日本ドラマにおける差別意識
2009/11/03/Tue
ドラマ『JIN -仁-』がおもしろい。手術シーンもそこそこがんばっていると思える。そういや日本ドラマでも手術シーンはまともだよな。水死体とか絶対死蝋化させないくせに。コレラの回、残念だったのが病人たちの描写。いやまじなコレラ患者なんか見たことないけど、あんなにしてまで水分補給するくらいならもっと皮膚の質感とか乾いていると思うんだけどな。汗が出ているのに乾いている皮膚、ってわからないだろうな。老人の皮膚。老人の皮膚って雨に打たれても乾いている感じするでしょ。皮膚細胞の一つ一つの中身が乾いている感じ。
なんていうか、アメリカのドラマと比べて日本のドラマは、死体や病人の描写が、そのリアリズムが非常に甘い。死体なら『CSIシリーズ』、病人なら『Dr.HOUSE』とかと比べたら一目瞭然だろう。『Dr.HOUSE』なんか血便シーンとか普通に見せちゃうし。
これって差別だよな。死体や病人に対する差別。「まともに見ちゃいけません」ってこと。ケガレの棄却。穢多って奴ですか? 日本人差別好きだもんな。
まあ正直わたしゃ差別問題なんてどうでもいいんだけどな。ただ死体や病人の描写が甘いという意味で無意識的に無自覚的にケガレを棄却できるお前たちをどれだけ傷つられけるかでわたしは言葉を選んでいる。差別問題に繋げて言った方がケガレを棄却できるお前ら正常人たちを切り刻めそうだからそう言っているだけ。だから差別問題に関してとやかく言ってこられても困る。わたしにとって差別問題はただの道具だ。この記事において。
お前たち正常人は生きている資格なんてないんだよ。
ああ『JIN -仁-』ね、マンガ喫茶で読んだことあるんだよ、原作。『六三四の剣』の人でしょ確か。
この人ってマンガっぽく描いてはいるけど、キャラクターに対してとっても冷たい気がする。作者の態度として、他のマンガ家って、自分が作ったキャラに対し程度の差はあれども感情移入するわけじゃん。それが薄い人だと思う。『六三四の剣』にしても、「こういうキャラを置けば読者は喜ぶだろう」みたいな、職人気質みたいなものでキャラを作っている気がする。って昔の少年マンガ家なんて基本そうだよな。「俺は大人だけど子供が喜ぶマンガを描かなきゃいけない」ってこと。自分が子供でない現実を受け入れている。読者たちから一歩離れて作品を作っている。
一方、わたし冨樫義博とかがだめなんだが(本当に『HUNTER×HUNTER』とか何がおもしろいのかわからない)、奴はキャラに対する感情移入は強いと思える。同人っぽい。同人って基本そうだよな。自分が作ってないだけで、キャラに対する思い入れで作品を描く。彼なんかは、少年マンガ読者と視点が同じだ。彼は読者のまま作家になった。だからこそあれほど売れているのだろうが。
冨樫はパラノイア方向なら、村上もとかはスキゾイド方向っぽい。あーもちろん適当な印象論にすぎんがな。あ、今思い出したけど、『六三四の剣』でライバルの修羅くん(すげー好きだった)が六三四に自作の竹刀(自分で作れるんだよ、材料さえ揃ってれば。っていうか組立てか。わたしもやってたもん)をプレゼントするんだけど、「君はパワー型だから重めに作っておいたよ」とか言って、すげーリアリティを感じたんだな。このセリフにしろ、自作の竹刀ってところにしろ、剣道やってる人間じゃないとわからないであろうリアリティっつかアクチュアリティがある。あと、六三四の少年時代のライバルだった嵐子が、成長していくにつれやっぱり男の子の六三四に負けていくようになって、悔しがるところなんかも、わたしにとってはものすごくアクチュアリティがあった。こういう細部へのこだわりっていうか、物語をあらすじ化していく途中で棄却されがちな要素に対する態度っていうか、そんなんがあるかないか、か。
