超自我という設計図
2009/11/01/Sun
この記事のコメント欄、
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設計思想のおかしな建築物は、いかに建築技術が高くても、やっぱり変な物が出来てしまいそうだ、という。
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という文章について、「あれ?」と思ったことがある。この時はコメント者の言いたいことの一部として、つまり比喩として理解できたのだが、今読んで、比喩じゃないと考えると、「そんなことないよなあ」と思えた。
建築関係の設計をやっていた身からすると、設計思想がいくらおかしくても、建築技術が高ければ、そこそこちゃんとした建築物ができそうだ、と思えたわけだ。なんて言うか、現場の勘みたいなもんで。
たとえば耐震強度について。建築物は揺れに耐えうるような強度で建てればよい、というわけではない。たとえば五重の塔などは、木造という強度的に弱い建築物でありながら、長年の地震に耐えている。これは逆にやわいから揺れを吸収するんだな。階と階の繋ぎ目に逆に強度がない。だから耐えられる。
そう言えば、耐震強度がきちんとある住宅と、不充分な住宅で、耐震実験を行った結果、耐震強度がある住宅の方が倒壊した、というニュースを見た。あった。これだ(関西テレビ放送のHPから)。これはまあ専門的にいろいろな要件があるんだろうけどね。
設計思想がちゃんとしてても、ちゃんとした建築物ができるとは限らない。いやそうじゃなくて、おそらく五重の塔を作った当時は、耐震設計技術などなかったわけで、耐震についての設計思想はなかったはずだ。
ちなみに現在の耐震技術は、先述の五重の塔みたいな、「揺れを吸収する」技術も取り入れている。こういうのは耐震じゃなくて免震って言うんだな。高層ビルなんか特にこの考え方が重要になってくる。地震だけじゃなく、高層ビルになると風でも揺れてしまう。強度が高いだけだとぽっきり折れてしまう。なので、たとえばビルの屋上に巨大な振り子をつけたり、地面と構造物の間にゴムをかませたり、階と階の間にゴムをかませたりする。一面ガラス張りのビルとかもそう。ガラスとガラスの間には揺れ対策の隙間がある。筋交い自体をダンパーみたいにして揺れを吸収する技術も今は普通に導入されている。高層になるほど、耐震だけじゃなく免震技術が重要になってくる。先の耐震実験なんかは、強度の不充分さがたまたま免震の要素となったんだと思う。
そうじゃなくて。なんていうかこう、設計思想とか明文化されたそれがなくても、正常人たちが集まって建物を作れば、そこそこちゃんとしたものができると思うんだ。というのは、彼らは超自我が無意識になっているから。集合的無意識があるから、明文化などしたりしなくても、そこそこ統率された仕事をすると思える。これはほんと現場にいないとわからない感覚だと思う。
そこへわたしみたいな設計者がいると逆に危ない。「こういう設計したら倒れるかな? 実際にやってみたいなあ」とか思ってしまう。いや仕事してる時はしなかったけどさ。でもまあ、建築物じゃないけれど、ぱっと見る限り明らかに強度が不充分そうな部品を設計したことはある。いやちゃんと強度計算して設計したんだけど。ここのコメント欄から。
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昔製造業で設計をやっていたのですが、初めて担当になった案件で、わたしはある機械部品の設計をしました。出来上がった図面は、それまでその部品が持っていた「大体の形」から考えると、「こりゃーねえよwww」みたいに言われるものでした。上司に注意を受けました。それはただの一部品で、一応強度的に問題ないことは計算済みだったこともあり、彼らのツッコミは、わたしには「大体の形っていうくだらないものを根拠にして、わたしの仕事の邪魔をしに来ている」としか思えなかったのです。
述べ何時間かの議論の末、上司は渋々その図面にハンコを押しました。計算書含めた書類を提出しました。わたしにとっては無駄な議論、無駄な時間、無駄な労力でした。なんせ強度も納まりも普通に計算して書いた図面ですから。何か画期的な部品を、なんて思惑も当然ありません。別にどんな形でも構わないただの部品なんですから。わたしにとっては、理屈に沿って出来上がった図面に過ぎません。
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多分、正常人だけで建築作業をすれば、「大体の形」に無意識的に従うと思う。わたしはこういうのを「寄らば大樹の陰理論」(ここのコメント欄参照)などと呼んでいた。
ラカン論においては、超自我とは大文字の他者の集合体だ、となる。「他者」という意味が「寄らば大樹の陰理論」という言葉にはちゃんと込められているのがわたしすげえって思えるわ。ってラカンがすげえのか。
