「いやああああああ」
2009/09/24/Thu
劇場には事故がつきものだ。よく怪我をするしよく死ぬ。特にスタッフが。
舞台の上空に吊るされるライトブリッジというものがある。キャットウォークのようになっていて、上空に吊るされたまま人がその上を歩いて照明の調整をする。
ある劇場で照明スタッフがそこから落ちて死亡した。若い女性だったと言う(余談だが照明スタッフは大道具と比べて女性率が高い)。その時彼女は「いやああああああ」と叫びながら落ちていったそうだ。落ちながら彼女はいろんなことを考えたんだろうと思う。落ちて助かったとしてもこの高さだと必ず障害は残るだろうな、などといったようなことを。
わたしも東京の某有名劇場でライトブリッジから落ちたことがある。ちょっとだけ。ライトブリッジに乗りこむのは、たとえば壁に固定されたキャットウォークからだったりするのだが、たまたまその固定のキャットウォークに落ちた。落下したのは二メートルもなかったろう。怪我はなかった。でもものすごい怒られた。下手したら死んでいた。その瞬間を目撃したチーフも言ってたし自分でもそう思う。落ちた場所がたまたまよかっただけ。
ある時青山円形劇場で作業していたら大きな音がして床が揺れた。ライトブリッジから1kwの照明が落ちてきたのだ。重さは10kg近くあるんじゃないかな。わたしの隣で作業していた人の真横に落ちた。その人は震えていた。舞台監督がその人に「休め」と言った。その人ほどではなかったがわたしも近くにいたのに。
危険は上空だけではない。奈落にもある。最近の劇場は機械で床を昇降させる装置を備えている場合が多い。その点検をしていて、誤作動で床がせり上がってしまい、固定床との間に挟まれて死んだ、という事件もある。体がえびぞりに折れ曲がって挟まれたらしい。すごい死に方だ、と思った。
スタッフだけではない。地方の劇場は子供の遊び場を兼用している場合も多い。多目的ホールという奴である。そこでよくあるのが、スクリーンをドラムに巻いて昇降させる装置である。ドラムを上に設置して巻き取るタイプと、スクリーンの下端にドラムを取りつけてそれを巻き上げるタイプがある。上に設置するとどうしてもドラムはたわんでしまいスクリーンによれが出てしまうので、下端に取りつけることが多い。スクリーン自体がたわみ防止の吊材になってくれるわけだ。直径150~300mmのドラム。このドラムとスクリーンの間に巻きこまれて死んだ幼児がいた。窒息死だったらしい。これは新聞にも載った。その実物をいやというほど見たことのあるわたしでも「なんで管理者は気づかなかったのだろう」と思う。ドラムが巻き上がっている間幼児はうめかなかったのか。そもそも巻き上がる動作に異常が見てとれるだろう。ドラムの一部分が盛り上がっているのだ。多分気づかないと思う。わたしも気づかないかもしれない。運動マットで海苔巻きにされて死亡した少年の事件があったが、それと似たような死に方だな、と思った。
大道具はあくまで仮設の装置だが、大掛かりなものになると巨大になる。総重量何トンとかざらである。場面を転換するため、それに車輪をつけることも多い。ワゴン状態にして、転換になると袖から出したり袖に引っこめたりするわけだ。高さ数メートルのそういった装置が倒れてきたことがある。わたしの目の前に。もうちょっと位置が悪かったら下敷きになっていた。死ぬことはなかったかもしれないが大怪我は確実だろう。わたしは硬直してしまい、逃げられなかった。馬鹿か、と怒鳴られた。助かってなぜ怒鳴られなければならないのだろう、と思った。壊れたそれを直すのに徹夜した。徹夜明け、汗臭いまま埃だらけのペンキ塗れで、近所のおしゃれなカフェで朝食を取った。単純に劇場の数軒隣にあったからというだけ。汗臭い埃だらけでペンキ塗れのオヤジたちに交じって。おしゃれな社会人たちに交じって。生きていると実感できた。これが世界だと思った。劇場の外はまぶしかった。
そうね、怒鳴られてばかりだった。怒鳴られていた記憶しかない、と大げさに言ってもいいくらい。
建築現場もそんな感じがする。死と隣り合わせという感じ。劇場の裏方作業に比べると労働管理もしっかりしてるし安全に対する意識も非常に高いのであまり目立たないが。造船所などといった巨大物を製造する工場もそんな感じがするだろう、と思う。
『アンチ・オイディプス』は「劇場」と「工場」を対比させる。ドゥルーズ=ガタリは劇場も工場も知らない人間なんだとすぐわかる。劇場の中、工場の中、建築現場の内側。その実体。「機械」という現実。
わたしは両方知っている。肌身で実体を知っている。従って、それらを対比させることが、彼ら自身が「器官なき身体」ではないことを示している、と理解できる。分裂症者は劇場だろうが工場だろうが場所によらずβ要素に翻弄されている。劇場にも工場にも「死の恐怖」はある。アルトーの言う「工場」は劇場でもある。ドゥルーズ=ガタリの言う「劇場に立つ着飾った女優」や、工場から検査に合格して出荷される製品が、彼らの場合たとえば被害妄想という形になるのである。着飾っていても着こなせていない女優、工場内検査には合格したがリコールされてしまった製品。
