ほら
2009/09/07/Mon
人は地面の上に自分たち専用の地面を作りたがっている。おそらく人類が地球上に生まれた時からそうしているのだと思う。しかしそんなもの本当の地面に行き着くに決まっている。最終的には。文明というものはそうした本当の地面と自分たち専用の地面とがせめぎあった故の副産物なのだ。
副産物は副産物でいい。副産物を目的にするのもいい。目的になった副産物は副産物ではなくなり、その時の副産物が副産物になるからだ。部分の総体は全体以上である。この「部分の総体」引く「全体」が副産物だ。目的の位置に置かれた副産物は部分として「全体」に組み込まれる。
いかにもラカン論臭い。この副産物は普通に対象aであると言える。部分だが部分の総体たる全体になると組み込まれないもの。余剰物。
文明は本当の地面と自分たち専用の地面とがせめぎあって生じる余剰物であり、対象aである。人は対象aに到達不可能である。到達不可能なユートピア目指して文明は発展し続ける。到達不可能だから欲望には際限がない。際限がある欲望は精神分析学が定義する欲望とは言えない。それは欲求である。あるいは欲望を抑圧する規制に精神分析は注目する。
ネットゲームをしている夢。夢か日常かわからないような夢。ネットゲームの中でわたしが操作しているキャラクターは、パソコンでネットをしていた。キャラクターもネットゲームをしていて、そのキャラクターが操作するキャラクターもネットゲームをしていて……などという合わせ鏡的な発想は事後に浮かんだ。この時はそんなこと思わなかった。ネットゲームの中のわたしのキャラクターがパソコンで何をやっているかはわからなかった。
パソコンのモニターは洗濯機の蓋になっていて、開けると洗濯槽が見えた。底に汚らしい雑巾が落ちていた。こんなの洗っちゃだめじゃん、と拾い上げようとして、腐りかけた子犬の屍骸であることがわかる。どうしよう、と思う。手が汚れる。この手で洗濯物をつかんで放り込むわけだから、洗濯物はどうせ洗うんだから多少汚れてもいいので、つかんでもいいか、などと逡巡してしまう。それより、このままスイッチを押すとどうなるか、ということを考える。でも水が注ぎ込まれるので大しておもしろい結果にはならないだろう、と思う。そもそも洗濯機ではその過程が見えない。危険防止のため蓋を開けると自動的に止まる奴だから。
わたしはぼろぼろの服を着て歩いている。気がつくと街中で素っ裸になっている夢は以前よく見た。どういう意味だろうかと気になって調べたこともあるが忘れてしまった。「ふーん」くらいの反応だったのだろう。ともかく嫌なら脱ぎ捨てればよい、と思う。シャツの前を開けると黒い内臓がべろんと漏れてきた。腐っている、と思った。それほど柔らかかった。事後、『ナウシカ』の巨神兵みたいだ、と思ったがこの時はそう思わなかった。
パソコンのモニターがやけに大きい。畳一畳分くらいの面積がある。その上で犬だか猫だか狸だかが共食いしている。チャンネルを変える。パソコンじゃなくてテレビだったようだ。そこでわたしはパソコンをしている。部屋の中を盗撮されているみたいだ。この時そう思った。
仮の神、という言葉が浮かんだ。事後に神とは全て仮のものであると思ったが、その時はそう思った。
ぼろぼろの服をまとったわたしが連行されている。猥褻物陳列罪かなんかだろうか。それを他人事に見ている。ごうん、ごうん、と洗濯機の音がうるさい。細胞一つ一つがその音に反応しているようだ。いらいらする。体中の細胞が、分子が、それぞれ自分勝手にあちこちに飛散してしまいそうだ。
