エロタナpart2
2007/02/22/Thu
/S→S1=Φ→S2=A→対象a
このベクトルによって、S2を掴み続けることが生の欲動である。S2は連鎖し、前のS2は他者となる。これによって構造化されたのが超自我であり、幻想の迷路である。
連鎖する前のS2から見れば、新しいS2を掴むことは「名づけ」に当たる。名づけは「曖昧なもの」から「確かなもの」を取り出す行為である。
また、構造化は、エントロピーの減少に当たる。
よって、
生の欲動=エントロピーの減少=「確かなもの」化=名づけ=「差異化」
である。
一方、
対象a→S2=A→S1=Φ→/S
生の欲動と逆方向のこのベクトルが死の欲動である。S2を殺害してS2による構造=超自我=幻想の迷路を無化するこでS1という大文字の他者の主=知の中心へ向かう。
S2の殺害は、そのS2という「知」「象徴的代理物」に対し「何故?」と問うことである。「何故?」と問い続けることでS2の迷路の中、それまで歩いてきた道を戻っていくのである。問いに答えることは、問いの対象であるS2を無化させることである。、例えば言葉となって他者になる。体外に排泄される。他者となった言葉は無意識に落ち、超自我を形成する。つまりS2の迷路の中、一歩来た道を戻った主体が振り返ったとしたら、そこには一歩分複雑化したS2の迷路が現れるだろう。来た道を戻るには対象aの引力が邪魔となる。だから学問はその言葉からパトスや主観や愛なるものを排除してきた。学問はそもそもは死の欲動的なベクトルにより生まれた思考様式だと私は思う。
問いの果てに行き着くのは抹消された主体/Sである。この主体は赤ん坊の頃の、母親との同一化を信じていた主体が象徴物により抹消された主体である。
また、構造の無化は、エントロピーの増大に当たる。
よって、
死の欲動=エントロピーの増大=「曖昧なもの」化=「何故?」と問うこと=「同一化」
である。
以前エロスとタナトスについて書いた記事で、「死」とは「確かなもの」であり「生」とは「曖昧なもの」と書いた。
この記事は浅はかだった。しかしあえて言い訳的な補足をするなら、生の欲動は確かなもの「化」であり、その瞬間の主体は、そのベクトルに沿って進んだ主体と比較して「曖昧なもの」である。死の欲動も同様だ。
こう考えると、学問も「死の欲動」によるものであり、「確かなもの」であると言える。しかし「差異化」が繋がらないなあ……。うーん困った。
違うか、「生」的な主体だから死の欲動が起こる、のか。
欲動はベクトルだから、か。差異化と同一化もベクトルだ。
うーん、わっかんね。
まあ独り言ってことで……。
このベクトルによって、S2を掴み続けることが生の欲動である。S2は連鎖し、前のS2は他者となる。これによって構造化されたのが超自我であり、幻想の迷路である。
連鎖する前のS2から見れば、新しいS2を掴むことは「名づけ」に当たる。名づけは「曖昧なもの」から「確かなもの」を取り出す行為である。
また、構造化は、エントロピーの減少に当たる。
よって、
生の欲動=エントロピーの減少=「確かなもの」化=名づけ=「差異化」
である。
一方、
対象a→S2=A→S1=Φ→/S
生の欲動と逆方向のこのベクトルが死の欲動である。S2を殺害してS2による構造=超自我=幻想の迷路を無化するこでS1という大文字の他者の主=知の中心へ向かう。
S2の殺害は、そのS2という「知」「象徴的代理物」に対し「何故?」と問うことである。「何故?」と問い続けることでS2の迷路の中、それまで歩いてきた道を戻っていくのである。問いに答えることは、問いの対象であるS2を無化させることである。、例えば言葉となって他者になる。体外に排泄される。他者となった言葉は無意識に落ち、超自我を形成する。つまりS2の迷路の中、一歩来た道を戻った主体が振り返ったとしたら、そこには一歩分複雑化したS2の迷路が現れるだろう。来た道を戻るには対象aの引力が邪魔となる。だから学問はその言葉からパトスや主観や愛なるものを排除してきた。学問はそもそもは死の欲動的なベクトルにより生まれた思考様式だと私は思う。
問いの果てに行き着くのは抹消された主体/Sである。この主体は赤ん坊の頃の、母親との同一化を信じていた主体が象徴物により抹消された主体である。
また、構造の無化は、エントロピーの増大に当たる。
よって、
死の欲動=エントロピーの増大=「曖昧なもの」化=「何故?」と問うこと=「同一化」
である。
以前エロスとタナトスについて書いた記事で、「死」とは「確かなもの」であり「生」とは「曖昧なもの」と書いた。
この記事は浅はかだった。しかしあえて言い訳的な補足をするなら、生の欲動は確かなもの「化」であり、その瞬間の主体は、そのベクトルに沿って進んだ主体と比較して「曖昧なもの」である。死の欲動も同様だ。
こう考えると、学問も「死の欲動」によるものであり、「確かなもの」であると言える。しかし「差異化」が繋がらないなあ……。うーん困った。
違うか、「生」的な主体だから死の欲動が起こる、のか。
欲動はベクトルだから、か。差異化と同一化もベクトルだ。
うーん、わっかんね。
まあ独り言ってことで……。