ゴミと死体
2009/10/20/Tue
薄暗い研究室のような部屋。大学の研究室ってすごい狭い。物がごちゃごちゃしてて。ちょっと大きな実験装置を搬入する時なんか廊下に物が露店状態になる。
朝っぽい。わたしが目を覚ましたからそう思うだけかもしれない。
わたしは下半身裸で、机のような物の上で寝ていた。
やばい、と思ってそこらに落ちている衣服を着る。薄暗くてよく見えないので、トレーナーのようなものを履こうとしたりする。そんなこんなでなんとか普通の格好になる。
演劇の先輩がやって来る。この人が来る前に服を着れてよかったと思う。
それ以外に、部屋では高校時代のクラスメート(だと思う)が、パソコンに向かって何やら打っていた。つまり下半身丸出しのわたしをほっぽって作業していたことになるが、あんまり話したことないしどうでもいいと思う。
こいつとは限らないが、わたしはレイプされたんじゃないかと思う。しかし痛みもないのでまあいいかと思う。
ナマコかイソギンチャクかよくわからない生物を飼っている水槽がある。底には釣り針のような折れ曲がった針が敷きつめられていた。こんなところでよく生きてられるな、と思う。
演劇の先輩が、向かいの部屋で宴会していた。駒場寮のようなきったない畳敷きの部屋。こういうところで酒盛りしてたのは覚えている。
廊下がないことに不安を覚える。
廊下は楽屋で、部屋は舞台の上だ。廊下ですれ違う人には、挨拶くらいは機械的にするかもしれないが、人として気を遣わなくていい。人だと思うと外を歩けない。この人は知り合いじゃないか、わたしは声をかけるべきじゃないか、など。こんなことを考え始めると廊下も舞台になる。
よくマンガで、小学生がいたずらしたら廊下に立たされるというのがあるが、あれは「人なるもの」の存在を認めないという作用になっているんだろうな。だから罰になる。この「人なるもの」はラカン的な意味での他者が根拠になっているので、他者に満ちた教室の中から追い出されると、「人なるもの」に対する破壊工作になる、というわけか。
どうだろう。立たされたことないからよくわからないが、わたしは立たされて楽になったりするのだろうか。小学生時代って人格発達の段階で重要ポイントだから、いわばファルスがむき出しになっている状態だから、罰となりえるのか。ファルスを隠蔽するのがうまくなった大人にやってもあんまり、ということか。
酒盛りしていると、部屋の隅にある物の陰に、グロテスクな生き物が死んでいるのを見つけた。水槽から逃げた奴かな、と思ったが、確認するのもめんどくさかった。眠かった。
起きてから、こんなシチュエーションで、「やっぱり高い酒はうまい」だかそんな話だったのだろう、「わたしは味なんてわからない。だから高い酒じゃなくて安い酒になりたい。わたしはカップ酒になりたい」というような論旨の発言をした記憶が浮かんだ。
まあ確かに安い女にはなったわな。
自然に発酵した猿酒じゃないがそんなものを飲んでみたレポーターが、思わず「まずい」って言ったのを思い出した。自然にできる酒はまずい。人間がいろいろ手を施してうまい酒ができる。うまさというのは人それぞれだが、大体の人間の味覚に適応した味が求められる。
酒って特にそういうところあるね。うまいまずいじゃなくて、どれだけ人の手がかかったかが価値基準になっている。
洋酒なんかは、古い酒は味や香りが濃厚になっている。だけど決してうまいってわけじゃない。それなら大量生産のバーボンとかの方が飲みやすい。古い酒の方が自然っぽい。だけど価値が高くなっている。
カップ酒なんかも工場では驚くべき人の手がかかっていると言えるだろう。その機械を作る労力まで考えれば。
逆だな。
まあ容姿がイマイチだし「脇役とかでも使いやすい役者になりたい」って意味だったんだろうけどね。その時のシチュエーションを考慮すると。役者がんばってた時期か。合ってるな、駒寮での記憶なら。時系列的に。
でも安い酒って後に残るよな。二日酔いがきつい。ワインが基本的にだめなんだが、安いワインはほんと死にそうなぐらい次の日がきつい。でも高いワインはそうでもなかったんだよな。翌日びっくりしたもん。
