自罰パラノイアとは聖女テレジアである。
2009/11/02/Mon
自罰パラノイアと、スキゾフレニー含む未去勢者たちの違いって、いまいちピンと来なかったんだが、なんとなくわかった。聖女テレジアが自罰パラノイアだと考えればいいんだ。二階堂奥歯が聖女テレジアに対し感じた違和感はこれだったと。わたしは自罰パラノイアかもしれない、という疑問は未だにあるが、この違和感というか何か違うという感覚を、二階堂が感じた聖女テレジアに対する違和感に相当すると考えれば、構造が合致する。
自罰パラノイアも未去勢者も「抑圧する父」を愛している。いや、愛する可能性があるだろう。わたしの個人的診断では二階堂奥歯は未去勢者であるが、彼女は「抑圧する父」を愛そうとしていた。しかし決定的に違うのは、「抑圧する父」に抱かれたことが、罰せられたことがあるかないかだ。自罰パラノイアは一度は「抑圧する父」に抱かれている、罰せられている。それがどういうことか知っている。従って罰せられて心の平安を得ることができる。心の平安を得るために罰せられようとする。
しかし未去勢者は知らない。なのでそれを「抑圧する父」と表現するのも微妙だ。単なる「器」と表現した方が正確かもしれない。去勢済みの主体はそれに抱かれたことがあるから「抑圧する父」となるのであって、未去勢者にとってそれは父とは限らない。なぜなら抱かれたことが、罰せられたことがないから。「器」に収まったことがないから。従って、特別罰せられようとしない。他人を観察して、罰せられるのがいいのかもしれない、「器」に納まると楽かもしれない、という機械的な予測は立てられる。しかし実際に誰かに罰せられたとしても、罰するのは「抑圧する父」ではない。こいつは乳児期にしか存在しない。抑鬱態勢時にしか存在しない。肉体的に成長してしまいその唯一無二のチャンスを逃してしまった未去勢者には、一生「抑圧する父」は降臨しない。
「わたしは「抑圧する父」を愛している」と書いたことがあるが、これは精神分析用語をアレンジして使っただけで、語感的に違和感があった。いや、わたしは聖女テレジアになりたかったのだと思う。わたしは聖女テレジアじゃないから。自罰パラノイアじゃないから。神の下で平安を得られると信じきれてないから。罰せられたら平安を得られると確信できていないから。
要するに、「白馬の王子様を待っている女たち」にも二種類いる、ということだ。一度は白馬の王子様に、その実体は棺桶を担いだ死神に、抱かれたことがあり、彼が再び訪れるのを待っている女と、周りのそういう女たちが死神に抱かれて平穏な眠りについているのを見て、そうした方がいいのかもしれない、と思っているだけの女と。後者の女には、一生白馬に乗った死神はやって来ない。
わたしが罰せられたいと思うのは、そうすれば心の平安が得られるという確信ゆえのものではなく、むしろ幼児的な好奇心に近い。「そうすればどうなるだろうか?」という疑問ゆえのものだ。「こういう設計したら建物は倒壊するだろうか?」などという類の疑問だ。たとえ推測通りに建物が倒れて、罰せられたとして、わたしは心の平安を得られるのかどうかわからない。わからないから実際にそんな設計はしない。罰せられようとしない。
「わたしは「抑圧する父」を愛している」のではなく、「わたしは「抑圧する父」を愛してみたい」だ。こう書けば違和感は多少減る。要するに恋に恋していただけなのだ。
とはいえ、実際に罰せられないとわからないため、実際に白馬の死神と心中してみないとわからないため、わたしは自罰パラノイアかもしれない、という疑問は消えない。当然だ。会ってみないことにはそいつと一度会ったかどうかなんてわからない。
わからないから、自罰パラノイアのように、聖女テレジアのように、迷うことなくそこに向かうことはできない。わたしは抱かれることに、罰せられることに躊躇する。
二階堂奥歯という未去勢者が覚えた聖女テレジアに対する違和感は、神の下に躊躇なく邁進するその態度に、神の下に行けば平安を得られると確信している態度にあったのではないか。目的地に心の平安があると決めつけている態度にあったのではないか。
補足しておくが、ここでの「抑圧する父」とは、ファルスの裏面とも言える、クリステヴァの言う「想像的父」であり、ビオンの言う「自分のことを考えてくれる者を待っている思考に対応する「考える者thinker」」であり、「容器container」であり、実際としては、乳児がもっとも最初に認識する人間個体、すなわち母である場合が多いだろう。ウィニコット論ならば「ほどよい母」と対をなすものである。「ほどよい母」とは語義的に「ほどほどによくない母」を含んでいることになるが、この「ほどほどによくない母」がそれに当たる。「ほどよい母」の方が一般的なイメージの母性像に近いため、「ほどほどによくない母」をクリステヴァは「父」と言ったのではないだろうか。「容器container」ならば「ほどよい母」が「内容物contained」に当たる。
