『分解くんのホンネ』
2009/11/19/Thu
インテルの『分解くんのホンネ』がおもしろいっつか「ああそうそういうことよね、こういうマイルドな言い方をすればいいのよね」と思った。
結局そういうことなんだよ。わたしが言いたいこと(の一つ)は。ただ分解くんは「?」をやめることができたらしいけど。やめることはわたしもできるけど、「?」を保持する動機が違うよな。「世界がたいくつになったから」っていうのはそうとも言えるけど、微妙に違う。「?」と思うことが苦痛になっていない。「おとな」や「ともだち」は「?」が苦痛だからめんどくさそうな顔をする。「?」は苦痛でいいんだ。わたしは苦痛だ。苦痛なのに「?」が気になってしかたがない。苦痛なのに、苦痛だから「?」に向かってしまう。「?」を知ろうとする。苦痛を解消しようとしてじゃなく、苦痛から逃れるためじゃなく、苦痛だからそこに向かってしまう。確かに「?」が解消できたら、「?」がなくなってしまうということになって、苦痛の解消になるのかもしれないけれど、わたしの経験上、「?」がわかったことの中にまた「?」が生まれる。きりがない。なので苦痛の解消にならない。一瞬は解消できてもまた新しい苦痛が生じる。新しくはない。他の人が言うには「何同じ疑問を悩み続けてるの?」となるので、新しい「?」とは言えないだろう。他の人から見たら同じ「?」らしい。一つの「?」を解消したら、パンドラの箱を開けたかのように、蜘蛛の子が生まれてくるように、新しいのか同じなのか知らないが、無数の「?」が生まれる。分解した一つ一つの部品をさらに分解しなければならない。分解はどこまで分解していいのかわからない。分解に終わりはない。分子、原子レベルに分解しても物理学はまだ満足していない。
分解くんみたいな考え方が主流になったら、基礎科学も応用科学の人間からバカにされずに済むんだろう。学問村ではそうでもないけど、一般世界では物理学より工学の人の方が「えらい」と言われる。物理学者なんて一種の仙人あるいはキチガイだからな。言ってることは。それよりそれをいかに自分たちの利益にするため働いてくれる工学の人間の方が「えらい」に決まっている。物理学は自分たちの、社会の利益にならない。工学はなる。いや、工学にも無数の「?」はあるんだろうけどね。
なのでインテルって会社がこういうCM垂れ流してるのを見ると、わたし個人は、応用科学側の人たちが「基礎科学を大事にしようぜ」と言っているように思えるんだが、半導体技術なんて工学の中ではもろ物理学の領域に踏み込んでいる分野なので、逆にインテルならではなのか、とも思う。わたしそこら辺ちらっとやってた。建築関係もやってたが、少なくとも建築関係よか物理学的ではある。当然のごとく。建設会社あたりだとこんなCMにはならねえよな、ってことか。インテルのこのCMは「私たちは基礎科学(的なこと)を大事にしています」とアッピールしている、って解釈になるのか。
要するに、パソコンが一般的になって、半導体が非常に活用されるようになった現代こそ、基礎科学が応用科学領域で花開いている状態だ、とも言えるんだな。基礎科学側の人間が繰り返す「応用科学は基礎科学が文字通り基礎となって成り立っている。基礎をおろそかにすべきではない」などという言い訳が立証されている状態だ。とはいえ一般人には体感できないであろうことだけれどね。パソコンを組み立てるだけじゃ半導体製造技術のさまざまな問題を知りえないのと同じで。だからわたしがここでこんなこと言っても多くの人間が持っている「基礎科学なんてジコマンじゃないか、応用科学の方が社会的に貢献している。だから応用科学の方がえらい」って無意識はなくならないだろう。
ジコマンで正しいんだよ。分解くんだってこれあっさり言えばジコマンだろうがよ。
分解くんの「?」についてのあれこれを、社会に貢献できるものにしたり、未来に活用したりするかどうかはあなたたちが勝手にやることで、分解くん本人には関係ないことだ。分解くんはそんなのどうでもいいことだと思ってるだろう。具体的に言うと、「?」についてあれこれやっている中で、たまたま特許の取れるような発見をしたとしても、「特許申請とかめんどくせえ」と思うだろう、ということ。分解くんがわたしの思うような人間だったならね。彼がわたしの思うような人間だったなら、彼の「?」に対する態度は、「精神疾患的な苦痛の根源との戦い」と表現すべきだろう。
そういう意味で分解くんって未去勢者っぺえよな。「「?」が苦痛だ」みたいな要件があったならそう認定してやってもよい。
「たいくつな世界」に目を向けてしまうのか、精神疾患的な苦痛の根源でもある「?」に目を向けてしまうのか、の違いか。「どっちに目を向けるか」ではなく「どっちに目を向けてしまうか」であることに注意。ここの違いが意外と重要。未去勢的か去勢済み的かの診断には。「目を向けるか」だと去勢の否認か承認かの違いも含まれてしまう。