とか言いながら原作『JIN -仁-』も数巻でやめちゃった。『アカギ』とかあったの全部読んだんだけどな。マージャンなんてほとんどわからないのに。あ、ごめん『カイジ』の人のマンガってマン喫で読むものっていう固定観念がわたしにはあるらしい。なんつーか、飲み明けて始発まで時間潰すのに使ってたから、あんまり前向きなマンガだと余計疲れちゃうのだよね。でも後向きなだけでもだめ。そんな時はそれこそ昼までやってる業界人用のスナックに行ったわ。前向きでも後向きでもだめ、って要は弱っている時だと思うけど、そういう時はマン喫ってことか。別に悲しいマンガで泣くわけでもない。ギャグマンガで笑うわけでもない。ただ淡々とマンガを読む。そんな感情惹起すらめんどくさくなった時。
やっぱりあれだな。わたしにとってマンガって自己防衛砦だ。
『相棒』初回の二時間スペシャル、脚本どうした? 意外とこの作品のよさって脚本にもあると思ってたんだけど、これはだめすぎた。いや前シリーズからだめな回もあるにはあったんだが、スペシャルは大体よかったんだけどなあ。
なんかコンセプト変わった? ミッチーになって。いやミッチー登場回なんかはそこそこおもしろいと思えたのに。脚本的に。
事件が実はしょぼかった、ってのはいいんだよ。そういうのがむしろ『相棒シリーズ』のよさでもある。「どうでもいいことが気になってしまう、僕の悪い癖」って奴。どうでもいい事件、つまり派手じゃない事件でも気になってしまうのが右京様。
でもこれはな。なんか違う。なんだろう。
緊張感をやわらげる役目が亀ちゃんにはあったんだけど、ミッチーにはない。でもそれはそれでいい。緊張感が高まるのもおもしろいから。
だけど事件としての緊張感と、コンビという人間関係としての緊張感が、どっちも緊張感だから、どっちがどっちかをダシにしなきゃいけなくなる。緊張感をやわらげる亀ちゃんとのコンビだったら、普通に事件としての緊張感の緊張のダシ(というか薬味)でコンビという人間関係があった。
だけどなー。
もしかしてミッチーもおいおい右京様と馴れ合っちゃうの? そんなキャラじゃないでしょーよ。特命行かされたのも違う目的でしょ。
亀ちゃんもシリーズ初期は右京様と反発して、緊張がなくはなかった。でもダメキャラ(熱血バカ)って設定のおかげで、コンビとしての緊張関係はコント化され、事件としての緊張感をやわらげる薬味になりえた。
それと同じようなやり方で演出しているのかね。
それだと失敗だと思えるなー。もちろんわたしにとって、だけどさ。
これを打破するには、事件としての緊張感とコンビとしての緊張感と対をなす、何かしらの薬味が必要となるわけか。あーミッチーの「今夜は二人で夜を明かす」とかってギャグシーンみたいなのがそうなるのか。緊張感ゆえの滑稽なすれ違いが薬味になりえるのか。
あとはあれだなー。一課の三羽ガラスにもうちょっと重きを置いてみるとかか。アポロガイストのおっちゃんとかってこの人劇団ショーマだったんかいwww 好きだったわー。
うわなんかやな記憶が、ってでも書かないでおこう。めんどくさい。
いやな、日芸の演劇関係もそこそこ知り合いいたんだがな、なんつーかな。まあいいや。
劇団ショーマの上演履歴(「アラカルト」→「劇団略歴」ね)見てたんだが、わたしが見てた頃って、トップスみたいな小劇場(すまんわたしの主観)から、本多劇場とかでっかいところ(これも同じ)でやれるようになったばかりの頃だったんだな。脂の乗ってる時期だったんだろうなあ。そりゃ未だ(当時)に小劇場でうだうだやってた同世代の日芸演劇人から憎まれ口の一つも叩かれるわな。まだ続けてるんだろうか彼ら。あれ? 『八月のシャハラザード』ってもしかしてわたし仕込み手伝った? なんかそんな記憶がないわけでもってこれ以上言ったら個人特定されそうだわ。どんな美術だったか見せてくれたら思い出すかもしれない。でもシアターV赤坂でショーマとかこの辺の劇団仕込んだ記憶はあるんだよな。
