サントームという「無為の為」
2007/02/28/Wed
前の記事で、「サントーム」=「人間としての症候」について触れた。
これを誤解を恐れずにごくごく単純な言葉に言い換えるなら、「工夫」であろう。
しかし、「サントーム」の「工夫」は、欲望をベースにしていてはいけない。
比喩的に言うなら、「パズル」である。
しかし、このパズルは、何か違うものを求めてやるパズルであってはいけない。例えば、誰かに褒められることを目的としていたり、パズルを解く時間を競ったり、パズルに解答して懸賞に応募したりしてはいけない。
パズルを解くその行為自体が享楽であるパズルだ。その仮定で「工夫」を凝らしていく行為そのものの享楽が、主体をサントームへと導く。
細かく言えば、「パズル」そのものがサントームであるという比喩も正しくない。「パズルを解く」こと、パズルの解答が目的となってはいけないからだ。
パズルの解答は、「一」的あるいは「無」的あるいは「欠如を埋めること」的である。イラストロジックやジグソーパズルは「一」つの絵を作り出すパズルであり、ぷよぷよやテトリスはピースを「無」くすことが目的であり、クロスワードパズルは「欠如を埋める」パズルである。この「一」や「無」や「欠如を埋めること」は、そのまま対象aを強く暗示する。人が対象aを求めるのは、対象aという領域で主体が想像的他者と「一」つになって「無」化することで「欠如が埋められる」からである。この根源的な欲望の構図が反復され置き換えられたものが、「パズルの解答を得たい」という欲望である。
サントームとは、この「解答を得ようとする欲望」とは関係なしに、「工夫」を凝らして「パズルを解いていく」行為そのものの享楽である。パズルに解答があろうとなかろうと関係無しに、それを解いていく行為そのものが楽しくなってしまった瞬間、それがサントーム的な享楽の瞬間である。
恋愛ならば、恋愛を成就させることより、その過程の駆け引きの方がおもしろくなっている状態が、恋愛をサントーム的に享楽していると言えるだろう。
人の欲望を引き起こす幻想を、ラカンは/S◇対象aと表記した。/Sは去勢により抹消された主体であり、◇が幻想だ。対象aとは、生まれたばかりの赤ん坊と母親の関係がそれに一番近い。生れ落ちたこの世界における「求めるだけ与えられる」母親の胎内。そんなものは存在しないが、それが、対象aという領域と言えるだろう。
人類は、象徴化能力の発達によって、主体と対象aの間にある幻想◇を手に入れた。この象徴化能力は、中沢新一氏の言葉による「流動的知性」というものと等しいだろう。しかしこの能力のおかげで、対象aが現実的に手に入れられないことを自覚できるようになってしまった。自覚した主体=エスが、去勢を受けた主体であり、抹消を斜線で表現した/Sである。
この/S◇対象aを、そのベクトルを/S→対象aと限定して、もう少し細かく表現したのが、
/S→S1=Φ→S2=A→対象a -<Ⅰ>
であり、このベクトルを生み出す力が生の欲動である。
このS2=Aとは象徴界の他者(大文字の他者)であり、ここでは「言葉」と考えてもらって差し支えない。対象aは想像界の他者(小文字の他者)であり、想像界の他者とは、視覚や聴覚といった体感によって認知する「世界」である。ここには断絶がある。言葉の世界(象徴界)と体感の世界(想像界)の断絶である。この断絶を少し詳しく見てみよう。
S2=A→対象aの間には、対象aから発生した要求=Dと、大文字の他者で欠如しているシニフィアンS(/A)が存在する。
比喩的に言おう。愛する彼女=対象aとの語らいで、彼女が発した言葉がDである。彼女の「愛しているわ」という言葉により、彼は彼女を欲望する。「愛している」という言葉が、主体にとって要求Dとなる。彼という主体は要求Dの「欲望せよ」という命令に従うしか出来ない。
しかし、彼女のそういった言葉は、必ずしも彼女の「真意」と一致しない。言葉はシンボルであり多義性を持つものだから、様々な誤解を前提とする道具だからである。それ以前に、彼女も自分の「真意」がその言葉と一致しているかどうかわからない。彼女の主体も抹消された主体/Sだからだ。恋人たちの語らいには、必ず誤解が存在するのだ。それがどういう意味なのか、それ以前にあるかどうかさえわからない恋人の「真意」が、他者の場所に欠如しているシニフィアンS(/A)だ。
