お前の言う「現実」もバーチャルなんだよ馬鹿が。
2009/09/28/Mon
「あ、これを言語にしてみよう」というネタを思いついて、そのために前フリというか序論をだらだら書いていると、「言語にしてみよう」としたネタを忘れてしまうことがある。って、このような表現だと二種類あるかもね。前フリというか序論をだらだら書いているうちに違う「言語にしてみよう」と思ったネタが浮かんだのか、そういうのがあるわけでもなく本当に単純に忘れただけか。前者はまあいいんだわ。ぞわぞわするくらいで。後者はなんていうか、数分前の自分を叱りつけてやりたくなる。なんで書きたいことから書かないんだよ、と。お弁当で大好物のおかずを最後まで取っておくタイプかお前は、みたいな。そんなこと言ってもな、それを書くのに前フリや序論は必要不可欠なんだよ。いわば前フリや序論もネタのうちで、それなしではネタにならないんだ。そもそもあれだ、数分後のお前が前フリだと思っていない部分だけをネタと思っているんじゃないかい? だから忘れちゃうんだ。わたしにとっては前フリもネタなのに。じゃあ思い出せよアホウ。アホウはお前だろその瞬間のお前がアドリブを効かすからだろうが。だからネタが変わっていくんだ。いや別にそれはそれでいいんだネタってのはそういうもんだからなってお前が言うなよ。
ファンタジーみたいなの書こうとしてたんだよね。いや重厚な奴じゃなくてRPGの導入部分みたいなの。
あ、思い出した。
なんていうか普通のRPGはエンディングがあるわけだからラスボスのヒントみたいなのは最初に出せるじゃん。「○○を倒せ」とまでは言わなくてもヒントぐらいは。言ったとしてもまあ大体「○○は実は中ボスで、真のボスがっ」ってパターンになるんだろうけれど。そうじゃなくてMMORPGってエンディングがあっちゃだめなわけじゃん。バーチャル世界を作ろうって話なんだから終わりがあっちゃいけない。レベリングやら対人戦やら生産やらで永続可能なゲーム内容にしなきゃいけない。世界に終わりはないからね。それをバーチャル化するならやっぱ終わりがあっちゃいけない。分節した各章の終わりはあるかもしれないけれど、RPGだと中ボスになるわけだ、各章の終わりにいるのは。バーチャル世界であるためにゲームの終わりがあっちゃいけない、従ってラスボスは存在してはならない、っていう。
それともう一つが前田五郎のニュース見てたんだけど、これってもしかしたら日常の会話のちょっとした齟齬がそもそもの原因じゃないかって思ったんだよな。大概の場合修正できる「ちょっとした齟齬」のはずが、なんでかよくわからないけれどこじれてしまって裁判沙汰になっちゃいました、っていう。
これって怪物みたいだな、と思ったの。
大概の場合修正できるわけじゃん。粛正できる。悪の芽は小さなうちから摘んでおけば大丈夫、みたいな。だけどほんの時々こじれてしまう。悪の芽は育ってしまう。粛正の目をかいくぐったのか粛正を受けても雑草のように生き延びたのかは知らないけれど、少なくとも人の手に負えなかった来歴が背景にある。
人にはどうしようもできないもの。本当の意味での現実。そういう意味で現実的なものかもしれないな、と。
怪物は人の目を盗んで育つか、雑草のように踏まれながら育たなければならない。
話を戻すと、こういったのをラスボスにすれば、「終わりのないバーチャル世界」を目指すMMORPGでも永続するんじゃないかって思ったのだよね。
って考えてると「それって対人戦にならね?」あるいは「ネトゲでよくあるギルド内のごたごたとかそういうんじゃね?」と思って萎えた。
永遠のラスボス、か。永遠のラスボスは倒しちゃうと終わる。世界が終わる。自分が終わる。死。永遠のラスボスとの戦闘は不可避的に心中となる。
だから、ラスボスというよりそこは場だ。ラスボスの部屋は出口だ。地下迷宮の一番奥あるいは塔のてっぺんにいるラスボスは、「終わりのないバーチャル世界」の出口なんだ。
……このブログでは「終わりのないバーチャル世界」って一般的な語用での「現実」も含まれることになるけどね。日常的現実もネットゲームの世界も同列。だからこんなこと言うわけでしょ。「ネットゲームのプレイヤーはNPCではありません。現実の世界の人間が操作していることを忘れずに、マナーを守りましょう」みたいなね。
死という個室。壁には死骸が埋まっている。だけどわたしに見えているのはただの壁だ。たとえ腐敗液が壁に滲んでいたとしてもわたしにとってはただの壁でしかない。壁を掘り返す機材もない。握力もない。掘り出したとしても、掘り出してしまえばそれは誰かの死骸であって、死そのものじゃない。わたしは誰も殺していない。いや、殺したから正常人の着ぐるみを着れたのか。じゃあその死骸は多分わたしが殺したもの。死そのものじゃないけれど。死そのものだったら今こうやって見ていることなんてできないからね。
このブログの記事において、「あなた」や「お前」と書いているのは「具体的に特定されない正常人」である場合が多い。時々キチガイを「あなた」と言うこともあるが、その場合悪意の明確な悪意があるように思う。悪意の悪意だから善意となるかもしれない。こういうことだ。キチガイは「人なるもの」ではないので「あなた」という人称ではありえない。なのに「あなた」と用いる場合は、それを「自分かもしれない」と解釈したキチガイ自身が治療(すなわち正常人化)されようとしているのか、わたしがキチガイを治療しようとしているか、のどちらかになる。治療だから(医学的な意味で)善意ってわけ。とはいえキチガイを想定して人称で指示する場合もある。その時は三人称である場合が多いような気がする。「彼」「彼女」といった具合に。いや「彼」「彼女」は正常人にも適用可能だから正常人であることも多いか。要するに「あなた」は正常人である可能性は高いが、「彼」「彼女」はまあ五分五分とは言わんがどっちが可能性が高いかわからんねえ、という感じだ。たとえばこの記事などは、昔付き合った男たちの断片断片を「あなた」と言っているんじゃないか、と事後的に思う(その時のわたしがどういったつもりなのかはわからない)。特定すなわち統合された誰か、じゃないけれど。それは「肉団子」に相当するだろう。多分。
