他人の言っていることなんて全て妄想です。もちろんあなたにとってのわたしの言ってることも。
2009/09/22/Tue
夢の中に出てきた人物が日常の中に出てきたことがあった。「逆だろ、日常の中に住まう人間がお前の夢に出てきたんだろ?」と言われそうだが違う。夢で見ず知らずの人間と出会い、その人間とばったり日常で出会ったのだ。って書くとあれだね、「運命の出会い」とかそういうのになっちゃったりしそうだね。全然違うよ、気持ち的に。すげー気持ち悪かった。高校生の頃だった。だからはっきりと覚えているが、得体の知れない何かと出会ったような恐怖を覚えた。とはいえ驚きのようなものはなかった。当時を思い出してみると、そういったことはよくあったような感じが常に自分の中にあった。夢の中の事物が日常に漏れ出てくる感覚。子供の頃よく「将来の夢」とか書かされなかった? あの「夢」という単語の使い方に違和感があったはよく覚えているもん。要するに「自分の将来を想像しろ」という命令なのだろうけど、そう言ってくれれば普通に書けるのだけど、「夢」という単語を使っちゃうと、わたしはなんとも言えない薄気味悪さを感じてまともに書けなかった。ふざけたこと書いて先生に叱られた覚えがある。これは小学校の頃。マンガ雑誌を部屋いっぱいに溜めこむこと、みたいなこと書いたんだっけかな。もちろん「オタク」なんて概念がない時代の話よ。あれ、でもふざけて書いた記憶もないな。ふざけてはいないんだよね。わたしにとって将来というのはそういうものだったんだ。「学者になりたい」とか「歌手になりたい」とかそういう風なことを書けばいいんだ、と思って素でそういうことを書いた。あーでもウケ狙いなところはあったような気もする。授業で各々その作文を読み上げさせられたんだが、他の子たちは笑ってたもん。「夢」ってそういうことじゃない? わたしにとって日常的現実と夢はとても近い。マンガは日常と夢という薄気味悪いものからの防衛砦だった気がする。マンガだけじゃなかったけれど。アニメもちょこちょこ見てたけどのめりこむというまではなかった。絵とかは好きだったな。画家の名前なんか覚えてないけど、祖父の家にあった誰かの画集をよく見てたらしい。親も馬鹿だから「この子はもしかしたら将来画家になるかも」なんて思ったのか絵画教室に通わされたこともあったな。すぐやめたけど。こう、わたしの絵の描き方って変なんだよね。全体像を捉えてさっさと描くってことができなくて、一部分の色使いとかにやけにこだわって、他は真っ白なのにその部分だけもう紙がぐしゃぐしゃになったりする。これがトラウマになったのか知らないがそれっきり絵画なんてまったく興味を覚えないまま成長した。んで中学だっけかな、無理矢理授業で絵描かされるじゃん。あれ、小学校も描かされるよな。工作の方が好きだったけど。そういや動物の絵を描いて県のコンクールだかに入賞したことあるわ。課外授業って言うの? 動物園行って写生させられるの。夢中になって描いたような気はするけどあんまり気乗りしないまま描いた記憶もある。鳥の絵を描いたと思うんだが、鳥を紙の真ん中に配置して、癖の通りに鳥からぐじょぐじょ描いたんだけど、時間が足りなくなって背景とか描ききれなくて、木の枝とか檻の部分とか、そんなのがばらばらになったまま、背景っていうか描ききれなかった部分を黄色と赤で適当に塗り潰した。そんなのが入賞するんだ、と思った。まあそれきりだったけど。あーいろいろ思い出したわ。小学校じゃないと思うが、漁港に写生に行かされて、大体他の子がしているように停泊中の漁船を描いたんだが、船の窓のところにハンドルみたいなのついてね? 小型漁船って。そればっかり描いて全体描ききれなくて、描こうとしても全体のデッサンが歪んで、結局先生にさーっと描いてもらった。すげーと思ったよ。なんでこんなに素早く描けるんだと思った。そういった意味では書道の方が好きだったな。あれゆっくりでいいじゃん。ああ中学だか高校だかの時にも同じことやらかしたな。その時は幻想画(?)を描け、って授業で、わりと乗り気で描いたんだよな。んで、手のひらがあって、指が足や腕や煙みたいに消えてて、その上に人体(頭部なし)がマリモのように絡みあったマリモもどきが浮かんでいる、って絵を描こうとしたんだ。その頃は既にマンガイラストは描くようになっていたので、そこそこデッサン力はあったんだな。下書き、っていうか線画はわりと自分でもうまく描けてたと思う。