彼が、「欠如がある」ことを認めたとしよう。「二人の間に誤解があっても、彼女の真意がわかろうとわからなくても、僕が彼女を愛していることには変わりがない」という言葉で、彼は真意の欠如を承認するだろう。かくして、彼は彼女を対象aと「見立てる」ことが出来る。「見立てる」、そう、それは幻想なのだ。現実的に、彼は彼女との関係において、母親の胎内にいた頃のような状態にいるわけではない。だから、/S◇対象aと表記される。そして、幻想◇とは言葉で成り立っている。S2=Aというシニフィアンの連鎖を掴み続けることで成り立っているのだ。
愛という幻想は、その愛=幻想を保持する言い訳によって成り立っているのだ。
人は、愛という幻想の中で、幻想を保持するために言い訳を作り続ける。対象aの象徴的代理物であるS2=Aを掴み続ける。これは生の欲動による。
では、愛があるから、対象aがあるから人はS2を掴み続けるのか。それに疑問を投げかけるのが「サントーム」である。
サントームとは、「父の名」という「一」つのシニフィアンであり、それによる生成物である。「父の名」とは、去勢をする者である。それにより、主体は抹消され(/S)、抹消された主体のシニフィアンである象徴的ファルスΦを象徴界に登録する。なので、この「父の名」は主体にとってΦの裏の顔と言ってもいいだろう。主体は「父の名」のもとで抹消される。「無」化する。強迫神経症者が恐れる抑制を、フロイトは「無為」と呼んだ。「父の名」とはこの「無為」のことなのではないだろうか、と私は考える。そもそも人の「無」や「死」という概念は二次的、他者的だ。もちろん、抹消された主体は「無」だから、去勢された主体にとって他者的になるのは理解できる。去勢された主体の象徴的ファルスΦは自己的である。「死」が他者的なのは、母親より他者的、二番目の他者とも言える「「父」の名」だからなのではないだろうか。愛する他者の欠如がS(/A)なら、不安に思う他者的な「無為」や「死」が「父の名」と言えるのではないか。だから、解答などの目的関係無しにパズルを解くことは、「無為」となってしまうのだろう。
欲望の構図に、「父の名」は存在しない。つまり、欲望の原因である対象aの引力から解放されてはいるが、生の欲動に従ってS2を掴み続けている状態が、ジジェクの言うところの「意味の享楽」であり、それの原因であり生成されるものが、「事後的に」サントームと呼ばれるのである。
最近ブログ界隈を騒がせていた経済学者池田信夫氏と評論家山形浩生氏の論争に、遅ればせながら目を通した(関係する記事全部をリンクするのはめんどくさいので、その論争を第三者視点で考察しているpikarrr氏のブログ記事をリンクしておく)。
論争自体は、経済学素人の私から見たら、どっちが正しくても構わないように思える。言葉の厳密さとかそんなところに収束しているところを見ると、なんらかの行間が火種になって、それが燃え上がっただけのように思えた。まあ彼ら二人には何らかの因縁があるようなので、それが精神的な燃料になった感じなのだろう。
私は株をやっているので、経済の話になるとそういった視点からでしか見えなくなる。「お金」という概念は欲望を強く喚起する。想像界の他者である対象aを強く喚起するシニフィアンと言っていいだろう。「欲望せよ」という要求Dなるシニフィアンとしては非常に強い力を精神世界に及ぼす。「「お金」は様々な物と交換可能である」というコンテクストが、「お金」というシニフィアンから読み取るメッセージ=Mという形をとって、シニフィアンの連鎖を刺し縫いする。こうして、「お金」というシニフィアンはリアリティを得ている、と言える。実体はない、数字としての「お金」をやり取りする(ネットでの)為替や株取引というシステム。システムの存在そのものやシステム内の事象全て含めてのその「現象」は、pikarrr氏が言うところの「経済学の彼岸」に非常に近接した領域にあるものではないだろうか。経済学という「知」の集積=象徴界と、想像界あるいは現実界との「断絶」。株取引で得たただの数字である「お金」は、体感的かつ想像的に私を欲望させ、それを増やすことの享楽を私に与えてくれる(こんなこと言えるほど儲けてないけど)。
