読んじゃダメ! ってゆうと読みたくなる不思議
2007/02/23/Fri
禁止されると何故逆にやりたくなるのかっていうことを精神分析的に語っている記事だと思ってこれ開いた人ごめんなさい。
男性は、象徴的代理物=S2を掴み続けることに夢中になっている。それこそが生きているということらしい。だけど、そのゴールは「死」である。「死」というゴールに向かっていることを知っていながらS2を掴み続けているのだろうか。知っていながら、S2で構成された迷路を彷徨い続けているのだろうか。全てを所有することは破壊することと同値だ。男性はそれに気づいているのだろうか。「死」に向かいながら「生」という幻想を生きていることに気づいているのだろうか。
科学は学問でありながら、「生」の学問だ。
一方、女性は「生」と「死」を内包している。ノイマンのグレートマザー論なんか、今思うと何当たり前のことを言ってるんだと思う。彼のアニマについて示したグラフを見た時「そう、こんな感じ」と感動したことなんかすっかり忘れている。私は、忘れている。「上書き保存」している。
女性は「生」と「死」を生きている。私はずっとそう感じていた。いや死んでいるのかもしれない。近代的自我から見れば死んでいるのだろう。我思う故に我ありなんてちっとも思えない。我思う故にある我は、私のことを「死んでいる」と言うだろう。ラカンは、「女は存在しない」と言う。「女は、死んでいる」と言わなかっただけ、女性に気を遣っていたのかもしれない。
二階堂奥歯さんの文章は、我思う故にある我が、死んでいる彼女に書かせたものだ。彼が死んでいる彼女に「死んでいる」と言い続けたから、彼女は自らの命を絶ったのだ。彼女は近代的自我に従って死んだのだ。我思う故にある我が、愛する彼女を殺したのだ。彼女は望み通り、愛してくれている他者に殺されたのだ。
私は誰に殺されたがっているのだろう。
金原ひとみさんの小説の書評で、精神分析家のことを「母性」と言った。正直言って書きながら自分で何故そう思ったのか少し不思議に思ったけどどうでもいっかとすっかり忘れていた。分析家が対象aだという、「分析家の語らい」についての記事を書いている時、思い出して、気づいた。私の対象aは、「母親」だったのだ。間違ってない。何故なら対象aに近接しているのは生まれたばかりの赤ちゃんと母親の関係だからだ。精神分析家を「母」と言うことは、間違ってない。だけど私は母親じゃない。私の近代的自我が、私があろうとする母親を殺してしまった。
いや、現実の母親は生きてるけどね。
私は理系だった。私は理系を続けるべきだった。科学が持つ「生の欲動」に殺されるべきだった。迷路の中で生きていくべきだった。田村隆一さんの『帰途』という詩にこんなフレーズがある。
言葉なんかおぼえるんじゃなかった
初めて見た時何きどってんだか、ぐらいに思ってしまった。与謝野晶子さんの同じタイトル『歸途』という詩が好きで、それをネットで検索している時にたまたま見つけた詩だった。
与謝野晶子さんは、定型詩より自由詩の方が好きだ。彼女の文章には、否定形が少ない。「あるがまま」っていうよく言われている評を繰り返すつもりはない。
繰り返すつもりは「ない」。
私の文章には否定形が多い。私の近代的自我がそう書かせている。それも私なんだけど。
過食症、拒食症、宮台真司さんが言う、ギャルが感じる<システム>を生きる痛み。私だけじゃない。でも私だけ。間違って、「いない」。
痛みさえ虚構だと言われ、納得できてしまう私は、やっぱり死んでいるのだろう。
ギャルも私も、ただのヒステリー。
私は、文章を書くことは、排泄行為だと思う。文章は糞便。死した自己。吐瀉物でもいい。ギャルだったらその方がいいだろう。モデルみたいじゃん。私はギャルじゃないので糞便と書く。私の文章は糞便だ。この文章も、糞便である。
私は科学を「死」の学問だと思っていた。「確かなもの」化は死へ向かうことだと思っていた。違った。確かなものを壊すことが「死」なのだ。当たり前じゃん。
