オタクにとっての対象aとは? またはオタク文化における「語らい」
2007/02/20/Tue
前の記事でも書いたように、オタク文化をラカン論を用いて分析するブログはたくさんある。直接の引用などは無くてもラカン「風」な言い回しを使っている記事もちらほら見かける。最近、ひきこもりの専門家でありオタク文化に造詣があり「ラカン萌え」な精神科医、斎藤環氏が、ラカン論の「入門書の入門書」とも言える著作を上梓したことも影響しているかもしれない。私も読んだがラカン関係の本を二日で読了したのは初めてのことだった。
私は、ラカン論はポストモダンの文化を分析するのにとても適した理論だと思う。まあポストモダンでの臨床に基づいて構築された理論だから当然といえば当然なのかもしれないが。
そんなラカン論を用いてオタク文化に言及するいろんなブログがある中、ある一つの記事を読んで、前の記事に関することで少し言及が足りなかった点があると気づいた。今回はその辺を少し考えてみたい。
オタク文化の特徴として、これまで触れても深く考慮してこなかった要素がある。それはコミックマーケットなどに代表される、同人誌という文化だ。
実はオタク文化において、この存在が重要な役割を担っている。この文化があるからこそ、オタク文化は他の、日本の若者文化であるヤンキー文化やサブカル文化とは一線を画している。そして、それの結果として、オタク文化は、部外者の私たちから見ると、まるでユートピアのように見えてしまうのだ。
私はオタク文化にそれほど染まっていない人間なので、同人誌文化はそんなに詳しくない。コミケは随分前に物見遊山で一度だけ行ったことがある。あとは知り合いのオタクのつてで新宿駅南口(だっけ?)のオタク同人誌専門店に行ったりとか、(BL系が主だったが)同人誌を読ませてもらったことがあるくらいだ。
なのでここでの同人誌文化は、これらの少しの実体験と、ネットで見聞きして補完した知識によるものという前提で読んで欲しい。とは言っても斎藤氏が自らをそう表現するように、私も「オタクのオタク」であると思う。それなりにオタクに関する知識はあるつもりだ。オタク文化の外側からの、オタク文化の作法やコンテクストに縛られていない、「オタクのオタク」という第三者的な視点からの指摘として読んで欲しい。
前の記事で、1990年代はともかく今のオタク文化におけるオタクたちの欲望は、マニアがするようなやり方の、フェティシスム的なものではないか、と分析した。もちろん例外もある。例えば声優オタクという欲望は、フェティッシュとしてのアニメキャラに満足できず、それをS2とみなし、次のS2であるアニメキャラの裏にいる声優に欲望の対象が置き換えられたものだ。これはとてもわかりやすい事例である。S2はΦの暗喩作用(せきたて)と、対象aという小文字の他者へ導かれる力を受けている。アニメキャラより声優という現実的女性の方が/Sと対象aに近接している。赤ん坊だった頃の自分と母親との関係の姿により近いからだ。このケースも「斜に構えなければならない」「象徴物とスキゾ的に戯れなければならない」というオタクの作法が超自我として作用=抑圧し、去勢を(一部)承認した結果、フェティシスムという「停止」した時間から動き出し、S2の連鎖が起きた一例かもしれない。
オタク文化はマニア的と前の記事に書いたが、それは90年代のスキゾ的オタクと比較してであり、今のオタク文化でも90年代的な「斜に構えた熱狂」に違和感のない人格も含まれよう。よって、オタク文化はフェティシスムの側面と、サントームを形成する素地となるスキゾ的側面と、声優オタクのようにアニメキャラとの同一化というフェティシスムに留まらない非倒錯的な側面、三つの側面の間で揺らいでいて、ハイ・コンテクスト的な複雑な超自我によって、対象aへの引力が強まりやすい、という場の力が働いている文化という仮説をここで立てる。
超自我が複雑化すれば/Sと対象aの間の幻想◇も複雑化する。欲望は際限なくS2を掴み続けることができる。となると、フェティシストではない去勢を承認した本来の意味での「大人」でも楽しめる幻想が構築可能だ。生の欲動の迂回路という本来の機能が成立するわけだ。フェティシストも生の欲動のベクトルの自由度が増えたわけだから、超自我の抑圧を、即ち去勢を承認する場が存在することになる。対象aの引力が元々弱いスキゾ的人格も、そのハイ・コンテクストの中でS2の垂直的な連鎖を繰り返し、サントームを形成できるだろう。何の問題もない、むしろ理想的な文化の発達過程である。
ここで、コミックマーケットなどに見られる、同人誌文化という要素が浮上する。
同人誌を作る側に回った、表現者としての彼ら。同人作家たちと呼ぶことにする。これは比喩的な、プロもアマも関係ないシニフィアンとして理解して欲しい。だからプロの例えばライトノベル作家でも、以下に述べるような精神性があるなら、「同人作家」と示されることとしたい。
まず彼らの集団的傾向を、一人の「想像的」人格と扱って簡単に分析していこう。
彼は、オタクたちが欲望する作品を生産する。オタクたちが生の欲動に従って掴むS2を生産するわけだ。オタクたちにとってみれば、欲望するアニメ的キャラを生み出す彼らこそ、対象aに近接している場所にいる他者である。だからオタクたちは表現者の側に回りたがる。この「表現者でありたい」という想像的同一化のベクトルは、フェティシスト的な「アニメキャラでありたい」というものと比べ、非倒錯的で「素直な」欲望の連鎖と言える。
「素直な」といったが、この「同人作家」への想像的同一化がフェティシスム的に短絡することだってある。現実的な人間=小文字の他者に対しフェティシスム的な短絡が起こるのは、想像界から象徴界への連絡口がある場合、つまりその小文字の他者がシニフィアンと密接な関係にある場合である。アイドルなど思い出せばわかりやすいだろう。アイドルに対してファンがパラノイア的な妄想を持ってしまうのは、対象が「アイドル」という大文字の他者の「要求」=Dなるシニフィアンを背負っているからである。ここで対象aがDに置き換わって、/S◇Dという幻想の様式となる。オタク文化の場合だと、「同人作家」というシニフィアンだ。ここを通じて短絡的な想像的同一化をしてしまったのが、以前の記事に書いた「押しかけ厨」と呼ばれる人たちだ。想像的同一化は想像界の内的動力が強いと起こりやすい。「押しかけ厨」やアイドルの追っかけのように、妄想的な熱狂を注ぐのは女性が多いが、女性は男性と比べその内的動力が「想像界>象徴界」だからである。男性は去勢というイニシエーションにより象徴界に参入するので、自動的に象徴界の内的動力が強くなるのだ。私のオタク二分論(記事1、記事2、記事3)をあてはまるなら、女性はパラノ的で男性はスキゾ的、と言えよう。
