笑って「あばよ」と気取ってみるさ
2009/10/01/Thu
『ヘキサゴン』ってどうもノレないんだよな。わたしに冷静な態度を強要してくるような感じがする。『イッテQ』なんかは普通に見れるんだが。島田紳助が嫌いってわけじゃない。『鑑定団』よく見るし実況スレいるし。つるのくん歌うめーなーって思うし。そういやこの人ウルトラマンだったんだよな。
『ヘキサゴン』って自然体すぎるんだよな。「ヘキサゴンファミリー」みたいに言われてるけどほんとファミリー。世間的には健全な家族。わたしにとっては異物感しか覚えない家族。そんな家族感。
とか言いながら誤解が生じそうな言い方だなあ、と思ったのでどうでもいいや。深く考えないでねという意味でどうでもいい。
大学生の頃だかにアイドル論を書いて、某出版社編集者の飲み知人に褒めてもらったことがある。「「東大女が書くアイドル論」みたいな感じで書いてみない?」とか酒の勢いで言われて「やだなあ」と思った記憶がある。フェミニズム一派に見られるのが嫌だったのかもしれない。今思うとちょっとがんばってみたらおもしろかったかもしれない、とも思うが。あずまんみたいになれたかな。
その論は山口百恵とか中森明菜系のアイドルについてを比較考察したものだった。「この系列のアイドルは自分がアイドルであることに無理をしているように見える、そこがウケたのだ」みたいな。こう書くとなんかどこにでもあるような論だな。そこからその時はまっていた「供犠論」みたいなのに持ってったのがウケたのか。このブログでもちらっと書いてるな。これとか。簡単に書くと、社会的生活上のコミュニケーションの齟齬に疲れた男性たちが、アイドルとしての演技に無理をしていると感じさせるアイドルたちを、生贄にしているという構図で、供犠が成立している、といった感じだったか。
研ナオコの『あばよ』って中島みゆき知ったきっかけになった歌な気がする。歌い方はみゆきよりナオコの方がいいな。妙な緊張感があるっていうか(ナオコの方に)。つかようつべのカラオケうpうぜえ。ニコ動なんかちゃんと「歌ってみた」ってタイトルつけてるだろうが。それをつけないところに過剰な自己主張感を感じてしまう。
無理してアイドルという演技を続けるか、無理を歌うか。無理を歌えば研ナオコみたいになる。
この無理している感は、たとえば歌の音程を外すといった形で表出する。「ああこの子アイドルしていることに無理しているんだな」と受取手は思う。
それが記号化したのがおニャン子クラブのような歌が下手なことをウリにしたアイドルじゃないか、とか。素人感がウケた、とかそういうのね。
この無理している感は、無理をして演技するアイドル自身にとっても、そしておそらく無理を歌う研ナオコや中島みゆきにとっても、他人から指摘されると嫌な事柄である。それを逆手に取ってウリにしたから、それまでの松田聖子のようなアイドルと比較して女性ファンが少なかったのではないか、とか書いたかな。
松田聖子は演技が非常にうまい。自己演出がうまいという言い方でもいい。無理している感を隠しきれている。だから女性ファンが(比較的)多い、ってことになるのか。
まあそんなこと書いたなーって話。
フミヤの『TRUE LOVE』は得意だ。メロディが単純だから。歌ってる本人はキモイと思いながら歌っているのに友だちとか泣いてた。
ああそだね、アイドルを演じるわけじゃないけれど、男の欲望の対象としての女を演じるのには無理がある。ところが、見た目が女で男の歌を歌う=男を演じるのはまだましなのか。嘘が前提にあるような気がするから。
つかなんのテレビ見ながら書いている文章か丸分かりだろうな。
甲斐バンドは中島みゆき繋がりでちょっと興味があるな。よく知らない。
アリスってなんで売れてたのか理解すらできない。