以前にも書いたことあるが、このブログは基本正常人に向けて書いてある文章が多い。そう決めた記憶がある。「わたしの意識としてナイフはキチガイに向けない」と。単にわたしの自己防衛かもしれない。単にわたしの意識でしかないから、読者がどう解釈しようが勝手であり、たとえば「「あなた」をキチガイだと思うな」などと言うつもりはない。わたしの意識を説明しているだけ(別に言い訳と解釈されてもよい)。正常人に向けて振り回していたつもりのナイフが横を通りすぎたキチガイを斬りつけてしまうこともあれば、わたしが勘違いして斬りつけてしまうこともあるだろう。
どこかでも書いたように、わたしは正常人になりたい(わたしがいる)。しかし、数学で喩えるなら、公式をただ暗記して問題を解くのではなく、公式がどうしてそうなっているか理解して、理解できた公式を使って、問題を解く。つまり過程をいちいち確認してからなろうとしているわけだ。そうしないと気持ち悪いから。ただそれだけ。
……今気づいたがキチガイに向けて書く時は何も書かない場合が多いな。誰かに向けて書いているつもりはない=キチガイ(たち)に向けて書いている、ってことか。いや違うな、誰かに向けて書いているつもりがなくても正常人に向けている場合がある。なので却下。
この文章などあるキチガイが自分に向けたものだと思うかもしれないが、それだけのつもりはないんだな。本当にそうならその人向けとわかるように書くよ。コメント欄なりメールなりそうだと明記するなり。
あ、そうそう一応言っておくと、「具体的に特定されない正常人」の中には、ばりばり正常人だった頃のわたしも含まれていることがある。この記事の「あなた」とかそんな気がする。事後的に。
大企業というわけではないが、テレビCMをやっているので知名度は高いある企業。その本社。エレベーターのドアが開くと、味気ないパーテーションで区切られた廊下が見え、ちょっとしたウィザードリィだな、などと思ってしまう。プレイしたことはないけど。方向感覚がなくなっちゃうんだよね。こっちに受付があるわけだから……などといちいち思い出しながら歩かないと、化粧室に行くつもりが給湯室だった、ってことがよくあった。
受付は無人だ。電話で呼び出す。いつものおばちゃんが出てくる。おばちゃんなどと言っているがイメージでそう言っているだけで、多分若い。もしかしたら同じくらいの年かもしれない。
社長と直談判に来ているらしい。自分で言いながらそう思った。だからいつもより喉元が重いのか。
社長とは何度か酒席を共にさせてもらったことがある。要は接待。わたしを独立心の強い人間だと思ったのか、「独立しちゃだめだよ」「転職しちゃだめだよ」みたいなことを数回言われた。普通のギトギトしたおっさん。まあ実際数年で辞めたけどね。
フロアには見知った顔が何人かいる。声をかけられ、ちょっとした仕事を託される。次から次へと託される。ただのお使いやら発注元への折衝やら。まるでMMORPGのクエストみたいだ。前提となるクエストをこなしてからじゃないとボスは出現しない。
クエストと違うのは、他の会社の仕事なわけだから、わたしはただ働きだ。しかし営業の仕事とは大体そういうものだ。基本ただ働き。わたしは技術営業で営業とは言えないが、ただ働き感は強い。たとえば、客先に提案するための図面を描かされる。基本設計のさらに基本となる図面だ。コンペのような大きなプロジェクトになると外注に設計を依頼することもある。この場合受注できなかったら、コンペに落選したりすれば、わたしの図面を描いた工数や外注設計費などはただ働きとなる。ただ働きというより無駄遣いか。ひりひりする。
とはいえ、こういったただ働きが、目に見えない人間関係の維持に役立っている、などと思わないとやってられない。営業やってる人は、こんな目に見えない成果と実際の売上という目に見える成果の齟齬の間で、よく精神がまともでいられるものだ、みたいなことを常々思っていた。そんな風に思っていた人間が精神に変調をきたしたわけだが。
そういった仕事ではない。ただ金額は大きい。また喉元が重くなる。十億単位の仕事も担当したことがあるが、内臓が口から飛び出そうだった。喉と内臓の距離が短くなるから内臓が飛び出るのか。二十億ともなると営業担当子会社の年間売上の半分になる。プレッシャーに弱い? 逆のこと言われてたな。プレッシャーに強い、じゃないけれど、土壇場に強いって。自分は魔法みたいなものだと思っていた。土壇場になるとわたしは魔法使い、いや催眠術師のように、周囲の人間を操ることができた。半分冗談だけど半分本気でそう思っていた。本当にそうだったもの。そうとしか言えない。実際成績よかったし。やっぱり大げさだな。酒の席では、「演劇でその役がはまるかどうかって、最終的には運、みたいなところがあるのよね。そんな感じで役がはまった状態?」とか言った記憶があるが、こっちの方がわかりやすいかもしれない。役にはまれば魔法使いになる。催眠術師になる。わかりやすい。
やっとのことで社長室に着く。着いたと言ってもまたこれからいくつかの部屋を素通りしないといけない。社長室ってそういうものらしい。うちは違ったけれど。
秘書に案内されて何もない部屋を素通りしていく。この無音が緊張を増す。口からどころか下からも何か出てしまいそうだ。
責任感が強いわけじゃない。だめな時は上司のせいにしてしまえばいい、と思っている。兵隊の権利だ。ただ怖いのだ。何が怖いのかもわからない。さっきいろいろ言ったけれど全て言い訳。怖いから何が怖いか説明しようとする。だけど本当はそれが何かわからないから怖いのであって、怖いかどうかもわからないから怖い。怖いが増殖する。