話がそれた。ともかく、「押しかけ厨」などといった存在が、同人作家がオタクたちにとって同一化の対象になりえることを示している、という話だ。
彼、同人作家たちは、オタクたちが自分の作品を欲望していることを知っている。彼は「同人作家」という、オタクたちにとっての対象aに近接したシニフィアンを自らに負わせている。また同時に、彼自身もオタクであろう。彼が作品を生み出す行為は、対象a→S1=Φという、死の欲動のベクトルを向いている。即ち、彼の表現行為は「他者の享楽」によるものである。「他者の享楽」とは「受動的」で、「滅私」「献身」「奉仕」という印象を持たせるものである。この印象はまさに同人作家たちに当てはまらないだろうか。
また、死の欲動は超自我であるS2の構造を無化させるベクトルである。人類の長い歴史のスパンで見れば、例えば学問がこの役割を担っていたと言えよう。先に書いた仮説には、死の欲動のベクトルが存在しない。フェティシスムがあるが、それは無化というより「停止」的な倒錯である。文化というものは新陳代謝を行っていかなければ長くは持たない。そういった意味で「死の遺伝子」的な役割として、この表現行為が重要になってくるだろう。オタキングが「プチクリ」を提唱したのも、こういったバランス論的なものを求めたからではないだろうか。
「同人作家が対象a? 欲望の原因? そんな馬鹿な」と思われるかもしれない。「同人作家」というシニフィアンの仮設定がいけないのかもしれないが、オタク文化の外にいる人間がつけたセンスのない名づけだと思って大目に見て欲しい。繰り返すがこれはプロアマ関係なく、オタク文化に属していて、自らの作品がオタクたちの欲望の対象としてあることを自覚していて、そのオタクたちのために作品を作っている「オタク文化における表現者」というニュアンスの、漠然とした対象を指す名詞である。
また、前の記事に書いたアニメキャラを対象aと見做すこととこの論を並存させるために、映画『マトリックス』的な比喩を用いて説明しよう。
アニメキャラを愛するオタクたちは、アニメキャラと同じ虚構の世界=仮想現実を生きている。この仮想現実ではアニメキャラへの愛情はフェティシスムのそれではなく、彼女を対象a(に近いもの)と見做していても何ら問題はない。それは生の欲動的という意味で健全な愛の形と言える。映画と違うのは、オタクたちはそれが虚構の世界だと知っている。オタクたち一人一人がネオでありトリニティである。もちろん作られた仮想現実だと知りつつ、その世界を望む者も映画の中ではいた。彼は現実界的な、辛く悲劇的な本当の「生」の場所である現実世界から逃避したのだ。彼は死の欲動に従い、あるいはフェティシスム的に、作られた仮想現実を生きることを選択した。
オタクである彼は、誰かに作られたアニメキャラという虚構の人間を愛する。彼にとって彼女は対象aに近接した場所にいる女性だ。しかし、彼はアニメキャラの彼女が「作られたもの」であることを知っている。彼は生の欲動に従って、本当の愛を得るために、そのアニメキャラの裏にある対象a、即ち現実世界で養殖されている彼女と会いたくなる。あるいは、現実世界だろうが仮想現実であろうが、対象aである彼女と本当の同一化をせんがため、この世界を創造している支配者に会おうとする。現実世界で養殖されている現実的な彼女であり、仮想現実の支配者であるのが、オタク文化における「同人作家」である。「押しかけ厨」はこのような、彼女にとっては正当な生の欲動に従って、ネオがそうしたように、同人作家の家に押しかけるのだ。それについての記事にも書いたが、ラカンが「パラノイアは人格そのものである」というようなことを言ったのは、至極まともなことであるのがわかるだろう。
ともかく、以上のような構図から、オタク文化において対象a的なものとは、「同人作家」であると言えるわけだ。
もちろん、同人作家や表現者を目指していないオタクたちも多数いるだろう。しかしそういうオタクでも、潜在的にオタク作品の表現者を対象a的な分析家の如く見做していることもありうるし、そうでない本当の意味で同人作家を目指していないオタクもいると思う。ここでいう「オタク」は、「同人作家」と同様に、「オタク」を一人の想像的な他者として仮設した対象として捉え、その精神的な傾向を分析しているものとして考えて欲しい。
さて、オタク文化は同人誌文化という死の欲動的ベクトルを導入したことで、文化の構造としては申し分のない体裁を整えたかのように見える。個人的な感想を言わせてもらえば、私はオタク文化というよりサブカル文化の出であり、そういった文化が、文化として形が形成されるにつれ、生の欲動的な外部への潜在的ベクトルと、死の欲動的な内部の自己満足的ベクトルで自滅していった姿を目の当たりにしてきた。それらと比較すると、表現文化としては非常に合理的かつ健全な発達を遂げた文化であると言わざるを得ない。
同人作家は死の欲動を基にした「他者の享楽」としてオタク向けの作品を生産する。オタクたちがどういったものに萌えて性欲を覚えるかを、分析して作品を作り上げる。彼ら自身オタクなのだから、そういった分析はお手の物だろう。
表現者としての同人作家と、受取手としてのオタク。彼らの間には、会話が存在している。それは直接的な会話でなくてもいい。匿名掲示板やネットでの会話でもいいし、アニメや漫画の雑誌を介したものでもいい。時にはそれは金銭の数字という味気ないものであったりもするだろう。ともかく、彼らはコミュニケーションが取れている。これを「語らい」と見たとき、面白い構図が浮かび上がる。
同人作家たちは、オタクが自分たちの作品を欲望していることを知っていて、それに適うような作品を生産する。これは先程も書いたように対象a(に近接した場所)→/Sというベクトルだ。このベクトルの語らいを、ラカン論では「精神分析家の語らい」と呼ぶ。そう、同人作家たちはオタクたちにっての精神分析家である、という比喩が可能なのだ。同人作家たちは、オタク文化のコンテクストに関する知S2をもって、オタクたちを精神分析するように、オタクたち向けの作品を作っているのだ。その作品は、オタクたちにとっての知の中心ともいうべきS1を暗喩するものとなるだろう。即ちオタクたちにとってのファルスΦだ。だからオタク向け同人誌は、オタクたちの全能感を満たすような、「ファルス的享楽」が大きなウエイトを占める作品が多くなるのである。