話がそれた。
ここでこの論争を精神分析的に見ることもできるが、それは私とって「無為」に思える。しかし、論争の争点とは関係無しに、私は池田氏のある言葉が印象に残った。引用しよう。
=====
トマス・クーンは、学問的なパラダイムが「通常科学」になる条件として、パズルの生産力をあげている。大きな科学者集団を維持するには、新しい問題が次々に作り出され、それを理論的に解明して実証的に確かめる手続きが明確で、多くの研究者が生活するための仕事がつねに生み出される必要がある。自然科学の学会はそのための組織で、経済学はそれをまねている。つまり経済学の形式的な学問体系は、彼らの生活手段なのである。
=====
彼が自ら言うように、学問としての経済学は、「大学院以上の経済学となると、(日常的な世界では)急に役に立たなくなる」。では、何故役に立たないと思われる言説=パズルを解くことが、学問の世界では価値あるものとされ、学者に求められるのだろうか。
池田氏の言うように、生活手段としてそれをやらざるを得ない、ということはあるだろう。しかし、それだけでは何故そういうシステムが作り上げられたかが説明されない。
「パズル」というシニフィアンで気づかれた方も多いだろう。そう、「通常科学」はサントームを形成するために、日常的には役に立たない言説を展開しているのではないだろうか、ということだ。そういう精神的な要請が、「パズルの生産力」というシステムを(無意識的に)作り上げていったのではないかと私は考える。
私は、ある記事で学問とは、「何故?」と「問う」ことでS2の構造を無化させていく、「死の欲動」的なものとして出現したのではないか、と書き、ある記事では「科学は学問でありながら、「生」の学問だ」と書いた。
これらは矛盾しない。何故か。
死の欲動とは生の欲動と逆のベクトルである。それを<Ⅰ>のように表現するなら、
対象a→S2=A→S1=Φ→/S -<Ⅱ>
である。
前者の死の欲動的な学問とは、哲学をイメージしてもらうとわかりやすいだろう。「何故?」と問い答えることでS2=「知」を体外に排泄していく。その排泄物が肥料となり、後世の人間はS2で構成された迷路を複雑化させていった。しかし、S2の構造を無化させていくことは、<Ⅱ>を見ればわかるように、Φのせきたてと対象aの引力により形成される生の欲動のベクトルの力と逆方向に進むことである。そのために学問は、対象aの引力を喚起するパトスや主観や感情論を排除するやり方で、ロゴスという思考様式を洗練していった。
S2の構造を無化させて行き着くのは、<Ⅱ>に従うなら、象徴的ファルスΦ=S1である。これは、古代の哲学が存在を求め信じ続けた絶対的「真理」に言い換えられるだろう。知の中心であるS1=Φは、全てのS2=「知」に暗喩作用を及ぼしているが、それ自体は存在しない。精神分析医の藤田博史氏は、こういった構造を円錐の形で図示し、頂点にあるのが「真理」で底辺の円形という二次元領域がS2の構造=超自我=象徴界であるとし、それを「ロゴスの構造」と呼んだ。
また、S2の構造を無化させることは、S2で構成された迷路の入り口=Φへと逆戻りしていくことでもある。これまで歩んできたS2=「知」の連鎖を遡ることになるので、全ての学問は「検証」的な印象を帯びる。
後者の生の欲動的な学問とは、「通常科学」(ここでは「科学」で統一する)である。なるほど科学も確かに哲学が生んだロゴスという対象aを遠ざける思考様式に則っている。しかし遠ざけているだけで、個人の資質により程度の差はあるだろうが、その引力(生の欲動ベクトルの力)は人間には必ず存在する。哲学が生んだロゴスという思考様式を引き継ぎ、「検証」的な「印象」を「反証可能性」という「概念」に置き換えて様式化し、生の欲動的な欲望に従って「便利なもの」「役に立つもの」を生み出す「生」の学問へと変貌したのが「科学」である。