体の全ての筋肉の動きが意識できていそうな感じ。実際は全てじゃないと思う。でも、普段は気にしていない筋肉が悲鳴を上げている感じ。それが聞こえるから意識できていそうな感じになる。意識とは言えないかそういうの。
個々の筋肉が流す汗が濁流になる。癒着しなかった皮膚と肉の間から大洪水になる。
電車の中でなんでもないのに号泣する。ペットボトルの水を顔にぶっかけられたくらいに泣く。鼻水も流れている。
こんな時どうすればいいのか。オーソドックスに楽しかった頃のことを思い出せばいい、と思う。思い出そうとする。断片しか浮かばない。楽しかった人を思い出す。肉片しか浮かばない。でもそれは楽しかった何かだと思えるので、操作自体は間違っていないと思う。
でもやっぱりだめだ。心臓がばくばくしている。トイレで泣いている。社会人にはよくある光景なんだろうな、多分。冷静な思考もできるのに涙は止まらない。
そこまでして、やっと「自分は死のうとしてたんだ」と気づく。舞台に上がる瞬間は死の瞬間だから。
何もない空間という(多分一般的なそれではない)神を信じようか、という気になる。
……読み返すといかにも神経症(すなわち正常人)だな。
以下は特定の人の文章に触発された独り言。
わたしを「混沌側」だとして拒絶するのはそうかもね、と思った。「ふむ」という感じ。
精神科には行かない方がよかったと思う。どんな診断だったにせよ、煩わしい荷物が増えただけ。荷物を開くと自分の肉片がお弁当箱のようにつまっていた。余計に言葉を信用できなくなった。荷物を開かなければよかったのだろうな、多分。病名なんかつけずに薬だけもらえるような精神科作ってくれないかな。流行ると思うよ。ごく一部の人間に。
荷物袋の底は多分どこかの沼に繋がっていて、沼を背負って歩いていることになる。沼を取り出そうと手を伸ばすと、沼の表面から手が出てきて、自分が沼に溺れていることに気づいてしまう。
人は賢い。荷物袋を開かない。開かないけど、底に沼があるかどうか不安になる場合もあるのだろう。そういった時に精神科医が登場する。精神科医も荷物を開くことはできないが、袋の底の染みなどで沼があることを確認する。
荷物の中に何が入っているか知らない人も多いだろう。知らないまま知ろうとしない人。こういった人たちは正常の中でも正常な人たちである。荷物なんか背負ってないぜ、となるのがパラノイアってことか。違うな。そういう違いじゃない。
スターン論は、乳幼児は新生児の頃からさまざまな自己感(主観みたいなもの)を変遷して人格は発達する、というものだが、その特徴は、新生児の頃から変遷していく自己感は層状に積み重なっていく、としたところだ。服を着重ねていくように自己感は変遷する。要するに、去勢済み主体も未去勢な主観世界を奥底の方に持ち続けている、ということでもある。わたしは自閉症は未去勢だと考えているが、「自閉症は自開症である」という言説とも呼応するだろう。正常人たちの方が常に服を着ているという意味で自閉しているのだ。
でも最初の方に着る服は服じゃない。沼だ。だからその後の服は沼の上に浮かんでいるようなものだ。
沼の上に浮かんでいる服が間主観的自己感……、いや、言語的自己感か。間主観的自己感は、言語的自己感という服が風に吹いて飛ばされない理由でもある、服と沼の間の泥だ。粘着するから服は飛んでいかない。
……微妙な気がする。微妙な表現。いつもなら消してしまうような文章。なぜ消さないのかって理由は必要だろうか。しいて言うなら隠したくないだけ。露出したいというわけではない。隠したくないのと露出したいって違う気がする。露出したくはないけれど隠したくないっていうのは普通にあると思う。
でもやはりいつもは消してしまう文章だから言葉が続かない。
そういうわけで終わり。
大食い選手権見逃した。
脳の異常で食べ続けてしまう病気があったな。満腹中枢が壊れてるだのなんだの。名前忘れた。脳だけに器質因と確定できる「粗大な異常」が発見できたわけだな。
でも大食い選手権の人たちって痩せてるよな。脳の異常で食べ続けてしまう病気の人は太っている。こういう大食いの人って肉体のシステムとして燃費が悪いからだって話は聞いたことはある。ということは脳だけじゃなくて五体も含めたシステムの異常(一般的な人体とは異なるという意味で)になるわけだな。
「頭がおかしい」っていうのが違うのかもしれない。キチガイは身体の異常も含むべきかもしれない。脳とそれ以外の身体という区別が微妙な気がする。ただやはり「粗大な異常」は見つけられないと思うので内因となるだろう。
そこまで言っちゃうとパラノイアじゃね? と思った。
モル的集合への方向として、領土を拡大しようとして、具体的にっつうか極論的に言えば身体障害者もキチガイに含めようとして言っているわけじゃなくて、脳と身体の関連こそに異常がある気がするんだな。統合失調症は運動機能障害と考えるべきだとか言ってた論文があった気がする。でもやっぱトンデモに聞こえるなあ。こっちは直感で言ってるだけだけど。
異常がどこかに確定できるか否かもどうでもいい。これが何かって話。わたしの脳を含めた身体の話であって、統合失調症も本当は関係ない。補助線だ。
「どうでもいい」じゃなくて「そこはそれでいい」なんだな。「どうでもいい」は部分。そこがどうでもいいから棄却する。獣はそこを威嚇しない。
でもそこは多分別のどこかと連関しているだろう。だからいくら棄却を部分的にしても、分別して棄却しても、完全な棄却にならない。これは正常人もキチガイも同じだ。
究極の甘えなのかもな。わたしの論って。あくまで喩え話だが、親が子供を究極的に甘やかしたら、その子はわたしのような思想に辿り着くかもしれない、という感じ。でも究極の甘えだから、甘やかすのと甘えるのとどっちがどっちか区別されない。母子は相関している。混淆している。物質的に。もしかしたら子供を甘やかしすぎて子供に同一化しすぎた母親もこの思想に辿り着くかもしれない。
そういうことか。