この「分析家の語らい」によって、受動者の主体/Sから生み出されるS1=Φは、排泄物のようなものだ。事実精神分析において、分析そのものが患者の夢で「トイレ」に換喩されて表れることが多い。また、糞便は「死した自己」を象徴する。Φは象徴界から抹消された=殺害された主体のシニフィアンであるので、Φが「糞便」で象徴されるのは辻褄があう。こういったことから、「同人作家」という精神分析家がオタクを分析して生み出したその作品は、排泄物である、と言える。前の記事で書いた「嘔吐や下痢」という言葉が決して批判ではないことがわかってもらえるだろうか。
また、精神分析の診察室は患者の夢の中で教会や手品ショーの会場として表象されることも多い。これは超自然的な不思議なことが起こる場所であり、この時分析家は患者にとって手品師であり、超自然的な現象を支配する者として見做されている。同人作家はその作品の中で虚構の世界を作り上げる超自然的な支配者でもある。私の経験談になるが、ライトノベル作家を目指す方たちに「何故小説を書くのか」という質問をすると、揃って答えるのが「自分だけの(虚構の)世界を作りたいから」という理由である。彼の言う「自分だけの世界」とはオタク文化のコンテクストに依存した虚構の世界だ。つまり、同人作家が作り続けている世界を再生産したがっている、ということである。これはまさに超自然的な支配者=精神分析家=同人作家という対象aへの同一化に向かっていることを示す事例である。
この、互いに補完するような関係において、「語らい」が例えば肉体的苦痛を与えるという現実的行為になると、マゾヒストとサディストの関係になる。彼らはお互いがお互いの対象aである立場から欲望する。お互いにお互いが求めているシニフィアンになろうとして、その行為の中でシニフィアンの衣を脱ぎ捨てる。対象aから死の欲動のベクトルに従い/Sに辿り着く。/Sの斜線が解かれ、生身の主体=エスが、「他者として」そこに立ち現れる。斜線が解かれるということは、欠如が補填されるということだ。主体はこの時「他者の享楽」の道具になっている。オタク文化においては、表現者の同人作家と受取手のオタクたちが近接することが、斜線が解かれた主体に近づくことになる。彼らは、いやオタク文化は、「欠如を埋めたい」という人間の根源的欲望に従って、理想自我と自我理想を近接させるように、表現者と受取手を近接させていくのである。受取手であるオタクが、比較的簡単に表現者の側に回ることが可能な文化なのだ。
同人作家はオタクたちを精神分析して、作品という形の「語らい」をする。分析されたオタクたちから生まれるのはオタクたちのΦである。
表現者である同人作家と受取手のオタクたちは、互いの補完関係をより完璧なものにするため、お互いの立ち位置を近接させてゆく。これは、同人作家が、自らがオタクたちに欲望されているのを知っていて、欲望される立場からオタクたちを分析している=作品を作っているから可能になる運動だ。これは他の表現文化ではあまり見られない構図である。そもそも表現者は受取手に特定の人物を想定して作品を作らない。絵画などでは「依頼」という形があるが、画家は依頼者の向こう側に不特定多数の受取手を想定している。確かにルイス・キャロルのような事例もある。彼の作品は受取手に特定の人物を想定している。しかし彼はアリスのために書いた自分の作品を、出版用に書き直し、少女と仲良くなるために少女の両親にプレゼントしたりしていた。
表現者が「滅私」「献身」「奉仕」する対象は、特定の人物の裏にいる対象aであったり、ファルスΦであったり、「父の名」であったりする。オタク文化のように、特定の個人ではないにしろ具体的、想像的対象を想定することは少ない。ミステリーなど特定のジャンルの読者を対象とすることはあるが、ミステリー作家は「ミステリーの読者」という具体的な想像的対象に「献身」しているわけではない。これは芸術の本質でもある普遍性というものに関わることだからだ。芸術家は究極の受取手として、普遍的な「誰か」を想定する。普遍的であるが故、想定する対象は全人類的な、一般的なものとなり、特定の個人や特徴ある集団の分析は意味がなくなる。この芸術家にとってのエゴともいうべきファルス的、対象a的、「父の名」的な欲望が、表現作品に普遍性を帯びさせるのだ。この欲望が同人作家には、ない。何故なら、彼ら自身が対象aの傍にいるため、彼らは自らを対象aとして見てくれている主体を目指せばいいのだ。それで欠如は補填されてしまう。オタクたちは「芸術」という言葉を毛嫌いする。これも私の体験談になるが、例えばライトノベル作家を目指す者たちは「芸術」や「文芸」という言葉に対しアレルギー的拒否反応を示す。これは、オタク文化をユートピア的たらしめている同人作家との「分析家の語らい」を、阻害されてしまう恐れからきているとも言えるのではないか。
また、もう少し具体的な話をするなら、コミケ市場においては莫大な金銭が流動している。金銭は対象aを直接的に暗喩する。とはいえ例えばネットトレーダーのように、金銭の数字の大小がファルス的享楽に直結しているとは思わないが、同人作家は自らにとっての対象a的な欲望を、金銭において代理させていることも十分に考えられる。
ともあれ、この表現者としての同人作家と受取手としてのオタクたちの対象a的な「分析家の語らい」とも呼べる関係性が、オタク文化の外から見た人間たちが持つ、オタク文化のユートピア的な印象の主な原因であろう。オタク文化は、自給自足的なバイオスフィアとも言うべき共同体なのである。オタク文化が内閉的な印象を持たせるのは、こういった理由もあるのかもしれない。いや、むしろ(マニアから派生した)スキゾ的な人格とスキゾ的な文化作法が、内閉していてもその内で完結できるこの文化様式をシステム化したのではないか。
精神分析において、患者は対象aであろうとする分析家へ、その指示通りに欲望を転移させる。それはしばしば恋愛的な感情となる。実際ユングは患者の女性と恋愛関係を結んだことだってある。フロイトはこれを「転移性恋愛」と呼んだ。分析という行為が恋愛感情を引き起こしているのだから「本当の恋愛」ではない、とも言えるが、精神分析理論ではこの時の恋愛感情は「本当の恋愛」と構造的な違いはない。だから精神分析家は転移に対して慎重であらなければならない。この転移が「分析家の語らい」による精神分析を可能する反面、医療的な精神分析を難しくしているのである。また、この「転移性恋愛」は分析家だけのものでもない。例えば精神科医の林公一氏が言う「お助けおじさん」も、自らを対象aに近接させる「分析家の語らい」的に、一人の女性のいろいろな相談に乗っているうち、その欲望が転移された一例であろう。
恋愛感情に限らず、分析家が患者からΦを産出させる、Φを殺害するという行為が、治療という目的から外れ、二人が恋愛的「同一化」してしまいその関係性の内に閉鎖され、袋小路に入り込んでしまうことがある。
