動物の学校
2009/10/17/Sat
中高一貫の学校。校舎自体は大きい。四階、五階建てで、一学年九クラスまでなら教室を割り当てられるだろう。しかし生徒数は少ない。今何クラス機能しているかわからないが、そのクラスには十五、六人しかいない。
家庭科などクラス合同の授業もあるが、生徒は他のクラスのことについてほとんど何も知らない。だから一学年に何クラスあるのかもわかっていない。想像はできるが、三クラスしかないと思っている生徒もいれば、自分たちが見えてないだけで九クラスとも機能していると思っている生徒もいる。
他のクラスどころか、クラスメートにでさえ彼らは無関心である。それには理由があるのだが、後述する。
こんな表現すると、すさんでいるような印象を持たれるかもしれないが、生徒たちは実に行儀がよい。まじめである。品行方正。まるでロボットのようだ。
授業中はとても静かだ。チョークが黒板を叩く音、シャーペンがノートを削る音、教科書のページが擦れる音が、沈殿物のように聞こえてくるだけ。
休み時間はそこそこ会話する声が聞こえる。しかし他の学校によくいるような、不必要に大声を出す生徒はいない。週に何度かそのような声が聞こえてくるが、大体が病的なものだ。そのような生徒はカウンセリングを受けることができる。そういった対応もしっかりしている学校だった。
生徒たちが非常に大人しい理由と、クラスメートにでさえ無関心である理由は共通しているかもしれない。
この学校の校舎は、全部で一つの列車のようなものだった。
毎日別々の次元に移動する。校舎を出ると、見た目同じ風景なのだが、昨日とは別の時間が流れている。生徒たちは毎日別の時間が流れる世界へと帰っていく。では彼らの記憶は分断しているのかというとそうでもない。その時いる時空を基準にした記憶に加工される。分断していた記憶の断片は、大体辻褄が合う形で加工される。そうしないと死んでしまう。なぜならここで言う記憶の断片とは細胞のようなもの。自分の体の一部である。それらが分断されたままであるということは死ぬことになる。
いや、死なないかもしれないが、実際にそういった状況にいると、そのような感覚に陥る。「死」という表現自体がコンセンサスを得られないだろう。ある生徒は「自分が拡散していって、跡形もなく消えてしまう」などと表現するかもしれない。多少妄想癖のある生徒は「自分の体の部分部分がちっちゃなネズミになって、自分は人間だから、ネズミたちは自分から逃げていくんだ。でも全ての部分がネズミになっているから、自分っていう人間はどこにもいないんだ」と穏やかに述べた。少し年嵩の生徒は「町にいる野良犬たちって、群れているようで群れてない。僕にはそれがわかる。なぜなら野良犬たちは僕だから」と冷めた口調で吐き捨てていた。
生徒たちは毎日毎日この作業を行っている。これは大変な労力を必要とするので、他人のことまで気を遣ってられない。
それだけではない。前日まで会話していたクラスメートは、今日人格が変わってしまっているのだから、継続的なコミュニケーションが取れない。
おそらくこれらの理由から、生徒たちはあまり他人に興味を示さないのだろうと思われる。
昨日と今日で人格が変わっていても、名前は同じだ。顔や体格なども昨日と同じかもしれないが、名前が同じだからそう思ってしまうだけかもしれない。そもそも名前や顔や体格が昨日と同じだと思う自分に自信が持てない。自分自身が昨日とは違う自分だから。
学年主任をしているある教師はこんなことを言っていた。「私たちは教師というより動物園の調教師だ」と。暴行事件が多い学校で言われるのなら納得できもするが、こんなにも大人しい校風には似つかわしくないセリフだ。
しかしこの言葉は正しいのだ。
暴行事件が多い学校の生徒は、人間として暴れている。彼らは人間がベースで動物に戻りたがろうとしているだけである。
一方この学校の生徒たちは、もともとが動物なのである。教師や周囲の人間が人間に仕立て上げようとしている。
だから、学年主任の言葉の方が正しいのだ。
生徒たちは他人に無関心というより、周りに起こる出来事全てに対し緊張している、と言った方が正確かもしれない。まるで野良犬、野良猫のごとく。
生徒が普通だったら、この学校のイメージは軍隊のようなもの、と言えるかもしれない。しかしわたしには生徒たちを教師が串刺ししているように見える。これは教師たちへの批判ではない。彼らは彼らの仕事をまっとうしているだけと考えている。
そういえば、列車も連結しなければ、レールがなければ、おのおのばらばらに散らばってしまうだろう。教師たちの態度は学校という領土を保守しているようにも思えたことがあったが、そういうことだと思った。