そこまでは行かないよ。へその緒で繋がっている時のつまり妊娠中の胎児まではさすがの逆精神分析でも範囲に入れない。現時点では。
でもそこは多分、しいて表現するなら「混沌」じゃなくて「虚無」なんだろうなあ、とは思う。直感で。「緊張」と「脱力」なら、妄想分裂態勢はおそらく「緊張」と表現してよいものだろうが、胎児としての虚無はおそらく「脱力」ではないだろう。体の一部分は収縮して一部分は弛緩している。部分部分が自分勝手に収縮したり弛緩したりしている。そりゃそうだ。胎内では筋肉を統合させて反応する必要がないから。「お腹の中で赤ん坊が蹴った」なんてあるが、蹴っているのは赤ん坊じゃなくてあくまで手なり足なりなわけだ。胎児側から言えばって話だが。ばらばらなんだと思う。デフォルメすればマリオネットのような。
(想像の)死としての虚無、去勢前後の抑鬱態勢としての虚無とは違う。間に妄想分裂態勢がある。
すると、胎児としての虚無から見れば、妄想分裂態勢は成長していることになる。
そいつが「虚無→混沌」と「混沌→虚無」を比較して、どっちを退行と感じるか、か。遡っている感があるか。先祖がえりしている感があるか。いやー去勢後を考えたらどっちもありだからなー。未去勢者に限定しないといけないなこの恣意的示差は。
そういう(実行に移していない)実験であって、これは理論じゃない。
たとえば住宅街と田んぼ。住宅街の中にぽつんぽつんと田んぼがある区域と、田んぼの中に住宅が点々とある区域。この二つの区域は連続している。住宅が多い区域がだんだんと田んぼが多い区域になる。とはいえその途中、田んぼが増えてきたなと思ってたらやっぱ住宅街じゃん、って場所もあるかもしれない。だけど最終的には田んぼが多い区域に着く。そっちに行ってるんだから。
妄想分裂態勢と抑鬱態勢ってそういうものだと思うんだな。どっちが住宅でどっちが田んぼでもいいけれど。田んぼばっかりの区域から住宅が多い区域へ、って話なら田んぼが妄想分裂態勢で住宅が抑鬱態勢になる。
だから妄想分裂態勢の次に抑鬱態勢っていうクライン理論は正確じゃないと思う。ここのクラインの説明は眉唾だ。乳児は罪悪感を覚えることになる。そうしないと妄想分裂態勢から抑鬱態勢へって変遷が説明できないからだ。成人の躁状態から鬱状態へって奴はそうなんだと思うよ。罪悪感とは言いきれないけれど。
そうじゃなくて田んぼと住宅。最初から両方ある。田んぼが多くなったのは、出産時の、胎内の世界と出産後の世界があまりにも違っていたという大激動のせい。
去勢以前の乳児に自我とは理屈的に言えないけれどそういうものがあるかどうかって話は微妙。ラカン論ではそもそも去勢以前の世界は存在しないってことになっているが、スターン論だと生まれたばかりの赤ん坊にも主観(のようなもの)はあるとなる。多分それが妄想分裂態勢って田んぼの中の抑鬱態勢って住宅なんだと思う。「住宅」ってのもいいね(「田んぼ」はいまいち)。なぜ住宅が多くなるのかってのの理由は、自己防衛とは言いきれないけれど、住宅っぽい何かを防衛する機制のような気はする。範囲を定めることで、有限化することで防衛する。ああわかった、住宅というよりブレーカー。ある範囲を超えると落ちるブレーカー。
じゃあ去勢って何? と思って洒落半分に考えてたらいい表現を思いついた。「住宅街」って奴。「住宅街」って言っても田んぼあるじゃん、でも住宅が多いから「住宅街」って呼んじゃう。「住宅街」という言葉の中に田んぼは存在しない。この言葉は実際にある田んぼを棄却している。それが去勢ってこと。おお、自己満足的におもしれえ。
思考しすぎてめまいがする。一瞬気を失っている気がする。何十時間ぶっ続けでネトゲやるとそんな状態にならね? 気が遠くなる瞬間ってか。『ハムナプトラ2』でも見るか。
なんか今日の記事はとっても間違いが多い気がする。直感多いしね。直感多いから間違いが多いって話じゃないけれども。
アスペルガー症候群者って自分につけられた病名に何かしらのこだわりを持つ場合が多いが、統合失調症者はそうでもないよな。統合失調症者は病名をどうでもいいと思っているのが多い。他人の言葉に対し膜がある。解離性障害の離人症状じゃない離人。これはやばい、とわたしが思う。胎児にとって生きるか死ぬか・存在しているか存在していないかなんて存在しないのと同様に、この状態の人体に生きるか死ぬか・存在しているか存在していないかは存在しない。量子力学的な物質状態。
ブレーカーがない状態としての虚無とブレーカーが落ちた状態としての虚無、か。何十時間ぶっ続けでネトゲやって気が遠くなった瞬間とかは後者の場合が多いんだろうな。
前者は二度と人間として立ち直れないと思うわ。そこに足を踏み入れたら。本当に胎内回帰したら人間には戻れない。人間ヅラで胎内回帰を述べる奴の胎内回帰は信用できない、ってことだな。むしろ胎内回帰状態から人間に戻った過程を説明してほしいもんだ。人間にとってとてつもなく生産的だろその論は。
馬鹿ばっかりだよな本当に。公式を自分で確かめずにただ暗記しただけで問題を解く奴って意味での馬鹿。
ああでも統合失調症の離人はやっぱり防衛機制な気がするから違うか。っていうか防衛機制じゃない虚無なんてそれこそ存在しない。生まれてこなかったものたちなわけだから。生まれて生きている限り人は妄想分裂態勢を経ている。だから生まれて生きている人間の虚無は何をやっても抑鬱態勢のそれになってしまう。理屈的に。
胎児としての虚無になりたいなら水子になるしかない。
でも逆に言えばクライン論の誤りを指摘する要件にもなる。統合失調症の離人や陰性症状は、少なくとも罪悪感を根拠にしているとは言えない。そう主張する患者ももちろんいるだろうが、少なくとも病理学的な根拠として罪悪感は採用できない。そうではない患者の方が多いのだから。
すると、統合失調症の離人や陰性症状と抑鬱態勢を関連づけるなら、やはりクラインの説明は間違っている、ということになる。まあクライン側としては「正常人にも理解できるようにそう述べた」って機制があったのだろうけどね。要するにウケ狙い。