あ、これもそうだな。ショーマって劇団が人気劇団に駆け上がっていくその脇にいる、それに対し憎まれ口を叩く同じ大学出身の演劇人たちが、一つの薬味になっている。ショーマに視点を合わせたらね。
どうもわたしという人間は、薬味がないと、なければ思い出さないと、記憶が記憶として統合されないっぽい。楽しい思い出が快楽原則により大体主役になるのはまあそうだろうなと思うんだが、それに反発する脇役がいないとだめなのか。だから嫌な思い出ばかり思い出してしまう、と。わたしはただ「おもしろかった」って言っただけなのに思想的な話でやり込められた。演劇思想うんぬん以前に、もしそれを仕込んでいたなら、「この舞台がどういう風に活用されるのだろう?」って楽しみ方もあるだろう。スタッフしかわからない楽しみ方。自分の作った(つうか製作に携わった)物が自分の所有権など関係なく(まさしく文字通り)道具として使われていく楽しみ。あーだから製造業なんかに行ったのか。つうか、自分の手が関わった物が、自分という人格なんて関係なく使われていく楽しみって、魔術的思考だと思うんだよな。修羅くんが自作の竹刀をライバルの六三四にプレゼントしたシーンを覚えてたのもそういうのを感じたからかもしれない。この楽しみに著作権、知的財産などという概念はただの邪魔でしかない。あーいや日本では軽んじられがちな頭脳労働者でも食ってかなきゃなんないし一概に否定するわけじゃないけどね。
話がそれた。要は、楽しい思い出だけだと人と共有できるような記憶になりえないんだ、わたしにとって。むしろ前向きな主役に反発する後向きな脇役たちに目が行ってしまう。『六三四の剣』なら、性差でどうしても六三四に勝てなくなって悔しがる嵐子とか。
『相棒』はあれだ、スタッフもミッチーとのコンビに慣れていないだろうし、これからってことで。
あ、一応報告、ラカンマンガ描いてる人のブログでごちゃごちゃやってる。
なんていうか、アメリカのドラマと比べて日本のドラマは、死体や病人の描写が、そのリアリズムが非常に甘い。死体なら『CSIシリーズ』、病人なら『Dr.HOUSE』とかと比べたら一目瞭然だろう。『Dr.HOUSE』なんか血便シーンとか普通に見せちゃうし。
これって差別だよな。死体や病人に対する差別。「まともに見ちゃいけません」ってこと。ケガレの棄却。穢多って奴ですか? 日本人差別好きだもんな。
まあ正直わたしゃ差別問題なんてどうでもいいんだけどな。ただ死体や病人の描写が甘いという意味で無意識的に無自覚的にケガレを棄却できるお前たちをどれだけ傷つられけるかでわたしは言葉を選んでいる。差別問題に繋げて言った方がケガレを棄却できるお前ら正常人たちを切り刻めそうだからそう言っているだけ。だから差別問題に関してとやかく言ってこられても困る。わたしにとって差別問題はただの道具だ。この記事において。
お前たち正常人は生きている資格なんてないんだよ。
ああ『JIN -仁-』ね、マンガ喫茶で読んだことあるんだよ、原作。『六三四の剣』の人でしょ確か。
この人ってマンガっぽく描いてはいるけど、キャラクターに対してとっても冷たい気がする。作者の態度として、他のマンガ家って、自分が作ったキャラに対し程度の差はあれども感情移入するわけじゃん。それが薄い人だと思う。『六三四の剣』にしても、「こういうキャラを置けば読者は喜ぶだろう」みたいな、職人気質みたいなものでキャラを作っている気がする。って昔の少年マンガ家なんて基本そうだよな。「俺は大人だけど子供が喜ぶマンガを描かなきゃいけない」ってこと。自分が子供でない現実を受け入れている。読者たちから一歩離れて作品を作っている。