なら、私は、「死」を愛好していたことになる。二階堂奥歯さんの本を読んで突き刺さったのは、これだ。
真理なんてない、とデリダやラカンは言っているように思えた。確かなものなんてない、と。完全な確かなものなんてない。それこそ「死」だから。当たり前だ。
でもそれで、私は救われたと思った。真理とかいうわけのわからないものの暗喩作用を受けた言葉たちの世界。男性から課せられたそんな世界に押し潰されていた私にとっては、天井が開け、夜空が見えたように思えた。中村雄二郎さんの『魔女ランダ考』では、窓の外にしか見えなかった夜空が、大きく頭上に広がった。ラカンは私に、相対主義という、「他者の海」に漂っていていいんだよ、と言ってくれた。そして裏切られた。裏切られたんじゃない。私の近代的自我が、凍えるような夜空の下で、焚き火にあたりながら、耳元で、以前よりもっと素直な、優しい口調で、「お前は死んでいる」と言うようになっただけだ。お前はケンシロウか。
――しちょうせいなんてみえません。
ラカンはケンシロウだった。
ラオウじゃないだけ、マシ。
ラオウの方がスキだったから。
科学さん、私の、母性を殺してくれて、ありがとう。
精神分析さん、死んでいることに気づかせてくれて、ありがとう。
――遺書みたいだな、おい。
死なないよ、私は臆病だから。
臆病だから、おでぶなマダムが抱えている服着た子犬のように、吠えるしかないのです。
精神分析医の藤田博史さんは、日本人はフェティシストだと言う。
フェティシスム、いいじゃない。うざっこい近代的自我に「死んでいる」とか言われながら生きていくより、よっぽど、マシ。
オタク文化。気に食わないところはあるけど、オタクたちは、正しい。マニアたちは、正しい。日本人は、正しい。
死につつ生きていることの、最後のあがき。偶像崇拝ってそうでしょ。死んでいる偶像に想像的同一化しているから生きてけるんじゃん。死にながら、生きていけるんじゃん。
でも、オタクたちはキモイ。それは仕方ない。反論されても、そう感じてしまうのだから、ごめん、としか言えない。この方が、何故キモイかを精神分析理論とかで延々語られるよりマシ? もしかして。でも不快なものがスキだったりする人だから、私。ごめんね。
でもさ、オタクたちや日本文化を女性化しているとかってゆってることが、女性は「生」と「死」両方を生きているってことになるじゃん。フェティシスムってそういうもんなんでしょ?
だから、オタクたちは、間違って、「いない」。
西洋文化、ってゆっか、キリスト教が、偶像崇拝禁止して、「父」と「子」と「聖霊」ってゆって女性恐怖症まんま体現してたりするのよか、よっぽどオタクたちは、健全。自らを女性化しているんだから。健全っていうのは、私がそう思う「感じ」ってことね。生の欲動とか死の欲動とか関係なしに。ってゆうか、
オタク文化>>>>(超えられない壁)>>キリスト教
って感じ。
今のキリスト教とか、精神病患者の回復期みたいな「感じ」がする。もっそい大人しくなっちゃってる、あんな感じ。キリスト教の人ごめんね。そんで精神病患者を蔑んでいるわけでもないですよ。そう感じてしまうんだから仕方ないのです。無知だから仕方ないのです。なんせ女性は超自我が未熟なわけですから、感じたまま書いてしまうのは仕方ないのです。もしかしたら私が精神患っているのかもしれませんね。
ヒロリン
非論理的と打とうとして間違えた。誰だよヒロリンって。ヒロシって男がいたとしてもわたしゃヒロリンなんてヨバネーヨ。
非論理的な文章でございました。ええそうです。だって論理的言説自体男が作ったシステムじゃん? 去勢だかなんかしんないけどファルスってゆう真理っぽいものの暗喩作用を受けた言葉たちを、交通整理しようとしたのがロゴスなわけじゃん。他人に糞便食べさせる学問ってシステムを作ろうとして、対象a的な、そんなかんじぃ、っていう感じとか、わかった、論理的みたいな感じでいうと、感情論とかパトスとか主観みたいなんを排除してきたんでしょ?
