「個性」という矛盾
2009/09/20/Sun
結局さ、「生物学・解剖学的な個体差」と「人格としての個性」を混同しているだけじゃねえの?
いや混同しているのはいいんだ。混同しているのが事実なんだから。そうじゃなくて、「アスペルガー障害は個性だ」とか言う奴らの、「人格としての個性」をもってして「生物学・解剖学的な個体差」を征服(これはあくまでわたし言語であり、精神分析の文脈を引くなら「征服」の代わりに「抑圧」やら「隠喩としての隠蔽」などを当てはめてもいい)しようとしている態度が問題なんだよ。
「生物学・解剖学的な個体差」と「人格としての個性」は混同している。そりゃそうだ。脳の微細な個体差が「人格」の差異として表出する、っていうのはそうだろうなあって思える。それらは別物ではあるが切り離すことはできない。
「アスペルガー障害は個性だ」とか言う文章の行間にある、アスペルガー障害者にあたかも「そういった人格」を押しつけようとする態度が問題なんだろ。
「人格」という概念そのものが征服者なのだよ。ラカン論やってればわかるだろ。「人格とはパラノイアである」。
そもそも一人一人解剖学的に全く同一の人間なんて存在しない。上腕骨の形状が一ミリたがわず一致する他の人間などいない。いたとしてもどちらかがそこを骨折すれば快復後元の形状即ち誰かと同一の形状とは違った形状になる。器質因的にも環境因的にも「解剖学的に全く同一の人間など存在しない」というのはほぼ間違いない事実だ。
だけど少々の誤差には目を瞑って大体同じだから「同種」としようじゃないか、というのが生物学の基本的な考え方だろ。全体的な形状が大体同じだから「人間」という「種」を定義するわけだ。
この時の誤差にどう目を瞑るかが問題なんだよ。どの部分を誤差と見るか。「同種」と認定するために棄却する部分をどこに設定するか。
これが人間だったら大体同じになるのが「人格」のなせる業なんだよね。
だから「人格としての個性」なんてそもそも矛盾を含んでいるんだ。「人格」を持つことが一つの共通項なのに、その内側で「個性」を主張するのが矛盾している、ということ。これはあっさりエディプスコンプレックス(いや別に劣等コンプレックスだろうがカインコンプレックスだろうがなんでもいいが)の構造である。「人格としての個性」という一言にほとんどの人間が持つ同種の構造が含まれている。コンプレックスそのものを凝縮している、と大仰に言えばそうなる、って話。
そいつがどういう思考でそう言ってるか、の問題だろ。同じ言葉を使っても違う態度で言ってる場合もある。「アスペルガー障害は個性だ」と言っている奴がいたとしても、「生物学・解剖学的な個体差」と「人格としての個性」は事実として混同しているわけだから、「生物学・解剖学的な個体差」的な意味で「個性」と言っている場合もあるだろう。
そんな話。つまんね。
要するに、「生物学・解剖学的な個体差」をラカン的な意味で幻想化(非現実化、象徴化あるいは想像化)したものが「人格としての個性」であって、「人格としての個性」をもってして「生物学・解剖学的な個体差」を征服(抑圧・隠蔽)しようとしている態度で「アスペルガー障害は個性だ」と言う奴らは、幻想で現実を飲み込もうとしているわけだ。つまり彼らはパラノイアなんだよ。まあラカン論に当てはめるなら、そう言う奴らのほとんどは多分「父の名を排除」していないだろうから、精神病としてのパラノイアではなかろうが。そこでわたしは便利な概念を作っているだろ。「パラノイアックなBPD」って。これはラカン論における「神経症者」「去勢済みな主体」と同義だ。
まあ言っちゃあ彼らの方が正常人だってわけ。「生物学・解剖学的な個体差」という現実的なものを「人格としての個性」という幻想的な事象で飲み込もうとする方が正常なの。
「人格」を持った人間にとっての「正常」とはそういうことなんだ。
いや混同しているのはいいんだ。混同しているのが事実なんだから。そうじゃなくて、「アスペルガー障害は個性だ」とか言う奴らの、「人格としての個性」をもってして「生物学・解剖学的な個体差」を征服(これはあくまでわたし言語であり、精神分析の文脈を引くなら「征服」の代わりに「抑圧」やら「隠喩としての隠蔽」などを当てはめてもいい)しようとしている態度が問題なんだよ。
「生物学・解剖学的な個体差」と「人格としての個性」は混同している。そりゃそうだ。脳の微細な個体差が「人格」の差異として表出する、っていうのはそうだろうなあって思える。それらは別物ではあるが切り離すことはできない。
「アスペルガー障害は個性だ」とか言う文章の行間にある、アスペルガー障害者にあたかも「そういった人格」を押しつけようとする態度が問題なんだろ。
「人格」という概念そのものが征服者なのだよ。ラカン論やってればわかるだろ。「人格とはパラノイアである」。
そもそも一人一人解剖学的に全く同一の人間なんて存在しない。上腕骨の形状が一ミリたがわず一致する他の人間などいない。いたとしてもどちらかがそこを骨折すれば快復後元の形状即ち誰かと同一の形状とは違った形状になる。器質因的にも環境因的にも「解剖学的に全く同一の人間など存在しない」というのはほぼ間違いない事実だ。
だけど少々の誤差には目を瞑って大体同じだから「同種」としようじゃないか、というのが生物学の基本的な考え方だろ。全体的な形状が大体同じだから「人間」という「種」を定義するわけだ。
この時の誤差にどう目を瞑るかが問題なんだよ。どの部分を誤差と見るか。「同種」と認定するために棄却する部分をどこに設定するか。
これが人間だったら大体同じになるのが「人格」のなせる業なんだよね。
だから「人格としての個性」なんてそもそも矛盾を含んでいるんだ。「人格」を持つことが一つの共通項なのに、その内側で「個性」を主張するのが矛盾している、ということ。これはあっさりエディプスコンプレックス(いや別に劣等コンプレックスだろうがカインコンプレックスだろうがなんでもいいが)の構造である。「人格としての個性」という一言にほとんどの人間が持つ同種の構造が含まれている。コンプレックスそのものを凝縮している、と大仰に言えばそうなる、って話。
そいつがどういう思考でそう言ってるか、の問題だろ。同じ言葉を使っても違う態度で言ってる場合もある。「アスペルガー障害は個性だ」と言っている奴がいたとしても、「生物学・解剖学的な個体差」と「人格としての個性」は事実として混同しているわけだから、「生物学・解剖学的な個体差」的な意味で「個性」と言っている場合もあるだろう。
そんな話。つまんね。
要するに、「生物学・解剖学的な個体差」をラカン的な意味で幻想化(非現実化、象徴化あるいは想像化)したものが「人格としての個性」であって、「人格としての個性」をもってして「生物学・解剖学的な個体差」を征服(抑圧・隠蔽)しようとしている態度で「アスペルガー障害は個性だ」と言う奴らは、幻想で現実を飲み込もうとしているわけだ。つまり彼らはパラノイアなんだよ。まあラカン論に当てはめるなら、そう言う奴らのほとんどは多分「父の名を排除」していないだろうから、精神病としてのパラノイアではなかろうが。そこでわたしは便利な概念を作っているだろ。「パラノイアックなBPD」って。これはラカン論における「神経症者」「去勢済みな主体」と同義だ。
まあ言っちゃあ彼らの方が正常人だってわけ。「生物学・解剖学的な個体差」という現実的なものを「人格としての個性」という幻想的な事象で飲み込もうとする方が正常なの。
「人格」を持った人間にとっての「正常」とはそういうことなんだ。