陸橋の城
2009/09/02/Wed
豪華な陸橋。あちこちにある。陸橋から陸橋が伸びている。そこからまた陸橋が伸びている。立体的な蜘蛛の巣のよう。遠目から見るとカニの吐く泡に見えるかもしれない、と思ったがそんなことはないだろう。だけどぶくぶくと盛り上がる泡の集合体というイメージはそれに近い。おそらくこの陸橋の集合体はいまだ盛り上がっているのだろう。
言葉尻を捉えることとは陸橋の入り口で転ぶかなんかして階段を昇れない状態だと思う。あちこちでそんな人がいる。当然だろう。リアルの陸橋でも階段を昇る人が多いのだろうが階段の下で立ち話をしている人がいてもおかしくない。しかし陸橋の集合体の下層の階段の下にいる人は数少ない。そりゃそうだ。昇るために陸橋はあるのだから。昇らなければこんな非効率的な道路を建造しても意味がない。だから人は陸橋に昇る。昇らない人は数少ない。
陸橋の上で人とすれ違う確率は、地面で人とすれ違う確率より高いだろう。なんせ道路なのだから。道路のない平野をうろちょろするより道路を歩いた方が人とすれ違う可能性が高い。しかし問題なのはそれが陸橋になっている点である。二次元ならば存在が許される面積が狭まるという簡単な理屈で人とすれ違う可能性が高くなるのは当然なのだが、これらは三次元構造をしている。もちろん平野より陸橋の総面積が多くなることはないと思われるが、限りなく平野の面積に近づいていくことだろう。三次元構造をしているが故に、平面上の道路より陸橋の上は人とすれ違う可能性が低くなっている。
三次元の陸橋の城に住む人々は、それが当たり前になっている。わたしもそうだ。だけどわたしは方向音痴だ。人が行かないような場所に行ってしまうこともある。
陸橋は下層に行くにつれ、豪華になっていた。過剰な装飾。上空の枝葉のように茂る陸橋のせいでやや暗くなっているので、お祭りやディスコのような雰囲気に似ている。ミラーボール。下層にいると陸橋の集合体はミラーボールのようなものだろうと推測してしまう。
しかしそうではない。上層に行くにつれ、陸橋はシンプルになっていく。建造の手間の問題もあるのだろう。たとえば高層ビルを建てる時、屋上に巨大なクレーンが設置されているのを見たことがある人もいるだろう。あれは最初小さなクレーンを設置して、大きなクレーンの部品を吊り上げて屋上で組み立てて、という工法を取っている。クレーンの大きさによれば、少し大きなクレーンの部品を吊り上げ組み立てて、それでさらに大きなクレーンの部品を吊り上げ組み立てて、などというようにこの工程を繰り返す場合もある。かのように上空での建築作業は平地よりはるかに手間がかかるのだ。
だから上層の陸橋はシンプルになっている。わかりやすい。機能美を追求しました、などというコピーがぴったりだ。
わたしの隣でオペラ歌手だかなんだかがアイーダを歌っている。うるさい。オペラ歌手は人ではなく楽器だ、と思ったことがある。欧米の本場オペラの日本公演にスタッフでついたことがあるが、すごかった。舞台袖にいたのだが、歌手が歌うと地面が揺れているような感覚を覚えた。腹の底に響く巨大な音、などという表現があるが、腹どころか地面なのだ。地震だ。オペラ歌手は音響兵器だ、なんてこれはただのユーモアです。でも足元が微細に揺れているような、吊り橋効果のような、奇妙な不安感を感じたのは事実だ。ヨーロッパだったと思うが、あるコンサートホールで、奈落を改修したら音響が全く変わってしまい、わざわざ元に戻したなんて話もある。音響で地面が揺れている、というわたしの主張はまんざら嘘でもなさそうだと思える。
こんなことがあるから上層の陸橋は無骨なのだろう。今ジェット・リーの『ブラック・ダイアモンド』を見ているのだがそこに出ている黒人が『Dr.HOUSE』で主人公と対立する病院オーナーの人でびっくりした。ビルの屋上に設置されるクレーンも機能優先である。そういうことである。上層部に行くほど考え方は資本主義的になる。資本主義という言葉がおかしいだろうか。商業主義。これも違う。データ主義、数字主義。データは無骨である。フィーリングが許されるなら商業主義ではなくビジネス主義。昔の商人は遠い距離を交易して利益を得た。しかし現代は距離が短くなっている。交易による利益は希薄になっている。陸橋が上層に行くほど無骨になっていくのはそれと同じことかもしれない。「愛している」「生理的に嫌い」「チョーイイカンジ」「キモイ」「楽しい」「悲しい」「嬉しい」「ムカツク」などといった言葉でさえ数値化されている。