肉片をかき集めている。これを組み合わせても他人が思うわたしにならないだろう。でもわたしにとってわたしはそうでしかない。部分の総体が全体である。たまたまかき集めきれなかった肉片が全体以上と呼ばれるものだろう。わたしは床に落ちているそれを見ている。わたしには「部分の総体」引く「全体」が見えている。従ってそれを、わたしが思うわたしを、わたしは仮に「全体」と言っているだけである。かき集めきれなかったものまで言及しているときりがない。一生かけても伝えきれない。床にこびりついた血液などのことまで考えると現実的にそうなってしまう。
結局、人が、かき集めきれなかったものを最初からないものとして考えているだけじゃないだろうか。だから「部分の総体は全体以上である」となってしまうだけである。見えていないだけ。総体として加えるべきものを加えていないだけ。わたしにはそれが見える。「全体」と言うなら「これも組み込まなきゃいけなくない?」とおそるおそる親に聞いて、いつも叱られていた。そりゃそうだ。親にはそれが見えないんだから。親だけではない。他の人だってそうだ。他の人にはこれが見えない。見えているのに見えない。見えないふりをする。「そんなもの捨てなさい」。「見ちゃいけません」。最初からないものとしているため組み込まないだけなのに、見えているわたしにまで組み込まないことを、見えないふりを強制してくる。わたしを矯正しようとする。
そうだ。わたしはいつもこうだった。子供の頃からそうだった。
母親に、いまだに残っている子供の頃の恨みをぶつけたくなったが、しなかった。世話かけてるしね、現状。ビジネスライクな判断。
「違うだろ」違うでしょ「そうじゃないだろ」そうじゃないでしょ「なんでわかんないんだよ」そっちこそなんでよわかんないのがわかんない「お前おかしいよ」あなたがおかしいんじゃない「俺は正常だよその証拠に他の人たちは俺と同じことを言うよ」
……ほらそれ。
それよ。
結局逃げてるだけじゃん、あんた。
無頼きどるのもファッションとしてならまあいいんだけどさ、あんたって結局そうじゃん。いっつも最後は第三者に助けを求める。第三者の判断を基準にする。責任転嫁じゃん。全然無頼じゃないじゃん。
そうでしょ、それが証拠よ。
わたしはわたしに見られている。わたしを見ているわたしはわたし以外のものも見ている。本当の全体を。本当の地面を。
ほら、ね。
副産物は副産物でいい。副産物を目的にするのもいい。目的になった副産物は副産物ではなくなり、その時の副産物が副産物になるからだ。部分の総体は全体以上である。この「部分の総体」引く「全体」が副産物だ。目的の位置に置かれた副産物は部分として「全体」に組み込まれる。
いかにもラカン論臭い。この副産物は普通に対象aであると言える。部分だが部分の総体たる全体になると組み込まれないもの。余剰物。
文明は本当の地面と自分たち専用の地面とがせめぎあって生じる余剰物であり、対象aである。人は対象aに到達不可能である。到達不可能なユートピア目指して文明は発展し続ける。到達不可能だから欲望には際限がない。際限がある欲望は精神分析学が定義する欲望とは言えない。それは欲求である。あるいは欲望を抑圧する規制に精神分析は注目する。
ネットゲームをしている夢。夢か日常かわからないような夢。ネットゲームの中でわたしが操作しているキャラクターは、パソコンでネットをしていた。キャラクターもネットゲームをしていて、そのキャラクターが操作するキャラクターもネットゲームをしていて……などという合わせ鏡的な発想は事後に浮かんだ。この時はそんなこと思わなかった。ネットゲームの中のわたしのキャラクターがパソコンで何をやっているかはわからなかった。
パソコンのモニターは洗濯機の蓋になっていて、開けると洗濯槽が見えた。底に汚らしい雑巾が落ちていた。こんなの洗っちゃだめじゃん、と拾い上げようとして、腐りかけた子犬の屍骸であることがわかる。どうしよう、と思う。手が汚れる。この手で洗濯物をつかんで放り込むわけだから、洗濯物はどうせ洗うんだから多少汚れてもいいので、つかんでもいいか、などと逡巡してしまう。それより、このままスイッチを押すとどうなるか、ということを考える。でも水が注ぎ込まれるので大しておもしろい結果にはならないだろう、と思う。そもそも洗濯機ではその過程が見えない。危険防止のため蓋を開けると自動的に止まる奴だから。
