精神の物理学化
2009/10/03/Sat
人は人によって物から区別される。「人なるもの」が人を物から防衛させる。
とはいえ土台が物だから物のコトワリには逆らえない。っていうか物のコトワリに従っているのにそのこと自体を否定する。
というかこの物のコトワリは言葉や記号やイメージで表しきれない。表したとしたら必ずどこかで不備がでる。「表しきれない」だけだから表せないこともない。その一部分の一側面なら表すことができる。むしろ、全ての言葉や記号やイメージが物のコトワリの一部分の一側面を表している、と言える。では全ての言葉や記号やイメージで表現すれば物のコトワリを表せるのか、というと、言葉や記号自体に「一部分の一側面」という範囲設定機能があるために、その機能が複雑に機能しあって、表せないように思う。「表せない」とわたしが考える原因の主な一つとしてそれをあげておく。まー要するに言葉や記号は物のコトワリのあくまで「一部分の一側面」を表わすものであって、部品ではない、ということだ。部分を総合しても全体にはならない。全体にならないのは範囲設定機能が複合しているせいだが、この範囲設定機能は部分と部分の相関という側面を根拠にしている。この部品と部品の相関部分の一側面を表わすのがイメージである。
逆に、範囲設定機能が複雑に機能しあって成立したものの一つが「人なるもの」であり、その一つの呼び方が「自己」であろう。「自己」のさまざまな側面を表したものが「自我」や「超自我」だ。「側面」=「機能」と考えれば、クライン派、ラカン派が自我心理学派と対立している点も見えてくる。この「範囲設定機能が複雑に機能しあっ」たものを「防衛機能」と解釈するかどうかの違いである。
さて、人はどうあがいても物なわけだから、物のコトワリに従っている。それを「人なるもの」が否認して人という幻想が成立する。
どんな人間でも「人という幻想」に不安を抱えている。物のコトワリとして死ぬのだから(「死」という概念も幻想だが)、幻想を揺るがすそれは「死の不安」と言えたりするだろう。これを増大させれば、その人間は物のコトワリに従う。「死ぬ」のも物のコトワリだが、「生」、注釈しておくとその人間という機械が作動しているという意味での身体活動、も物のコトワリである。いやもともと従っているがそれを隠蔽しているだけなのだから、機械としての人間などと表現すべきものが露出する。
物のコトワリが露出する。
こういった時、いわば自動的に、近い将来を読むことができる。「読む」と言っても予言できるわけではない。物のコトワリによって自動的に生じるであろう次の事象を、どう「人なるもの」による言葉化や記号化やイメージ化で表わすか、という問題も残っている。「予言」という行為にもまた「読む」そして「表現する」という再表象化が存在するという話。
具体的にどういうことかというと、「人なるもの」による物のコトワリの劣化が弱まった場合、物理学的な思考方法を、もっと言えば物理学理論を(おそらく物理学界の「人なるもの」たちが否定するような形で)比喩的に適用すると、物のコトワリによる次の事象が(「表現できる」かどうかは別問題として)「読める」ということだ。いわば精神(運動)の物理学化、とでも表現できようか。
ここまでに説明した過程は、一般の人でもしている。いやしているとは言えないが、こういった過程を踏んで(物のコトワリ視点から言うと)そうなるべき結果を、統計的に判断し過程を省略して、人は「人なるもの」を「読む」。これが、物のコトワリによる物と物の相関ではなく、人と人とのコミュニケーションである。
また、先にも書いたように「人なるもの」は「自己」であり、物理学的な物と物との相関から、本当は物であるが幻想的に人である「自分という人」を防衛する(この言い方には議論があるのも認める)機能でもある。この幻想により人は物理学的な物と物の相関から抜け出している。物理学を学ぶ人は人を物として扱わない。
さらに、この「人なるもの」という幻想は、物理的な身体に影響を及ぼすことは可能である。この要件を採用すれば「「自己」とは単なる防衛機制である」という言い方は不充分となる。しかし、あくまでもその影響は自分の身体などと言った、自分に近接した物たちへの影響に限られる。物のコトワリはそれよりひどく広い。いわば、単細胞生物に対し人は殺したり形を変化させたりできるが、それを進化させることは人為だけでは難しい、といったようなことだ。人が宇宙を変えるようなことはできない、と書こうとも思ったが言いすぎだと思った。
物のコトワリに身を浸した物である人間は、「人なるもの」という防衛機制がないため、常に苦痛や不快を感じることになる。この苦痛や不快は物理学的な相関と物質的に近しいものである。
また、物である人間にとっては、言葉や記号やイメージも物すなわち部品である。それらが統合された何かが幻想なのである。いわば範囲設定機能が他の範囲設定機能と連関するのが壊れているのが彼らにとっての言葉や記号であり、部品同士の相関において一側面ではなくあくまで物と物の相関であるのが彼らのイメージである。
つまり、そもそも「人なるもの」である「自己」(「自我」や「超自我」を含む)が、物のコトワリからの脱出装置であり、かつ物を操作する装置でもあるのだから、「自己」は常に物と対立する。それらは常にせめぎ合っている。
ただ一般の人々は、せめぎ合った結果の中で、いわば「人なるもの」という幻想が作りだした幻想の中で生きているので、そのせめぎ合いが見えない。感じられない。それが精神医学で定義するところの健康であるということである。