なのでほとんどの人は上層にいない。中層にたむろっている。とはいえまんべんなく陸橋の城を探索すればあることに気づくだろう。下層の階段の下、つまり地面にはるかに近いところで階段を昇れない人間が、次の日上層の陸橋の上にいることに。
彼らは地面に降りられない。しかし、道路上という強制的に人とすれ違わなければならない場所を忌避し、下層か上層にいたがるのだろう。上層は先ほど述べたように、下層中層と比べ道路面積は格段と狭いが、それ以上に人が少ないため、人口密度が低い。中層は上層より道路面積は格段に広いが、それ以上に人が集まっている。人口密度が高い。上層より中層の方が人とすれ違う可能性が高いのだ。
そして、もっとも重要なことだが、最上層や最下層にいると、三次元構造をしている陸橋の城が、二次元に見えてしまうのだ。最下層は理解できる。先ほどわたしが述べたようなことだ。まだ足をつけたことのない城の最下部、地面において、城内の道路の総面積と比較するような考え方。地面があるからこそ城は立っている。
しかし最上層がよくわからない。最上層から地面の方を見下ろしていると、夜空を見上げているような感覚に陥る。あまりにも高く上りすぎたのか、重力という体感的な判断基準がなくなっている。無重力状態に近づいている。だから上下などない。視覚や聴覚に上下はない。そういうことだろうか。
いや、無重力状態でも上下を判別できないわけではない。それはあちこちに立っている柱を見ればわかる。この柱は地面から伸びている。従って道路が乗っかっている端部がある方が記号的に上となる。
従って、上層にいる人間はこの柱の周辺にいたがる。無重力状態でも上下を判別するために。中層でも下層に近い人間は、むしろ柱を遠巻きにしている感じがあるが、中層の上の方にいる人間ほど、柱に近寄っている。重力という体感的基準がなくなっているせいだろう。自分の体が浮いてしまう予兆に恐れて人は柱にすがりつく。いや実際にすがりついている人はあまりいないが。
城をくまなく探索したわたしから見れば、この城は平野という二次元を目指しているように思う。下層の絢爛豪華な陸橋を建造していた頃の気持ちを忘れてしまい、平野に住んでいた頃の、ネアンデルタール人だった頃の記憶を頼りに、三次元の城を二次元化させようとしている。本当の平野を知っている最下層の人間から見ればいい迷惑とも受け取られかねない。とはいえだからどうしろなどと言うつもりはない。わたしは他人などどうでもいいから。
わたしはただこの陸橋の城のレポートをしているだけである。
言葉尻を捉えることとは陸橋の入り口で転ぶかなんかして階段を昇れない状態だと思う。あちこちでそんな人がいる。当然だろう。リアルの陸橋でも階段を昇る人が多いのだろうが階段の下で立ち話をしている人がいてもおかしくない。しかし陸橋の集合体の下層の階段の下にいる人は数少ない。そりゃそうだ。昇るために陸橋はあるのだから。昇らなければこんな非効率的な道路を建造しても意味がない。だから人は陸橋に昇る。昇らない人は数少ない。
陸橋の上で人とすれ違う確率は、地面で人とすれ違う確率より高いだろう。なんせ道路なのだから。道路のない平野をうろちょろするより道路を歩いた方が人とすれ違う可能性が高い。しかし問題なのはそれが陸橋になっている点である。二次元ならば存在が許される面積が狭まるという簡単な理屈で人とすれ違う可能性が高くなるのは当然なのだが、これらは三次元構造をしている。もちろん平野より陸橋の総面積が多くなることはないと思われるが、限りなく平野の面積に近づいていくことだろう。三次元構造をしているが故に、平面上の道路より陸橋の上は人とすれ違う可能性が低くなっている。
三次元の陸橋の城に住む人々は、それが当たり前になっている。わたしもそうだ。だけどわたしは方向音痴だ。人が行かないような場所に行ってしまうこともある。
陸橋は下層に行くにつれ、豪華になっていた。過剰な装飾。上空の枝葉のように茂る陸橋のせいでやや暗くなっているので、お祭りやディスコのような雰囲気に似ている。ミラーボール。下層にいると陸橋の集合体はミラーボールのようなものだろうと推測してしまう。
しかしそうではない。上層に行くにつれ、陸橋はシンプルになっていく。建造の手間の問題もあるのだろう。たとえば高層ビルを建てる時、屋上に巨大なクレーンが設置されているのを見たことがある人もいるだろう。あれは最初小さなクレーンを設置して、大きなクレーンの部品を吊り上げて屋上で組み立てて、という工法を取っている。クレーンの大きさによれば、少し大きなクレーンの部品を吊り上げ組み立てて、それでさらに大きなクレーンの部品を吊り上げ組み立てて、などというようにこの工程を繰り返す場合もある。かのように上空での建築作業は平地よりはるかに手間がかかるのだ。