また、補足の補足になるが、「自分のことを考えてくれる者を待っている思考」は、実際には「待ってなどいない」。一度そいつと出会ったことのある人間ならば待つことはできるだろうが、そいつと出会ったことのない人間はそいつのことを待てるわけがない。人間は、先天的かつ後天的すなわち運命的に、そいつと出会って去勢済みの主体へと成長する場合が多いため、「待っている」とビオンは述べているだけである。この記事でも同じことを書いたが、個人的にこの点が非常に誤解を生む箇所であると思われるため、注意を促しておく。
自罰パラノイアなら「待っている」と言いきって問題ないだろう。
去勢済み主体同士の「人との繋がり方」と、未去勢者のそれは別物だ。だから、未去勢者が「わたしは人と繋がりたい」と言ったとしても、去勢済み主体は「ほーれ自分たちと同じじゃないか」などと言ってはならない。未去勢者たちは去勢済み主体たちがやるような、「心の理論」に則った、象徴的または想像的な、幻想的な繋がり方で、「繋がりたい」と言っているのである。それがどういうものかよくわからないから。従って、それを自然に、無意識的にできる去勢済み主体たちが、「自分たちと同じだ」というのは全くの誤りなのである。それは無知ゆえの傲慢である。「考える者thinker」と一度も出会ったことのない人間と、「考える者thinker」との再会を期待する人間を、同じ「白馬の王子様を待っている女たち」とすることに、去勢済み主体たちの征服本能が透けて見えてくる。
聞いてるかい? たまきん。征服者さんよ。
リンク先の記事において斎藤環は、自閉症者という未去勢者を、自罰パラノイアに、聖女テレジアにでっち上げようとしているのだ。
あ、これ序論のつもりだったのに何書こうとしてたのか忘れた。まいっか、と思えるレベルだからどうでもいいことなのだろう。どうでもいいことの序論なわけだからさらにどうでもいいことなのかもしれない。わたしにとって。
自罰パラノイアってパラノイアって呼ぶの微妙じゃね? ってぱっと見パラノイアか。ってパラノイアの定義にも合ってるか。んー。自罰じゃないパラノイアより倒錯者に近い気がするな。っていうかそうだな。BPDって超自我が強いゆえなるのだ、って論が今主流になってるらしいが、そういった超自我の強いBPDが自罰パラノイアなんじゃね? 超自我が強いゆえ自傷する。そうそう、父の名を排除していない。排除してしまいそうなことを恐れている。恐れるゆえ罰せられる。罰せられて父の名と再会する。排除していたのか。エメは。でも少なくとも罰せられた後は排除していないだろう。実際に症状はすぐ消えていった。罰せられた後のエメはパラノイアではない。罰せられる前は、確かに父の名と自己が親近しすぎてしまっていたのかもしれないが。父の名を排除しかけていたのかもしれないが。
わたしは、何と親近すればいいのかわからない。迷子だ。
トラウマは道標なのかもしれない。わたしは子供を産んで死なせるべきだったのかもしれない。そうすれば、「抑圧する父」を愛する資格を得られたのかもしれない。
自罰パラノイアは前提として罪悪感を感じていなければならない。わたしは人になぜ怒られるのかわからない。罪を罪として認識できていない。頭では認識できているが、罪というのがどういうものか実感としてわかっていない。わかっていないゆえ、なんらかの罪を犯しているのかもしれないと思う。逆に、わかっていないゆえ、罪を犯したという確信も持てない。罪を犯したという確信を持っていなければ罪悪感は生じない。
わたしはまだ犯罪者にすらなれていない。
ああ、そっか。二階堂の「わたしは物語になりたい」っていうのが「わたしは聖女テレジアになりたい」ってのになるのか。わたしは物語恐怖症に罹っちゃったのでそう言えないが。
そうなんだよな。抑鬱態勢に想像的父と出会えなかった未去勢者たちは、想像的父すなわちアガペーの、棺桶という実体が見えてしまうのか。だから愛せない。恋に恋しているだけになる。
実体を含めて愛することが本当の愛だ、という言葉自体が嘘だ。実体は他人には完全にわからない。わからないことを愛すると言うのならば、出会わないのが一番いい。愛する愛さない以前の問題に帰着する。
なぜお前たちはここに帰着しないのだろう? 理屈的に帰着してしまうここに。