オタク文化において、同人作家という表現者とオタクたちという受取手は、この袋小路に入り込んでいると言えよう。恋愛的同一化の如く近接した立場にある彼らの関係性は、他人が口を出すと馬に蹴られて死んでしまう、究極的な「愛の形」に近似している。
BLについての記事にも書いたが、精神分析的な男女の基本的な恋愛の構造は、男性が女性を対象aとして求め、女性は対象aに近接したシニフィアン/Laから男性のΦを求める。このΦは男性にとっては抹消された主体のシニフィアンである。また女性は/Laからファリックマザー的な他者の場所に欠如したシニフィアンS(/A)を目指すこともできる。結果彼らの語らいはすれ違う。しかし、同一化に限りなく近づいた、同人作家とオタクたちの会話はすれ違わない。「同人作家」というオタクたちに欲望されるシニフィアンを彼らは自覚的に担って、「他者の享楽」に基づき分析家の如く語らっているからである。そうして彼らは究極的な「愛の形」に似た「袋小路」に入り込んでしまった。この「袋小路」が、オタク文化そのものである。そしてその語らいの結果、排泄的に産出されるものは、「同人作家とオタクが同一化した」主体の「死した自己」であるΦであり、即ちそれはオタク向け作品である。だからオタク向け作品を分析することは、オタクたちそのものを分析することになるのだ。
同一化(に限りなく近接)した彼らの主体同士に、「語らい」はもはや不要である。何せ同一化しているのだから。ツーと言えばカー、または阿吽の呼吸である。「語らい」があっても、それに使用される言語は、彼らにとって誤解のないものである。言葉はシンボル=象徴であり、多義性があるものだが、彼らはその言葉をどういう意味で述べたのかお互いにすぐ理解できる。また、その語らいは第三者に理解される必要もない。第三者が精神分析における会話を聞いて、どの言葉が患者の無意識が表出したものであったかとか、「一の線」であったかとか、Φを産出させるきっかけとなったかとかは理解できない。袋小路に入ってしまった精神分析における会話は、「ツー」と「カー」になるのである。
前の記事に書いた生の欲動のベクトルを再掲する。
/S→S1=Φ→S2=A→対象a
連鎖するS2という大文字の他者を掴み続けることが生の欲動である。連鎖するS2は超自我を形成しており、また/S◇aで表せる幻想◇の構造となっている。
/Sと対象aが同一化するということは、S2を掴み続けることの終焉を意味する。機能停止である。これは「死」と同値である。そういった意味では「死」の境界とも言える、同一化に限りなく近接した=袋小路に入った「分析家の語らい」に、S2が不要であることがこのベクトルからもわかるだろう。相手を対象aだと錯覚させる幻想が必要ないのだから。
近接している度合いは「死」の境界と呼べるほど大仰なものではないだろうが、同人作家とオタクの関係性もこの関係性に類似していると言えよう。即ち、ツーカーである同人作家とオタクたちの間で交わされる言葉は、多くを必要とされない。S2が連鎖することで形成された迷路は、とても単純な構造をしているだろう。これは超自我と幻想の単純化、萎縮を意味する。
前の記事でオタク文化の作法が超自我になることで、対象aの引力が強まるということを書いたが、オタク文化が生み出す超自我は萎縮しているものであり、それによる抑圧は強いものではないのかもしれない。なので、超自我が逆説的に幻想の構造を豊かにしてしまう、即ち対象aへの経路が増えるという意味でその引力が強くなることで、結果オタク文化は90年代のスキゾ的な傾向からパラノ的傾向に変わった、という因果関係は弱くなるだろう。オタク文化作法による超自我は萎縮的なのだから。パラノ的人格の人口比率が上がったことがパラノ化の主たる理由になる。また、ハイ・コンテクスト的な超自我やシニフィアンとの戯れにより、ボロメオの輪が解体しそうになっていて、それを防衛するために(サントームを形成するために)表現者側に回るのではなく、オタクたちは対象aの引力に素直に導かれて、表現者側に回ろうとしていることになる。今のオタクが、オタク文化作法というスキゾ的仮面を被ってはいるものの、その本質はパラノ的人格であるという仮説を採用するなら、この説明の方がしっくりくる。今更だがここで訂正しておきたい。
問題は幻想である。
宗教の教えや、学問的営為の排泄物により複雑化されたS2の迷路。その迷路が複雑であればあるほど幻想は豊かなものとなる。オタク文化においては、同人作家とオタクたちが、「分析家の語らい」的にその表現作品の需給を行っている。その語らいは第三者から見れば「ツーカー」的に見えてしまう。また阿吽の呼吸により言葉少なくて済むのと同様に、その作品の構造は単純で済むだろう。その文化のシステムの精神的影響を考えると、オタク作品は「ツーカー」的で単純な作品になってしまうのだ。これが、オタク文化を表現文化と捉えた場合、その全体的傾向として私が批判している、「記号のサイン化傾向」を形成する精神的構造である。一義的な記号が「サイン」であり、多義性のある記号が「シンボル」=「象徴」である。
彼らの語らいで使用される言葉は「ツーカー」であるが故、多義性が必要とされない。多義性があっても阿吽の呼吸で意味が特定される。一義化されるのだ。彼らの語らいは、サイン的なのである。言語がサインとして扱われているならば、比喩的な連鎖は起こりにくい。道路標識を文章的にいくら並べても、比喩を表現できないし、そこに文脈や行間が立ち現れない。そこに言語がいくらあっても、それがサインであるならば、「象徴」界を構成する他者たりえない、即ちS2たりえないのだ。
同人作家とオタクたちは、記号のサイン化という方法でその語らいを圧縮している。超自我が萎縮していると同時に、/Sと対象aの間に存在する幻想も貧困化している。その語らいの結果生まれたΦである表現作品も、当然の如くサイン的な、単純なシニフィアンしか纏わりついてこないだろう。表現作品としては貧困なものになるわけだ。個人的な印象ではあるが、オタク的な表現作品を享受するオタクたちという構図が、あたかもブロイラーのように一列に並んでオナニーしたり、「エモエモ泣いている」イメージを想起させるのはそのためである。彼ら専用に配合された剥き身のようなΦを暗喩する作品を、オタクたちは喜んで、それこそブロイラーやパブロフの犬の如く「動物的に」消費しているのである。
オタクたちが、その内閉性気質故に作り上げることが可能となった自給自足的な閉じたバイオスフィア。それがオタク文化である。そしてその閉鎖性が、オタク文化の表現作品を、貧困化させているのだ。