先日、カウンセラーが校舎の中で殺害されていた。警察沙汰になったのだろう、と常識的に考えて思うが、警官を見かけた記憶がない。そもそもそんな事件があったかどうかも定かではない。
そういう学校だった。
家庭科などクラス合同の授業もあるが、生徒は他のクラスのことについてほとんど何も知らない。だから一学年に何クラスあるのかもわかっていない。想像はできるが、三クラスしかないと思っている生徒もいれば、自分たちが見えてないだけで九クラスとも機能していると思っている生徒もいる。
他のクラスどころか、クラスメートにでさえ彼らは無関心である。それには理由があるのだが、後述する。
こんな表現すると、すさんでいるような印象を持たれるかもしれないが、生徒たちは実に行儀がよい。まじめである。品行方正。まるでロボットのようだ。
授業中はとても静かだ。チョークが黒板を叩く音、シャーペンがノートを削る音、教科書のページが擦れる音が、沈殿物のように聞こえてくるだけ。
休み時間はそこそこ会話する声が聞こえる。しかし他の学校によくいるような、不必要に大声を出す生徒はいない。週に何度かそのような声が聞こえてくるが、大体が病的なものだ。そのような生徒はカウンセリングを受けることができる。そういった対応もしっかりしている学校だった。
生徒たちが非常に大人しい理由と、クラスメートにでさえ無関心である理由は共通しているかもしれない。
この学校の校舎は、全部で一つの列車のようなものだった。
毎日別々の次元に移動する。校舎を出ると、見た目同じ風景なのだが、昨日とは別の時間が流れている。生徒たちは毎日別の時間が流れる世界へと帰っていく。では彼らの記憶は分断しているのかというとそうでもない。その時いる時空を基準にした記憶に加工される。分断していた記憶の断片は、大体辻褄が合う形で加工される。そうしないと死んでしまう。なぜならここで言う記憶の断片とは細胞のようなもの。自分の体の一部である。それらが分断されたままであるということは死ぬことになる。
いや、死なないかもしれないが、実際にそういった状況にいると、そのような感覚に陥る。「死」という表現自体がコンセンサスを得られないだろう。ある生徒は「自分が拡散していって、跡形もなく消えてしまう」などと表現するかもしれない。多少妄想癖のある生徒は「自分の体の部分部分がちっちゃなネズミになって、自分は人間だから、ネズミたちは自分から逃げていくんだ。でも全ての部分がネズミになっているから、自分っていう人間はどこにもいないんだ」と穏やかに述べた。少し年嵩の生徒は「町にいる野良犬たちって、群れているようで群れてない。僕にはそれがわかる。なぜなら野良犬たちは僕だから」と冷めた口調で吐き捨てていた。
生徒たちは毎日毎日この作業を行っている。これは大変な労力を必要とするので、他人のことまで気を遣ってられない。
それだけではない。前日まで会話していたクラスメートは、今日人格が変わってしまっているのだから、継続的なコミュニケーションが取れない。
おそらくこれらの理由から、生徒たちはあまり他人に興味を示さないのだろうと思われる。
昨日と今日で人格が変わっていても、名前は同じだ。顔や体格なども昨日と同じかもしれないが、名前が同じだからそう思ってしまうだけかもしれない。そもそも名前や顔や体格が昨日と同じだと思う自分に自信が持てない。自分自身が昨日とは違う自分だから。
学年主任をしているある教師はこんなことを言っていた。「私たちは教師というより動物園の調教師だ」と。暴行事件が多い学校で言われるのなら納得できもするが、こんなにも大人しい校風には似つかわしくないセリフだ。
しかしこの言葉は正しいのだ。
暴行事件が多い学校の生徒は、人間として暴れている。彼らは人間がベースで動物に戻りたがろうとしているだけである。
一方この学校の生徒たちは、もともとが動物なのである。教師や周囲の人間が人間に仕立て上げようとしている。
だから、学年主任の言葉の方が正しいのだ。
生徒たちは他人に無関心というより、周りに起こる出来事全てに対し緊張している、と言った方が正確かもしれない。まるで野良犬、野良猫のごとく。
生徒が普通だったら、この学校のイメージは軍隊のようなもの、と言えるかもしれない。しかしわたしには生徒たちを教師が串刺ししているように見える。これは教師たちへの批判ではない。彼らは彼らの仕事をまっとうしているだけと考えている。
そういえば、列車も連結しなければ、レールがなければ、おのおのばらばらに散らばってしまうだろう。教師たちの態度は学校という領土を保守しているようにも思えたことがあったが、そういうことだと思った。
先日、カウンセラーが校舎の中で殺害されていた。警察沙汰になったのだろう、と常識的に考えて思うが、警官を見かけた記憶がない。そもそもそんな事件があったかどうかも定かではない。
そういう学校だった。