イナカモン
2009/11/12/Thu
出身小学校がホームページ作っててフイタ。
小学校には授業で使うのか小動物を飼うための飼育小屋が必ずあると思う。うちのそれは(今もあるかどうか知らないが)プレハブ小屋になっていて、うさぎなんかはその中のさらに金網ケージみたいなのの中で飼われてた。それほど大きい小屋ではないが、大きくすればちょっとした酪農業になる感じ。テレビなんかで他の学校のそれが映る時があるが、あれより酪農家の風景を小さくした画像を思い浮かべた方が近い。
多分、これは野犬からの防衛ってこともあったと思う。校舎のすぐ横が、山というか丘になっていて、少し歩けば雑木林に突入するような感じだった。よく遊んだ。そこから野犬が下りてくるんだと思う。「野犬に注意」みたいなことは集会での定型句だった。
犬は実家で飼っていた。だけどこういう地域文化だからか、どうも室内でかわいがるような飼い方が、その気持ちがわからない。どっちかというと家畜。番犬。まあ普通の客にも吠えてたけど、うちの犬。バカ犬。ドアベル代わりだったわ。
家畜ってのは野生動物を利用するわけだよな。動物が道具になっている。ペット、愛玩動物になると、愛情が動物に向いている。
「野犬に注意」なんて言われてたけど、別に野犬を「憎い」なんて思わない。そういう環境だ、ってだけの話。犬はその環境の一部にすぎない。
犬を愛玩の対象とはどうしても思えない。
幼児期をこんな環境で育ったわたしが動物愛護の精神を理解できないのも無理はないだろ。
……こんな話をするとすげえ田舎を想像されるかもしれないが、そうでもないのよ。町の近くではあったし。ちょうど山と町の中間みたいな場所にあった、ってだけ。山の入り口にあったような感じ。町の方向に少し歩くと焼肉屋とかって店が並ぶ広い車道に出たしね。さすがにコンビニは近くになかったけど。まだそんな時代じゃなかっただけで今はあるのかもしれない。あっても全然おかしくはない。そんな地域事情。
雑木林ではよく犬の死骸を見つけた。腐敗中のものから、骨になったものまで。多分犬のものだと思うけど、骨を見つけて、男子がふざけてそれを持ってナイフみたいにわたしを突き刺すようなそぶりをして、わたしがよけなかったのが悪いのか口の中に入って「おえっ」ってなったことを今思い出した。
かと言って飼い犬はちゃんと墓地に埋めたけどね。ペット墓地だけどそんな田舎だからほんとおもちゃみたいな墓地だった。最近はあれね、コインロッカーみたいなのに納骨するってのもあるらしいね。って人間のもあるみたい。さすが土地不足。
その程度だと思うよ、死体って。
まあまったく畏敬っつかそういうのを払わないのも問題かもしれないけど、動物や死体に対する幻想がエスカレートしているような気がするわ。イナカモンの視点で言わせてもらえば。
ちなみにその雑木林、死骸だけじゃなく今で言う不法投棄のメッカでもあったと思う。洗濯機とか「なんでこんなのあるんだ?」ってのがいっぱいあった。あーそういえば『ひぐらしのなく頃に』アニメ版でもそんなシーンあったよな。不法投棄されたゴミの山の中からナタを見つけるんだっけか。「かな? かな?」の子のトレードマークの。あれほど大量に捨てられてなかったけどね。もっと分散されてた。ちっちゃいゴミの山がそこかしこにある感じ。
あ、今気づいたけどわたしみたいなガキばっかだったから「野犬に注意」なんて言わなきゃならなかったんだろうな。でも運動場に犬来たりしてたけどな。先生が追っ払ってたけど。都会なら「野良犬をかわいがる生徒たち」みたいな絵が期待されるシーンだろうが、田舎はそうじゃない。
そういや中沢新一が動物と交流する神話を掲げて、現代の、工場生産のように家畜が処理されてく事態を批判していたが、そういうもんだと思うよ。それは「現代人の病」などではない。現代人だって神話時代の人間と変わらない。そういうところは普遍だと思う。確かに「動物を道具として見る」態度がエスカレートしてそうなったのかもしれないけれど、わたしはむしろ動物に対して人間にするのと同じような正の感情をおっかぶせることが「現代人の病」な気がするわ。だってそういう態度の方が「文明的」だろ? 現代では比較的非文明人なイナカモンが言うんだから間違いない。