カップ酒を目指した役者は、悪い形で後味が残る役者になるわけか。大量の人の手を施された自然の発酵酒が復讐しているみたいだ。
ゴミだな。蓋をしても臭ってしまう。燃やしたり地中深くに埋めない限り。
死体と一緒だな。ゴミの処理の仕方って。リサイクルなんかは臓器移植になるのか。
だけど「死体とゴミは別物」って言うのが「人なるもの」のマジックなんだよな。『寄生獣』ってマンガで、死んだ野良猫をゴミ箱に捨てる主人公ってシーンがあったが、そういうことだと思う。あああれはいいシーンだな。主人公が寄生された未知の生物からの影響でどうにかなっていく途中、って感じだったんだけど、どうにかなってる感としてはうまいよな。精神分析論でとやかく言えるし。「フォルト・ダー遊びをしていた幼児期がなくなりつつある」とかになんのか。
ホモサピエンスは「死体とゴミは別物」だけど、ネアンデルタール人は同じだったかもしれない。ネアンデルタール人も葬儀らしきことはしていたらしいが、ゴミの処理と同じ感覚だったかもしれない。
ああそうか。なんかネアンデルタール人も葬儀をやっていたから宗教はホモサピエンスだけのものじゃない、みたいなことをキチガイ宗教学者が言ってたが、違和感あったんだよな。そりゃ臭い物は埋めたり焼いたりするだろうて、知恵はあるんだから、って。西原理恵子が水槽の中で腐った亀かなんかを埋めたのもそういうことっしょ。
ホモサピエンスには「人なるもの」があってネアンデルタール人にはない、というわたしのジョーク的仮説を採用すると、ネアンデルタール人も確かにホモサピエンスと似たような「死体処理方法」を取っていたかもしれないが、ホモサピエンスにとっての葬儀などという意味はなかったはずだ、となるわけだ。
最近「キチガイの行動学」みたいなものを考えていたのだが、行動結果は正常人とあまり変わらないということに気づいた。傍から見れば同じことをやっている、と。しかしそういった言動の解釈を変えなければならない、という話。言動の原因が違う。同じ死体処理方法だったとしても、ゴミ処理と同じように合理的工夫の結果なのか、そこに葬儀などといった意味を付加しているのか。
正常人の言動には意味が付加されている。全てに。(ラカン風に言えば)常に既に。
むしろ合理的工夫の結果であるただの言動に、後付で意味を付加している、と考えるべきだろう。ネアンデルタール人が行っていた合理的死体処理方法に、ホモサピエンスは葬儀という意味を付加した、と。
「死の恐怖」はネアンデルタール人にもキチガイにもある。ビオンはそれをβ要素と呼んだ。
キチガイの攻撃的態度は動物の威嚇のようなものだが、正常人のそれはたとえばエディプスコンプレックスだ、などという風に意味を付加している。精神分析は。ビオンはそれをα要素と呼んで論じた。
正しいよな。それらは全て後天的なんだから。フロイトは神経生理学者だったくせに後天的要素ばっかり考えていたバカだった。
斎藤環は「PS/OS」などという区分を創作し、「PS側の人間(精神分析家など)はOS側(内因性精神疾患、統合失調症や鬱病など)に口出すな」とか言っているが、フロイトは逆だったんだよな。OS側の人間がPS側に口出した。というよりPSという領域を学問の世界に放り込んだ。
たまきんもわかってねーな。まあ精神分析家じゃなくて精神科医だし、そうわきまえるのはありだよな。要するに「モノホンのキチガイには近寄るな」ってことだが、これは精神科医として正しいよ。精神科医たちは絶対に否定するけど「狂気は伝染する」という事実を肌身で知っているのが彼らなんだから。狂気が伝染しないためにその事実を否定しなきゃなんない。PS側の人間はわきまえなくてはならない。ラカンが「女(ファルスのない人間)は存在しない」としたように。
なるほどなー。
構造主義の構造って物理的法則になるんじゃね? 最終的に。その直前で怖気づいて、死んだ野良猫をゴミ箱に捨てれなくて、ナンセンスマンガのような手法に走ったのがポストモダンか。