過去多くの芸術家たちが、ユートピアを批判したのは、こういった状況を予測していたからなのかもしれない。閉鎖された共同体内部では、幻想、即ち芸術は貧困化してしまうのだ。予測できない、理解できない他者が介入してきて、そこに悲劇的な出来事や誤解が生じるこそ、芸術文化は豊かになるのである。
私は、ラカン論はポストモダンの文化を分析するのにとても適した理論だと思う。まあポストモダンでの臨床に基づいて構築された理論だから当然といえば当然なのかもしれないが。
そんなラカン論を用いてオタク文化に言及するいろんなブログがある中、ある一つの記事を読んで、前の記事に関することで少し言及が足りなかった点があると気づいた。今回はその辺を少し考えてみたい。
オタク文化の特徴として、これまで触れても深く考慮してこなかった要素がある。それはコミックマーケットなどに代表される、同人誌という文化だ。
実はオタク文化において、この存在が重要な役割を担っている。この文化があるからこそ、オタク文化は他の、日本の若者文化であるヤンキー文化やサブカル文化とは一線を画している。そして、それの結果として、オタク文化は、部外者の私たちから見ると、まるでユートピアのように見えてしまうのだ。
私はオタク文化にそれほど染まっていない人間なので、同人誌文化はそんなに詳しくない。コミケは随分前に物見遊山で一度だけ行ったことがある。あとは知り合いのオタクのつてで新宿駅南口(だっけ?)のオタク同人誌専門店に行ったりとか、(BL系が主だったが)同人誌を読ませてもらったことがあるくらいだ。
なのでここでの同人誌文化は、これらの少しの実体験と、ネットで見聞きして補完した知識によるものという前提で読んで欲しい。とは言っても斎藤氏が自らをそう表現するように、私も「オタクのオタク」であると思う。それなりにオタクに関する知識はあるつもりだ。オタク文化の外側からの、オタク文化の作法やコンテクストに縛られていない、「オタクのオタク」という第三者的な視点からの指摘として読んで欲しい。
前の記事で、1990年代はともかく今のオタク文化におけるオタクたちの欲望は、マニアがするようなやり方の、フェティシスム的なものではないか、と分析した。もちろん例外もある。例えば声優オタクという欲望は、フェティッシュとしてのアニメキャラに満足できず、それをS2とみなし、次のS2であるアニメキャラの裏にいる声優に欲望の対象が置き換えられたものだ。これはとてもわかりやすい事例である。S2はΦの暗喩作用(せきたて)と、対象aという小文字の他者へ導かれる力を受けている。アニメキャラより声優という現実的女性の方が/Sと対象aに近接している。赤ん坊だった頃の自分と母親との関係の姿により近いからだ。このケースも「斜に構えなければならない」「象徴物とスキゾ的に戯れなければならない」というオタクの作法が超自我として作用=抑圧し、去勢を(一部)承認した結果、フェティシスムという「停止」した時間から動き出し、S2の連鎖が起きた一例かもしれない。
オタク文化はマニア的と前の記事に書いたが、それは90年代のスキゾ的オタクと比較してであり、今のオタク文化でも90年代的な「斜に構えた熱狂」に違和感のない人格も含まれよう。よって、オタク文化はフェティシスムの側面と、サントームを形成する素地となるスキゾ的側面と、声優オタクのようにアニメキャラとの同一化というフェティシスムに留まらない非倒錯的な側面、三つの側面の間で揺らいでいて、ハイ・コンテクスト的な複雑な超自我によって、対象aへの引力が強まりやすい、という場の力が働いている文化という仮説をここで立てる。
超自我が複雑化すれば/Sと対象aの間の幻想◇も複雑化する。欲望は際限なくS2を掴み続けることができる。となると、フェティシストではない去勢を承認した本来の意味での「大人」でも楽しめる幻想が構築可能だ。生の欲動の迂回路という本来の機能が成立するわけだ。フェティシストも生の欲動のベクトルの自由度が増えたわけだから、超自我の抑圧を、即ち去勢を承認する場が存在することになる。対象aの引力が元々弱いスキゾ的人格も、そのハイ・コンテクストの中でS2の垂直的な連鎖を繰り返し、サントームを形成できるだろう。何の問題もない、むしろ理想的な文化の発達過程である。
ここで、コミックマーケットなどに見られる、同人誌文化という要素が浮上する。
同人誌を作る側に回った、表現者としての彼ら。同人作家たちと呼ぶことにする。これは比喩的な、プロもアマも関係ないシニフィアンとして理解して欲しい。だからプロの例えばライトノベル作家でも、以下に述べるような精神性があるなら、「同人作家」と示されることとしたい。
まず彼らの集団的傾向を、一人の「想像的」人格と扱って簡単に分析していこう。
彼は、オタクたちが欲望する作品を生産する。オタクたちが生の欲動に従って掴むS2を生産するわけだ。オタクたちにとってみれば、欲望するアニメ的キャラを生み出す彼らこそ、対象aに近接している場所にいる他者である。だからオタクたちは表現者の側に回りたがる。この「表現者でありたい」という想像的同一化のベクトルは、フェティシスト的な「アニメキャラでありたい」というものと比べ、非倒錯的で「素直な」欲望の連鎖と言える。
「素直な」といったが、この「同人作家」への想像的同一化がフェティシスム的に短絡することだってある。現実的な人間=小文字の他者に対しフェティシスム的な短絡が起こるのは、想像界から象徴界への連絡口がある場合、つまりその小文字の他者がシニフィアンと密接な関係にある場合である。アイドルなど思い出せばわかりやすいだろう。アイドルに対してファンがパラノイア的な妄想を持ってしまうのは、対象が「アイドル」という大文字の他者の「要求」=Dなるシニフィアンを背負っているからである。ここで対象aがDに置き換わって、/S◇Dという幻想の様式となる。オタク文化の場合だと、「同人作家」というシニフィアンだ。ここを通じて短絡的な想像的同一化をしてしまったのが、以前の記事に書いた「押しかけ厨」と呼ばれる人たちだ。想像的同一化は想像界の内的動力が強いと起こりやすい。「押しかけ厨」やアイドルの追っかけのように、妄想的な熱狂を注ぐのは女性が多いが、女性は男性と比べその内的動力が「想像界>象徴界」だからである。男性は去勢というイニシエーションにより象徴界に参入するので、自動的に象徴界の内的動力が強くなるのだ。私のオタク二分論(記事1、記事2、記事3)をあてはまるなら、女性はパラノ的で男性はスキゾ的、と言えよう。
話がそれた。ともかく、「押しかけ厨」などといった存在が、同人作家がオタクたちにとって同一化の対象になりえることを示している、という話だ。