そうだよな。抑鬱態勢になる根拠が罪悪感だったら、統合失調症のそれと関連づけられないもんな。だからクライン論は統合失調症を……って語ってるんだよなー。フロイト派やラカン派よりはるかに。こういったクライン派の人間たちは、統合失調症者に病気の原因として罪悪感を押しつけている。事実ではない幻想を押しつけている。一般的にされる統合失調症者に対する正常人の言い分と全く逆じゃないか。正常人たちは統合失調症の幻想を押しつけられると主張する。馬鹿か。お前らの言っていることの方が妄想なんだよ。
お前らの言う「現実」こそがバーチャルなんだ。
ファンタジーみたいなの書こうとしてたんだよね。いや重厚な奴じゃなくてRPGの導入部分みたいなの。
あ、思い出した。
なんていうか普通のRPGはエンディングがあるわけだからラスボスのヒントみたいなのは最初に出せるじゃん。「○○を倒せ」とまでは言わなくてもヒントぐらいは。言ったとしてもまあ大体「○○は実は中ボスで、真のボスがっ」ってパターンになるんだろうけれど。そうじゃなくてMMORPGってエンディングがあっちゃだめなわけじゃん。バーチャル世界を作ろうって話なんだから終わりがあっちゃいけない。レベリングやら対人戦やら生産やらで永続可能なゲーム内容にしなきゃいけない。世界に終わりはないからね。それをバーチャル化するならやっぱ終わりがあっちゃいけない。分節した各章の終わりはあるかもしれないけれど、RPGだと中ボスになるわけだ、各章の終わりにいるのは。バーチャル世界であるためにゲームの終わりがあっちゃいけない、従ってラスボスは存在してはならない、っていう。
それともう一つが前田五郎のニュース見てたんだけど、これってもしかしたら日常の会話のちょっとした齟齬がそもそもの原因じゃないかって思ったんだよな。大概の場合修正できる「ちょっとした齟齬」のはずが、なんでかよくわからないけれどこじれてしまって裁判沙汰になっちゃいました、っていう。
これって怪物みたいだな、と思ったの。
大概の場合修正できるわけじゃん。粛正できる。悪の芽は小さなうちから摘んでおけば大丈夫、みたいな。だけどほんの時々こじれてしまう。悪の芽は育ってしまう。粛正の目をかいくぐったのか粛正を受けても雑草のように生き延びたのかは知らないけれど、少なくとも人の手に負えなかった来歴が背景にある。
人にはどうしようもできないもの。本当の意味での現実。そういう意味で現実的なものかもしれないな、と。
怪物は人の目を盗んで育つか、雑草のように踏まれながら育たなければならない。
話を戻すと、こういったのをラスボスにすれば、「終わりのないバーチャル世界」を目指すMMORPGでも永続するんじゃないかって思ったのだよね。
って考えてると「それって対人戦にならね?」あるいは「ネトゲでよくあるギルド内のごたごたとかそういうんじゃね?」と思って萎えた。
永遠のラスボス、か。永遠のラスボスは倒しちゃうと終わる。世界が終わる。自分が終わる。死。永遠のラスボスとの戦闘は不可避的に心中となる。
だから、ラスボスというよりそこは場だ。ラスボスの部屋は出口だ。地下迷宮の一番奥あるいは塔のてっぺんにいるラスボスは、「終わりのないバーチャル世界」の出口なんだ。
……このブログでは「終わりのないバーチャル世界」って一般的な語用での「現実」も含まれることになるけどね。日常的現実もネットゲームの世界も同列。だからこんなこと言うわけでしょ。「ネットゲームのプレイヤーはNPCではありません。現実の世界の人間が操作していることを忘れずに、マナーを守りましょう」みたいなね。
死という個室。壁には死骸が埋まっている。だけどわたしに見えているのはただの壁だ。たとえ腐敗液が壁に滲んでいたとしてもわたしにとってはただの壁でしかない。壁を掘り返す機材もない。握力もない。掘り出したとしても、掘り出してしまえばそれは誰かの死骸であって、死そのものじゃない。わたしは誰も殺していない。いや、殺したから正常人の着ぐるみを着れたのか。じゃあその死骸は多分わたしが殺したもの。死そのものじゃないけれど。死そのものだったら今こうやって見ていることなんてできないからね。
このブログの記事において、「あなた」や「お前」と書いているのは「具体的に特定されない正常人」である場合が多い。時々キチガイを「あなた」と言うこともあるが、その場合悪意の明確な悪意があるように思う。悪意の悪意だから善意となるかもしれない。こういうことだ。キチガイは「人なるもの」ではないので「あなた」という人称ではありえない。なのに「あなた」と用いる場合は、それを「自分かもしれない」と解釈したキチガイ自身が治療(すなわち正常人化)されようとしているのか、わたしがキチガイを治療しようとしているか、のどちらかになる。治療だから(医学的な意味で)善意ってわけ。とはいえキチガイを想定して人称で指示する場合もある。その時は三人称である場合が多いような気がする。「彼」「彼女」といった具合に。いや「彼」「彼女」は正常人にも適用可能だから正常人であることも多いか。要するに「あなた」は正常人である可能性は高いが、「彼」「彼女」はまあ五分五分とは言わんがどっちが可能性が高いかわからんねえ、という感じだ。たとえばこの記事などは、昔付き合った男たちの断片断片を「あなた」と言っているんじゃないか、と事後的に思う(その時のわたしがどういったつもりなのかはわからない)。特定すなわち統合された誰か、じゃないけれど。それは「肉団子」に相当するだろう。多分。
以前にも書いたことあるが、このブログは基本正常人に向けて書いてある文章が多い。そう決めた記憶がある。「わたしの意識としてナイフはキチガイに向けない」と。単にわたしの自己防衛かもしれない。単にわたしの意識でしかないから、読者がどう解釈しようが勝手であり、たとえば「「あなた」をキチガイだと思うな」などと言うつもりはない。わたしの意識を説明しているだけ(別に言い訳と解釈されてもよい)。正常人に向けて振り回していたつもりのナイフが横を通りすぎたキチガイを斬りつけてしまうこともあれば、わたしが勘違いして斬りつけてしまうこともあるだろう。