だーれが他人の土俵で相撲とりたがるよ。
精神分析なんてやるもんじゃないね、女のカンってやっぱりすごい。
でもおもしろいからやるお。やるおAA実はスキだ。
近頃おもしろい映画も小説もテレビも演劇もないじゃん。CSI4スキだったけどおわっちったし。精神分析はそういう意味でおもしろい。ミステリなんて子供だましに見えるべ。特にラカンとか。わざとなんじゃね? ラカン。エンターテイナーでした。ラカン。つか、ちょっとわかりにくい芸人みたいだ。ラーメンズとか、あのへん。ラカン。ラしか合ってないけど。つかマックのCMあれどうよ?
鳥肌実みたいな思想家現れないかね、むちゃくちゃはまりそうだ。
え? ネット右翼? あんなも(ry
雰囲気の問題です。
あ、あと蓮實重彦は芸人です。嫌いだけど。
こう、渡邊守章さんみたいなぷりちーな学者っていないもんかね。実際話すと怖い人かもしれんけど。ぷりちー撤回しとこ。いやまじでスキです。渡邊守章さん。放送大学とかにちょこっと出てたお。
――よし、立ち直った。
よかった、簡単な人間で。
補足。AFTER SEVENさんに言われたけど、2ちゃんの哲学板なんて行かないよ。言われてちょっと覗いたけど荒しばっかやん。記念にやるおAAはっといた。何スレか忘れたけど。最近はぬ即とラウンジの鑑定スレぐらい? あと運用板。あと政治経済系。株やってるから。vipは飽きた。そんぐらい、です。あ、切込隊長訴訟スレはブクマしてたりする。書きこんだことないけどね。
はあ……。
男性は、象徴的代理物=S2を掴み続けることに夢中になっている。それこそが生きているということらしい。だけど、そのゴールは「死」である。「死」というゴールに向かっていることを知っていながらS2を掴み続けているのだろうか。知っていながら、S2で構成された迷路を彷徨い続けているのだろうか。全てを所有することは破壊することと同値だ。男性はそれに気づいているのだろうか。「死」に向かいながら「生」という幻想を生きていることに気づいているのだろうか。
科学は学問でありながら、「生」の学問だ。
一方、女性は「生」と「死」を内包している。ノイマンのグレートマザー論なんか、今思うと何当たり前のことを言ってるんだと思う。彼のアニマについて示したグラフを見た時「そう、こんな感じ」と感動したことなんかすっかり忘れている。私は、忘れている。「上書き保存」している。
女性は「生」と「死」を生きている。私はずっとそう感じていた。いや死んでいるのかもしれない。近代的自我から見れば死んでいるのだろう。我思う故に我ありなんてちっとも思えない。我思う故にある我は、私のことを「死んでいる」と言うだろう。ラカンは、「女は存在しない」と言う。「女は、死んでいる」と言わなかっただけ、女性に気を遣っていたのかもしれない。
二階堂奥歯さんの文章は、我思う故にある我が、死んでいる彼女に書かせたものだ。彼が死んでいる彼女に「死んでいる」と言い続けたから、彼女は自らの命を絶ったのだ。彼女は近代的自我に従って死んだのだ。我思う故にある我が、愛する彼女を殺したのだ。彼女は望み通り、愛してくれている他者に殺されたのだ。
私は誰に殺されたがっているのだろう。
金原ひとみさんの小説の書評で、精神分析家のことを「母性」と言った。正直言って書きながら自分で何故そう思ったのか少し不思議に思ったけどどうでもいっかとすっかり忘れていた。分析家が対象aだという、「分析家の語らい」についての記事を書いている時、思い出して、気づいた。私の対象aは、「母親」だったのだ。間違ってない。何故なら対象aに近接しているのは生まれたばかりの赤ちゃんと母親の関係だからだ。精神分析家を「母」と言うことは、間違ってない。だけど私は母親じゃない。私の近代的自我が、私があろうとする母親を殺してしまった。
いや、現実の母親は生きてるけどね。