しかし、生の欲動的なベクトルを進んでいるとはいえ、ロゴスという思考様式により、対象aへとあからさまに進むことは抑圧される。科学全てが「役に立つもの」を生み出すためのものにならない。科学者たちの言説=「知」=S2は、対象aという欲望の原因に向かう方向とは違った方向を進む。それが「父の名」である。科学者たちを「パズルの生産力」というシステムに向かわせているその状態は、事後的に「サントーム」である、と言えるだろう。彼らの「知」=S2の積み重ねは、「父の名」という「無為」に進む。「無為」だから「役に立たな」くて当然なのだ。このジレンマを、池田氏はこういう文章で表現している。
=====
経済学って大したもんじゃない。昔から「憂鬱な科学」としてバカにされているように、それは自然科学のまねをしようとしてできない中途半端な学問である。では、まったく役に立たないかというと、ないよりはましだろう。変ないい方だが、経済学が役に立つのは、それが日常的な実感に合わないからなのだ。
=====
役に立たない「知」を積み重ねる(経済学者含む)科学者たちは、「父の名」という象徴的ファルスΦの裏の顔を目指している。それは「無為」を目指すことでもある。Φを哲学的に「真理」と言い換えるなら、科学者たちはパズルを解くことで、「父の名」であり「無為」である「(哲学的な)真理の裏側」を目指していると言える。例えば、ゲーテルの不完全性定理などを「真理の裏側」的なもの、と表現するとしっくりこないだろうか。
Φ=「真理」がそこに存在しないように、「父の名」もそこに存在しない。Φは、「存在しないけれど、全ての「知」に暗喩作用を及ぼしている」が、「父の名」は「存在しない「無為」」である。赤ん坊の頃の全能感を記憶している主体=Sが「象徴界への参入」「原抑圧」「去勢」されて抹消された主体/Sになる。このトラウマ的な出来事を、それこそ言葉を手に入れる前の幼児がするような二項への象徴化、即ち、去勢後も全能感を信じさせる「良い」「プラス」の面と、「死」や「無」に近い「悪い」「マイナス」の面の二つの側面に分けて象徴化したのが、Φと「父の名」ではないだろうか。
「父の名」は、S2を暗喩的に積み重ねて、その上に立って初めてその面影が見えてくる。その時の主体の状態を、精神分析家はサントームであると言うだろう。その暗喩的積み重ねは、ボロメオの輪の解体を食い止める「第四の輪」を形成しているだろう。また、解答があるかどうか関係無くパズルを解くように、S2を積み重ねていく行為を「意味の享楽」と呼ぶだろう。
ジジェクを引用する。
=====
この<一者>は他の中の一つではなく、<他者>の秩序に固有の分節にまだ参加していない。この<一者>はいうまでもなく意味-の-享楽の<一者>、まだ鎖に繋がれておらず、享楽にたっぷり浸かって自由に浮遊しているシニフィアンの<一者>にほかならない。この享楽が、シニフィアンが鎖の一つへと分節されるのを阻止している。
=====
この<一者>が「父の名」であり、意味-の-享楽により鎖の一つへと分節されないから、第四の輪を形成できる。これが、サントームである。サントームはシニフィアンの鎖の一つ=連鎖の要素ではないから、幻想ではなく、分析の対象とはならない。主体の中にあって主体にとっては主体以上のものである。サントームについて、ラカンはこう言う。
=====
神経症者達は困難な人生を生きていて、われわれは彼らの不快を和らげようとしている……。分析をあまりに先へと無理に押し進めることはない。分析主体が生きていることに幸せを感じるなら、それで十分なのだ。
=====
「父の名」は、「無為」である。「無為」は、強迫神経症者に限らずとも、主体を恐怖させ不安に陥れるだろう。特に去勢というトラウマ的なものの影響が強い男性は、女性と比べて「父の名」あるいは「無為」を恐れやすい傾向があるだろう。強迫神経症者には男性が多いことがそれを証明している。
「父の名」を目指すことは「無為」との闘いでもあるだろう。科学、特に基礎研究に関わるようなものを研究している学者たちは、自分の研究が果たして役に立つものなのかどうかという自問の中、研究を続けている。その研究という「工夫」的な行為そのものが、己のボロメオの輪の解体を食い止めるサントームに向かっていることを知らずに。この、役に立つかどうかわからない研究は、それを享受するものにとっても、それに関わる知識を得て暗号を解読するが如き「工夫」をして、それを享受する行為がサントームとなるだろう。
