。
それと比べるとカウンセラーは人なるものを押しつけてくる。わたしは殻に閉じこもる。正直未去勢者はカウンセリングにかからない方がいいとさえ思える。カウンセラーなる人種は征服者だと思っていた。精神分析を学ぶ以前から。ほどほどに心が強い人間じゃないと応対できない。
正直、気持ち悪い。べとべとする。精液垂れ流しすぎ。
いや殻に閉じこもればそれを割って入ろうとはさすがにしないので(公的空間だからか?)、一般にはカウンセラーよりひどい、気持ち悪さを超えて殺意すら覚えてしまう人間が大量にいるのだが。そういった意味ではカウンセリングルームは「まだマシ」な空間である。
話を戻そう。
精神科の診察室やカウンセリングルームでは、クライアントはなかなか本音を言いたがらない。これは精神科医もカウンセラーも肝に銘じておくべきことだ。少なくともわたしはそうだ。
こう言えばわかってくれるだろうか。精神科医やカウンセラーが考えるクライアントの実態は精神科医やカウンセラーの妄想にすぎない、と。
ではどこならいいのだ? となるだろう。そういう質問こそが言語に無意識を支配されている証拠で答えたくもないのだが、診察室やカウンセリウングルーム、あるいは日常生活と(あくまで)比較して、主体が本音を述べていると思われる場所を一つ紹介しよう。2ちゃんねるである。
2ちゃんねるにはさまざまな板が存在する。精神疾患者たちが集うメンヘラ板というのもある。それらの板では雑談スレなるものがある。これはどの板でも必ず一つはあるものだ。市況板では「雑談」という名称は使われていなかったが、「明日の日経平均を予想するスレ」(だっけか)がその役割を担っていた。
こういったスレで彼らは本音をさらけ出す。当然である。基本名無しなのだから本音が言えるのである。名前を晒すと、本音と自分が結びついてしまう。2ちゃんねらは無意識的に精神分析の重要定理を認知している。「なべて人間の本音は他の人間が眉をしかめるものである」というもの。
こういった本音を聞いていると、いかに彼ら彼女らが、心の問題を吐露している時、親や兄弟へのコンプレックスをさらけ出しているかわかるだろう。本音が渦巻く場所にいると、「心理学は心の問題をなんでもかんでも家庭環境に還元するからダメだ」などという主張は本当に机上の空論に聞こえてくる。こういった臨床をしていれば「なんでもかんでも家庭環境に還元する」のが自然である。もちろん全ての問題を家庭環境に還元するわけではない。たとえば器質因や内因とされている疾患は別のところに原因があるのだろう。
『アンチ・オイディプス』は分裂症者の言葉に耳を傾け、「エディプスコンプレックスが原理化された精神分析業界」を批判する。これは理屈的に正しい。今では統合失調症は環境因ではなく内因の疾患とされている。
しかし、「心理学は心の問題をなんでもかんでも家庭環境に還元するからダメだ」という主張が原理化してしまうと、神経症者の本音は理解できなくなる。
要するに、分裂症者などといった未去勢者と、神経症者即ち去勢済み主体について、解剖する道具を変えなければならない、ということだ。
これが理論を道具として用いるということである。