現代そのものが対人恐怖症である。
2009/10/06/Tue
マンガを読んでいる夢。マンガだけを読んでいる。その他は何もない。その他つまりマンガ以外は何もないのに、マンガを読んでいるのはわかる。
小笠原朋子さんの四コママンガだった。主人公はヨソジになってしまったキャリアウーマン。へたしたら年齢差が親子でもいけるという社会人一年生の彼氏と付き合っている。うおーわたしの欲望ばりばりっぽいじゃん。っていうか違う人の作品だけど『お父さんは年下』とかそうだよな。でもこの主人公は、周りから「若い頃はイケイケだったんだろうな」などと思われているにも関わらず極度の奥手なだけだった、という設定。プレゼンや上司とのやり取りなんかはテキパキとできるんだが、男性とそういう会話(と自分が意識して)するとなると途端にだんまりになる。まあそんなんで仕事で徹夜明けなんてよくあるんだが彼氏と会うとなるとしっかり化けてから会うとかってネタもあった。彼氏の方は小笠原さんが描く「普通の男の子」って感じだったなあ。特筆すべきことはない。小笠原作品読めば「ああ大体こういう感じ」とわかると思う。その彼氏の親に挨拶しにいくエピソードもあって、母親と三つしか違わないのだが、母親曰く「まだ(三つでも)年下でよかった。年上だったら反対していた」ってネタとか。酒が入ってなんだかんだ主人公と母親は意気投合し、しまいには母親が旦那(つまり彼氏の父親)と別れるなどと言い出したり。でも主人公はやっぱウブこいんだな。年相応にスレてはいるけど中身は全然っていう。んで一番印象に残っているエピソードがこういうのだった。彼氏と待ち合わせしているんだけどなかなか来ない。主人公は「この年まで待ったんだから待ち慣れてるってなもんよ。このぐらいどうってことないわ」状態なんだが、彼氏の友人で主人公も顔を知っているサラリーマンが、たまたま近くで同じように待ち合わせしている。隠れながらそれを観察する主人公。自分と同じくなかなか待ち人が来ないサラリーマン。主人公はなぜか「さみしい」と感じる。ヨソジになる今の今まであまり感じてこなかった「さみしい」という気持ち。自分と同じ境遇の人間を見てやっと「さみしい」と思えるようになったわけだ。そこへ彼氏から電話が来て、泣いてしまう主人公。「どうした?」「なんでもない」というありがちな会話。一方そのサラリーマンの待っていた相手とは母親で、そいつはマザコンなだけでした、というオチだった。
まあ普通に鏡像段階っていうよか間主観的自己感の形成で説明できるエピソードなんだが(むしろ間主観的自己感の形成をうまく説明できる道具として有効だと思う)、わたしは違うことを考えながら読んでいた。
待っている。主人公は待ち続けていた。白馬の王子様ってわけではないが、揶揄的に「白馬の王子様を待っている妄想お姫様状態」だとは言える。昔の少女マンガの読者たち。主人公は(外面は年相応に成長したが中身は)そのまんまでヨソジになってしまった。
こんなことを考えていると、「待ってるだけじゃだめ、自分からつかみ取らなきゃ」みたいな反論が浮かぶ。わたしは「待っているのもつかみ取るのも同じ行為で、そう違わないじゃん」と思う。夢の中で。結局「待ってるだけじゃだめ、自分からつかみ取らなきゃ」っていうのはコミュニケーション術におけるアドヴァイスにすぎないわけだ。今の言葉なら「肉食系/草食系」なんてただのコスプレにすぎないってわけ。精神分析的な問題で、内因的な問題では全くない。「人とどうコミュニケーションすればいいか」というコミュニケーション術の一つの指標にすぎない。おらおらネット上のなんちゃってラカニアンども「肉食系/草食系」を分析しろよ。これほど精神分析的な症状ないぜ。ああお前らひきこもりだもんな。お前の自己愛が傷つく可能性があるからできないのか。
こう考えると現代っておそろしく対人恐怖症だなあ、と思う。現代そのものが対人恐怖症。「肉食系/草食系」なんて流行り言葉一つにそれが凝縮されている。
まあそんなことを夢の中で考えていました、って話。
以下は起きてから考えたこと。