どっちがアクティングアウトとしてエスカレートしているか、って問題にすぎないと思うがな。両方エスカレートしているっちゃーそうなのか。動物愛護も工場生産的家畜処理方法も。
単に中沢が工場生産的家畜処理方法にプレコックス感っていうか精神疾患に対するのと似たような構図で嫌悪を覚えて批判している、って説明になるのか。精神分析厨の見方で言えば。わたしは逆に動物愛護精神に精神疾患的なものを感じて批判している、ってことになるが。
さて、動物をただの家畜、道具として見る態度と、動物に対して人間と同じように愛情を持って接する態度、どちらがスキゾフレニックでどちらがパラノイアックでしょうか。精神分析厨ならわかるよな。
あと余談だが、動物をただの家畜、道具として見る態度と、動物に対して人間と同じように愛情を持って接する態度、両方個人の中にあるもんだ。木村敏論なら「アンテ・フェストゥムとポスト・フェストゥムの中間を奇跡的に生きているのが健常者」って奴。読めばわかるがアンテがスキゾフレニックでポストがパラノイアックな。でも逆側の中間もあるんだよな。イントラ・フェストゥム。
びんたん論のいいところは精神病理学と自負しているだけあってその論に健常者が存在しないことだよな。ラカン論と逆だ。
ちなみにわたしにも両方あるよ。その時々によって変わる。工場生産的家畜処理側の立場に立つこともあれば動物愛護の立場に立つこともある。
だから困るんだよ。おかしくなっちゃうんだよ。
それで困らないしおかしくならないのが健常者なのよね。
消化器官が変だ。別に過食とかしてるわけじゃないのに吐きそうになる。コンビニのおでんっていろいろ言われてるけどあれくらいしか食べられるものがない。自分で作る気力はない。
鍋とかならできるか。鍋にしてみるか。一人鍋。
小学校には授業で使うのか小動物を飼うための飼育小屋が必ずあると思う。うちのそれは(今もあるかどうか知らないが)プレハブ小屋になっていて、うさぎなんかはその中のさらに金網ケージみたいなのの中で飼われてた。それほど大きい小屋ではないが、大きくすればちょっとした酪農業になる感じ。テレビなんかで他の学校のそれが映る時があるが、あれより酪農家の風景を小さくした画像を思い浮かべた方が近い。
多分、これは野犬からの防衛ってこともあったと思う。校舎のすぐ横が、山というか丘になっていて、少し歩けば雑木林に突入するような感じだった。よく遊んだ。そこから野犬が下りてくるんだと思う。「野犬に注意」みたいなことは集会での定型句だった。
犬は実家で飼っていた。だけどこういう地域文化だからか、どうも室内でかわいがるような飼い方が、その気持ちがわからない。どっちかというと家畜。番犬。まあ普通の客にも吠えてたけど、うちの犬。バカ犬。ドアベル代わりだったわ。
家畜ってのは野生動物を利用するわけだよな。動物が道具になっている。ペット、愛玩動物になると、愛情が動物に向いている。
「野犬に注意」なんて言われてたけど、別に野犬を「憎い」なんて思わない。そういう環境だ、ってだけの話。犬はその環境の一部にすぎない。
犬を愛玩の対象とはどうしても思えない。
幼児期をこんな環境で育ったわたしが動物愛護の精神を理解できないのも無理はないだろ。
……こんな話をするとすげえ田舎を想像されるかもしれないが、そうでもないのよ。町の近くではあったし。ちょうど山と町の中間みたいな場所にあった、ってだけ。山の入り口にあったような感じ。町の方向に少し歩くと焼肉屋とかって店が並ぶ広い車道に出たしね。さすがにコンビニは近くになかったけど。まだそんな時代じゃなかっただけで今はあるのかもしれない。あっても全然おかしくはない。そんな地域事情。