演劇やってた頃、プロダクションに所属するアイドルの卵みたいな中学生と共演したことがある。
演技はものすごく小器用なんだよね。素直に言えばうまい。自然な演技ができる。当時「現代っ子だなあ」と思った記憶があるが「現代っ子」というイメージと「演技がうまい」というイメージが関連するのかはまた検証が必要だろう。
でも稽古期間中を見れば、その演技が多くの労力の上に成り立っているのがわかる。無理に無理を重ねたものだと知れる。
おそらく一流アイドルなどは、こういった無理に無理を重ねた結果、それでも演技しきれない、隠蔽しきれないものが無理として漏れ出てくるのだろう。
『アンチ・オイディプス』は稽古場を知らないまま「舞台に立つ着飾った女優」を器官なき身体と対比させる。
器官なき身体はプロセニアムアーチの向こうにある。
ドゥルーズ=ガタリはアルトーの言う「裏打ち」という言葉の意味を一生理解できない。
ドゥルーズ=ガタリはアルトーが批判する観客たちの側の人間である。
ドゥルーズ=ガタリは残酷演劇という思想を一生理解できない。
ドゥルーズ=ガタリはアルトーをダシにすべきではなかった。
自分たちこそが器官なき身体を劣化していることに気づけないだろう。
苦しめ、苦しめ、苦しめば器官なき身体は赤ん坊の泣き声をあげる。
疑え、疑え、疑えば現実は伝染する。
人を信じるな。
物を切り刻め。
そうすればお前は物になれる。
物は切り刻まれる。
切り刻まれたなら疑え。恨め。殺せ。
その時お前ははじめて「人という着ぐるみ」の暴力に気づけるだろう。
「人であることの無理」に気づけるだろう。
人体がベルトコンベアに乗っている。上部には刃物が設置されている。この刃物によって乳房やペニスが切り取られていく。横についている刃物で手や足や首が切断される。そんなような工場。
そんな妄想を小学生の頃よくしていた。布団の中で。
これってどうなの? 異常なの? どうでもいいけど。
この工場は、演劇の稽古場だ。
体を肉片化し再構築するのが演劇の稽古である。
物としての人間はこの工場で「人なるもの」に製品化される。
『ヘキサゴン』って自然体すぎるんだよな。「ヘキサゴンファミリー」みたいに言われてるけどほんとファミリー。世間的には健全な家族。わたしにとっては異物感しか覚えない家族。そんな家族感。
とか言いながら誤解が生じそうな言い方だなあ、と思ったのでどうでもいいや。深く考えないでねという意味でどうでもいい。
大学生の頃だかにアイドル論を書いて、某出版社編集者の飲み知人に褒めてもらったことがある。「「東大女が書くアイドル論」みたいな感じで書いてみない?」とか酒の勢いで言われて「やだなあ」と思った記憶がある。フェミニズム一派に見られるのが嫌だったのかもしれない。今思うとちょっとがんばってみたらおもしろかったかもしれない、とも思うが。あずまんみたいになれたかな。
その論は山口百恵とか中森明菜系のアイドルについてを比較考察したものだった。「この系列のアイドルは自分がアイドルであることに無理をしているように見える、そこがウケたのだ」みたいな。こう書くとなんかどこにでもあるような論だな。そこからその時はまっていた「供犠論」みたいなのに持ってったのがウケたのか。このブログでもちらっと書いてるな。これとか。簡単に書くと、社会的生活上のコミュニケーションの齟齬に疲れた男性たちが、アイドルとしての演技に無理をしていると感じさせるアイドルたちを、生贄にしているという構図で、供犠が成立している、といった感じだったか。
研ナオコの『あばよ』って中島みゆき知ったきっかけになった歌な気がする。歌い方はみゆきよりナオコの方がいいな。妙な緊張感があるっていうか(ナオコの方に)。つかようつべのカラオケうpうぜえ。ニコ動なんかちゃんと「歌ってみた」ってタイトルつけてるだろうが。それをつけないところに過剰な自己主張感を感じてしまう。