私は理系だった。私は理系を続けるべきだった。科学が持つ「生の欲動」に殺されるべきだった。迷路の中で生きていくべきだった。田村隆一さんの『帰途』という詩にこんなフレーズがある。
言葉なんかおぼえるんじゃなかった
初めて見た時何きどってんだか、ぐらいに思ってしまった。与謝野晶子さんの同じタイトル『歸途』という詩が好きで、それをネットで検索している時にたまたま見つけた詩だった。
与謝野晶子さんは、定型詩より自由詩の方が好きだ。彼女の文章には、否定形が少ない。「あるがまま」っていうよく言われている評を繰り返すつもりはない。
繰り返すつもりは「ない」。
私の文章には否定形が多い。私の近代的自我がそう書かせている。それも私なんだけど。
過食症、拒食症、宮台真司さんが言う、ギャルが感じる<システム>を生きる痛み。私だけじゃない。でも私だけ。間違って、「いない」。
痛みさえ虚構だと言われ、納得できてしまう私は、やっぱり死んでいるのだろう。
ギャルも私も、ただのヒステリー。
私は、文章を書くことは、排泄行為だと思う。文章は糞便。死した自己。吐瀉物でもいい。ギャルだったらその方がいいだろう。モデルみたいじゃん。私はギャルじゃないので糞便と書く。私の文章は糞便だ。この文章も、糞便である。
私は科学を「死」の学問だと思っていた。「確かなもの」化は死へ向かうことだと思っていた。違った。確かなものを壊すことが「死」なのだ。当たり前じゃん。
なら、私は、「死」を愛好していたことになる。二階堂奥歯さんの本を読んで突き刺さったのは、これだ。
真理なんてない、とデリダやラカンは言っているように思えた。確かなものなんてない、と。完全な確かなものなんてない。それこそ「死」だから。当たり前だ。
でもそれで、私は救われたと思った。真理とかいうわけのわからないものの暗喩作用を受けた言葉たちの世界。男性から課せられたそんな世界に押し潰されていた私にとっては、天井が開け、夜空が見えたように思えた。中村雄二郎さんの『魔女ランダ考』では、窓の外にしか見えなかった夜空が、大きく頭上に広がった。ラカンは私に、相対主義という、「他者の海」に漂っていていいんだよ、と言ってくれた。そして裏切られた。裏切られたんじゃない。私の近代的自我が、凍えるような夜空の下で、焚き火にあたりながら、耳元で、以前よりもっと素直な、優しい口調で、「お前は死んでいる」と言うようになっただけだ。お前はケンシロウか。
――しちょうせいなんてみえません。
ラカンはケンシロウだった。
ラオウじゃないだけ、マシ。
ラオウの方がスキだったから。
科学さん、私の、母性を殺してくれて、ありがとう。
精神分析さん、死んでいることに気づかせてくれて、ありがとう。
――遺書みたいだな、おい。
死なないよ、私は臆病だから。
臆病だから、おでぶなマダムが抱えている服着た子犬のように、吠えるしかないのです。
精神分析医の藤田博史さんは、日本人はフェティシストだと言う。
フェティシスム、いいじゃない。うざっこい近代的自我に「死んでいる」とか言われながら生きていくより、よっぽど、マシ。
オタク文化。気に食わないところはあるけど、オタクたちは、正しい。マニアたちは、正しい。日本人は、正しい。
死につつ生きていることの、最後のあがき。偶像崇拝ってそうでしょ。死んでいる偶像に想像的同一化しているから生きてけるんじゃん。死にながら、生きていけるんじゃん。
でも、オタクたちはキモイ。それは仕方ない。反論されても、そう感じてしまうのだから、ごめん、としか言えない。この方が、何故キモイかを精神分析理論とかで延々語られるよりマシ? もしかして。でも不快なものがスキだったりする人だから、私。ごめんね。
でもさ、オタクたちや日本文化を女性化しているとかってゆってることが、女性は「生」と「死」両方を生きているってことになるじゃん。フェティシスムってそういうもんなんでしょ?