まーそんな話だ。そのコメント者も最近ここ見てないみたいだし、独り言だな。
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設計思想のおかしな建築物は、いかに建築技術が高くても、やっぱり変な物が出来てしまいそうだ、という。
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という文章について、「あれ?」と思ったことがある。この時はコメント者の言いたいことの一部として、つまり比喩として理解できたのだが、今読んで、比喩じゃないと考えると、「そんなことないよなあ」と思えた。
建築関係の設計をやっていた身からすると、設計思想がいくらおかしくても、建築技術が高ければ、そこそこちゃんとした建築物ができそうだ、と思えたわけだ。なんて言うか、現場の勘みたいなもんで。
たとえば耐震強度について。建築物は揺れに耐えうるような強度で建てればよい、というわけではない。たとえば五重の塔などは、木造という強度的に弱い建築物でありながら、長年の地震に耐えている。これは逆にやわいから揺れを吸収するんだな。階と階の繋ぎ目に逆に強度がない。だから耐えられる。
そう言えば、耐震強度がきちんとある住宅と、不充分な住宅で、耐震実験を行った結果、耐震強度がある住宅の方が倒壊した、というニュースを見た。あった。これだ(関西テレビ放送のHPから)。これはまあ専門的にいろいろな要件があるんだろうけどね。
設計思想がちゃんとしてても、ちゃんとした建築物ができるとは限らない。いやそうじゃなくて、おそらく五重の塔を作った当時は、耐震設計技術などなかったわけで、耐震についての設計思想はなかったはずだ。
ちなみに現在の耐震技術は、先述の五重の塔みたいな、「揺れを吸収する」技術も取り入れている。こういうのは耐震じゃなくて免震って言うんだな。高層ビルなんか特にこの考え方が重要になってくる。地震だけじゃなく、高層ビルになると風でも揺れてしまう。強度が高いだけだとぽっきり折れてしまう。なので、たとえばビルの屋上に巨大な振り子をつけたり、地面と構造物の間にゴムをかませたり、階と階の間にゴムをかませたりする。一面ガラス張りのビルとかもそう。ガラスとガラスの間には揺れ対策の隙間がある。筋交い自体をダンパーみたいにして揺れを吸収する技術も今は普通に導入されている。高層になるほど、耐震だけじゃなく免震技術が重要になってくる。先の耐震実験なんかは、強度の不充分さがたまたま免震の要素となったんだと思う。
そうじゃなくて。なんていうかこう、設計思想とか明文化されたそれがなくても、正常人たちが集まって建物を作れば、そこそこちゃんとしたものができると思うんだ。というのは、彼らは超自我が無意識になっているから。集合的無意識があるから、明文化などしたりしなくても、そこそこ統率された仕事をすると思える。これはほんと現場にいないとわからない感覚だと思う。
そこへわたしみたいな設計者がいると逆に危ない。「こういう設計したら倒れるかな? 実際にやってみたいなあ」とか思ってしまう。いや仕事してる時はしなかったけどさ。でもまあ、建築物じゃないけれど、ぱっと見る限り明らかに強度が不充分そうな部品を設計したことはある。いやちゃんと強度計算して設計したんだけど。ここのコメント欄から。
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昔製造業で設計をやっていたのですが、初めて担当になった案件で、わたしはある機械部品の設計をしました。出来上がった図面は、それまでその部品が持っていた「大体の形」から考えると、「こりゃーねえよwww」みたいに言われるものでした。上司に注意を受けました。それはただの一部品で、一応強度的に問題ないことは計算済みだったこともあり、彼らのツッコミは、わたしには「大体の形っていうくだらないものを根拠にして、わたしの仕事の邪魔をしに来ている」としか思えなかったのです。
述べ何時間かの議論の末、上司は渋々その図面にハンコを押しました。計算書含めた書類を提出しました。わたしにとっては無駄な議論、無駄な時間、無駄な労力でした。なんせ強度も納まりも普通に計算して書いた図面ですから。何か画期的な部品を、なんて思惑も当然ありません。別にどんな形でも構わないただの部品なんですから。わたしにとっては、理屈に沿って出来上がった図面に過ぎません。
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多分、正常人だけで建築作業をすれば、「大体の形」に無意識的に従うと思う。わたしはこういうのを「寄らば大樹の陰理論」(ここのコメント欄参照)などと呼んでいた。
ラカン論においては、超自我とは大文字の他者の集合体だ、となる。「他者」という意味が「寄らば大樹の陰理論」という言葉にはちゃんと込められているのがわたしすげえって思えるわ。ってラカンがすげえのか。
まーそんな話だ。そのコメント者も最近ここ見てないみたいだし、独り言だな。