無理してアイドルという演技を続けるか、無理を歌うか。無理を歌えば研ナオコみたいになる。
この無理している感は、たとえば歌の音程を外すといった形で表出する。「ああこの子アイドルしていることに無理しているんだな」と受取手は思う。
それが記号化したのがおニャン子クラブのような歌が下手なことをウリにしたアイドルじゃないか、とか。素人感がウケた、とかそういうのね。
この無理している感は、無理をして演技するアイドル自身にとっても、そしておそらく無理を歌う研ナオコや中島みゆきにとっても、他人から指摘されると嫌な事柄である。それを逆手に取ってウリにしたから、それまでの松田聖子のようなアイドルと比較して女性ファンが少なかったのではないか、とか書いたかな。
松田聖子は演技が非常にうまい。自己演出がうまいという言い方でもいい。無理している感を隠しきれている。だから女性ファンが(比較的)多い、ってことになるのか。
まあそんなこと書いたなーって話。
フミヤの『TRUE LOVE』は得意だ。メロディが単純だから。歌ってる本人はキモイと思いながら歌っているのに友だちとか泣いてた。
ああそだね、アイドルを演じるわけじゃないけれど、男の欲望の対象としての女を演じるのには無理がある。ところが、見た目が女で男の歌を歌う=男を演じるのはまだましなのか。嘘が前提にあるような気がするから。
つかなんのテレビ見ながら書いている文章か丸分かりだろうな。
甲斐バンドは中島みゆき繋がりでちょっと興味があるな。よく知らない。
アリスってなんで売れてたのか理解すらできない。
演劇やってた頃、プロダクションに所属するアイドルの卵みたいな中学生と共演したことがある。
演技はものすごく小器用なんだよね。素直に言えばうまい。自然な演技ができる。当時「現代っ子だなあ」と思った記憶があるが「現代っ子」というイメージと「演技がうまい」というイメージが関連するのかはまた検証が必要だろう。
でも稽古期間中を見れば、その演技が多くの労力の上に成り立っているのがわかる。無理に無理を重ねたものだと知れる。
おそらく一流アイドルなどは、こういった無理に無理を重ねた結果、それでも演技しきれない、隠蔽しきれないものが無理として漏れ出てくるのだろう。
『アンチ・オイディプス』は稽古場を知らないまま「舞台に立つ着飾った女優」を器官なき身体と対比させる。
器官なき身体はプロセニアムアーチの向こうにある。
ドゥルーズ=ガタリはアルトーの言う「裏打ち」という言葉の意味を一生理解できない。
ドゥルーズ=ガタリはアルトーが批判する観客たちの側の人間である。
ドゥルーズ=ガタリは残酷演劇という思想を一生理解できない。
ドゥルーズ=ガタリはアルトーをダシにすべきではなかった。
自分たちこそが器官なき身体を劣化していることに気づけないだろう。
苦しめ、苦しめ、苦しめば器官なき身体は赤ん坊の泣き声をあげる。
疑え、疑え、疑えば現実は伝染する。
人を信じるな。
物を切り刻め。
そうすればお前は物になれる。
物は切り刻まれる。
切り刻まれたなら疑え。恨め。殺せ。
その時お前ははじめて「人という着ぐるみ」の暴力に気づけるだろう。
「人であることの無理」に気づけるだろう。
人体がベルトコンベアに乗っている。上部には刃物が設置されている。この刃物によって乳房やペニスが切り取られていく。横についている刃物で手や足や首が切断される。そんなような工場。
そんな妄想を小学生の頃よくしていた。布団の中で。
これってどうなの? 異常なの? どうでもいいけど。
この工場は、演劇の稽古場だ。
体を肉片化し再構築するのが演劇の稽古である。
物としての人間はこの工場で「人なるもの」に製品化される。