彼、同人作家たちは、オタクたちが自分の作品を欲望していることを知っている。彼は「同人作家」という、オタクたちにとっての対象aに近接したシニフィアンを自らに負わせている。また同時に、彼自身もオタクであろう。彼が作品を生み出す行為は、対象a→S1=Φという、死の欲動のベクトルを向いている。即ち、彼の表現行為は「他者の享楽」によるものである。「他者の享楽」とは「受動的」で、「滅私」「献身」「奉仕」という印象を持たせるものである。この印象はまさに同人作家たちに当てはまらないだろうか。
また、死の欲動は超自我であるS2の構造を無化させるベクトルである。人類の長い歴史のスパンで見れば、例えば学問がこの役割を担っていたと言えよう。先に書いた仮説には、死の欲動のベクトルが存在しない。フェティシスムがあるが、それは無化というより「停止」的な倒錯である。文化というものは新陳代謝を行っていかなければ長くは持たない。そういった意味で「死の遺伝子」的な役割として、この表現行為が重要になってくるだろう。オタキングが「プチクリ」を提唱したのも、こういったバランス論的なものを求めたからではないだろうか。
「同人作家が対象a? 欲望の原因? そんな馬鹿な」と思われるかもしれない。「同人作家」というシニフィアンの仮設定がいけないのかもしれないが、オタク文化の外にいる人間がつけたセンスのない名づけだと思って大目に見て欲しい。繰り返すがこれはプロアマ関係なく、オタク文化に属していて、自らの作品がオタクたちの欲望の対象としてあることを自覚していて、そのオタクたちのために作品を作っている「オタク文化における表現者」というニュアンスの、漠然とした対象を指す名詞である。
また、前の記事に書いたアニメキャラを対象aと見做すこととこの論を並存させるために、映画『マトリックス』的な比喩を用いて説明しよう。
アニメキャラを愛するオタクたちは、アニメキャラと同じ虚構の世界=仮想現実を生きている。この仮想現実ではアニメキャラへの愛情はフェティシスムのそれではなく、彼女を対象a(に近いもの)と見做していても何ら問題はない。それは生の欲動的という意味で健全な愛の形と言える。映画と違うのは、オタクたちはそれが虚構の世界だと知っている。オタクたち一人一人がネオでありトリニティである。もちろん作られた仮想現実だと知りつつ、その世界を望む者も映画の中ではいた。彼は現実界的な、辛く悲劇的な本当の「生」の場所である現実世界から逃避したのだ。彼は死の欲動に従い、あるいはフェティシスム的に、作られた仮想現実を生きることを選択した。
オタクである彼は、誰かに作られたアニメキャラという虚構の人間を愛する。彼にとって彼女は対象aに近接した場所にいる女性だ。しかし、彼はアニメキャラの彼女が「作られたもの」であることを知っている。彼は生の欲動に従って、本当の愛を得るために、そのアニメキャラの裏にある対象a、即ち現実世界で養殖されている彼女と会いたくなる。あるいは、現実世界だろうが仮想現実であろうが、対象aである彼女と本当の同一化をせんがため、この世界を創造している支配者に会おうとする。現実世界で養殖されている現実的な彼女であり、仮想現実の支配者であるのが、オタク文化における「同人作家」である。「押しかけ厨」はこのような、彼女にとっては正当な生の欲動に従って、ネオがそうしたように、同人作家の家に押しかけるのだ。それについての記事にも書いたが、ラカンが「パラノイアは人格そのものである」というようなことを言ったのは、至極まともなことであるのがわかるだろう。
ともかく、以上のような構図から、オタク文化において対象a的なものとは、「同人作家」であると言えるわけだ。
もちろん、同人作家や表現者を目指していないオタクたちも多数いるだろう。しかしそういうオタクでも、潜在的にオタク作品の表現者を対象a的な分析家の如く見做していることもありうるし、そうでない本当の意味で同人作家を目指していないオタクもいると思う。ここでいう「オタク」は、「同人作家」と同様に、「オタク」を一人の想像的な他者として仮設した対象として捉え、その精神的な傾向を分析しているものとして考えて欲しい。
さて、オタク文化は同人誌文化という死の欲動的ベクトルを導入したことで、文化の構造としては申し分のない体裁を整えたかのように見える。個人的な感想を言わせてもらえば、私はオタク文化というよりサブカル文化の出であり、そういった文化が、文化として形が形成されるにつれ、生の欲動的な外部への潜在的ベクトルと、死の欲動的な内部の自己満足的ベクトルで自滅していった姿を目の当たりにしてきた。それらと比較すると、表現文化としては非常に合理的かつ健全な発達を遂げた文化であると言わざるを得ない。
同人作家は死の欲動を基にした「他者の享楽」としてオタク向けの作品を生産する。オタクたちがどういったものに萌えて性欲を覚えるかを、分析して作品を作り上げる。彼ら自身オタクなのだから、そういった分析はお手の物だろう。
表現者としての同人作家と、受取手としてのオタク。彼らの間には、会話が存在している。それは直接的な会話でなくてもいい。匿名掲示板やネットでの会話でもいいし、アニメや漫画の雑誌を介したものでもいい。時にはそれは金銭の数字という味気ないものであったりもするだろう。ともかく、彼らはコミュニケーションが取れている。これを「語らい」と見たとき、面白い構図が浮かび上がる。
同人作家たちは、オタクが自分たちの作品を欲望していることを知っていて、それに適うような作品を生産する。これは先程も書いたように対象a(に近接した場所)→/Sというベクトルだ。このベクトルの語らいを、ラカン論では「精神分析家の語らい」と呼ぶ。そう、同人作家たちはオタクたちにっての精神分析家である、という比喩が可能なのだ。同人作家たちは、オタク文化のコンテクストに関する知S2をもって、オタクたちを精神分析するように、オタクたち向けの作品を作っているのだ。その作品は、オタクたちにとっての知の中心ともいうべきS1を暗喩するものとなるだろう。即ちオタクたちにとってのファルスΦだ。だからオタク向け同人誌は、オタクたちの全能感を満たすような、「ファルス的享楽」が大きなウエイトを占める作品が多くなるのである。
この「分析家の語らい」によって、受動者の主体/Sから生み出されるS1=Φは、排泄物のようなものだ。事実精神分析において、分析そのものが患者の夢で「トイレ」に換喩されて表れることが多い。また、糞便は「死した自己」を象徴する。Φは象徴界から抹消された=殺害された主体のシニフィアンであるので、Φが「糞便」で象徴されるのは辻褄があう。こういったことから、「同人作家」という精神分析家がオタクを分析して生み出したその作品は、排泄物である、と言える。前の記事で書いた「嘔吐や下痢」という言葉が決して批判ではないことがわかってもらえるだろうか。