池田氏はこの「無為」への恐れから、先に記したような文章を書いたのではないだろうか。サントームを目指す営為を説明することは、「無為の為」を説明するようなものだ。だから、経済学者らしからぬあやふやな文章になってしまう。サントームを目指す営為は「工夫」でありシニフィアンの暗喩的積み重ねだ。シニフィアンと積み重ねるとそこにはハイ・コンテクストが成立する。これまで何度も述べたように、ハイ・コンテクスト化は現実界や想像界的なものから自己を浮遊させる。象徴界が浮遊してしまうのだ。だからボロメオの輪が解体しそうになる。そのために第四の輪を形成するのが「無為の為」というなら、いささかマッチポンプ的な印象を生む。しかし学問には、それが生の欲動的なものであれ死の欲動的なものであれ、「知」=S2を他者と共有するという役割がある。学問が細分化し複雑化した現代においては、言外にサントームという「無為の為」を醸し出す必要があるのではないだろうか。「知」を教わる学生たちが、ボロメオの輪の解体による狂気に不安を感じていてもおかしくない時代なのだ。ただ、これを明文化するのはあまり良いこととは言えない。明文化してしまうと、哲学の「検証」的「印象」が科学では「反証可能性」という「概念」になり、それが超自我となって主体を抑圧する結果になったように、サントームへ目指す営為が、単なる超自我を構成するS2になってしまうだろう。だから、この「無為の為」は言外に示す以外に選択はない。池田氏の文章はあれで正しかったのだ。「経済学が役に立つのは、それが日常的な実感に合わないからなのだ」。(経済学が)日常的な実感から離れて、ハイ・コンテクスト化しているからこそ、サントームを目指す営為は「無為の為」として役に立つのだ。
学問の言外に、精神を安定させる効用を期待すること。それはおかしなことだろうか。
精神生活の安定という意味では、世間の印象的には学問より芸術文化の方が親和性が高いのかもしれない。事実、ラカンはこのサントームという概念を、作家ジェイムズ・ジョイスについての論文において説明した。彼にとって、小説を書くという行為がサントーム第四の輪を形成し、ボロメオの輪が解体することを防いでいた。ラカンが示した図示によれば、第四の輪はボロメオの輪の交差エラーを補填する。つまり第四の輪はボロメオの輪のそれぞれの輪の境界や交点に立ち現れる。境界を、「彼岸」に最も近接した場所と考えるなら、サントームとは、ボロメオの輪が解体する=精神バランスが崩れそうになることの防衛としての力と、「父の名」という「無為」の恐怖との葛藤の結果、「父の名」に向かって、彼岸の縁に「跳躍」することを指すと言える。この跳躍は「彼岸」に向かってのものだが、「彼岸」は到達不可能な領域なので、着地する場所は縁になる。池田氏の文章から引用するなら、「しかし経済学者は「役に立たない」といわれても怒らない。いつもいわれているからだ」に当たるだろうか。「役に立たない」=「無為」と言われても、「無為」の方向に向かわなければならない。そこへ向かうことそれ自体が、「無為の為」なのだから。
生の欲動に従って人間の欲望に基づいた「役に立つもの」を作り出そうとする科学。しかし対象aの引力から遠ざかる思考様式を取っているため、「役に立たない」「無為」な目的へと向かうことは当然の成り行きだ。その偶然あるいは必然の結果、彼らの研究は「意味の享楽」的なものとなり、「真理の裏側」とも言える「父の名」的なものを発見することに至るのだ。
死の欲動的な哲学による「知」が、生の欲動的な科学という学問を形成したことと対照的に、生の欲動的なサントームへ向かうことが、「死」的な「父の名」という「無為」を発見する。この「無為の為」は、ボロメオの輪の解体を食い止め、「幸せ」な精神生活を可能にせしめることであり、「真理の裏側」へと導くことである、と言える。
この「父の名」は対象aやΦと同様に、現実的に得ることが出来ないものだ。そういった意味では、まさに「断絶」の向こうにある「彼岸」であると言えるだろう。