夢か夢ではないかの違いとはなんだろう。ラカンは「胡蝶の夢」を引き合いに出し、「自分が今いるのは夢か現実か」とメタ視点で考えられるのが夢ではない証拠だ、と言う。夢の中の蝶は自分の世界が夢だと疑っていない、と。
しかしわたしは夢の中でマンガを読んでいる。マンガであり現実ではないと。マンガの世界に入り込んでいるわけではない。その証拠にわたしはマンガを分析している。夢の中のわたしはそれが現実ではないと知っている。他の夢になるが、うすうす「これは夢だな」と思う夢もある。普通にあるだろう、そんなの。
ラカンの論も破綻している、と思う。
夢はメタ視点を取れない。そんなの嘘だ。メタ視点そのものが嘘なんだ。メタ視点そのものが本気で嘘だとなるならば、メタ視点を本気で信じられなくなったら、夢と現実は混淆する。これは内因的な機制でそうなるのだとわたしは思う。これが症状化したものが解離症状だとするなら、「なぜ解離になるのか」は精神分析的な問題だとしても、解離そのものは内因的な機制による、という話である。また、昔の少女マンガの読者「白馬の王子様を待っている妄想お姫様」たちは、症状化していないだけで、解離していた、とも言えるだろう。
小笠原朋子さんのタッチいいよな。「全てが嘘」っぽくて。
わたしは待ってすらいないかもしれない。他人が勝手に「待っている」とわたしを妄想化しているだけで。少女マンガの読者もそうかもしれないね。この主人公もそうかもしれない。たまたま彼氏ができた今から見て過去を「待っている」と言っているだけで。そうだね、「待っている」から「さみしく」なる。別に待ってはいなかったからヨソジの今まであまり「さみしい」と感じてこなかった。おそらく他人からは「さみしい人生」と言われるような生き方だったけれど本人は「さみしい」と感じていなかった。
「この子は(白馬の王子でもなんでもいいけどさ)待っている」って妄想化が、一種の「つかみ取り」なんだよ。
なーにが草食系だ。内面はばりばり肉食じゃねえの? 肉食動物がエサを取れないから「草食だ」って言い訳してるだけでさー。「すっぱいブドウ」か(タカトシのノリで)。
あ、ちなみに言っておくけどここで「夢と現実」と言っている「現実」はラカン的な意味ではない一般的語用における「現実」だな。
わたしにとっては夢の方が一般的語用における「現実」臭い。
幼児虐待の現場。しかしこの世界ではそれを幼児虐待と呼ばない。「幼児虐待」という概念はあるのだが、わたしの考える幼児虐待とは意味が違うようだ。彼らがやっていることは適切な教育である。「そうなんだ」としか思わない。
虐待されているのは宇宙人グレイのような子供。グレイよりかは人間の形をしている。だけどところどころ皮膚が剥げ筋肉が露出している。グロい人形みたいだ。そんな人形を写真で見たことある。そんなこと言わなくても理科室にある人体模型みたいなものか。あれがグレイっぽくなっている感じ。
筋肉の露出している部分が養育者の足首に触れる。養育者は汚いものに触れてしまったという顔をし、そこをタオルで拭く。養育者からは養豚場の臭いがする。グレイからも糞尿が混じったような臭いがするが、混じっているせいか「そういうものだな」としか思わない。濃度を高めた養豚場の臭いの方が不快だ。
養育者は養豚場の臭いのするエサをグレイとわたしに与える。わたしは食べない。グレイは食べる。もしかしたらわたしは死んでいるのかもしれない。腐っている。グレイにその臭いが移っているから、グレイの臭いはどうでもいいのかもしれない。わたしのように腐ってしまってないから、グレイは虐待されているのだろう。
そんなわたしから見ればグレイは人間になりたがっているように見える。虐待を受けながら養育者のような人間になりたがっている。わたしも生きているうちはそうだったのかもしれない。腐っているので忘れてしまったが。
でもグレイは人間ではないのだから、人間になれない。養育者たちはそれを虐待と思ってないのだから、虐待は終わらない。
「学校へ行く時間だよ」
養育者が言う。
グレイは棺桶のような箱に入る。
これは今で言うインターネットのようなもので、家にいながら学校教育を受けられるという代物だ。双方向通信で、教師からも生徒からもお互いの様子が伺える。生徒同士も大体この通信でやり取りする。