どこかでも書いたように、わたしは正常人になりたい(わたしがいる)。しかし、数学で喩えるなら、公式をただ暗記して問題を解くのではなく、公式がどうしてそうなっているか理解して、理解できた公式を使って、問題を解く。つまり過程をいちいち確認してからなろうとしているわけだ。そうしないと気持ち悪いから。ただそれだけ。
……今気づいたがキチガイに向けて書く時は何も書かない場合が多いな。誰かに向けて書いているつもりはない=キチガイ(たち)に向けて書いている、ってことか。いや違うな、誰かに向けて書いているつもりがなくても正常人に向けている場合がある。なので却下。
この文章などあるキチガイが自分に向けたものだと思うかもしれないが、それだけのつもりはないんだな。本当にそうならその人向けとわかるように書くよ。コメント欄なりメールなりそうだと明記するなり。
あ、そうそう一応言っておくと、「具体的に特定されない正常人」の中には、ばりばり正常人だった頃のわたしも含まれていることがある。この記事の「あなた」とかそんな気がする。事後的に。
大企業というわけではないが、テレビCMをやっているので知名度は高いある企業。その本社。エレベーターのドアが開くと、味気ないパーテーションで区切られた廊下が見え、ちょっとしたウィザードリィだな、などと思ってしまう。プレイしたことはないけど。方向感覚がなくなっちゃうんだよね。こっちに受付があるわけだから……などといちいち思い出しながら歩かないと、化粧室に行くつもりが給湯室だった、ってことがよくあった。
受付は無人だ。電話で呼び出す。いつものおばちゃんが出てくる。おばちゃんなどと言っているがイメージでそう言っているだけで、多分若い。もしかしたら同じくらいの年かもしれない。
社長と直談判に来ているらしい。自分で言いながらそう思った。だからいつもより喉元が重いのか。
社長とは何度か酒席を共にさせてもらったことがある。要は接待。わたしを独立心の強い人間だと思ったのか、「独立しちゃだめだよ」「転職しちゃだめだよ」みたいなことを数回言われた。普通のギトギトしたおっさん。まあ実際数年で辞めたけどね。
フロアには見知った顔が何人かいる。声をかけられ、ちょっとした仕事を託される。次から次へと託される。ただのお使いやら発注元への折衝やら。まるでMMORPGのクエストみたいだ。前提となるクエストをこなしてからじゃないとボスは出現しない。
クエストと違うのは、他の会社の仕事なわけだから、わたしはただ働きだ。しかし営業の仕事とは大体そういうものだ。基本ただ働き。わたしは技術営業で営業とは言えないが、ただ働き感は強い。たとえば、客先に提案するための図面を描かされる。基本設計のさらに基本となる図面だ。コンペのような大きなプロジェクトになると外注に設計を依頼することもある。この場合受注できなかったら、コンペに落選したりすれば、わたしの図面を描いた工数や外注設計費などはただ働きとなる。ただ働きというより無駄遣いか。ひりひりする。
とはいえ、こういったただ働きが、目に見えない人間関係の維持に役立っている、などと思わないとやってられない。営業やってる人は、こんな目に見えない成果と実際の売上という目に見える成果の齟齬の間で、よく精神がまともでいられるものだ、みたいなことを常々思っていた。そんな風に思っていた人間が精神に変調をきたしたわけだが。
そういった仕事ではない。ただ金額は大きい。また喉元が重くなる。十億単位の仕事も担当したことがあるが、内臓が口から飛び出そうだった。喉と内臓の距離が短くなるから内臓が飛び出るのか。二十億ともなると営業担当子会社の年間売上の半分になる。プレッシャーに弱い? 逆のこと言われてたな。プレッシャーに強い、じゃないけれど、土壇場に強いって。自分は魔法みたいなものだと思っていた。土壇場になるとわたしは魔法使い、いや催眠術師のように、周囲の人間を操ることができた。半分冗談だけど半分本気でそう思っていた。本当にそうだったもの。そうとしか言えない。実際成績よかったし。やっぱり大げさだな。酒の席では、「演劇でその役がはまるかどうかって、最終的には運、みたいなところがあるのよね。そんな感じで役がはまった状態?」とか言った記憶があるが、こっちの方がわかりやすいかもしれない。役にはまれば魔法使いになる。催眠術師になる。わかりやすい。
やっとのことで社長室に着く。着いたと言ってもまたこれからいくつかの部屋を素通りしないといけない。社長室ってそういうものらしい。うちは違ったけれど。
秘書に案内されて何もない部屋を素通りしていく。この無音が緊張を増す。口からどころか下からも何か出てしまいそうだ。
責任感が強いわけじゃない。だめな時は上司のせいにしてしまえばいい、と思っている。兵隊の権利だ。ただ怖いのだ。何が怖いのかもわからない。さっきいろいろ言ったけれど全て言い訳。怖いから何が怖いか説明しようとする。だけど本当はそれが何かわからないから怖いのであって、怖いかどうかもわからないから怖い。怖いが増殖する。
体の全ての筋肉の動きが意識できていそうな感じ。実際は全てじゃないと思う。でも、普段は気にしていない筋肉が悲鳴を上げている感じ。それが聞こえるから意識できていそうな感じになる。意識とは言えないかそういうの。
個々の筋肉が流す汗が濁流になる。癒着しなかった皮膚と肉の間から大洪水になる。
電車の中でなんでもないのに号泣する。ペットボトルの水を顔にぶっかけられたくらいに泣く。鼻水も流れている。
こんな時どうすればいいのか。オーソドックスに楽しかった頃のことを思い出せばいい、と思う。思い出そうとする。断片しか浮かばない。楽しかった人を思い出す。肉片しか浮かばない。でもそれは楽しかった何かだと思えるので、操作自体は間違っていないと思う。