問題は、ドゥルーズ=ガタリがプロセニアムアーチの内側を(おそらく無意識的に)棄却しているということだ。これこそ主人のディスクールである。彼らはプロセニアムアーチという物言わぬ主人の言いつけに無意識的に従っている。「観客はこのうちを覗いてはならない」という無言の要請に従っている。彼らは神経症者であり去勢済みな主体であることが示されている。
一方わたしはプロセニアムアーチという主人の無言の要請を理解できなかった。だからずかずかと裏方の世界に踏み込んでしまった。わたしは子犬を解剖するのと同じように劇場を解剖した。
また、こういった無言の要請があるから、それに多くの人間が無意識的に従っているから、プロセニアムアーチのない工場や建築現場と比べて、劇場の裏方作業は労働管理がしっかりしてないのだろう、などという屁理屈も可能かもしれない(一応断っておくがこの部分は冗談半分だ。西欧のスタッフ作業は管理がしっかりしている。日本とは大違い。舞台芸術に関する役者や裏方の扱いって日本ほんとひどいよ。まあここは豆しばの豆知識みたいなものとして読んでね)。
ドゥルーズ=ガタリはただのアジテーターである。分裂症者を、アルトーをダシにしているだけである。
自分を語らないまま、現実に苦痛を味わっている他人をダシにして語るのは、もっとも許されないことである。
だからわたしはこの著者に殺意を覚える。本気だよ。
少なくとも彼らはアルトーを引用すべきではなかったね。演劇人であるアルトーを。おそらくドゥルーズ=ガタリは、なぜアルトーがバリ島の舞踏劇から残酷演劇という思想を紡ぎ出したのか理解できないだろう。バリ島のそれにはプロセニアムアーチなどない(またまた断りを入れておくがプロセニアムアーチのあるなしが条件だというわけではない。説明するための一手段としてたまたまプロセニアムアーチという要素を使っているだけである。アルトーの言う「過熱した工場」が劇場でもあることを説明するために)。
馬鹿はキチガイを語るな。
キチガイが劣化する。
β要素が劣化する。
自分がなぜ苦痛を覚えるのか、虐げられるのかの原因たるβ要素という現実が劣化する。
お前たちのせいだ。
ドゥルーズ=ガタリは分裂症者を侵略する征服者である。
彼らはオイディプス王である。
お前たちにわたしの実体は一生語れない。
お前たちは一生わたしを劣化して生き続ける傲慢な征服者である。
舞台の上空に吊るされるライトブリッジというものがある。キャットウォークのようになっていて、上空に吊るされたまま人がその上を歩いて照明の調整をする。
ある劇場で照明スタッフがそこから落ちて死亡した。若い女性だったと言う(余談だが照明スタッフは大道具と比べて女性率が高い)。その時彼女は「いやああああああ」と叫びながら落ちていったそうだ。落ちながら彼女はいろんなことを考えたんだろうと思う。落ちて助かったとしてもこの高さだと必ず障害は残るだろうな、などといったようなことを。
わたしも東京の某有名劇場でライトブリッジから落ちたことがある。ちょっとだけ。ライトブリッジに乗りこむのは、たとえば壁に固定されたキャットウォークからだったりするのだが、たまたまその固定のキャットウォークに落ちた。落下したのは二メートルもなかったろう。怪我はなかった。でもものすごい怒られた。下手したら死んでいた。その瞬間を目撃したチーフも言ってたし自分でもそう思う。落ちた場所がたまたまよかっただけ。
ある時青山円形劇場で作業していたら大きな音がして床が揺れた。ライトブリッジから1kwの照明が落ちてきたのだ。重さは10kg近くあるんじゃないかな。わたしの隣で作業していた人の真横に落ちた。その人は震えていた。舞台監督がその人に「休め」と言った。その人ほどではなかったがわたしも近くにいたのに。
危険は上空だけではない。奈落にもある。最近の劇場は機械で床を昇降させる装置を備えている場合が多い。その点検をしていて、誤作動で床がせり上がってしまい、固定床との間に挟まれて死んだ、という事件もある。体がえびぞりに折れ曲がって挟まれたらしい。すごい死に方だ、と思った。
スタッフだけではない。地方の劇場は子供の遊び場を兼用している場合も多い。多目的ホールという奴である。そこでよくあるのが、スクリーンをドラムに巻いて昇降させる装置である。ドラムを上に設置して巻き取るタイプと、スクリーンの下端にドラムを取りつけてそれを巻き上げるタイプがある。上に設置するとどうしてもドラムはたわんでしまいスクリーンによれが出てしまうので、下端に取りつけることが多い。スクリーン自体がたわみ防止の吊材になってくれるわけだ。直径150~300mmのドラム。このドラムとスクリーンの間に巻きこまれて死んだ幼児がいた。窒息死だったらしい。これは新聞にも載った。その実物をいやというほど見たことのあるわたしでも「なんで管理者は気づかなかったのだろう」と思う。ドラムが巻き上がっている間幼児はうめかなかったのか。そもそも巻き上がる動作に異常が見てとれるだろう。ドラムの一部分が盛り上がっているのだ。多分気づかないと思う。わたしも気づかないかもしれない。運動マットで海苔巻きにされて死亡した少年の事件があったが、それと似たような死に方だな、と思った。