実際に会うことはない。ここは宇宙船の中だから。一人一人が別々の宇宙船に乗っている。出られない。外は汚染されているから。一歩外に出れば畜生に堕してしまうから。畜生どもは外でも宇宙船の中でも生きられる。このグレイのように。ただ中の人間に殺されることが多い。わたしのように。
棺桶は、グレイの素顔や環境を、他の人間から見てよく見えるようにする、いわばCG装置だ。棺桶の中ではグレイは普通の人間だ。普通の環境を生きている。
どうやらグレイはそのCGを現実と思い込んでいるらしい。
一度はグレイに教えてやりたいと思ったこともあるが、今はどうでもいい。
本当にCGが現実になるのか、宇宙人が、畜生が人間になれるのか、わたしはただ理科の実験のように観察している。
養育者たちの挙動も含め。
理科の実験に主人公はいない。
お茶がカルキ臭い。消毒してくれ。
これが始まらなかったのでこっちやってる。
「子犬が嫌がってたとしても、私は抱きしめちゃうなあ」
この子はバカだった。いわゆるドジッ子。バカであることで自分を防衛している子。だから過剰なバカになる。キャラクター臭い。嘘臭い。
「なんで?」
「抱きしめたいなら、抱きしめてあげるべきだと思うから」
「お前西洋に生まれた方がよかったかもね」
「なんで?」
「さあ」
断頭コンプレックス。いやコンプレックスになっていない。そんな立派なものじゃない。断頭している。断頭のさなか。ガスッ、とその音が聞こえてきそうだ。
「こないだのアニメさあ……」
断頭終了。話を変えてくる。
彼女は自己防衛でくるくると話を変えている。話を変えること自体は別に構わない。変えるたびに断頭の音が聞こえてくるのが嫌なのだ。
「お前ってバカだよな」
何度そう言ったことか。
「バッカでええす」
言われ慣れているバカに言葉のナイフは通用しない。
彼女は強い。なんでそんなに強いんだ。
「その子犬は、本当に抱かれるのが嫌なのかもしれない。病気か何かで、触れるもの全てに痛みを感じてしまう犬かもしれない」
「そんなのかわいそう」
「もしそうだったら、それでも抱きしめる?」
「泣きながら抱きしめる」
ああ、やっぱ強い。強すぎる。
小笠原朋子さんの四コママンガだった。主人公はヨソジになってしまったキャリアウーマン。へたしたら年齢差が親子でもいけるという社会人一年生の彼氏と付き合っている。うおーわたしの欲望ばりばりっぽいじゃん。っていうか違う人の作品だけど『お父さんは年下』とかそうだよな。でもこの主人公は、周りから「若い頃はイケイケだったんだろうな」などと思われているにも関わらず極度の奥手なだけだった、という設定。プレゼンや上司とのやり取りなんかはテキパキとできるんだが、男性とそういう会話(と自分が意識して)するとなると途端にだんまりになる。まあそんなんで仕事で徹夜明けなんてよくあるんだが彼氏と会うとなるとしっかり化けてから会うとかってネタもあった。彼氏の方は小笠原さんが描く「普通の男の子」って感じだったなあ。特筆すべきことはない。小笠原作品読めば「ああ大体こういう感じ」とわかると思う。その彼氏の親に挨拶しにいくエピソードもあって、母親と三つしか違わないのだが、母親曰く「まだ(三つでも)年下でよかった。年上だったら反対していた」ってネタとか。酒が入ってなんだかんだ主人公と母親は意気投合し、しまいには母親が旦那(つまり彼氏の父親)と別れるなどと言い出したり。でも主人公はやっぱウブこいんだな。年相応にスレてはいるけど中身は全然っていう。んで一番印象に残っているエピソードがこういうのだった。彼氏と待ち合わせしているんだけどなかなか来ない。主人公は「この年まで待ったんだから待ち慣れてるってなもんよ。このぐらいどうってことないわ」状態なんだが、彼氏の友人で主人公も顔を知っているサラリーマンが、たまたま近くで同じように待ち合わせしている。隠れながらそれを観察する主人公。自分と同じくなかなか待ち人が来ないサラリーマン。主人公はなぜか「さみしい」と感じる。ヨソジになる今の今まであまり感じてこなかった「さみしい」という気持ち。自分と同じ境遇の人間を見てやっと「さみしい」と思えるようになったわけだ。そこへ彼氏から電話が来て、泣いてしまう主人公。「どうした?」「なんでもない」というありがちな会話。一方そのサラリーマンの待っていた相手とは母親で、そいつはマザコンなだけでした、というオチだった。