でもやっぱりだめだ。心臓がばくばくしている。トイレで泣いている。社会人にはよくある光景なんだろうな、多分。冷静な思考もできるのに涙は止まらない。
そこまでして、やっと「自分は死のうとしてたんだ」と気づく。舞台に上がる瞬間は死の瞬間だから。
何もない空間という(多分一般的なそれではない)神を信じようか、という気になる。
……読み返すといかにも神経症(すなわち正常人)だな。
以下は特定の人の文章に触発された独り言。
わたしを「混沌側」だとして拒絶するのはそうかもね、と思った。「ふむ」という感じ。
精神科には行かない方がよかったと思う。どんな診断だったにせよ、煩わしい荷物が増えただけ。荷物を開くと自分の肉片がお弁当箱のようにつまっていた。余計に言葉を信用できなくなった。荷物を開かなければよかったのだろうな、多分。病名なんかつけずに薬だけもらえるような精神科作ってくれないかな。流行ると思うよ。ごく一部の人間に。
荷物袋の底は多分どこかの沼に繋がっていて、沼を背負って歩いていることになる。沼を取り出そうと手を伸ばすと、沼の表面から手が出てきて、自分が沼に溺れていることに気づいてしまう。
人は賢い。荷物袋を開かない。開かないけど、底に沼があるかどうか不安になる場合もあるのだろう。そういった時に精神科医が登場する。精神科医も荷物を開くことはできないが、袋の底の染みなどで沼があることを確認する。
荷物の中に何が入っているか知らない人も多いだろう。知らないまま知ろうとしない人。こういった人たちは正常の中でも正常な人たちである。荷物なんか背負ってないぜ、となるのがパラノイアってことか。違うな。そういう違いじゃない。
スターン論は、乳幼児は新生児の頃からさまざまな自己感(主観みたいなもの)を変遷して人格は発達する、というものだが、その特徴は、新生児の頃から変遷していく自己感は層状に積み重なっていく、としたところだ。服を着重ねていくように自己感は変遷する。要するに、去勢済み主体も未去勢な主観世界を奥底の方に持ち続けている、ということでもある。わたしは自閉症は未去勢だと考えているが、「自閉症は自開症である」という言説とも呼応するだろう。正常人たちの方が常に服を着ているという意味で自閉しているのだ。
でも最初の方に着る服は服じゃない。沼だ。だからその後の服は沼の上に浮かんでいるようなものだ。
沼の上に浮かんでいる服が間主観的自己感……、いや、言語的自己感か。間主観的自己感は、言語的自己感という服が風に吹いて飛ばされない理由でもある、服と沼の間の泥だ。粘着するから服は飛んでいかない。
……微妙な気がする。微妙な表現。いつもなら消してしまうような文章。なぜ消さないのかって理由は必要だろうか。しいて言うなら隠したくないだけ。露出したいというわけではない。隠したくないのと露出したいって違う気がする。露出したくはないけれど隠したくないっていうのは普通にあると思う。
でもやはりいつもは消してしまう文章だから言葉が続かない。
そういうわけで終わり。
大食い選手権見逃した。
脳の異常で食べ続けてしまう病気があったな。満腹中枢が壊れてるだのなんだの。名前忘れた。脳だけに器質因と確定できる「粗大な異常」が発見できたわけだな。
でも大食い選手権の人たちって痩せてるよな。脳の異常で食べ続けてしまう病気の人は太っている。こういう大食いの人って肉体のシステムとして燃費が悪いからだって話は聞いたことはある。ということは脳だけじゃなくて五体も含めたシステムの異常(一般的な人体とは異なるという意味で)になるわけだな。
「頭がおかしい」っていうのが違うのかもしれない。キチガイは身体の異常も含むべきかもしれない。脳とそれ以外の身体という区別が微妙な気がする。ただやはり「粗大な異常」は見つけられないと思うので内因となるだろう。
そこまで言っちゃうとパラノイアじゃね? と思った。
モル的集合への方向として、領土を拡大しようとして、具体的にっつうか極論的に言えば身体障害者もキチガイに含めようとして言っているわけじゃなくて、脳と身体の関連こそに異常がある気がするんだな。統合失調症は運動機能障害と考えるべきだとか言ってた論文があった気がする。でもやっぱトンデモに聞こえるなあ。こっちは直感で言ってるだけだけど。
異常がどこかに確定できるか否かもどうでもいい。これが何かって話。わたしの脳を含めた身体の話であって、統合失調症も本当は関係ない。補助線だ。
「どうでもいい」じゃなくて「そこはそれでいい」なんだな。「どうでもいい」は部分。そこがどうでもいいから棄却する。獣はそこを威嚇しない。
でもそこは多分別のどこかと連関しているだろう。だからいくら棄却を部分的にしても、分別して棄却しても、完全な棄却にならない。これは正常人もキチガイも同じだ。
究極の甘えなのかもな。わたしの論って。あくまで喩え話だが、親が子供を究極的に甘やかしたら、その子はわたしのような思想に辿り着くかもしれない、という感じ。でも究極の甘えだから、甘やかすのと甘えるのとどっちがどっちか区別されない。母子は相関している。混淆している。物質的に。もしかしたら子供を甘やかしすぎて子供に同一化しすぎた母親もこの思想に辿り着くかもしれない。
そういうことか。
そこまでは行かないよ。へその緒で繋がっている時のつまり妊娠中の胎児まではさすがの逆精神分析でも範囲に入れない。現時点では。
でもそこは多分、しいて表現するなら「混沌」じゃなくて「虚無」なんだろうなあ、とは思う。直感で。「緊張」と「脱力」なら、妄想分裂態勢はおそらく「緊張」と表現してよいものだろうが、胎児としての虚無はおそらく「脱力」ではないだろう。体の一部分は収縮して一部分は弛緩している。部分部分が自分勝手に収縮したり弛緩したりしている。そりゃそうだ。胎内では筋肉を統合させて反応する必要がないから。「お腹の中で赤ん坊が蹴った」なんてあるが、蹴っているのは赤ん坊じゃなくてあくまで手なり足なりなわけだ。胎児側から言えばって話だが。ばらばらなんだと思う。デフォルメすればマリオネットのような。