「わたしは聖女テレジアになりたい」ってのは、わたしの中では「わたしは阿部定になりたい」と同種のものかもしれない。この記事から。
=====
だけど、わたしにはまだ、アリバイも証拠もない。
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名探偵に、精神分析家に暴かれるべきアリバイと証拠がない。でっち上げてくれ。わたしがそれを信じればわたしのアリバイと証拠となる。でっち上げじゃなくなる。
でっち上げてくれれば全て信じるってわけじゃないけどね。
やってみなけりゃどうなるかわからない、という現実。
最近思ったがHPが0に近いほど文章量が多くなる気がする。ネトゲではMPをHPに変換する魔法が存在する。ヒールだないわゆる。うんうん、基本ソロなのになぜかヒーラー選ぶこと多いわわたし。マゾプレイが好きなわけじゃないのに。
HPが0に近いほど文章を書くというのは、このヒールみたいなものだと思った。だけどわたしはスキルレベルがあまり高くないようだ。ここのあるコメント者はこう言う。
=====
皆どこに向かって何かを吐き出したいんだよ。
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皆そうすることで自分のHPを回復する。スキルレベルが高ければ周囲のプレイヤーのHPも回復することができるだろう。
しかしわたしはスキルレベルが低い。自分しか回復できない。回復したとしてもほんのちょびっとだ。MP→HPの変換効率が悪い。心身二元論で言えば、精神を利用して肉体的な力を得ることが不得手だ。いや、変換効率が悪い、不得手なんてどころの話ではない。ヒールという魔法は、一定量回復するが、ある程度のばらつきがあることが多い。さっき250ポイント回復したと思ったら今度は300ポイント回復した、とか。普通の人はそうなんだろう。「何かを吐き出した」「皆」はそれくらい回復できるのだろう。わたしの場合スキルレベルが低すぎて、20ポイント回復できたと思ったら、今度は逆に20ポイントHPが減ってしまう。そんな回復魔法と呼べない回復魔法。でもしないよりまし、ってだけ。
ああわたしデバッファータイプなのかもしれないな。上級者向けって説明されてるの多いから避けてたんだけど、今度やってみるか。
社会に認められたパラノイアは王であり、社会に認められたスキゾフレニーは聖者である。
あ? 揶揄だよ揶揄。社会を構成するお前ら正常人に対する。
自罰パラノイアも未去勢者も「抑圧する父」を愛している。いや、愛する可能性があるだろう。わたしの個人的診断では二階堂奥歯は未去勢者であるが、彼女は「抑圧する父」を愛そうとしていた。しかし決定的に違うのは、「抑圧する父」に抱かれたことが、罰せられたことがあるかないかだ。自罰パラノイアは一度は「抑圧する父」に抱かれている、罰せられている。それがどういうことか知っている。従って罰せられて心の平安を得ることができる。心の平安を得るために罰せられようとする。
しかし未去勢者は知らない。なのでそれを「抑圧する父」と表現するのも微妙だ。単なる「器」と表現した方が正確かもしれない。去勢済みの主体はそれに抱かれたことがあるから「抑圧する父」となるのであって、未去勢者にとってそれは父とは限らない。なぜなら抱かれたことが、罰せられたことがないから。「器」に収まったことがないから。従って、特別罰せられようとしない。他人を観察して、罰せられるのがいいのかもしれない、「器」に納まると楽かもしれない、という機械的な予測は立てられる。しかし実際に誰かに罰せられたとしても、罰するのは「抑圧する父」ではない。こいつは乳児期にしか存在しない。抑鬱態勢時にしか存在しない。肉体的に成長してしまいその唯一無二のチャンスを逃してしまった未去勢者には、一生「抑圧する父」は降臨しない。
「わたしは「抑圧する父」を愛している」と書いたことがあるが、これは精神分析用語をアレンジして使っただけで、語感的に違和感があった。いや、わたしは聖女テレジアになりたかったのだと思う。わたしは聖女テレジアじゃないから。自罰パラノイアじゃないから。神の下で平安を得られると信じきれてないから。罰せられたら平安を得られると確信できていないから。
要するに、「白馬の王子様を待っている女たち」にも二種類いる、ということだ。一度は白馬の王子様に、その実体は棺桶を担いだ死神に、抱かれたことがあり、彼が再び訪れるのを待っている女と、周りのそういう女たちが死神に抱かれて平穏な眠りについているのを見て、そうした方がいいのかもしれない、と思っているだけの女と。後者の女には、一生白馬に乗った死神はやって来ない。