先生もほめてたし。「これキモくていいじゃん」みたいな。あーそうだ。マリモの内部は空洞で目が浮かんでいる、みたいな設定で、絡みあった人体の隙間からそれがところどころ見えている、みたいなの描きたかったんだよな。細部が重要なんだよ、それを描くには。というわけでいつもの癖の通り細部をごちゃごちゃ塗り重ねていたんだよね。したらそれまで好意的に見ていた先生が突然機嫌悪くして、「なんでもうこうちゃっちゃと描かないの?」みたいなこと言って、勝手に色を塗り始めたんだよ。びっくらこいたわ。でもさすがは美術の先生、速かったねー。それにうまかったし。当然だけど。そりゃーあんたはその道のプロ(とは言えないだろうけど)だからそうさっさ描けるんだろうけどさあ、とも思ったんだけど、さっさと描いた方が全体のイメージがしっくり来るのよ。それはその時わかってたように思う。だって大体デッサンの時もそうじゃん、まるで職人のように素早く手を動かして描いているイメージがわたしにはある。なんかとんねるずの木梨がちょこまかとした絵ばっか描いてて、それが「味がある」って高評価になってて、「じゃあ(シャレで)パリの本職の画家と対決させようぜ」って番組があったんだよな。んで木梨はそこでも細サインペンみたいなので細部からちょこまかと描き始めたんだよ。風景画だったな。建物の時計台みたいなのの時計の部分から細部をちょこまかと描き始めた。対するパリの本職の画家は抽象画みたいな絵を描いた。そいつが描いているところはよく覚えてないけど。んで、判定はパリの本職の美術商だか一般市民だかにさせたんだけど、木梨勝っちゃったんだよね。本職の画家の人はショックだったろうな。でもああいう感じ。木梨みたいな絵の描き方してたんだよ、わたしゃ。んでなんの話だっけ、夢か。そうそう、夢と日常的現実はわたしにとってシャムの双生児のように繋がってるんだよ、という話でした。んでちらっと思ったのが、「自分は集団ストーカーされている」って症状は、わたしみたいな夢と現実が一部溶着しているとならないんじゃないか、ってこと。夢の中に被害妄想の根源たる「恐れ」みたいな「不安感」みたいなまあこう文字で表すと多分「違う」って言われるだろうからわざとジャーゴン使うとビオン論で言うところの「β要素と接触することで惹起される死の恐怖」があるわけなんだよね。そんで「集団ストーカーされている」って人は夢と現実がきっちり区別ついている、つけるという幻想を固定観念として刷り込まされているから、その「β要素と接触することで惹起される死の恐怖」を「集団ストーカーされている」って表現するんじゃないか、って思った。だって(ラカン論的な意味じゃないという意味でカギカッコをつけるが)「現実」的じゃん、「自分は集団ストーカーされている」って主張は。わたしがここで垂れ流してる、他人からしてみれば「ひどい妄想だ」とか言われそうな主張に比べたら。まあ彼らなりの正常の世界へのしがみつきなんだと思うよ。ラカン論で言えば幻想である「現実」へのしがみつき。ああこのブログで「日常的現実」って言葉をよく使うけど、これはラカン論的な意味じゃない一般の語用としての「現実」と同義だと思って。ラカン論で言う現実とは別物という意味でわたしは「日常的」って言葉を注釈してるわけ。そういうこった。つか他人から見れば他人の言っていることなんて全て妄想だろうが。だって自分じゃない人の言うことなんだから。もちろんわたしの言ってることもあなたから見れば妄想だよ。あなたが「この人の言っていることは事実だ」と思っている言葉ですら本当はあなたの方が勝手に「事実だ」と妄想しているだけでしょ、と言っているわけ。同じ体験をすればいいんじゃないかって? 馬鹿だねー。あなたの目や耳や舌や痛点などといった感覚器官はその人と全く同一のものではありえないっしょ? そもそもDNAが違うんだし、分子レベルで言えばもっと違うだろうね。まあ大体同じなのはそうなんだろうけど、大体同じであることは認めるけど、それによって感受された刺激群のアウトプットとしてのイメージや言語を「事実」とするのはおかしいんじゃないの? ってこと。「大体統計的に事実である可能性は非常に高い」とかって言い方ならまあ納得してあげなくはない。