*****
「無為」を恐れるから、男性はアイロニズムに陥り、ニヒリズムを覚える。いわば「父の名」「無為」に対する過剰反応。去勢というトラウマによるPTSD。一方、女性はそんな男性達を理解できない。何故なら、彼女達は、自らの存在が、曖昧な主体に/Laという外骨格を男性から与えられた「もの」だと薄々感づいているからだ。
外骨格の中身は混沌。
だから、女性は「無為」を恐れない。
自分も含めたこの世の構成原子は、「無」だと知っているから。
――なんてね。
これを誤解を恐れずにごくごく単純な言葉に言い換えるなら、「工夫」であろう。
しかし、「サントーム」の「工夫」は、欲望をベースにしていてはいけない。
比喩的に言うなら、「パズル」である。
しかし、このパズルは、何か違うものを求めてやるパズルであってはいけない。例えば、誰かに褒められることを目的としていたり、パズルを解く時間を競ったり、パズルに解答して懸賞に応募したりしてはいけない。
パズルを解くその行為自体が享楽であるパズルだ。その仮定で「工夫」を凝らしていく行為そのものの享楽が、主体をサントームへと導く。
細かく言えば、「パズル」そのものがサントームであるという比喩も正しくない。「パズルを解く」こと、パズルの解答が目的となってはいけないからだ。
パズルの解答は、「一」的あるいは「無」的あるいは「欠如を埋めること」的である。イラストロジックやジグソーパズルは「一」つの絵を作り出すパズルであり、ぷよぷよやテトリスはピースを「無」くすことが目的であり、クロスワードパズルは「欠如を埋める」パズルである。この「一」や「無」や「欠如を埋めること」は、そのまま対象aを強く暗示する。人が対象aを求めるのは、対象aという領域で主体が想像的他者と「一」つになって「無」化することで「欠如が埋められる」からである。この根源的な欲望の構図が反復され置き換えられたものが、「パズルの解答を得たい」という欲望である。
サントームとは、この「解答を得ようとする欲望」とは関係なしに、「工夫」を凝らして「パズルを解いていく」行為そのものの享楽である。パズルに解答があろうとなかろうと関係無しに、それを解いていく行為そのものが楽しくなってしまった瞬間、それがサントーム的な享楽の瞬間である。
恋愛ならば、恋愛を成就させることより、その過程の駆け引きの方がおもしろくなっている状態が、恋愛をサントーム的に享楽していると言えるだろう。
人の欲望を引き起こす幻想を、ラカンは/S◇対象aと表記した。/Sは去勢により抹消された主体であり、◇が幻想だ。対象aとは、生まれたばかりの赤ん坊と母親の関係がそれに一番近い。生れ落ちたこの世界における「求めるだけ与えられる」母親の胎内。そんなものは存在しないが、それが、対象aという領域と言えるだろう。
人類は、象徴化能力の発達によって、主体と対象aの間にある幻想◇を手に入れた。この象徴化能力は、中沢新一氏の言葉による「流動的知性」というものと等しいだろう。しかしこの能力のおかげで、対象aが現実的に手に入れられないことを自覚できるようになってしまった。自覚した主体=エスが、去勢を受けた主体であり、抹消を斜線で表現した/Sである。
この/S◇対象aを、そのベクトルを/S→対象aと限定して、もう少し細かく表現したのが、
/S→S1=Φ→S2=A→対象a -<Ⅰ>
であり、このベクトルを生み出す力が生の欲動である。
このS2=Aとは象徴界の他者(大文字の他者)であり、ここでは「言葉」と考えてもらって差し支えない。対象aは想像界の他者(小文字の他者)であり、想像界の他者とは、視覚や聴覚といった体感によって認知する「世界」である。ここには断絶がある。言葉の世界(象徴界)と体感の世界(想像界)の断絶である。この断絶を少し詳しく見てみよう。
S2=A→対象aの間には、対象aから発生した要求=Dと、大文字の他者で欠如しているシニフィアンS(/A)が存在する。
比喩的に言おう。愛する彼女=対象aとの語らいで、彼女が発した言葉がDである。彼女の「愛しているわ」という言葉により、彼は彼女を欲望する。「愛している」という言葉が、主体にとって要求Dとなる。彼という主体は要求Dの「欲望せよ」という命令に従うしか出来ない。