まあ普通に鏡像段階っていうよか間主観的自己感の形成で説明できるエピソードなんだが(むしろ間主観的自己感の形成をうまく説明できる道具として有効だと思う)、わたしは違うことを考えながら読んでいた。
待っている。主人公は待ち続けていた。白馬の王子様ってわけではないが、揶揄的に「白馬の王子様を待っている妄想お姫様状態」だとは言える。昔の少女マンガの読者たち。主人公は(外面は年相応に成長したが中身は)そのまんまでヨソジになってしまった。
こんなことを考えていると、「待ってるだけじゃだめ、自分からつかみ取らなきゃ」みたいな反論が浮かぶ。わたしは「待っているのもつかみ取るのも同じ行為で、そう違わないじゃん」と思う。夢の中で。結局「待ってるだけじゃだめ、自分からつかみ取らなきゃ」っていうのはコミュニケーション術におけるアドヴァイスにすぎないわけだ。今の言葉なら「肉食系/草食系」なんてただのコスプレにすぎないってわけ。精神分析的な問題で、内因的な問題では全くない。「人とどうコミュニケーションすればいいか」というコミュニケーション術の一つの指標にすぎない。おらおらネット上のなんちゃってラカニアンども「肉食系/草食系」を分析しろよ。これほど精神分析的な症状ないぜ。ああお前らひきこもりだもんな。お前の自己愛が傷つく可能性があるからできないのか。
こう考えると現代っておそろしく対人恐怖症だなあ、と思う。現代そのものが対人恐怖症。「肉食系/草食系」なんて流行り言葉一つにそれが凝縮されている。
まあそんなことを夢の中で考えていました、って話。
以下は起きてから考えたこと。
夢か夢ではないかの違いとはなんだろう。ラカンは「胡蝶の夢」を引き合いに出し、「自分が今いるのは夢か現実か」とメタ視点で考えられるのが夢ではない証拠だ、と言う。夢の中の蝶は自分の世界が夢だと疑っていない、と。
しかしわたしは夢の中でマンガを読んでいる。マンガであり現実ではないと。マンガの世界に入り込んでいるわけではない。その証拠にわたしはマンガを分析している。夢の中のわたしはそれが現実ではないと知っている。他の夢になるが、うすうす「これは夢だな」と思う夢もある。普通にあるだろう、そんなの。
ラカンの論も破綻している、と思う。
夢はメタ視点を取れない。そんなの嘘だ。メタ視点そのものが嘘なんだ。メタ視点そのものが本気で嘘だとなるならば、メタ視点を本気で信じられなくなったら、夢と現実は混淆する。これは内因的な機制でそうなるのだとわたしは思う。これが症状化したものが解離症状だとするなら、「なぜ解離になるのか」は精神分析的な問題だとしても、解離そのものは内因的な機制による、という話である。また、昔の少女マンガの読者「白馬の王子様を待っている妄想お姫様」たちは、症状化していないだけで、解離していた、とも言えるだろう。
小笠原朋子さんのタッチいいよな。「全てが嘘」っぽくて。
わたしは待ってすらいないかもしれない。他人が勝手に「待っている」とわたしを妄想化しているだけで。少女マンガの読者もそうかもしれないね。この主人公もそうかもしれない。たまたま彼氏ができた今から見て過去を「待っている」と言っているだけで。そうだね、「待っている」から「さみしく」なる。別に待ってはいなかったからヨソジの今まであまり「さみしい」と感じてこなかった。おそらく他人からは「さみしい人生」と言われるような生き方だったけれど本人は「さみしい」と感じていなかった。
「この子は(白馬の王子でもなんでもいいけどさ)待っている」って妄想化が、一種の「つかみ取り」なんだよ。
なーにが草食系だ。内面はばりばり肉食じゃねえの? 肉食動物がエサを取れないから「草食だ」って言い訳してるだけでさー。「すっぱいブドウ」か(タカトシのノリで)。
あ、ちなみに言っておくけどここで「夢と現実」と言っている「現実」はラカン的な意味ではない一般的語用における「現実」だな。
