人に興味を向けることに勇気がいる。
2009/09/19/Sat
お前が思っているほどみんなお前のことなんか気にしちゃないんだよ。
わたしが見たところほとんどの人間は自分がそうしたいことを「あなたがそう言うだろうから」「あなたがこうしたら嫌だろうから」「あなたがこうしてほしいだろうから」などという言い訳で他人のせいにしている。これは言い訳にすぎない。なぜなら他人がどう考えているかなんて他人にはわからないからだ。推測は可能だろう。しかしあくまで推測である。ほとんどの人間はそれが推測である、仮説である事実を棚上げにし、一種の確定的事項のようなものとして取り扱っている。「あなたはこう思っているはずだ」。彼らにとってはそれは真実なのである。
「お前はこう思ってるんだろ? いや思ってるに違いない」
人は子供の頃からこういったまるで将棋のような対人軍事戦略ゲームのような駆け引きに鍛えられる。一種の定石としてそれを取り扱う。これをもって対人関係を構築していくようになる。ほとんどの人間はこの定石を基本にコミュニケーションを執り行っている。自閉症研究で言うところの「心の理論」である。
たとえば将棋で定石が定石になっていない初心者と、定石を駆使し応用し高度な戦略を用いることができる上級者とが戦うと、大体初心者が負ける。とはいえ定石を定石と取り扱わない上級者が相手だと定石を駆使する上級者が負けることもある。定石を使えば勝てるとは限らない。定石は絶対ではない。
『人狼』というゲームがある。一時期入り浸っていたのだが、これにも定石がある。しかし定石を定石として素で使えない有名プレイヤーがいて、彼がいると波乱含みの展開になって面白い。
「わたしがこうしたいからあなたはそうしてるって言うけど、そうしたいのは本当はあなたでしょ?」
この言い方つまり「そうしたい」という言い方だと、あっさりラカン理論に当てはまる。「欲望とは他者の欲望である」である。しかしこれは欲望に限らない。人は常に行動の原理を他者に依拠している。したがっている。する傾向が強い。「そうしたいのは本当はあなた」ではなく「行動の原因は現実的にあなた内部の問題にすぎないのに、あなた内部の想像上のわたしをダシにして言い訳している」ということである。
ほとんどの人間のほとんどの言動は他者を根拠にしている。
これはいわば責任転嫁である。言動の原因はあくまでその当人内部の問題つまり当人の責任なのに「あなたがそう言うだろうから」「あなたがこうしたら嫌だろうから」「あなたがこうしてほしいだろうから」などという言い方で責任転嫁している。ほとんどの人間のほとんどの言動がそうである。
「それはあくまであなたの想像上のわたしよ? 当たり前すぎてわざわざ言わなかったけれど」
朝のスナックでピークを超えた水商売風のババアがうそぶく。
「化粧してる時と素顔の本音は違うの。両方本音だけど。化粧してる時ならあなたの想像上のわたしがわたしの本音。だから素顔は見ない方がいい、ってわけ」
見たいと言うなら別にいいけど、覚悟はしといてね。
このただの責任転嫁は人類という種に特徴的な傾向であると言える。この特徴的な、つまり特別な傾向を、特徴的で特別であることの言い逃れとして、「愛」や「思いやり」などという言葉で表現する。ただの特徴的な傾向を「愛」や「思いやり」という言葉で特化している。見方を変えればただの責任転嫁なのに。
「愛」や「思いやり」とは責任転嫁なのである。
少なくともわたしにとって。
人を見るのが怖い。あなたを見るのが怖い。だから見ないで。黙ってて。動かないで。存在しないで。
わたしは存在しないから、あなたも存在してはいけない。
わたしが見たところほとんどの人間は自分がそうしたいことを「あなたがそう言うだろうから」「あなたがこうしたら嫌だろうから」「あなたがこうしてほしいだろうから」などという言い訳で他人のせいにしている。これは言い訳にすぎない。なぜなら他人がどう考えているかなんて他人にはわからないからだ。推測は可能だろう。しかしあくまで推測である。ほとんどの人間はそれが推測である、仮説である事実を棚上げにし、一種の確定的事項のようなものとして取り扱っている。「あなたはこう思っているはずだ」。彼らにとってはそれは真実なのである。
「お前はこう思ってるんだろ? いや思ってるに違いない」
人は子供の頃からこういったまるで将棋のような対人軍事戦略ゲームのような駆け引きに鍛えられる。一種の定石としてそれを取り扱う。これをもって対人関係を構築していくようになる。ほとんどの人間はこの定石を基本にコミュニケーションを執り行っている。自閉症研究で言うところの「心の理論」である。
たとえば将棋で定石が定石になっていない初心者と、定石を駆使し応用し高度な戦略を用いることができる上級者とが戦うと、大体初心者が負ける。とはいえ定石を定石と取り扱わない上級者が相手だと定石を駆使する上級者が負けることもある。定石を使えば勝てるとは限らない。定石は絶対ではない。
『人狼』というゲームがある。一時期入り浸っていたのだが、これにも定石がある。しかし定石を定石として素で使えない有名プレイヤーがいて、彼がいると波乱含みの展開になって面白い。
「わたしがこうしたいからあなたはそうしてるって言うけど、そうしたいのは本当はあなたでしょ?」
この言い方つまり「そうしたい」という言い方だと、あっさりラカン理論に当てはまる。「欲望とは他者の欲望である」である。しかしこれは欲望に限らない。人は常に行動の原理を他者に依拠している。したがっている。する傾向が強い。「そうしたいのは本当はあなた」ではなく「行動の原因は現実的にあなた内部の問題にすぎないのに、あなた内部の想像上のわたしをダシにして言い訳している」ということである。
ほとんどの人間のほとんどの言動は他者を根拠にしている。
これはいわば責任転嫁である。言動の原因はあくまでその当人内部の問題つまり当人の責任なのに「あなたがそう言うだろうから」「あなたがこうしたら嫌だろうから」「あなたがこうしてほしいだろうから」などという言い方で責任転嫁している。ほとんどの人間のほとんどの言動がそうである。
「それはあくまであなたの想像上のわたしよ? 当たり前すぎてわざわざ言わなかったけれど」
朝のスナックでピークを超えた水商売風のババアがうそぶく。
「化粧してる時と素顔の本音は違うの。両方本音だけど。化粧してる時ならあなたの想像上のわたしがわたしの本音。だから素顔は見ない方がいい、ってわけ」
見たいと言うなら別にいいけど、覚悟はしといてね。
このただの責任転嫁は人類という種に特徴的な傾向であると言える。この特徴的な、つまり特別な傾向を、特徴的で特別であることの言い逃れとして、「愛」や「思いやり」などという言葉で表現する。ただの特徴的な傾向を「愛」や「思いやり」という言葉で特化している。見方を変えればただの責任転嫁なのに。
「愛」や「思いやり」とは責任転嫁なのである。
少なくともわたしにとって。
人を見るのが怖い。あなたを見るのが怖い。だから見ないで。黙ってて。動かないで。存在しないで。
わたしは存在しないから、あなたも存在してはいけない。