模型とスナック
2009/10/18/Sun
昼間のスナックというのも好きだ。営業していない時の。ドアを開け放ち、日光が隅々を照らしている。人工の光は方向性があるが、日光は無方向だな、と物理学的に間違った印象を抱く。
薄闇の中見えなかったところが浮かび上がる。みすぼらしい。いや、薄暗い営業中もみすぼらしい店なのだが、違ったみすぼらしさになる。夜中に遭遇する浮浪者と昼間に見かける浮浪者は印象が違う。
マスターがオリジン弁当を食べていた。確かもう六十を超えているはずなのによくそんなの食えるな、と思った。
店に入り、打ち合わせをする。「愛想なんかいらないからね」とマスターは笑う。店にいるわたしが無愛想だからそんなこと言うのだろうか。やっぱりやめたくなった。お金に困っているのは確かだが、死ぬほど困っているわけではない。そもそも本気で困っていたら飲み屋に来るわけがない。
このマスターは昔はやり手で、いわゆる裏の人たちとも渡り合って、街に数件店を出していたことがあるらしい。とてもそんな風に見えない。わたしのイメージはマギー司郎だ。
僕が手をかけた模型は、それで一つの世界であって、模型そのものだ。よく見かける模型は、作者の個性などといった作品性みたいなのがあって、時にそれが評価されたりするので、あまり気に入らない。それは作品であって模型じゃないと思う。模型と箱庭は違う。箱庭には使った人の願望や自己主張が込められている。僕が作りたいのはそんなのじゃない。だから僕の作りたい模型は他人に評価されない。
そんなの言い訳じゃないか、と思われるかもしれないが、本当にそうなのだ。僕は他人に見せるために模型を作っているわけじゃない。他人に見せるのは一種の実験だ。この模型は本当にそれで一つの世界になっているかどうかを確かめるために。見た人が好意を持つか悪意を持つか関係ない、ということは最近気づいた。相手の反応の、好意や悪意などといったことじゃないところを読み取るべきものだった。僕が確かめたい実験結果とは。
マギー司郎がうそぶく。「この店に○○ちゃんみたいなのはぴったりだよ」などと。そんなセリフ自体が、わたしの持っているこの店の印象とはズレている。だからマスターにそんなことを言ってほしくはなかった。もうやめたくなった。
時々来るチンピラもうざい。年増だからってなめられている気がする。働く前からうんざりする。
でも僕はそんなチンピラも模型の中に組み込む。自分が嫌いだから組み込まないとなると、それは模型じゃなくて作品になるからだ。
酒を飲むと店の隅々にまで意識が向く、向かない。全体像とは全体ではなくて隅々を削ぎ落としたものだ。しらふの時は無意識的に隅々を削ぎ落とす。しらふの時の方が、スナックならば営業中だ。酒が入ると、ある隅々に意識が向いたり向かなかったりする。しらふの時も酔っ払った時も等しく隅々を削ぎ落としているのだが、酔っ払った時は違う削ぎ落とし方になるので、それらを組み合わせることでより隅々が明確になるわけだ。模型はそういった作業の結果の全体像を反映しなければならない、と僕は考えている。
とはいえ、わたしがそのチンピラを嫌悪しているのは事実だ。近くに座られると移動したくなる。実際に移動なんかしたら、より向こうはわたしとの距離(物理的距離に限らない)を狭めてくるだろうからしないけど。そんな時わたしは置物になる。酒を飲む動作はロボットアームの動作。そういう状態はそういう状態でいい。ただ、ロボットの配線をショートさせる何かが後日噴き出してくるだけで。
ロボットの目線、というと語弊がありそうなので言いたくないが、妥協的にそういうことか、と思う。最終的に人が観察しないと言葉やイメージにならない。僕の作っている模型もしょせん言葉やイメージと同じものだ。僕という人からは逃れられない。僕は僕という人から逃げようとしているのではなくて、他人の中にある、その人たちが自分に纏わせる言葉やイメージを嫌悪しているだけだ。言葉やイメージそのものを嫌悪しているのではなく、その裏にいるその人を嫌悪してしまう。しかしその人の言葉やイメージはその人なくしては生まれてこなかったものだから、裏にいるそれをなくすことはできない。ただ、裏にもいろいろあって、その人じゃない裏も時々ある。それは、その人が関わっている他の人たちでもない裏だ。人じゃない裏。模型作品には時々そういったものがある。だから僕は模型を作り始めた。