大道具はあくまで仮設の装置だが、大掛かりなものになると巨大になる。総重量何トンとかざらである。場面を転換するため、それに車輪をつけることも多い。ワゴン状態にして、転換になると袖から出したり袖に引っこめたりするわけだ。高さ数メートルのそういった装置が倒れてきたことがある。わたしの目の前に。もうちょっと位置が悪かったら下敷きになっていた。死ぬことはなかったかもしれないが大怪我は確実だろう。わたしは硬直してしまい、逃げられなかった。馬鹿か、と怒鳴られた。助かってなぜ怒鳴られなければならないのだろう、と思った。壊れたそれを直すのに徹夜した。徹夜明け、汗臭いまま埃だらけのペンキ塗れで、近所のおしゃれなカフェで朝食を取った。単純に劇場の数軒隣にあったからというだけ。汗臭い埃だらけでペンキ塗れのオヤジたちに交じって。おしゃれな社会人たちに交じって。生きていると実感できた。これが世界だと思った。劇場の外はまぶしかった。
そうね、怒鳴られてばかりだった。怒鳴られていた記憶しかない、と大げさに言ってもいいくらい。
建築現場もそんな感じがする。死と隣り合わせという感じ。劇場の裏方作業に比べると労働管理もしっかりしてるし安全に対する意識も非常に高いのであまり目立たないが。造船所などといった巨大物を製造する工場もそんな感じがするだろう、と思う。
『アンチ・オイディプス』は「劇場」と「工場」を対比させる。ドゥルーズ=ガタリは劇場も工場も知らない人間なんだとすぐわかる。劇場の中、工場の中、建築現場の内側。その実体。「機械」という現実。
わたしは両方知っている。肌身で実体を知っている。従って、それらを対比させることが、彼ら自身が「器官なき身体」ではないことを示している、と理解できる。分裂症者は劇場だろうが工場だろうが場所によらずβ要素に翻弄されている。劇場にも工場にも「死の恐怖」はある。アルトーの言う「工場」は劇場でもある。ドゥルーズ=ガタリの言う「劇場に立つ着飾った女優」や、工場から検査に合格して出荷される製品が、彼らの場合たとえば被害妄想という形になるのである。着飾っていても着こなせていない女優、工場内検査には合格したがリコールされてしまった製品。
問題は、ドゥルーズ=ガタリがプロセニアムアーチの内側を(おそらく無意識的に)棄却しているということだ。これこそ主人のディスクールである。彼らはプロセニアムアーチという物言わぬ主人の言いつけに無意識的に従っている。「観客はこのうちを覗いてはならない」という無言の要請に従っている。彼らは神経症者であり去勢済みな主体であることが示されている。
一方わたしはプロセニアムアーチという主人の無言の要請を理解できなかった。だからずかずかと裏方の世界に踏み込んでしまった。わたしは子犬を解剖するのと同じように劇場を解剖した。
また、こういった無言の要請があるから、それに多くの人間が無意識的に従っているから、プロセニアムアーチのない工場や建築現場と比べて、劇場の裏方作業は労働管理がしっかりしてないのだろう、などという屁理屈も可能かもしれない(一応断っておくがこの部分は冗談半分だ。西欧のスタッフ作業は管理がしっかりしている。日本とは大違い。舞台芸術に関する役者や裏方の扱いって日本ほんとひどいよ。まあここは豆しばの豆知識みたいなものとして読んでね)。
ドゥルーズ=ガタリはただのアジテーターである。分裂症者を、アルトーをダシにしているだけである。
自分を語らないまま、現実に苦痛を味わっている他人をダシにして語るのは、もっとも許されないことである。
だからわたしはこの著者に殺意を覚える。本気だよ。
少なくとも彼らはアルトーを引用すべきではなかったね。演劇人であるアルトーを。おそらくドゥルーズ=ガタリは、なぜアルトーがバリ島の舞踏劇から残酷演劇という思想を紡ぎ出したのか理解できないだろう。バリ島のそれにはプロセニアムアーチなどない(またまた断りを入れておくがプロセニアムアーチのあるなしが条件だというわけではない。説明するための一手段としてたまたまプロセニアムアーチという要素を使っているだけである。アルトーの言う「過熱した工場」が劇場でもあることを説明するために)。
馬鹿はキチガイを語るな。
キチガイが劣化する。
β要素が劣化する。
自分がなぜ苦痛を覚えるのか、虐げられるのかの原因たるβ要素という現実が劣化する。
お前たちのせいだ。
ドゥルーズ=ガタリは分裂症者を侵略する征服者である。
彼らはオイディプス王である。
お前たちにわたしの実体は一生語れない。
お前たちは一生わたしを劣化して生き続ける傲慢な征服者である。