また、精神分析の診察室は患者の夢の中で教会や手品ショーの会場として表象されることも多い。これは超自然的な不思議なことが起こる場所であり、この時分析家は患者にとって手品師であり、超自然的な現象を支配する者として見做されている。同人作家はその作品の中で虚構の世界を作り上げる超自然的な支配者でもある。私の経験談になるが、ライトノベル作家を目指す方たちに「何故小説を書くのか」という質問をすると、揃って答えるのが「自分だけの(虚構の)世界を作りたいから」という理由である。彼の言う「自分だけの世界」とはオタク文化のコンテクストに依存した虚構の世界だ。つまり、同人作家が作り続けている世界を再生産したがっている、ということである。これはまさに超自然的な支配者=精神分析家=同人作家という対象aへの同一化に向かっていることを示す事例である。
この、互いに補完するような関係において、「語らい」が例えば肉体的苦痛を与えるという現実的行為になると、マゾヒストとサディストの関係になる。彼らはお互いがお互いの対象aである立場から欲望する。お互いにお互いが求めているシニフィアンになろうとして、その行為の中でシニフィアンの衣を脱ぎ捨てる。対象aから死の欲動のベクトルに従い/Sに辿り着く。/Sの斜線が解かれ、生身の主体=エスが、「他者として」そこに立ち現れる。斜線が解かれるということは、欠如が補填されるということだ。主体はこの時「他者の享楽」の道具になっている。オタク文化においては、表現者の同人作家と受取手のオタクたちが近接することが、斜線が解かれた主体に近づくことになる。彼らは、いやオタク文化は、「欠如を埋めたい」という人間の根源的欲望に従って、理想自我と自我理想を近接させるように、表現者と受取手を近接させていくのである。受取手であるオタクが、比較的簡単に表現者の側に回ることが可能な文化なのだ。
同人作家はオタクたちを精神分析して、作品という形の「語らい」をする。分析されたオタクたちから生まれるのはオタクたちのΦである。
表現者である同人作家と受取手のオタクたちは、互いの補完関係をより完璧なものにするため、お互いの立ち位置を近接させてゆく。これは、同人作家が、自らがオタクたちに欲望されているのを知っていて、欲望される立場からオタクたちを分析している=作品を作っているから可能になる運動だ。これは他の表現文化ではあまり見られない構図である。そもそも表現者は受取手に特定の人物を想定して作品を作らない。絵画などでは「依頼」という形があるが、画家は依頼者の向こう側に不特定多数の受取手を想定している。確かにルイス・キャロルのような事例もある。彼の作品は受取手に特定の人物を想定している。しかし彼はアリスのために書いた自分の作品を、出版用に書き直し、少女と仲良くなるために少女の両親にプレゼントしたりしていた。
表現者が「滅私」「献身」「奉仕」する対象は、特定の人物の裏にいる対象aであったり、ファルスΦであったり、「父の名」であったりする。オタク文化のように、特定の個人ではないにしろ具体的、想像的対象を想定することは少ない。ミステリーなど特定のジャンルの読者を対象とすることはあるが、ミステリー作家は「ミステリーの読者」という具体的な想像的対象に「献身」しているわけではない。これは芸術の本質でもある普遍性というものに関わることだからだ。芸術家は究極の受取手として、普遍的な「誰か」を想定する。普遍的であるが故、想定する対象は全人類的な、一般的なものとなり、特定の個人や特徴ある集団の分析は意味がなくなる。この芸術家にとってのエゴともいうべきファルス的、対象a的、「父の名」的な欲望が、表現作品に普遍性を帯びさせるのだ。この欲望が同人作家には、ない。何故なら、彼ら自身が対象aの傍にいるため、彼らは自らを対象aとして見てくれている主体を目指せばいいのだ。それで欠如は補填されてしまう。オタクたちは「芸術」という言葉を毛嫌いする。これも私の体験談になるが、例えばライトノベル作家を目指す者たちは「芸術」や「文芸」という言葉に対しアレルギー的拒否反応を示す。これは、オタク文化をユートピア的たらしめている同人作家との「分析家の語らい」を、阻害されてしまう恐れからきているとも言えるのではないか。
また、もう少し具体的な話をするなら、コミケ市場においては莫大な金銭が流動している。金銭は対象aを直接的に暗喩する。とはいえ例えばネットトレーダーのように、金銭の数字の大小がファルス的享楽に直結しているとは思わないが、同人作家は自らにとっての対象a的な欲望を、金銭において代理させていることも十分に考えられる。
ともあれ、この表現者としての同人作家と受取手としてのオタクたちの対象a的な「分析家の語らい」とも呼べる関係性が、オタク文化の外から見た人間たちが持つ、オタク文化のユートピア的な印象の主な原因であろう。オタク文化は、自給自足的なバイオスフィアとも言うべき共同体なのである。オタク文化が内閉的な印象を持たせるのは、こういった理由もあるのかもしれない。いや、むしろ(マニアから派生した)スキゾ的な人格とスキゾ的な文化作法が、内閉していてもその内で完結できるこの文化様式をシステム化したのではないか。
精神分析において、患者は対象aであろうとする分析家へ、その指示通りに欲望を転移させる。それはしばしば恋愛的な感情となる。実際ユングは患者の女性と恋愛関係を結んだことだってある。フロイトはこれを「転移性恋愛」と呼んだ。分析という行為が恋愛感情を引き起こしているのだから「本当の恋愛」ではない、とも言えるが、精神分析理論ではこの時の恋愛感情は「本当の恋愛」と構造的な違いはない。だから精神分析家は転移に対して慎重であらなければならない。この転移が「分析家の語らい」による精神分析を可能する反面、医療的な精神分析を難しくしているのである。また、この「転移性恋愛」は分析家だけのものでもない。例えば精神科医の林公一氏が言う「お助けおじさん」も、自らを対象aに近接させる「分析家の語らい」的に、一人の女性のいろいろな相談に乗っているうち、その欲望が転移された一例であろう。
恋愛感情に限らず、分析家が患者からΦを産出させる、Φを殺害するという行為が、治療という目的から外れ、二人が恋愛的「同一化」してしまいその関係性の内に閉鎖され、袋小路に入り込んでしまうことがある。
オタク文化において、同人作家という表現者とオタクたちという受取手は、この袋小路に入り込んでいると言えよう。恋愛的同一化の如く近接した立場にある彼らの関係性は、他人が口を出すと馬に蹴られて死んでしまう、究極的な「愛の形」に近似している。