おもろいな君たち。まるで2ちゃんねらだ。
朝っぽい。わたしが目を覚ましたからそう思うだけかもしれない。
わたしは下半身裸で、机のような物の上で寝ていた。
やばい、と思ってそこらに落ちている衣服を着る。薄暗くてよく見えないので、トレーナーのようなものを履こうとしたりする。そんなこんなでなんとか普通の格好になる。
演劇の先輩がやって来る。この人が来る前に服を着れてよかったと思う。
それ以外に、部屋では高校時代のクラスメート(だと思う)が、パソコンに向かって何やら打っていた。つまり下半身丸出しのわたしをほっぽって作業していたことになるが、あんまり話したことないしどうでもいいと思う。
こいつとは限らないが、わたしはレイプされたんじゃないかと思う。しかし痛みもないのでまあいいかと思う。
ナマコかイソギンチャクかよくわからない生物を飼っている水槽がある。底には釣り針のような折れ曲がった針が敷きつめられていた。こんなところでよく生きてられるな、と思う。
演劇の先輩が、向かいの部屋で宴会していた。駒場寮のようなきったない畳敷きの部屋。こういうところで酒盛りしてたのは覚えている。
廊下がないことに不安を覚える。
廊下は楽屋で、部屋は舞台の上だ。廊下ですれ違う人には、挨拶くらいは機械的にするかもしれないが、人として気を遣わなくていい。人だと思うと外を歩けない。この人は知り合いじゃないか、わたしは声をかけるべきじゃないか、など。こんなことを考え始めると廊下も舞台になる。
よくマンガで、小学生がいたずらしたら廊下に立たされるというのがあるが、あれは「人なるもの」の存在を認めないという作用になっているんだろうな。だから罰になる。この「人なるもの」はラカン的な意味での他者が根拠になっているので、他者に満ちた教室の中から追い出されると、「人なるもの」に対する破壊工作になる、というわけか。
どうだろう。立たされたことないからよくわからないが、わたしは立たされて楽になったりするのだろうか。小学生時代って人格発達の段階で重要ポイントだから、いわばファルスがむき出しになっている状態だから、罰となりえるのか。ファルスを隠蔽するのがうまくなった大人にやってもあんまり、ということか。
酒盛りしていると、部屋の隅にある物の陰に、グロテスクな生き物が死んでいるのを見つけた。水槽から逃げた奴かな、と思ったが、確認するのもめんどくさかった。眠かった。
起きてから、こんなシチュエーションで、「やっぱり高い酒はうまい」だかそんな話だったのだろう、「わたしは味なんてわからない。だから高い酒じゃなくて安い酒になりたい。わたしはカップ酒になりたい」というような論旨の発言をした記憶が浮かんだ。
まあ確かに安い女にはなったわな。
自然に発酵した猿酒じゃないがそんなものを飲んでみたレポーターが、思わず「まずい」って言ったのを思い出した。自然にできる酒はまずい。人間がいろいろ手を施してうまい酒ができる。うまさというのは人それぞれだが、大体の人間の味覚に適応した味が求められる。
酒って特にそういうところあるね。うまいまずいじゃなくて、どれだけ人の手がかかったかが価値基準になっている。
洋酒なんかは、古い酒は味や香りが濃厚になっている。だけど決してうまいってわけじゃない。それなら大量生産のバーボンとかの方が飲みやすい。古い酒の方が自然っぽい。だけど価値が高くなっている。
カップ酒なんかも工場では驚くべき人の手がかかっていると言えるだろう。その機械を作る労力まで考えれば。
逆だな。
まあ容姿がイマイチだし「脇役とかでも使いやすい役者になりたい」って意味だったんだろうけどね。その時のシチュエーションを考慮すると。役者がんばってた時期か。合ってるな、駒寮での記憶なら。時系列的に。
でも安い酒って後に残るよな。二日酔いがきつい。ワインが基本的にだめなんだが、安いワインはほんと死にそうなぐらい次の日がきつい。でも高いワインはそうでもなかったんだよな。翌日びっくりしたもん。