一方、わたし冨樫義博とかがだめなんだが(本当に『HUNTER×HUNTER』とか何がおもしろいのかわからない)、奴はキャラに対する感情移入は強いと思える。同人っぽい。同人って基本そうだよな。自分が作ってないだけで、キャラに対する思い入れで作品を描く。彼なんかは、少年マンガ読者と視点が同じだ。彼は読者のまま作家になった。だからこそあれほど売れているのだろうが。
冨樫はパラノイア方向なら、村上もとかはスキゾイド方向っぽい。あーもちろん適当な印象論にすぎんがな。あ、今思い出したけど、『六三四の剣』でライバルの修羅くん(すげー好きだった)が六三四に自作の竹刀(自分で作れるんだよ、材料さえ揃ってれば。っていうか組立てか。わたしもやってたもん)をプレゼントするんだけど、「君はパワー型だから重めに作っておいたよ」とか言って、すげーリアリティを感じたんだな。このセリフにしろ、自作の竹刀ってところにしろ、剣道やってる人間じゃないとわからないであろうリアリティっつかアクチュアリティがある。あと、六三四の少年時代のライバルだった嵐子が、成長していくにつれやっぱり男の子の六三四に負けていくようになって、悔しがるところなんかも、わたしにとってはものすごくアクチュアリティがあった。こういう細部へのこだわりっていうか、物語をあらすじ化していく途中で棄却されがちな要素に対する態度っていうか、そんなんがあるかないか、か。
とか言いながら原作『JIN -仁-』も数巻でやめちゃった。『アカギ』とかあったの全部読んだんだけどな。マージャンなんてほとんどわからないのに。あ、ごめん『カイジ』の人のマンガってマン喫で読むものっていう固定観念がわたしにはあるらしい。なんつーか、飲み明けて始発まで時間潰すのに使ってたから、あんまり前向きなマンガだと余計疲れちゃうのだよね。でも後向きなだけでもだめ。そんな時はそれこそ昼までやってる業界人用のスナックに行ったわ。前向きでも後向きでもだめ、って要は弱っている時だと思うけど、そういう時はマン喫ってことか。別に悲しいマンガで泣くわけでもない。ギャグマンガで笑うわけでもない。ただ淡々とマンガを読む。そんな感情惹起すらめんどくさくなった時。
やっぱりあれだな。わたしにとってマンガって自己防衛砦だ。
『相棒』初回の二時間スペシャル、脚本どうした? 意外とこの作品のよさって脚本にもあると思ってたんだけど、これはだめすぎた。いや前シリーズからだめな回もあるにはあったんだが、スペシャルは大体よかったんだけどなあ。
なんかコンセプト変わった? ミッチーになって。いやミッチー登場回なんかはそこそこおもしろいと思えたのに。脚本的に。
事件が実はしょぼかった、ってのはいいんだよ。そういうのがむしろ『相棒シリーズ』のよさでもある。「どうでもいいことが気になってしまう、僕の悪い癖」って奴。どうでもいい事件、つまり派手じゃない事件でも気になってしまうのが右京様。
でもこれはな。なんか違う。なんだろう。
緊張感をやわらげる役目が亀ちゃんにはあったんだけど、ミッチーにはない。でもそれはそれでいい。緊張感が高まるのもおもしろいから。
だけど事件としての緊張感と、コンビという人間関係としての緊張感が、どっちも緊張感だから、どっちがどっちかをダシにしなきゃいけなくなる。緊張感をやわらげる亀ちゃんとのコンビだったら、普通に事件としての緊張感の緊張のダシ(というか薬味)でコンビという人間関係があった。
だけどなー。
もしかしてミッチーもおいおい右京様と馴れ合っちゃうの? そんなキャラじゃないでしょーよ。特命行かされたのも違う目的でしょ。