(想像の)死としての虚無、去勢前後の抑鬱態勢としての虚無とは違う。間に妄想分裂態勢がある。
すると、胎児としての虚無から見れば、妄想分裂態勢は成長していることになる。
そいつが「虚無→混沌」と「混沌→虚無」を比較して、どっちを退行と感じるか、か。遡っている感があるか。先祖がえりしている感があるか。いやー去勢後を考えたらどっちもありだからなー。未去勢者に限定しないといけないなこの恣意的示差は。
そういう(実行に移していない)実験であって、これは理論じゃない。
たとえば住宅街と田んぼ。住宅街の中にぽつんぽつんと田んぼがある区域と、田んぼの中に住宅が点々とある区域。この二つの区域は連続している。住宅が多い区域がだんだんと田んぼが多い区域になる。とはいえその途中、田んぼが増えてきたなと思ってたらやっぱ住宅街じゃん、って場所もあるかもしれない。だけど最終的には田んぼが多い区域に着く。そっちに行ってるんだから。
妄想分裂態勢と抑鬱態勢ってそういうものだと思うんだな。どっちが住宅でどっちが田んぼでもいいけれど。田んぼばっかりの区域から住宅が多い区域へ、って話なら田んぼが妄想分裂態勢で住宅が抑鬱態勢になる。
だから妄想分裂態勢の次に抑鬱態勢っていうクライン理論は正確じゃないと思う。ここのクラインの説明は眉唾だ。乳児は罪悪感を覚えることになる。そうしないと妄想分裂態勢から抑鬱態勢へって変遷が説明できないからだ。成人の躁状態から鬱状態へって奴はそうなんだと思うよ。罪悪感とは言いきれないけれど。
そうじゃなくて田んぼと住宅。最初から両方ある。田んぼが多くなったのは、出産時の、胎内の世界と出産後の世界があまりにも違っていたという大激動のせい。
去勢以前の乳児に自我とは理屈的に言えないけれどそういうものがあるかどうかって話は微妙。ラカン論ではそもそも去勢以前の世界は存在しないってことになっているが、スターン論だと生まれたばかりの赤ん坊にも主観(のようなもの)はあるとなる。多分それが妄想分裂態勢って田んぼの中の抑鬱態勢って住宅なんだと思う。「住宅」ってのもいいね(「田んぼ」はいまいち)。なぜ住宅が多くなるのかってのの理由は、自己防衛とは言いきれないけれど、住宅っぽい何かを防衛する機制のような気はする。範囲を定めることで、有限化することで防衛する。ああわかった、住宅というよりブレーカー。ある範囲を超えると落ちるブレーカー。
じゃあ去勢って何? と思って洒落半分に考えてたらいい表現を思いついた。「住宅街」って奴。「住宅街」って言っても田んぼあるじゃん、でも住宅が多いから「住宅街」って呼んじゃう。「住宅街」という言葉の中に田んぼは存在しない。この言葉は実際にある田んぼを棄却している。それが去勢ってこと。おお、自己満足的におもしれえ。
思考しすぎてめまいがする。一瞬気を失っている気がする。何十時間ぶっ続けでネトゲやるとそんな状態にならね? 気が遠くなる瞬間ってか。『ハムナプトラ2』でも見るか。
なんか今日の記事はとっても間違いが多い気がする。直感多いしね。直感多いから間違いが多いって話じゃないけれども。
アスペルガー症候群者って自分につけられた病名に何かしらのこだわりを持つ場合が多いが、統合失調症者はそうでもないよな。統合失調症者は病名をどうでもいいと思っているのが多い。他人の言葉に対し膜がある。解離性障害の離人症状じゃない離人。これはやばい、とわたしが思う。胎児にとって生きるか死ぬか・存在しているか存在していないかなんて存在しないのと同様に、この状態の人体に生きるか死ぬか・存在しているか存在していないかは存在しない。量子力学的な物質状態。
ブレーカーがない状態としての虚無とブレーカーが落ちた状態としての虚無、か。何十時間ぶっ続けでネトゲやって気が遠くなった瞬間とかは後者の場合が多いんだろうな。
前者は二度と人間として立ち直れないと思うわ。そこに足を踏み入れたら。本当に胎内回帰したら人間には戻れない。人間ヅラで胎内回帰を述べる奴の胎内回帰は信用できない、ってことだな。むしろ胎内回帰状態から人間に戻った過程を説明してほしいもんだ。人間にとってとてつもなく生産的だろその論は。
馬鹿ばっかりだよな本当に。公式を自分で確かめずにただ暗記しただけで問題を解く奴って意味での馬鹿。
ああでも統合失調症の離人はやっぱり防衛機制な気がするから違うか。っていうか防衛機制じゃない虚無なんてそれこそ存在しない。生まれてこなかったものたちなわけだから。生まれて生きている限り人は妄想分裂態勢を経ている。だから生まれて生きている人間の虚無は何をやっても抑鬱態勢のそれになってしまう。理屈的に。
胎児としての虚無になりたいなら水子になるしかない。
でも逆に言えばクライン論の誤りを指摘する要件にもなる。統合失調症の離人や陰性症状は、少なくとも罪悪感を根拠にしているとは言えない。そう主張する患者ももちろんいるだろうが、少なくとも病理学的な根拠として罪悪感は採用できない。そうではない患者の方が多いのだから。
すると、統合失調症の離人や陰性症状と抑鬱態勢を関連づけるなら、やはりクラインの説明は間違っている、ということになる。まあクライン側としては「正常人にも理解できるようにそう述べた」って機制があったのだろうけどね。要するにウケ狙い。
そうだよな。抑鬱態勢になる根拠が罪悪感だったら、統合失調症のそれと関連づけられないもんな。だからクライン論は統合失調症を……って語ってるんだよなー。フロイト派やラカン派よりはるかに。こういったクライン派の人間たちは、統合失調症者に病気の原因として罪悪感を押しつけている。事実ではない幻想を押しつけている。一般的にされる統合失調症者に対する正常人の言い分と全く逆じゃないか。正常人たちは統合失調症の幻想を押しつけられると主張する。馬鹿か。お前らの言っていることの方が妄想なんだよ。
お前らの言う「現実」こそがバーチャルなんだ。