あれだな、基礎がわかったらなんでも応用できる、ってわけじゃない、って話をしたいのか。応用する難しさもある。基礎を理解する難しさと同様に。困難だらけ。世の中には困難しかない。だからと言って基礎だけ、応用だけ、っていうのはありえない。困難だらけだから仮設として基礎にしろ応用にしろそういう足場を組むことはある、ってだけ。
この足場だけの場を、多くの人間は全ての世界だと勘違いしている。そう勘違いしている人間が思い込んでいるエセ世界が、分解くんの言う「たいくつな世界」だ。
わたしは「たいくつ」だなんて思わないけど。「たいくつ」だと思えてるならまだましじゃねえの? って思うわ。そこにいればいいじゃん、わざわざこっち来なくても、って。
わたしは舞台演劇を学んでその「たいくつな世界」にちょっとだけ参加できたのかもしれないけれど、そこを「たいくつ」だとは思えないわあ。舞台上で演技している状態が「たいくつ」であるわけがないだろ。
まあ、分解くんが未去勢者かただの去勢の否認かって診断は、微妙ってことだ。
あ、分解くんは去勢済みな主体である、と考えたら、彼の「「?」をめんどくさがるおとなたちに迎合したたいくつな世界」から抜け出そうとする(「世界」だから「抜け出す」ことになるよな)のは、去勢の否認の症状である、と言えるよな。するとこのCMって、斎藤環とかが批判する「現代にはびこる去勢の否認推奨ムード」そのまんまになるわけか。
でも斎藤のこの論って、去勢を否認して社会的ひきこもりになるわけだから、「社会的ひきこもりになるのは社会のせいだ」ってことでしかなく、要するにひきこもり擁護論にはなっちゃいないよな。この文脈はひきこもり=悪って固定観念から逃れられていないことを示している。まあ確かにスキゾイド型ひきこもりなら、環境因だとは言いきれなくなるので、社会的ひきこもりを治療するためには環境因だってした方がいいだろう、って話なわけか。現代のひきこもりの多くは、彼の語義なら社会的ひきこもりは、内因じゃなくて心因即ち神経症である、って主張だと考えたら、わたしは斎藤に同意できる。実際今いるひきこもりの多くは神経症だとしか思えないしな。
わたしは違うところに目を向けているだけで、斎藤は別のところを論じていて、それならそういう論だとして理解できる、という話。
なのに別のところじゃないところを論じるからおかしくなるんだよ、たまきん。
結局そういうことなんだよ。わたしが言いたいこと(の一つ)は。ただ分解くんは「?」をやめることができたらしいけど。やめることはわたしもできるけど、「?」を保持する動機が違うよな。「世界がたいくつになったから」っていうのはそうとも言えるけど、微妙に違う。「?」と思うことが苦痛になっていない。「おとな」や「ともだち」は「?」が苦痛だからめんどくさそうな顔をする。「?」は苦痛でいいんだ。わたしは苦痛だ。苦痛なのに「?」が気になってしかたがない。苦痛なのに、苦痛だから「?」に向かってしまう。「?」を知ろうとする。苦痛を解消しようとしてじゃなく、苦痛から逃れるためじゃなく、苦痛だからそこに向かってしまう。確かに「?」が解消できたら、「?」がなくなってしまうということになって、苦痛の解消になるのかもしれないけれど、わたしの経験上、「?」がわかったことの中にまた「?」が生まれる。きりがない。なので苦痛の解消にならない。一瞬は解消できてもまた新しい苦痛が生じる。新しくはない。他の人が言うには「何同じ疑問を悩み続けてるの?」となるので、新しい「?」とは言えないだろう。他の人から見たら同じ「?」らしい。一つの「?」を解消したら、パンドラの箱を開けたかのように、蜘蛛の子が生まれてくるように、新しいのか同じなのか知らないが、無数の「?」が生まれる。分解した一つ一つの部品をさらに分解しなければならない。分解はどこまで分解していいのかわからない。分解に終わりはない。分子、原子レベルに分解しても物理学はまだ満足していない。
分解くんみたいな考え方が主流になったら、基礎科学も応用科学の人間からバカにされずに済むんだろう。学問村ではそうでもないけど、一般世界では物理学より工学の人の方が「えらい」と言われる。物理学者なんて一種の仙人あるいはキチガイだからな。言ってることは。それよりそれをいかに自分たちの利益にするため働いてくれる工学の人間の方が「えらい」に決まっている。物理学は自分たちの、社会の利益にならない。工学はなる。いや、工学にも無数の「?」はあるんだろうけどね。
