ヒスデリダ
2009/09/30/Wed
どうもわたしのブログはおもしろくないらしく、そう言われて開き直ったので、自分で「おもろねーなー」と思ってボツにした文章を貼る。
デリダの論法は文字通りの意味で「負けるが勝ちだ」って言ってた文章を見たことがある。デリダ批判の文脈で。っていうかポモ批判だったな。構造主義者の。わたしはなんで構造主義者がポモを批判するのかがわかんないんだよな。構造主義をエスカレートさせたら構造破壊になるに決まってるじゃん、って。要するにポモを批判する構造主義者はチキンなんだよ、って。お前が煽っといてやりすぎになった弟子たちを抑制するようなもんだ。師匠はつらいね。ああ構造主義者がかわいそうになってきた。わたしはそういった意味でポモ容認の構造主義者です。
あ、デリダね。
デリダは「負けるが勝ち」。そりゃそうなんだよ。論戦って自分が構築した論理を戦わせるわけじゃん。戦法にはいろいろあるだろう。相手の論理をより強靭で巨大な論理によって破壊するやり方、しなやかな論理で相手の論理を飲み込むやり方。後者を目指していたある知人はそれを「丸め込む」と言ってたな。そういうこと。
だけどデリダは「脱構築」なんだよね。構築すること自体を批判している。論理も構築できないわけだから論戦には負けるに決まっている。でも「脱構築」の論理としては一環しているから勝ちになる。
単に反則すれすれの「丸め込み」にすぎない気はするけどね。
そう考えると、東浩紀の現在の言説などは、デリダ論法じゃない。「負けるが勝ち」じゃない。デリディアン卒業しただけかもしれないけれど。
でもさ、要するにこの構築を否定することで「負けるが勝ち」を目指すのは、ヒステリーのやり方でもあるんだよね。デリダの論法はヒステリーの語らいなんだ。だからヒステリー者に恋焦がれるラカンと対立した。相思相愛故の対立。ああキモ。
まあわたしのこの解釈は誤読かもしれないけどね。東も、論理的把握じゃなく実践的把握の仕方で誤読している可能性がある。
でもヒステリックデリダに言わせたら「言説は全て誤読だ」となる。
そういう話。
閑話休題ってことでいいんじゃないでしょうか。
「閑話休題ってことでいいんじゃないでしょうか。」
ワラケルwww
デリダの論法は文字通りの意味で「負けるが勝ちだ」って言ってた文章を見たことがある。デリダ批判の文脈で。っていうかポモ批判だったな。構造主義者の。わたしはなんで構造主義者がポモを批判するのかがわかんないんだよな。構造主義をエスカレートさせたら構造破壊になるに決まってるじゃん、って。要するにポモを批判する構造主義者はチキンなんだよ、って。お前が煽っといてやりすぎになった弟子たちを抑制するようなもんだ。師匠はつらいね。ああ構造主義者がかわいそうになってきた。わたしはそういった意味でポモ容認の構造主義者です。
あ、デリダね。
デリダは「負けるが勝ち」。そりゃそうなんだよ。論戦って自分が構築した論理を戦わせるわけじゃん。戦法にはいろいろあるだろう。相手の論理をより強靭で巨大な論理によって破壊するやり方、しなやかな論理で相手の論理を飲み込むやり方。後者を目指していたある知人はそれを「丸め込む」と言ってたな。そういうこと。
だけどデリダは「脱構築」なんだよね。構築すること自体を批判している。論理も構築できないわけだから論戦には負けるに決まっている。でも「脱構築」の論理としては一環しているから勝ちになる。
単に反則すれすれの「丸め込み」にすぎない気はするけどね。
そう考えると、東浩紀の現在の言説などは、デリダ論法じゃない。「負けるが勝ち」じゃない。デリディアン卒業しただけかもしれないけれど。
でもさ、要するにこの構築を否定することで「負けるが勝ち」を目指すのは、ヒステリーのやり方でもあるんだよね。デリダの論法はヒステリーの語らいなんだ。だからヒステリー者に恋焦がれるラカンと対立した。相思相愛故の対立。ああキモ。
まあわたしのこの解釈は誤読かもしれないけどね。東も、論理的把握じゃなく実践的把握の仕方で誤読している可能性がある。
でもヒステリックデリダに言わせたら「言説は全て誤読だ」となる。
そういう話。
閑話休題ってことでいいんじゃないでしょうか。
「閑話休題ってことでいいんじゃないでしょうか。」
ワラケルwww