雑木林ではよく犬の死骸を見つけた。腐敗中のものから、骨になったものまで。多分犬のものだと思うけど、骨を見つけて、男子がふざけてそれを持ってナイフみたいにわたしを突き刺すようなそぶりをして、わたしがよけなかったのが悪いのか口の中に入って「おえっ」ってなったことを今思い出した。
かと言って飼い犬はちゃんと墓地に埋めたけどね。ペット墓地だけどそんな田舎だからほんとおもちゃみたいな墓地だった。最近はあれね、コインロッカーみたいなのに納骨するってのもあるらしいね。って人間のもあるみたい。さすが土地不足。
その程度だと思うよ、死体って。
まあまったく畏敬っつかそういうのを払わないのも問題かもしれないけど、動物や死体に対する幻想がエスカレートしているような気がするわ。イナカモンの視点で言わせてもらえば。
ちなみにその雑木林、死骸だけじゃなく今で言う不法投棄のメッカでもあったと思う。洗濯機とか「なんでこんなのあるんだ?」ってのがいっぱいあった。あーそういえば『ひぐらしのなく頃に』アニメ版でもそんなシーンあったよな。不法投棄されたゴミの山の中からナタを見つけるんだっけか。「かな? かな?」の子のトレードマークの。あれほど大量に捨てられてなかったけどね。もっと分散されてた。ちっちゃいゴミの山がそこかしこにある感じ。
あ、今気づいたけどわたしみたいなガキばっかだったから「野犬に注意」なんて言わなきゃならなかったんだろうな。でも運動場に犬来たりしてたけどな。先生が追っ払ってたけど。都会なら「野良犬をかわいがる生徒たち」みたいな絵が期待されるシーンだろうが、田舎はそうじゃない。
そういや中沢新一が動物と交流する神話を掲げて、現代の、工場生産のように家畜が処理されてく事態を批判していたが、そういうもんだと思うよ。それは「現代人の病」などではない。現代人だって神話時代の人間と変わらない。そういうところは普遍だと思う。確かに「動物を道具として見る」態度がエスカレートしてそうなったのかもしれないけれど、わたしはむしろ動物に対して人間にするのと同じような正の感情をおっかぶせることが「現代人の病」な気がするわ。だってそういう態度の方が「文明的」だろ? 現代では比較的非文明人なイナカモンが言うんだから間違いない。
どっちがアクティングアウトとしてエスカレートしているか、って問題にすぎないと思うがな。両方エスカレートしているっちゃーそうなのか。動物愛護も工場生産的家畜処理方法も。
単に中沢が工場生産的家畜処理方法にプレコックス感っていうか精神疾患に対するのと似たような構図で嫌悪を覚えて批判している、って説明になるのか。精神分析厨の見方で言えば。わたしは逆に動物愛護精神に精神疾患的なものを感じて批判している、ってことになるが。
さて、動物をただの家畜、道具として見る態度と、動物に対して人間と同じように愛情を持って接する態度、どちらがスキゾフレニックでどちらがパラノイアックでしょうか。精神分析厨ならわかるよな。
あと余談だが、動物をただの家畜、道具として見る態度と、動物に対して人間と同じように愛情を持って接する態度、両方個人の中にあるもんだ。木村敏論なら「アンテ・フェストゥムとポスト・フェストゥムの中間を奇跡的に生きているのが健常者」って奴。読めばわかるがアンテがスキゾフレニックでポストがパラノイアックな。でも逆側の中間もあるんだよな。イントラ・フェストゥム。
びんたん論のいいところは精神病理学と自負しているだけあってその論に健常者が存在しないことだよな。ラカン論と逆だ。
ちなみにわたしにも両方あるよ。その時々によって変わる。工場生産的家畜処理側の立場に立つこともあれば動物愛護の立場に立つこともある。
だから困るんだよ。おかしくなっちゃうんだよ。
それで困らないしおかしくならないのが健常者なのよね。
消化器官が変だ。別に過食とかしてるわけじゃないのに吐きそうになる。コンビニのおでんっていろいろ言われてるけどあれくらいしか食べられるものがない。自分で作る気力はない。
鍋とかならできるか。鍋にしてみるか。一人鍋。