「こだわり」って言葉が変化してるよな、最近。「こだわりのラーメン屋」とかおかしくね? 「こだわり」っていうのは「拘泥」みたいに基本いいことじゃないってイメージがある。文句をつけたりするのが「こだわり」であって、職人のような仕事をそう表現するのは少しおかしい気がする。と思って辞書をぱらぱら調べたんだが「こだわりのラーメン屋」でも別に間違いじゃあなさそうなんだよな。語義的に。辞書などでは書ききれない半流動的なところの問題か。なんかで例文をやけに多くした「こだわりの国語辞典」が刊行されたって話を昔聞いたことがある。そういうのは辞書的な語義の表現では描ききれない半流動的なところを示そうとしたんじゃないか、などという言い方なら理解してもらえるだろうか。「半流動的なところ」ってのがどんなのか。まあ結局斎藤環が拘泥する「文脈」って奴なんだろうけどね。
んで「こだわり」なのだが、たとえば「ADHDも何かに熱中しすぎる」って特徴がある。だけどわたしはADHDは去勢済みだと思うのだよね。自閉症は未去勢だから、わたしの論においてはそれらは確実に区別されなければならない。そもそも精神分析やってる人はそうしなきゃならない。「去勢」という概念が精神分析の一つの柱でもあるんだから。ADHDと自閉症を混同・同一視するような最近の風潮を受け入れたら、精神分析論の一つの立脚点が、論を構築する大きな柱の一つが立つ現実という土台が、「人類皆兄弟」のような精液、すなわち人間が人間のために自分に都合よく構築する傲慢な幻想に飲み込まれてしまうことになる。「分析」にならなくなる。現実をありのまま見つめる分析的視点が介入できなくなる。斎藤が言う「心理学化する社会」などという言い回しはそういうことだろうと思う。心理学全てがそうだというわけではないが、心理学が血液型占いのような形で(テレビでタレントみたいなことしてる心理学者もいるよな。やってることは江原啓之とどう違うのかって思うが)広まった「大衆化された心理学もどき」というのは分析的視点を排除した精液である。幻想である。でなんだっけ、ADHDと自閉症の違いか。まあ確実に違うのは、ADHDがする「何かに熱中すること」と自閉症の「こだわり」って別物なんだよね、っていう話。簡単に言っとく。ADHDが何かに熱中するのはその何かが好きだから熱中するのであるが、自閉症は好き嫌いという区別が曖昧である。では彼らはなぜ「こだわる」のかというと、いわば物理学における「摩擦」というような現象である。粘土や泥はなぜ粘つくのか、などといったことについての物理学的な説明である。そこに好き嫌いなどという感情に強く影響された原因はない、と考えなければならない。まあ早い話、去勢済み主体の「こだわり」はそれこそ「こだわりのラーメン屋」などといった用法で用いられるそれであり、未去勢者の「こだわり」は「拘泥」などといったイメージが付帯するそれである、ということだ。
現実を見つめる視線は好き嫌いなどに影響されてはならない。
なんか別にこんなこと書きたいわけじゃないんだよなあ、と思って別に「書きたい」ってわけでもないんだよなあ、と思った。とりあえず思ったことを書いてみた。思っていることをなるべくありのまま書いてみたわけだが、やっぱりそういうことじゃないよなあ、と思った。どうせ違うならファンタジーでも書こう。『アルスラーン戦記』みたいな。『銀河英雄伝』はダメだったんだよなあ。なんでだろ。二巻ぐらいまではちゃんと読んだんだけど。『宇宙皇子』みたいな感じだった。『銀英伝』。『宇宙皇子』はそこそこ読めたんだけどなあ。って『アルスラーン』も『宇宙皇子』もショタなんだよな、という乾いた納得をしました。でもあれよ、アルスラーンって部下が優秀すぎてやっぱりどっか神輿みたいなところあるじゃん。王者ってそういうものかもしれないけど。それよか銀仮面のお兄さんだっけ? あっちのが好きだったもん。でも主人公のそういう自分のなさみたいなのがおもしろかったのかもしれない。『銀英伝』は大人だし自分がちゃんとあるじゃん、全員。でもこういったの読んでると、古来の歴史書とは時の権力者によって都合よく改竄されている、なんてよく言われているけど、まあその言い方も一側面として全然ありだと思うしわたしも普通にそう思っているけど、読者がエンターテイメントとして楽しむためにそう書いたんじゃないか、なんて風に思うのよね。まあ昔の歴史書の読者なんて権力者にほぼ限られてるんだろうけどさ。
ああもうめんどくさい。終了。
人の視線ってビル風みたいよね。