わたしにとっては夢の方が一般的語用における「現実」臭い。
幼児虐待の現場。しかしこの世界ではそれを幼児虐待と呼ばない。「幼児虐待」という概念はあるのだが、わたしの考える幼児虐待とは意味が違うようだ。彼らがやっていることは適切な教育である。「そうなんだ」としか思わない。
虐待されているのは宇宙人グレイのような子供。グレイよりかは人間の形をしている。だけどところどころ皮膚が剥げ筋肉が露出している。グロい人形みたいだ。そんな人形を写真で見たことある。そんなこと言わなくても理科室にある人体模型みたいなものか。あれがグレイっぽくなっている感じ。
筋肉の露出している部分が養育者の足首に触れる。養育者は汚いものに触れてしまったという顔をし、そこをタオルで拭く。養育者からは養豚場の臭いがする。グレイからも糞尿が混じったような臭いがするが、混じっているせいか「そういうものだな」としか思わない。濃度を高めた養豚場の臭いの方が不快だ。
養育者は養豚場の臭いのするエサをグレイとわたしに与える。わたしは食べない。グレイは食べる。もしかしたらわたしは死んでいるのかもしれない。腐っている。グレイにその臭いが移っているから、グレイの臭いはどうでもいいのかもしれない。わたしのように腐ってしまってないから、グレイは虐待されているのだろう。
そんなわたしから見ればグレイは人間になりたがっているように見える。虐待を受けながら養育者のような人間になりたがっている。わたしも生きているうちはそうだったのかもしれない。腐っているので忘れてしまったが。
でもグレイは人間ではないのだから、人間になれない。養育者たちはそれを虐待と思ってないのだから、虐待は終わらない。
「学校へ行く時間だよ」
養育者が言う。
グレイは棺桶のような箱に入る。
これは今で言うインターネットのようなもので、家にいながら学校教育を受けられるという代物だ。双方向通信で、教師からも生徒からもお互いの様子が伺える。生徒同士も大体この通信でやり取りする。
実際に会うことはない。ここは宇宙船の中だから。一人一人が別々の宇宙船に乗っている。出られない。外は汚染されているから。一歩外に出れば畜生に堕してしまうから。畜生どもは外でも宇宙船の中でも生きられる。このグレイのように。ただ中の人間に殺されることが多い。わたしのように。
棺桶は、グレイの素顔や環境を、他の人間から見てよく見えるようにする、いわばCG装置だ。棺桶の中ではグレイは普通の人間だ。普通の環境を生きている。
どうやらグレイはそのCGを現実と思い込んでいるらしい。
一度はグレイに教えてやりたいと思ったこともあるが、今はどうでもいい。
本当にCGが現実になるのか、宇宙人が、畜生が人間になれるのか、わたしはただ理科の実験のように観察している。
養育者たちの挙動も含め。
理科の実験に主人公はいない。
お茶がカルキ臭い。消毒してくれ。
これが始まらなかったのでこっちやってる。
「子犬が嫌がってたとしても、私は抱きしめちゃうなあ」
この子はバカだった。いわゆるドジッ子。バカであることで自分を防衛している子。だから過剰なバカになる。キャラクター臭い。嘘臭い。
「なんで?」
「抱きしめたいなら、抱きしめてあげるべきだと思うから」
「お前西洋に生まれた方がよかったかもね」
「なんで?」
「さあ」
断頭コンプレックス。いやコンプレックスになっていない。そんな立派なものじゃない。断頭している。断頭のさなか。ガスッ、とその音が聞こえてきそうだ。
「こないだのアニメさあ……」
断頭終了。話を変えてくる。
彼女は自己防衛でくるくると話を変えている。話を変えること自体は別に構わない。変えるたびに断頭の音が聞こえてくるのが嫌なのだ。
「お前ってバカだよな」
何度そう言ったことか。
「バッカでええす」
言われ慣れているバカに言葉のナイフは通用しない。
彼女は強い。なんでそんなに強いんだ。
「その子犬は、本当に抱かれるのが嫌なのかもしれない。病気か何かで、触れるもの全てに痛みを感じてしまう犬かもしれない」
「そんなのかわいそう」
「もしそうだったら、それでも抱きしめる?」
「泣きながら抱きしめる」
ああ、やっぱ強い。強すぎる。