わたしはぼろぼろの服を着て歩いている。気がつくと街中で素っ裸になっている夢は以前よく見た。どういう意味だろうかと気になって調べたこともあるが忘れてしまった。「ふーん」くらいの反応だったのだろう。ともかく嫌なら脱ぎ捨てればよい、と思う。シャツの前を開けると黒い内臓がべろんと漏れてきた。腐っている、と思った。それほど柔らかかった。事後、『ナウシカ』の巨神兵みたいだ、と思ったがこの時はそう思わなかった。
パソコンのモニターがやけに大きい。畳一畳分くらいの面積がある。その上で犬だか猫だか狸だかが共食いしている。チャンネルを変える。パソコンじゃなくてテレビだったようだ。そこでわたしはパソコンをしている。部屋の中を盗撮されているみたいだ。この時そう思った。
仮の神、という言葉が浮かんだ。事後に神とは全て仮のものであると思ったが、その時はそう思った。
ぼろぼろの服をまとったわたしが連行されている。猥褻物陳列罪かなんかだろうか。それを他人事に見ている。ごうん、ごうん、と洗濯機の音がうるさい。細胞一つ一つがその音に反応しているようだ。いらいらする。体中の細胞が、分子が、それぞれ自分勝手にあちこちに飛散してしまいそうだ。
肉片をかき集めている。これを組み合わせても他人が思うわたしにならないだろう。でもわたしにとってわたしはそうでしかない。部分の総体が全体である。たまたまかき集めきれなかった肉片が全体以上と呼ばれるものだろう。わたしは床に落ちているそれを見ている。わたしには「部分の総体」引く「全体」が見えている。従ってそれを、わたしが思うわたしを、わたしは仮に「全体」と言っているだけである。かき集めきれなかったものまで言及しているときりがない。一生かけても伝えきれない。床にこびりついた血液などのことまで考えると現実的にそうなってしまう。
結局、人が、かき集めきれなかったものを最初からないものとして考えているだけじゃないだろうか。だから「部分の総体は全体以上である」となってしまうだけである。見えていないだけ。総体として加えるべきものを加えていないだけ。わたしにはそれが見える。「全体」と言うなら「これも組み込まなきゃいけなくない?」とおそるおそる親に聞いて、いつも叱られていた。そりゃそうだ。親にはそれが見えないんだから。親だけではない。他の人だってそうだ。他の人にはこれが見えない。見えているのに見えない。見えないふりをする。「そんなもの捨てなさい」。「見ちゃいけません」。最初からないものとしているため組み込まないだけなのに、見えているわたしにまで組み込まないことを、見えないふりを強制してくる。わたしを矯正しようとする。
そうだ。わたしはいつもこうだった。子供の頃からそうだった。
母親に、いまだに残っている子供の頃の恨みをぶつけたくなったが、しなかった。世話かけてるしね、現状。ビジネスライクな判断。
「違うだろ」違うでしょ「そうじゃないだろ」そうじゃないでしょ「なんでわかんないんだよ」そっちこそなんでよわかんないのがわかんない「お前おかしいよ」あなたがおかしいんじゃない「俺は正常だよその証拠に他の人たちは俺と同じことを言うよ」
……ほらそれ。
それよ。
結局逃げてるだけじゃん、あんた。
無頼きどるのもファッションとしてならまあいいんだけどさ、あんたって結局そうじゃん。いっつも最後は第三者に助けを求める。第三者の判断を基準にする。責任転嫁じゃん。全然無頼じゃないじゃん。
そうでしょ、それが証拠よ。
わたしはわたしに見られている。わたしを見ているわたしはわたし以外のものも見ている。本当の全体を。本当の地面を。
ほら、ね。