わたしが罰せられたいと思うのは、そうすれば心の平安が得られるという確信ゆえのものではなく、むしろ幼児的な好奇心に近い。「そうすればどうなるだろうか?」という疑問ゆえのものだ。「こういう設計したら建物は倒壊するだろうか?」などという類の疑問だ。たとえ推測通りに建物が倒れて、罰せられたとして、わたしは心の平安を得られるのかどうかわからない。わからないから実際にそんな設計はしない。罰せられようとしない。
「わたしは「抑圧する父」を愛している」のではなく、「わたしは「抑圧する父」を愛してみたい」だ。こう書けば違和感は多少減る。要するに恋に恋していただけなのだ。
とはいえ、実際に罰せられないとわからないため、実際に白馬の死神と心中してみないとわからないため、わたしは自罰パラノイアかもしれない、という疑問は消えない。当然だ。会ってみないことにはそいつと一度会ったかどうかなんてわからない。
わからないから、自罰パラノイアのように、聖女テレジアのように、迷うことなくそこに向かうことはできない。わたしは抱かれることに、罰せられることに躊躇する。
二階堂奥歯という未去勢者が覚えた聖女テレジアに対する違和感は、神の下に躊躇なく邁進するその態度に、神の下に行けば平安を得られると確信している態度にあったのではないか。目的地に心の平安があると決めつけている態度にあったのではないか。
補足しておくが、ここでの「抑圧する父」とは、ファルスの裏面とも言える、クリステヴァの言う「想像的父」であり、ビオンの言う「自分のことを考えてくれる者を待っている思考に対応する「考える者thinker」」であり、「容器container」であり、実際としては、乳児がもっとも最初に認識する人間個体、すなわち母である場合が多いだろう。ウィニコット論ならば「ほどよい母」と対をなすものである。「ほどよい母」とは語義的に「ほどほどによくない母」を含んでいることになるが、この「ほどほどによくない母」がそれに当たる。「ほどよい母」の方が一般的なイメージの母性像に近いため、「ほどほどによくない母」をクリステヴァは「父」と言ったのではないだろうか。「容器container」ならば「ほどよい母」が「内容物contained」に当たる。
また、補足の補足になるが、「自分のことを考えてくれる者を待っている思考」は、実際には「待ってなどいない」。一度そいつと出会ったことのある人間ならば待つことはできるだろうが、そいつと出会ったことのない人間はそいつのことを待てるわけがない。人間は、先天的かつ後天的すなわち運命的に、そいつと出会って去勢済みの主体へと成長する場合が多いため、「待っている」とビオンは述べているだけである。この記事でも同じことを書いたが、個人的にこの点が非常に誤解を生む箇所であると思われるため、注意を促しておく。
自罰パラノイアなら「待っている」と言いきって問題ないだろう。
去勢済み主体同士の「人との繋がり方」と、未去勢者のそれは別物だ。だから、未去勢者が「わたしは人と繋がりたい」と言ったとしても、去勢済み主体は「ほーれ自分たちと同じじゃないか」などと言ってはならない。未去勢者たちは去勢済み主体たちがやるような、「心の理論」に則った、象徴的または想像的な、幻想的な繋がり方で、「繋がりたい」と言っているのである。それがどういうものかよくわからないから。従って、それを自然に、無意識的にできる去勢済み主体たちが、「自分たちと同じだ」というのは全くの誤りなのである。それは無知ゆえの傲慢である。「考える者thinker」と一度も出会ったことのない人間と、「考える者thinker」との再会を期待する人間を、同じ「白馬の王子様を待っている女たち」とすることに、去勢済み主体たちの征服本能が透けて見えてくる。
聞いてるかい? たまきん。征服者さんよ。
リンク先の記事において斎藤環は、自閉症者という未去勢者を、自罰パラノイアに、聖女テレジアにでっち上げようとしているのだ。
あ、これ序論のつもりだったのに何書こうとしてたのか忘れた。まいっか、と思えるレベルだからどうでもいいことなのだろう。どうでもいいことの序論なわけだからさらにどうでもいいことなのかもしれない。わたしにとって。