BLについての記事にも書いたが、精神分析的な男女の基本的な恋愛の構造は、男性が女性を対象aとして求め、女性は対象aに近接したシニフィアン/Laから男性のΦを求める。このΦは男性にとっては抹消された主体のシニフィアンである。また女性は/Laからファリックマザー的な他者の場所に欠如したシニフィアンS(/A)を目指すこともできる。結果彼らの語らいはすれ違う。しかし、同一化に限りなく近づいた、同人作家とオタクたちの会話はすれ違わない。「同人作家」というオタクたちに欲望されるシニフィアンを彼らは自覚的に担って、「他者の享楽」に基づき分析家の如く語らっているからである。そうして彼らは究極的な「愛の形」に似た「袋小路」に入り込んでしまった。この「袋小路」が、オタク文化そのものである。そしてその語らいの結果、排泄的に産出されるものは、「同人作家とオタクが同一化した」主体の「死した自己」であるΦであり、即ちそれはオタク向け作品である。だからオタク向け作品を分析することは、オタクたちそのものを分析することになるのだ。
同一化(に限りなく近接)した彼らの主体同士に、「語らい」はもはや不要である。何せ同一化しているのだから。ツーと言えばカー、または阿吽の呼吸である。「語らい」があっても、それに使用される言語は、彼らにとって誤解のないものである。言葉はシンボル=象徴であり、多義性があるものだが、彼らはその言葉をどういう意味で述べたのかお互いにすぐ理解できる。また、その語らいは第三者に理解される必要もない。第三者が精神分析における会話を聞いて、どの言葉が患者の無意識が表出したものであったかとか、「一の線」であったかとか、Φを産出させるきっかけとなったかとかは理解できない。袋小路に入ってしまった精神分析における会話は、「ツー」と「カー」になるのである。
前の記事に書いた生の欲動のベクトルを再掲する。
/S→S1=Φ→S2=A→対象a
連鎖するS2という大文字の他者を掴み続けることが生の欲動である。連鎖するS2は超自我を形成しており、また/S◇aで表せる幻想◇の構造となっている。
/Sと対象aが同一化するということは、S2を掴み続けることの終焉を意味する。機能停止である。これは「死」と同値である。そういった意味では「死」の境界とも言える、同一化に限りなく近接した=袋小路に入った「分析家の語らい」に、S2が不要であることがこのベクトルからもわかるだろう。相手を対象aだと錯覚させる幻想が必要ないのだから。
近接している度合いは「死」の境界と呼べるほど大仰なものではないだろうが、同人作家とオタクの関係性もこの関係性に類似していると言えよう。即ち、ツーカーである同人作家とオタクたちの間で交わされる言葉は、多くを必要とされない。S2が連鎖することで形成された迷路は、とても単純な構造をしているだろう。これは超自我と幻想の単純化、萎縮を意味する。
前の記事でオタク文化の作法が超自我になることで、対象aの引力が強まるということを書いたが、オタク文化が生み出す超自我は萎縮しているものであり、それによる抑圧は強いものではないのかもしれない。なので、超自我が逆説的に幻想の構造を豊かにしてしまう、即ち対象aへの経路が増えるという意味でその引力が強くなることで、結果オタク文化は90年代のスキゾ的な傾向からパラノ的傾向に変わった、という因果関係は弱くなるだろう。オタク文化作法による超自我は萎縮的なのだから。パラノ的人格の人口比率が上がったことがパラノ化の主たる理由になる。また、ハイ・コンテクスト的な超自我やシニフィアンとの戯れにより、ボロメオの輪が解体しそうになっていて、それを防衛するために(サントームを形成するために)表現者側に回るのではなく、オタクたちは対象aの引力に素直に導かれて、表現者側に回ろうとしていることになる。今のオタクが、オタク文化作法というスキゾ的仮面を被ってはいるものの、その本質はパラノ的人格であるという仮説を採用するなら、この説明の方がしっくりくる。今更だがここで訂正しておきたい。
問題は幻想である。
宗教の教えや、学問的営為の排泄物により複雑化されたS2の迷路。その迷路が複雑であればあるほど幻想は豊かなものとなる。オタク文化においては、同人作家とオタクたちが、「分析家の語らい」的にその表現作品の需給を行っている。その語らいは第三者から見れば「ツーカー」的に見えてしまう。また阿吽の呼吸により言葉少なくて済むのと同様に、その作品の構造は単純で済むだろう。その文化のシステムの精神的影響を考えると、オタク作品は「ツーカー」的で単純な作品になってしまうのだ。これが、オタク文化を表現文化と捉えた場合、その全体的傾向として私が批判している、「記号のサイン化傾向」を形成する精神的構造である。一義的な記号が「サイン」であり、多義性のある記号が「シンボル」=「象徴」である。
彼らの語らいで使用される言葉は「ツーカー」であるが故、多義性が必要とされない。多義性があっても阿吽の呼吸で意味が特定される。一義化されるのだ。彼らの語らいは、サイン的なのである。言語がサインとして扱われているならば、比喩的な連鎖は起こりにくい。道路標識を文章的にいくら並べても、比喩を表現できないし、そこに文脈や行間が立ち現れない。そこに言語がいくらあっても、それがサインであるならば、「象徴」界を構成する他者たりえない、即ちS2たりえないのだ。
同人作家とオタクたちは、記号のサイン化という方法でその語らいを圧縮している。超自我が萎縮していると同時に、/Sと対象aの間に存在する幻想も貧困化している。その語らいの結果生まれたΦである表現作品も、当然の如くサイン的な、単純なシニフィアンしか纏わりついてこないだろう。表現作品としては貧困なものになるわけだ。個人的な印象ではあるが、オタク的な表現作品を享受するオタクたちという構図が、あたかもブロイラーのように一列に並んでオナニーしたり、「エモエモ泣いている」イメージを想起させるのはそのためである。彼ら専用に配合された剥き身のようなΦを暗喩する作品を、オタクたちは喜んで、それこそブロイラーやパブロフの犬の如く「動物的に」消費しているのである。
オタクたちが、その内閉性気質故に作り上げることが可能となった自給自足的な閉じたバイオスフィア。それがオタク文化である。そしてその閉鎖性が、オタク文化の表現作品を、貧困化させているのだ。
過去多くの芸術家たちが、ユートピアを批判したのは、こういった状況を予測していたからなのかもしれない。閉鎖された共同体内部では、幻想、即ち芸術は貧困化してしまうのだ。予測できない、理解できない他者が介入してきて、そこに悲劇的な出来事や誤解が生じるこそ、芸術文化は豊かになるのである。