「発毛実感コース」って毛が生えてくる瞬間の感覚がわかるのかと思った。それだけ。
とはいえ土台が物だから物のコトワリには逆らえない。っていうか物のコトワリに従っているのにそのこと自体を否定する。
というかこの物のコトワリは言葉や記号やイメージで表しきれない。表したとしたら必ずどこかで不備がでる。「表しきれない」だけだから表せないこともない。その一部分の一側面なら表すことができる。むしろ、全ての言葉や記号やイメージが物のコトワリの一部分の一側面を表している、と言える。では全ての言葉や記号やイメージで表現すれば物のコトワリを表せるのか、というと、言葉や記号自体に「一部分の一側面」という範囲設定機能があるために、その機能が複雑に機能しあって、表せないように思う。「表せない」とわたしが考える原因の主な一つとしてそれをあげておく。まー要するに言葉や記号は物のコトワリのあくまで「一部分の一側面」を表わすものであって、部品ではない、ということだ。部分を総合しても全体にはならない。全体にならないのは範囲設定機能が複合しているせいだが、この範囲設定機能は部分と部分の相関という側面を根拠にしている。この部品と部品の相関部分の一側面を表わすのがイメージである。
逆に、範囲設定機能が複雑に機能しあって成立したものの一つが「人なるもの」であり、その一つの呼び方が「自己」であろう。「自己」のさまざまな側面を表したものが「自我」や「超自我」だ。「側面」=「機能」と考えれば、クライン派、ラカン派が自我心理学派と対立している点も見えてくる。この「範囲設定機能が複雑に機能しあっ」たものを「防衛機能」と解釈するかどうかの違いである。
さて、人はどうあがいても物なわけだから、物のコトワリに従っている。それを「人なるもの」が否認して人という幻想が成立する。
どんな人間でも「人という幻想」に不安を抱えている。物のコトワリとして死ぬのだから(「死」という概念も幻想だが)、幻想を揺るがすそれは「死の不安」と言えたりするだろう。これを増大させれば、その人間は物のコトワリに従う。「死ぬ」のも物のコトワリだが、「生」、注釈しておくとその人間という機械が作動しているという意味での身体活動、も物のコトワリである。いやもともと従っているがそれを隠蔽しているだけなのだから、機械としての人間などと表現すべきものが露出する。
物のコトワリが露出する。
こういった時、いわば自動的に、近い将来を読むことができる。「読む」と言っても予言できるわけではない。物のコトワリによって自動的に生じるであろう次の事象を、どう「人なるもの」による言葉化や記号化やイメージ化で表わすか、という問題も残っている。「予言」という行為にもまた「読む」そして「表現する」という再表象化が存在するという話。
具体的にどういうことかというと、「人なるもの」による物のコトワリの劣化が弱まった場合、物理学的な思考方法を、もっと言えば物理学理論を(おそらく物理学界の「人なるもの」たちが否定するような形で)比喩的に適用すると、物のコトワリによる次の事象が(「表現できる」かどうかは別問題として)「読める」ということだ。いわば精神(運動)の物理学化、とでも表現できようか。
ここまでに説明した過程は、一般の人でもしている。いやしているとは言えないが、こういった過程を踏んで(物のコトワリ視点から言うと)そうなるべき結果を、統計的に判断し過程を省略して、人は「人なるもの」を「読む」。これが、物のコトワリによる物と物の相関ではなく、人と人とのコミュニケーションである。
また、先にも書いたように「人なるもの」は「自己」であり、物理学的な物と物との相関から、本当は物であるが幻想的に人である「自分という人」を防衛する(この言い方には議論があるのも認める)機能でもある。この幻想により人は物理学的な物と物の相関から抜け出している。物理学を学ぶ人は人を物として扱わない。
さらに、この「人なるもの」という幻想は、物理的な身体に影響を及ぼすことは可能である。この要件を採用すれば「「自己」とは単なる防衛機制である」という言い方は不充分となる。しかし、あくまでもその影響は自分の身体などと言った、自分に近接した物たちへの影響に限られる。物のコトワリはそれよりひどく広い。いわば、単細胞生物に対し人は殺したり形を変化させたりできるが、それを進化させることは人為だけでは難しい、といったようなことだ。人が宇宙を変えるようなことはできない、と書こうとも思ったが言いすぎだと思った。
物のコトワリに身を浸した物である人間は、「人なるもの」という防衛機制がないため、常に苦痛や不快を感じることになる。この苦痛や不快は物理学的な相関と物質的に近しいものである。
また、物である人間にとっては、言葉や記号やイメージも物すなわち部品である。それらが統合された何かが幻想なのである。いわば範囲設定機能が他の範囲設定機能と連関するのが壊れているのが彼らにとっての言葉や記号であり、部品同士の相関において一側面ではなくあくまで物と物の相関であるのが彼らのイメージである。
つまり、そもそも「人なるもの」である「自己」(「自我」や「超自我」を含む)が、物のコトワリからの脱出装置であり、かつ物を操作する装置でもあるのだから、「自己」は常に物と対立する。それらは常にせめぎ合っている。
ただ一般の人々は、せめぎ合った結果の中で、いわば「人なるもの」という幻想が作りだした幻想の中で生きているので、そのせめぎ合いが見えない。感じられない。それが精神医学で定義するところの健康であるということである。
「発毛実感コース」って毛が生えてくる瞬間の感覚がわかるのかと思った。それだけ。