なのでインテルって会社がこういうCM垂れ流してるのを見ると、わたし個人は、応用科学側の人たちが「基礎科学を大事にしようぜ」と言っているように思えるんだが、半導体技術なんて工学の中ではもろ物理学の領域に踏み込んでいる分野なので、逆にインテルならではなのか、とも思う。わたしそこら辺ちらっとやってた。建築関係もやってたが、少なくとも建築関係よか物理学的ではある。当然のごとく。建設会社あたりだとこんなCMにはならねえよな、ってことか。インテルのこのCMは「私たちは基礎科学(的なこと)を大事にしています」とアッピールしている、って解釈になるのか。
要するに、パソコンが一般的になって、半導体が非常に活用されるようになった現代こそ、基礎科学が応用科学領域で花開いている状態だ、とも言えるんだな。基礎科学側の人間が繰り返す「応用科学は基礎科学が文字通り基礎となって成り立っている。基礎をおろそかにすべきではない」などという言い訳が立証されている状態だ。とはいえ一般人には体感できないであろうことだけれどね。パソコンを組み立てるだけじゃ半導体製造技術のさまざまな問題を知りえないのと同じで。だからわたしがここでこんなこと言っても多くの人間が持っている「基礎科学なんてジコマンじゃないか、応用科学の方が社会的に貢献している。だから応用科学の方がえらい」って無意識はなくならないだろう。
ジコマンで正しいんだよ。分解くんだってこれあっさり言えばジコマンだろうがよ。
分解くんの「?」についてのあれこれを、社会に貢献できるものにしたり、未来に活用したりするかどうかはあなたたちが勝手にやることで、分解くん本人には関係ないことだ。分解くんはそんなのどうでもいいことだと思ってるだろう。具体的に言うと、「?」についてあれこれやっている中で、たまたま特許の取れるような発見をしたとしても、「特許申請とかめんどくせえ」と思うだろう、ということ。分解くんがわたしの思うような人間だったならね。彼がわたしの思うような人間だったなら、彼の「?」に対する態度は、「精神疾患的な苦痛の根源との戦い」と表現すべきだろう。
そういう意味で分解くんって未去勢者っぺえよな。「「?」が苦痛だ」みたいな要件があったならそう認定してやってもよい。
「たいくつな世界」に目を向けてしまうのか、精神疾患的な苦痛の根源でもある「?」に目を向けてしまうのか、の違いか。「どっちに目を向けるか」ではなく「どっちに目を向けてしまうか」であることに注意。ここの違いが意外と重要。未去勢的か去勢済み的かの診断には。「目を向けるか」だと去勢の否認か承認かの違いも含まれてしまう。
あれだな、基礎がわかったらなんでも応用できる、ってわけじゃない、って話をしたいのか。応用する難しさもある。基礎を理解する難しさと同様に。困難だらけ。世の中には困難しかない。だからと言って基礎だけ、応用だけ、っていうのはありえない。困難だらけだから仮設として基礎にしろ応用にしろそういう足場を組むことはある、ってだけ。
この足場だけの場を、多くの人間は全ての世界だと勘違いしている。そう勘違いしている人間が思い込んでいるエセ世界が、分解くんの言う「たいくつな世界」だ。
わたしは「たいくつ」だなんて思わないけど。「たいくつ」だと思えてるならまだましじゃねえの? って思うわ。そこにいればいいじゃん、わざわざこっち来なくても、って。
わたしは舞台演劇を学んでその「たいくつな世界」にちょっとだけ参加できたのかもしれないけれど、そこを「たいくつ」だとは思えないわあ。舞台上で演技している状態が「たいくつ」であるわけがないだろ。
まあ、分解くんが未去勢者かただの去勢の否認かって診断は、微妙ってことだ。
あ、分解くんは去勢済みな主体である、と考えたら、彼の「「?」をめんどくさがるおとなたちに迎合したたいくつな世界」から抜け出そうとする(「世界」だから「抜け出す」ことになるよな)のは、去勢の否認の症状である、と言えるよな。するとこのCMって、斎藤環とかが批判する「現代にはびこる去勢の否認推奨ムード」そのまんまになるわけか。
でも斎藤のこの論って、去勢を否認して社会的ひきこもりになるわけだから、「社会的ひきこもりになるのは社会のせいだ」ってことでしかなく、要するにひきこもり擁護論にはなっちゃいないよな。この文脈はひきこもり=悪って固定観念から逃れられていないことを示している。まあ確かにスキゾイド型ひきこもりなら、環境因だとは言いきれなくなるので、社会的ひきこもりを治療するためには環境因だってした方がいいだろう、って話なわけか。現代のひきこもりの多くは、彼の語義なら社会的ひきこもりは、内因じゃなくて心因即ち神経症である、って主張だと考えたら、わたしは斎藤に同意できる。実際今いるひきこもりの多くは神経症だとしか思えないしな。
わたしは違うところに目を向けているだけで、斎藤は別のところを論じていて、それならそういう論だとして理解できる、という話。
なのに別のところじゃないところを論じるからおかしくなるんだよ、たまきん。