だから、オタクたちは、間違って、「いない」。
西洋文化、ってゆっか、キリスト教が、偶像崇拝禁止して、「父」と「子」と「聖霊」ってゆって女性恐怖症まんま体現してたりするのよか、よっぽどオタクたちは、健全。自らを女性化しているんだから。健全っていうのは、私がそう思う「感じ」ってことね。生の欲動とか死の欲動とか関係なしに。ってゆうか、
オタク文化>>>>(超えられない壁)>>キリスト教
って感じ。
今のキリスト教とか、精神病患者の回復期みたいな「感じ」がする。もっそい大人しくなっちゃってる、あんな感じ。キリスト教の人ごめんね。そんで精神病患者を蔑んでいるわけでもないですよ。そう感じてしまうんだから仕方ないのです。無知だから仕方ないのです。なんせ女性は超自我が未熟なわけですから、感じたまま書いてしまうのは仕方ないのです。もしかしたら私が精神患っているのかもしれませんね。
ヒロリン
非論理的と打とうとして間違えた。誰だよヒロリンって。ヒロシって男がいたとしてもわたしゃヒロリンなんてヨバネーヨ。
非論理的な文章でございました。ええそうです。だって論理的言説自体男が作ったシステムじゃん? 去勢だかなんかしんないけどファルスってゆう真理っぽいものの暗喩作用を受けた言葉たちを、交通整理しようとしたのがロゴスなわけじゃん。他人に糞便食べさせる学問ってシステムを作ろうとして、対象a的な、そんなかんじぃ、っていう感じとか、わかった、論理的みたいな感じでいうと、感情論とかパトスとか主観みたいなんを排除してきたんでしょ?
だーれが他人の土俵で相撲とりたがるよ。
精神分析なんてやるもんじゃないね、女のカンってやっぱりすごい。
でもおもしろいからやるお。やるおAA実はスキだ。
近頃おもしろい映画も小説もテレビも演劇もないじゃん。CSI4スキだったけどおわっちったし。精神分析はそういう意味でおもしろい。ミステリなんて子供だましに見えるべ。特にラカンとか。わざとなんじゃね? ラカン。エンターテイナーでした。ラカン。つか、ちょっとわかりにくい芸人みたいだ。ラーメンズとか、あのへん。ラカン。ラしか合ってないけど。つかマックのCMあれどうよ?
鳥肌実みたいな思想家現れないかね、むちゃくちゃはまりそうだ。
え? ネット右翼? あんなも(ry
雰囲気の問題です。
あ、あと蓮實重彦は芸人です。嫌いだけど。
こう、渡邊守章さんみたいなぷりちーな学者っていないもんかね。実際話すと怖い人かもしれんけど。ぷりちー撤回しとこ。いやまじでスキです。渡邊守章さん。放送大学とかにちょこっと出てたお。
――よし、立ち直った。
よかった、簡単な人間で。
補足。AFTER SEVENさんに言われたけど、2ちゃんの哲学板なんて行かないよ。言われてちょっと覗いたけど荒しばっかやん。記念にやるおAAはっといた。何スレか忘れたけど。最近はぬ即とラウンジの鑑定スレぐらい? あと運用板。あと政治経済系。株やってるから。vipは飽きた。そんぐらい、です。あ、切込隊長訴訟スレはブクマしてたりする。書きこんだことないけどね。
はあ……。