「こだわり」って言葉が変化してるよな、最近。「こだわりのラーメン屋」とかおかしくね? 「こだわり」っていうのは「拘泥」みたいに基本いいことじゃないってイメージがある。文句をつけたりするのが「こだわり」であって、職人のような仕事をそう表現するのは少しおかしい気がする。と思って辞書をぱらぱら調べたんだが「こだわりのラーメン屋」でも別に間違いじゃあなさそうなんだよな。語義的に。辞書などでは書ききれない半流動的なところの問題か。なんかで例文をやけに多くした「こだわりの国語辞典」が刊行されたって話を昔聞いたことがある。そういうのは辞書的な語義の表現では描ききれない半流動的なところを示そうとしたんじゃないか、などという言い方なら理解してもらえるだろうか。「半流動的なところ」ってのがどんなのか。まあ結局斎藤環が拘泥する「文脈」って奴なんだろうけどね。
んで「こだわり」なのだが、たとえば「ADHDも何かに熱中しすぎる」って特徴がある。だけどわたしはADHDは去勢済みだと思うのだよね。自閉症は未去勢だから、わたしの論においてはそれらは確実に区別されなければならない。そもそも精神分析やってる人はそうしなきゃならない。「去勢」という概念が精神分析の一つの柱でもあるんだから。ADHDと自閉症を混同・同一視するような最近の風潮を受け入れたら、精神分析論の一つの立脚点が、論を構築する大きな柱の一つが立つ現実という土台が、「人類皆兄弟」のような精液、すなわち人間が人間のために自分に都合よく構築する傲慢な幻想に飲み込まれてしまうことになる。「分析」にならなくなる。現実をありのまま見つめる分析的視点が介入できなくなる。斎藤が言う「心理学化する社会」などという言い回しはそういうことだろうと思う。心理学全てがそうだというわけではないが、心理学が血液型占いのような形で(テレビでタレントみたいなことしてる心理学者もいるよな。やってることは江原啓之とどう違うのかって思うが)広まった「大衆化された心理学もどき」というのは分析的視点を排除した精液である。幻想である。でなんだっけ、ADHDと自閉症の違いか。まあ確実に違うのは、ADHDがする「何かに熱中すること」と自閉症の「こだわり」って別物なんだよね、っていう話。簡単に言っとく。ADHDが何かに熱中するのはその何かが好きだから熱中するのであるが、自閉症は好き嫌いという区別が曖昧である。では彼らはなぜ「こだわる」のかというと、いわば物理学における「摩擦」というような現象である。粘土や泥はなぜ粘つくのか、などといったことについての物理学的な説明である。そこに好き嫌いなどという感情に強く影響された原因はない、と考えなければならない。まあ早い話、去勢済み主体の「こだわり」はそれこそ「こだわりのラーメン屋」などといった用法で用いられるそれであり、未去勢者の「こだわり」は「拘泥」などといったイメージが付帯するそれである、ということだ。
現実を見つめる視線は好き嫌いなどに影響されてはならない。
なんか別にこんなこと書きたいわけじゃないんだよなあ、と思って別に「書きたい」ってわけでもないんだよなあ、と思った。とりあえず思ったことを書いてみた。思っていることをなるべくありのまま書いてみたわけだが、やっぱりそういうことじゃないよなあ、と思った。どうせ違うならファンタジーでも書こう。『アルスラーン戦記』みたいな。『銀河英雄伝』はダメだったんだよなあ。なんでだろ。二巻ぐらいまではちゃんと読んだんだけど。『宇宙皇子』みたいな感じだった。『銀英伝』。『宇宙皇子』はそこそこ読めたんだけどなあ。って『アルスラーン』も『宇宙皇子』もショタなんだよな、という乾いた納得をしました。でもあれよ、アルスラーンって部下が優秀すぎてやっぱりどっか神輿みたいなところあるじゃん。王者ってそういうものかもしれないけど。それよか銀仮面のお兄さんだっけ? あっちのが好きだったもん。でも主人公のそういう自分のなさみたいなのがおもしろかったのかもしれない。『銀英伝』は大人だし自分がちゃんとあるじゃん、全員。でもこういったの読んでると、古来の歴史書とは時の権力者によって都合よく改竄されている、なんてよく言われているけど、まあその言い方も一側面として全然ありだと思うしわたしも普通にそう思っているけど、読者がエンターテイメントとして楽しむためにそう書いたんじゃないか、なんて風に思うのよね。まあ昔の歴史書の読者なんて権力者にほぼ限られてるんだろうけどさ。
ああもうめんどくさい。終了。
人の視線ってビル風みたいよね。