カップ酒を目指した役者は、悪い形で後味が残る役者になるわけか。大量の人の手を施された自然の発酵酒が復讐しているみたいだ。
ゴミだな。蓋をしても臭ってしまう。燃やしたり地中深くに埋めない限り。
死体と一緒だな。ゴミの処理の仕方って。リサイクルなんかは臓器移植になるのか。
だけど「死体とゴミは別物」って言うのが「人なるもの」のマジックなんだよな。『寄生獣』ってマンガで、死んだ野良猫をゴミ箱に捨てる主人公ってシーンがあったが、そういうことだと思う。あああれはいいシーンだな。主人公が寄生された未知の生物からの影響でどうにかなっていく途中、って感じだったんだけど、どうにかなってる感としてはうまいよな。精神分析論でとやかく言えるし。「フォルト・ダー遊びをしていた幼児期がなくなりつつある」とかになんのか。
ホモサピエンスは「死体とゴミは別物」だけど、ネアンデルタール人は同じだったかもしれない。ネアンデルタール人も葬儀らしきことはしていたらしいが、ゴミの処理と同じ感覚だったかもしれない。
ああそうか。なんかネアンデルタール人も葬儀をやっていたから宗教はホモサピエンスだけのものじゃない、みたいなことをキチガイ宗教学者が言ってたが、違和感あったんだよな。そりゃ臭い物は埋めたり焼いたりするだろうて、知恵はあるんだから、って。西原理恵子が水槽の中で腐った亀かなんかを埋めたのもそういうことっしょ。
ホモサピエンスには「人なるもの」があってネアンデルタール人にはない、というわたしのジョーク的仮説を採用すると、ネアンデルタール人も確かにホモサピエンスと似たような「死体処理方法」を取っていたかもしれないが、ホモサピエンスにとっての葬儀などという意味はなかったはずだ、となるわけだ。
最近「キチガイの行動学」みたいなものを考えていたのだが、行動結果は正常人とあまり変わらないということに気づいた。傍から見れば同じことをやっている、と。しかしそういった言動の解釈を変えなければならない、という話。言動の原因が違う。同じ死体処理方法だったとしても、ゴミ処理と同じように合理的工夫の結果なのか、そこに葬儀などといった意味を付加しているのか。
正常人の言動には意味が付加されている。全てに。(ラカン風に言えば)常に既に。
むしろ合理的工夫の結果であるただの言動に、後付で意味を付加している、と考えるべきだろう。ネアンデルタール人が行っていた合理的死体処理方法に、ホモサピエンスは葬儀という意味を付加した、と。
「死の恐怖」はネアンデルタール人にもキチガイにもある。ビオンはそれをβ要素と呼んだ。
キチガイの攻撃的態度は動物の威嚇のようなものだが、正常人のそれはたとえばエディプスコンプレックスだ、などという風に意味を付加している。精神分析は。ビオンはそれをα要素と呼んで論じた。
正しいよな。それらは全て後天的なんだから。フロイトは神経生理学者だったくせに後天的要素ばっかり考えていたバカだった。
斎藤環は「PS/OS」などという区分を創作し、「PS側の人間(精神分析家など)はOS側(内因性精神疾患、統合失調症や鬱病など)に口出すな」とか言っているが、フロイトは逆だったんだよな。OS側の人間がPS側に口出した。というよりPSという領域を学問の世界に放り込んだ。
たまきんもわかってねーな。まあ精神分析家じゃなくて精神科医だし、そうわきまえるのはありだよな。要するに「モノホンのキチガイには近寄るな」ってことだが、これは精神科医として正しいよ。精神科医たちは絶対に否定するけど「狂気は伝染する」という事実を肌身で知っているのが彼らなんだから。狂気が伝染しないためにその事実を否定しなきゃなんない。PS側の人間はわきまえなくてはならない。ラカンが「女(ファルスのない人間)は存在しない」としたように。
なるほどなー。
構造主義の構造って物理的法則になるんじゃね? 最終的に。その直前で怖気づいて、死んだ野良猫をゴミ箱に捨てれなくて、ナンセンスマンガのような手法に走ったのがポストモダンか。
おもろいな君たち。まるで2ちゃんねらだ。