そのチンピラはとても精神年齢が低い。バカだ。バカが酔っ払ってこんなことを口走った。「俺なんか生まなきゃよかったのにな、かーちゃんも」とか。いまどき中学生でも言わないようなセリフだ。中二病なんて便利な言葉もあったか。これだってそうだ。生まれてきてしまっているのは事実だ。「かーちゃん」を殺しても自分は存在する。模型を作った人間を殺しても模型は残る。ということは僕は母親を、自分を殺そうとしていることになる。
あながち間違いじゃないと思う。
僕が模型を作るのは、殺意と呼ばれる感情に似ている。わたしが他の客とコミュニケーションを取ろうとするのも、殺意に似ている。
それはただそうであるだけのことだ。僕は別に模型に自己主張を込めている奴らが憎いわけでも、わたしは別に他の客たちが憎いわけでもない。ただ似ているというだけ。
店の中が暗くなっていた。ドアが狭いせいか少し日が傾くと一気に暗くなる。隅々が見えにくくなる。「やっぱりやめます」とは言えない。模型に光を当てないわけにはいかない。まっくらにしたいわけじゃない。ただその方向も一つの手段として使っているだけ。わたしは。
子供を手元に置いておけばよかったのだろうか。いくら生活が苦しくてもそうすべきだったのか。そんなの無理。母子家庭なんてわたしはとっくに音を上げているだろう。父親には今ではむしろ感謝の念すら覚える。父親が帰ってくる前に今作っている模型を隠さなきゃいけない。それは父が殴り殺された部屋の模型だったから。殺しているのは僕とは限らない。ふらっと帰ってきた母かもしれないし、違うかもしれない。わたしとは限らない。
でも、血だけがうまく再現できない。チンピラを殴り殺すイメージに血が足りない。
話が済むと、一旦家に帰った。生まれたばかりの赤ん坊が待っているような気がしたけどそんなわけがなかった。わたしの息子だし立派な嘘つきに育っているだろう。父親もそうだった。
嘘を嘘だとする本当。そのための模型やスナックなのかもしれない。
誰かに操られているみたいだ。
親は養育者は子供を殺さなければならない。「ほどよい母」はほどほどのよくないところで子供を殺している。子供に対し無関心であるその瞬間赤ん坊は殺されている。
それで正しいのだ。正常人を育て上げるにはそうしなければならない。ウィニコットの論は正しい。
赤ん坊は何度も何度も親に殺されて正常人化させられていくのだ。
だから母殺しや父殺しとなる。復讐だ。いや心中だ。正常人化の最後の仕上げだ。
そういう話だな。単純。
薄闇の中見えなかったところが浮かび上がる。みすぼらしい。いや、薄暗い営業中もみすぼらしい店なのだが、違ったみすぼらしさになる。夜中に遭遇する浮浪者と昼間に見かける浮浪者は印象が違う。
マスターがオリジン弁当を食べていた。確かもう六十を超えているはずなのによくそんなの食えるな、と思った。
店に入り、打ち合わせをする。「愛想なんかいらないからね」とマスターは笑う。店にいるわたしが無愛想だからそんなこと言うのだろうか。やっぱりやめたくなった。お金に困っているのは確かだが、死ぬほど困っているわけではない。そもそも本気で困っていたら飲み屋に来るわけがない。
このマスターは昔はやり手で、いわゆる裏の人たちとも渡り合って、街に数件店を出していたことがあるらしい。とてもそんな風に見えない。わたしのイメージはマギー司郎だ。
僕が手をかけた模型は、それで一つの世界であって、模型そのものだ。よく見かける模型は、作者の個性などといった作品性みたいなのがあって、時にそれが評価されたりするので、あまり気に入らない。それは作品であって模型じゃないと思う。模型と箱庭は違う。箱庭には使った人の願望や自己主張が込められている。僕が作りたいのはそんなのじゃない。だから僕の作りたい模型は他人に評価されない。
そんなの言い訳じゃないか、と思われるかもしれないが、本当にそうなのだ。僕は他人に見せるために模型を作っているわけじゃない。他人に見せるのは一種の実験だ。この模型は本当にそれで一つの世界になっているかどうかを確かめるために。見た人が好意を持つか悪意を持つか関係ない、ということは最近気づいた。相手の反応の、好意や悪意などといったことじゃないところを読み取るべきものだった。僕が確かめたい実験結果とは。
マギー司郎がうそぶく。「この店に○○ちゃんみたいなのはぴったりだよ」などと。そんなセリフ自体が、わたしの持っているこの店の印象とはズレている。だからマスターにそんなことを言ってほしくはなかった。もうやめたくなった。
時々来るチンピラもうざい。年増だからってなめられている気がする。働く前からうんざりする。