自罰パラノイアってパラノイアって呼ぶの微妙じゃね? ってぱっと見パラノイアか。ってパラノイアの定義にも合ってるか。んー。自罰じゃないパラノイアより倒錯者に近い気がするな。っていうかそうだな。BPDって超自我が強いゆえなるのだ、って論が今主流になってるらしいが、そういった超自我の強いBPDが自罰パラノイアなんじゃね? 超自我が強いゆえ自傷する。そうそう、父の名を排除していない。排除してしまいそうなことを恐れている。恐れるゆえ罰せられる。罰せられて父の名と再会する。排除していたのか。エメは。でも少なくとも罰せられた後は排除していないだろう。実際に症状はすぐ消えていった。罰せられた後のエメはパラノイアではない。罰せられる前は、確かに父の名と自己が親近しすぎてしまっていたのかもしれないが。父の名を排除しかけていたのかもしれないが。
わたしは、何と親近すればいいのかわからない。迷子だ。
トラウマは道標なのかもしれない。わたしは子供を産んで死なせるべきだったのかもしれない。そうすれば、「抑圧する父」を愛する資格を得られたのかもしれない。
自罰パラノイアは前提として罪悪感を感じていなければならない。わたしは人になぜ怒られるのかわからない。罪を罪として認識できていない。頭では認識できているが、罪というのがどういうものか実感としてわかっていない。わかっていないゆえ、なんらかの罪を犯しているのかもしれないと思う。逆に、わかっていないゆえ、罪を犯したという確信も持てない。罪を犯したという確信を持っていなければ罪悪感は生じない。
わたしはまだ犯罪者にすらなれていない。
ああ、そっか。二階堂の「わたしは物語になりたい」っていうのが「わたしは聖女テレジアになりたい」ってのになるのか。わたしは物語恐怖症に罹っちゃったのでそう言えないが。
そうなんだよな。抑鬱態勢に想像的父と出会えなかった未去勢者たちは、想像的父すなわちアガペーの、棺桶という実体が見えてしまうのか。だから愛せない。恋に恋しているだけになる。
実体を含めて愛することが本当の愛だ、という言葉自体が嘘だ。実体は他人には完全にわからない。わからないことを愛すると言うのならば、出会わないのが一番いい。愛する愛さない以前の問題に帰着する。
なぜお前たちはここに帰着しないのだろう? 理屈的に帰着してしまうここに。
「わたしは聖女テレジアになりたい」ってのは、わたしの中では「わたしは阿部定になりたい」と同種のものかもしれない。この記事から。
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だけど、わたしにはまだ、アリバイも証拠もない。
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名探偵に、精神分析家に暴かれるべきアリバイと証拠がない。でっち上げてくれ。わたしがそれを信じればわたしのアリバイと証拠となる。でっち上げじゃなくなる。
でっち上げてくれれば全て信じるってわけじゃないけどね。
やってみなけりゃどうなるかわからない、という現実。
最近思ったがHPが0に近いほど文章量が多くなる気がする。ネトゲではMPをHPに変換する魔法が存在する。ヒールだないわゆる。うんうん、基本ソロなのになぜかヒーラー選ぶこと多いわわたし。マゾプレイが好きなわけじゃないのに。
HPが0に近いほど文章を書くというのは、このヒールみたいなものだと思った。だけどわたしはスキルレベルがあまり高くないようだ。ここのあるコメント者はこう言う。
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皆どこに向かって何かを吐き出したいんだよ。
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皆そうすることで自分のHPを回復する。スキルレベルが高ければ周囲のプレイヤーのHPも回復することができるだろう。
しかしわたしはスキルレベルが低い。自分しか回復できない。回復したとしてもほんのちょびっとだ。MP→HPの変換効率が悪い。心身二元論で言えば、精神を利用して肉体的な力を得ることが不得手だ。いや、変換効率が悪い、不得手なんてどころの話ではない。ヒールという魔法は、一定量回復するが、ある程度のばらつきがあることが多い。さっき250ポイント回復したと思ったら今度は300ポイント回復した、とか。普通の人はそうなんだろう。「何かを吐き出した」「皆」はそれくらい回復できるのだろう。わたしの場合スキルレベルが低すぎて、20ポイント回復できたと思ったら、今度は逆に20ポイントHPが減ってしまう。そんな回復魔法と呼べない回復魔法。でもしないよりまし、ってだけ。
ああわたしデバッファータイプなのかもしれないな。上級者向けって説明されてるの多いから避けてたんだけど、今度やってみるか。
社会に認められたパラノイアは王であり、社会に認められたスキゾフレニーは聖者である。
あ? 揶揄だよ揶揄。社会を構成するお前ら正常人に対する。