だから上層の陸橋はシンプルになっている。わかりやすい。機能美を追求しました、などというコピーがぴったりだ。
わたしの隣でオペラ歌手だかなんだかがアイーダを歌っている。うるさい。オペラ歌手は人ではなく楽器だ、と思ったことがある。欧米の本場オペラの日本公演にスタッフでついたことがあるが、すごかった。舞台袖にいたのだが、歌手が歌うと地面が揺れているような感覚を覚えた。腹の底に響く巨大な音、などという表現があるが、腹どころか地面なのだ。地震だ。オペラ歌手は音響兵器だ、なんてこれはただのユーモアです。でも足元が微細に揺れているような、吊り橋効果のような、奇妙な不安感を感じたのは事実だ。ヨーロッパだったと思うが、あるコンサートホールで、奈落を改修したら音響が全く変わってしまい、わざわざ元に戻したなんて話もある。音響で地面が揺れている、というわたしの主張はまんざら嘘でもなさそうだと思える。
こんなことがあるから上層の陸橋は無骨なのだろう。今ジェット・リーの『ブラック・ダイアモンド』を見ているのだがそこに出ている黒人が『Dr.HOUSE』で主人公と対立する病院オーナーの人でびっくりした。ビルの屋上に設置されるクレーンも機能優先である。そういうことである。上層部に行くほど考え方は資本主義的になる。資本主義という言葉がおかしいだろうか。商業主義。これも違う。データ主義、数字主義。データは無骨である。フィーリングが許されるなら商業主義ではなくビジネス主義。昔の商人は遠い距離を交易して利益を得た。しかし現代は距離が短くなっている。交易による利益は希薄になっている。陸橋が上層に行くほど無骨になっていくのはそれと同じことかもしれない。「愛している」「生理的に嫌い」「チョーイイカンジ」「キモイ」「楽しい」「悲しい」「嬉しい」「ムカツク」などといった言葉でさえ数値化されている。
なのでほとんどの人は上層にいない。中層にたむろっている。とはいえまんべんなく陸橋の城を探索すればあることに気づくだろう。下層の階段の下、つまり地面にはるかに近いところで階段を昇れない人間が、次の日上層の陸橋の上にいることに。
彼らは地面に降りられない。しかし、道路上という強制的に人とすれ違わなければならない場所を忌避し、下層か上層にいたがるのだろう。上層は先ほど述べたように、下層中層と比べ道路面積は格段と狭いが、それ以上に人が少ないため、人口密度が低い。中層は上層より道路面積は格段に広いが、それ以上に人が集まっている。人口密度が高い。上層より中層の方が人とすれ違う可能性が高いのだ。
そして、もっとも重要なことだが、最上層や最下層にいると、三次元構造をしている陸橋の城が、二次元に見えてしまうのだ。最下層は理解できる。先ほどわたしが述べたようなことだ。まだ足をつけたことのない城の最下部、地面において、城内の道路の総面積と比較するような考え方。地面があるからこそ城は立っている。
しかし最上層がよくわからない。最上層から地面の方を見下ろしていると、夜空を見上げているような感覚に陥る。あまりにも高く上りすぎたのか、重力という体感的な判断基準がなくなっている。無重力状態に近づいている。だから上下などない。視覚や聴覚に上下はない。そういうことだろうか。
いや、無重力状態でも上下を判別できないわけではない。それはあちこちに立っている柱を見ればわかる。この柱は地面から伸びている。従って道路が乗っかっている端部がある方が記号的に上となる。
従って、上層にいる人間はこの柱の周辺にいたがる。無重力状態でも上下を判別するために。中層でも下層に近い人間は、むしろ柱を遠巻きにしている感じがあるが、中層の上の方にいる人間ほど、柱に近寄っている。重力という体感的基準がなくなっているせいだろう。自分の体が浮いてしまう予兆に恐れて人は柱にすがりつく。いや実際にすがりついている人はあまりいないが。
城をくまなく探索したわたしから見れば、この城は平野という二次元を目指しているように思う。下層の絢爛豪華な陸橋を建造していた頃の気持ちを忘れてしまい、平野に住んでいた頃の、ネアンデルタール人だった頃の記憶を頼りに、三次元の城を二次元化させようとしている。本当の平野を知っている最下層の人間から見ればいい迷惑とも受け取られかねない。とはいえだからどうしろなどと言うつもりはない。わたしは他人などどうでもいいから。
わたしはただこの陸橋の城のレポートをしているだけである。