でも僕はそんなチンピラも模型の中に組み込む。自分が嫌いだから組み込まないとなると、それは模型じゃなくて作品になるからだ。
酒を飲むと店の隅々にまで意識が向く、向かない。全体像とは全体ではなくて隅々を削ぎ落としたものだ。しらふの時は無意識的に隅々を削ぎ落とす。しらふの時の方が、スナックならば営業中だ。酒が入ると、ある隅々に意識が向いたり向かなかったりする。しらふの時も酔っ払った時も等しく隅々を削ぎ落としているのだが、酔っ払った時は違う削ぎ落とし方になるので、それらを組み合わせることでより隅々が明確になるわけだ。模型はそういった作業の結果の全体像を反映しなければならない、と僕は考えている。
とはいえ、わたしがそのチンピラを嫌悪しているのは事実だ。近くに座られると移動したくなる。実際に移動なんかしたら、より向こうはわたしとの距離(物理的距離に限らない)を狭めてくるだろうからしないけど。そんな時わたしは置物になる。酒を飲む動作はロボットアームの動作。そういう状態はそういう状態でいい。ただ、ロボットの配線をショートさせる何かが後日噴き出してくるだけで。
ロボットの目線、というと語弊がありそうなので言いたくないが、妥協的にそういうことか、と思う。最終的に人が観察しないと言葉やイメージにならない。僕の作っている模型もしょせん言葉やイメージと同じものだ。僕という人からは逃れられない。僕は僕という人から逃げようとしているのではなくて、他人の中にある、その人たちが自分に纏わせる言葉やイメージを嫌悪しているだけだ。言葉やイメージそのものを嫌悪しているのではなく、その裏にいるその人を嫌悪してしまう。しかしその人の言葉やイメージはその人なくしては生まれてこなかったものだから、裏にいるそれをなくすことはできない。ただ、裏にもいろいろあって、その人じゃない裏も時々ある。それは、その人が関わっている他の人たちでもない裏だ。人じゃない裏。模型作品には時々そういったものがある。だから僕は模型を作り始めた。
そのチンピラはとても精神年齢が低い。バカだ。バカが酔っ払ってこんなことを口走った。「俺なんか生まなきゃよかったのにな、かーちゃんも」とか。いまどき中学生でも言わないようなセリフだ。中二病なんて便利な言葉もあったか。これだってそうだ。生まれてきてしまっているのは事実だ。「かーちゃん」を殺しても自分は存在する。模型を作った人間を殺しても模型は残る。ということは僕は母親を、自分を殺そうとしていることになる。
あながち間違いじゃないと思う。
僕が模型を作るのは、殺意と呼ばれる感情に似ている。わたしが他の客とコミュニケーションを取ろうとするのも、殺意に似ている。
それはただそうであるだけのことだ。僕は別に模型に自己主張を込めている奴らが憎いわけでも、わたしは別に他の客たちが憎いわけでもない。ただ似ているというだけ。
店の中が暗くなっていた。ドアが狭いせいか少し日が傾くと一気に暗くなる。隅々が見えにくくなる。「やっぱりやめます」とは言えない。模型に光を当てないわけにはいかない。まっくらにしたいわけじゃない。ただその方向も一つの手段として使っているだけ。わたしは。
子供を手元に置いておけばよかったのだろうか。いくら生活が苦しくてもそうすべきだったのか。そんなの無理。母子家庭なんてわたしはとっくに音を上げているだろう。父親には今ではむしろ感謝の念すら覚える。父親が帰ってくる前に今作っている模型を隠さなきゃいけない。それは父が殴り殺された部屋の模型だったから。殺しているのは僕とは限らない。ふらっと帰ってきた母かもしれないし、違うかもしれない。わたしとは限らない。
でも、血だけがうまく再現できない。チンピラを殴り殺すイメージに血が足りない。
話が済むと、一旦家に帰った。生まれたばかりの赤ん坊が待っているような気がしたけどそんなわけがなかった。わたしの息子だし立派な嘘つきに育っているだろう。父親もそうだった。
嘘を嘘だとする本当。そのための模型やスナックなのかもしれない。
誰かに操られているみたいだ。
親は養育者は子供を殺さなければならない。「ほどよい母」はほどほどのよくないところで子供を殺している。子供に対し無関心であるその瞬間赤ん坊は殺されている。
それで正しいのだ。正常人を育て上げるにはそうしなければならない。ウィニコットの論は正しい。
赤ん坊は何度も何度も親に殺されて正常人化させられていくのだ。
だから母殺しや父殺しとなる。復讐だ。いや心中だ。正常人化の最後の仕上げだ。
そういう話だな。単純。