亀ちゃんもシリーズ初期は右京様と反発して、緊張がなくはなかった。でもダメキャラ(熱血バカ)って設定のおかげで、コンビとしての緊張関係はコント化され、事件としての緊張感をやわらげる薬味になりえた。
それと同じようなやり方で演出しているのかね。
それだと失敗だと思えるなー。もちろんわたしにとって、だけどさ。
これを打破するには、事件としての緊張感とコンビとしての緊張感と対をなす、何かしらの薬味が必要となるわけか。あーミッチーの「今夜は二人で夜を明かす」とかってギャグシーンみたいなのがそうなるのか。緊張感ゆえの滑稽なすれ違いが薬味になりえるのか。
あとはあれだなー。一課の三羽ガラスにもうちょっと重きを置いてみるとかか。アポロガイストのおっちゃんとかってこの人劇団ショーマだったんかいwww 好きだったわー。
うわなんかやな記憶が、ってでも書かないでおこう。めんどくさい。
いやな、日芸の演劇関係もそこそこ知り合いいたんだがな、なんつーかな。まあいいや。
劇団ショーマの上演履歴(「アラカルト」→「劇団略歴」ね)見てたんだが、わたしが見てた頃って、トップスみたいな小劇場(すまんわたしの主観)から、本多劇場とかでっかいところ(これも同じ)でやれるようになったばかりの頃だったんだな。脂の乗ってる時期だったんだろうなあ。そりゃ未だ(当時)に小劇場でうだうだやってた同世代の日芸演劇人から憎まれ口の一つも叩かれるわな。まだ続けてるんだろうか彼ら。あれ? 『八月のシャハラザード』ってもしかしてわたし仕込み手伝った? なんかそんな記憶がないわけでもってこれ以上言ったら個人特定されそうだわ。どんな美術だったか見せてくれたら思い出すかもしれない。でもシアターV赤坂でショーマとかこの辺の劇団仕込んだ記憶はあるんだよな。
あ、これもそうだな。ショーマって劇団が人気劇団に駆け上がっていくその脇にいる、それに対し憎まれ口を叩く同じ大学出身の演劇人たちが、一つの薬味になっている。ショーマに視点を合わせたらね。
どうもわたしという人間は、薬味がないと、なければ思い出さないと、記憶が記憶として統合されないっぽい。楽しい思い出が快楽原則により大体主役になるのはまあそうだろうなと思うんだが、それに反発する脇役がいないとだめなのか。だから嫌な思い出ばかり思い出してしまう、と。わたしはただ「おもしろかった」って言っただけなのに思想的な話でやり込められた。演劇思想うんぬん以前に、もしそれを仕込んでいたなら、「この舞台がどういう風に活用されるのだろう?」って楽しみ方もあるだろう。スタッフしかわからない楽しみ方。自分の作った(つうか製作に携わった)物が自分の所有権など関係なく(まさしく文字通り)道具として使われていく楽しみ。あーだから製造業なんかに行ったのか。つうか、自分の手が関わった物が、自分という人格なんて関係なく使われていく楽しみって、魔術的思考だと思うんだよな。修羅くんが自作の竹刀をライバルの六三四にプレゼントしたシーンを覚えてたのもそういうのを感じたからかもしれない。この楽しみに著作権、知的財産などという概念はただの邪魔でしかない。あーいや日本では軽んじられがちな頭脳労働者でも食ってかなきゃなんないし一概に否定するわけじゃないけどね。
話がそれた。要は、楽しい思い出だけだと人と共有できるような記憶になりえないんだ、わたしにとって。むしろ前向きな主役に反発する後向きな脇役たちに目が行ってしまう。『六三四の剣』なら、性差でどうしても六三四に勝てなくなって悔しがる嵐子とか。
『相棒』はあれだ、スタッフもミッチーとのコンビに慣れていないだろうし、これからってことで。
あ、一応報告、ラカンマンガ描いてる人のブログでごちゃごちゃやってる。