しかし、彼女のそういった言葉は、必ずしも彼女の「真意」と一致しない。言葉はシンボルであり多義性を持つものだから、様々な誤解を前提とする道具だからである。それ以前に、彼女も自分の「真意」がその言葉と一致しているかどうかわからない。彼女の主体も抹消された主体/Sだからだ。恋人たちの語らいには、必ず誤解が存在するのだ。それがどういう意味なのか、それ以前にあるかどうかさえわからない恋人の「真意」が、他者の場所に欠如しているシニフィアンS(/A)だ。
彼が、「欠如がある」ことを認めたとしよう。「二人の間に誤解があっても、彼女の真意がわかろうとわからなくても、僕が彼女を愛していることには変わりがない」という言葉で、彼は真意の欠如を承認するだろう。かくして、彼は彼女を対象aと「見立てる」ことが出来る。「見立てる」、そう、それは幻想なのだ。現実的に、彼は彼女との関係において、母親の胎内にいた頃のような状態にいるわけではない。だから、/S◇対象aと表記される。そして、幻想◇とは言葉で成り立っている。S2=Aというシニフィアンの連鎖を掴み続けることで成り立っているのだ。
愛という幻想は、その愛=幻想を保持する言い訳によって成り立っているのだ。
人は、愛という幻想の中で、幻想を保持するために言い訳を作り続ける。対象aの象徴的代理物であるS2=Aを掴み続ける。これは生の欲動による。
では、愛があるから、対象aがあるから人はS2を掴み続けるのか。それに疑問を投げかけるのが「サントーム」である。
サントームとは、「父の名」という「一」つのシニフィアンであり、それによる生成物である。「父の名」とは、去勢をする者である。それにより、主体は抹消され(/S)、抹消された主体のシニフィアンである象徴的ファルスΦを象徴界に登録する。なので、この「父の名」は主体にとってΦの裏の顔と言ってもいいだろう。主体は「父の名」のもとで抹消される。「無」化する。強迫神経症者が恐れる抑制を、フロイトは「無為」と呼んだ。「父の名」とはこの「無為」のことなのではないだろうか、と私は考える。そもそも人の「無」や「死」という概念は二次的、他者的だ。もちろん、抹消された主体は「無」だから、去勢された主体にとって他者的になるのは理解できる。去勢された主体の象徴的ファルスΦは自己的である。「死」が他者的なのは、母親より他者的、二番目の他者とも言える「「父」の名」だからなのではないだろうか。愛する他者の欠如がS(/A)なら、不安に思う他者的な「無為」や「死」が「父の名」と言えるのではないか。だから、解答などの目的関係無しにパズルを解くことは、「無為」となってしまうのだろう。
欲望の構図に、「父の名」は存在しない。つまり、欲望の原因である対象aの引力から解放されてはいるが、生の欲動に従ってS2を掴み続けている状態が、ジジェクの言うところの「意味の享楽」であり、それの原因であり生成されるものが、「事後的に」サントームと呼ばれるのである。
最近ブログ界隈を騒がせていた経済学者池田信夫氏と評論家山形浩生氏の論争に、遅ればせながら目を通した(関係する記事全部をリンクするのはめんどくさいので、その論争を第三者視点で考察しているpikarrr氏のブログ記事をリンクしておく)。
論争自体は、経済学素人の私から見たら、どっちが正しくても構わないように思える。言葉の厳密さとかそんなところに収束しているところを見ると、なんらかの行間が火種になって、それが燃え上がっただけのように思えた。まあ彼ら二人には何らかの因縁があるようなので、それが精神的な燃料になった感じなのだろう。
私は株をやっているので、経済の話になるとそういった視点からでしか見えなくなる。「お金」という概念は欲望を強く喚起する。想像界の他者である対象aを強く喚起するシニフィアンと言っていいだろう。「欲望せよ」という要求Dなるシニフィアンとしては非常に強い力を精神世界に及ぼす。「「お金」は様々な物と交換可能である」というコンテクストが、「お金」というシニフィアンから読み取るメッセージ=Mという形をとって、シニフィアンの連鎖を刺し縫いする。こうして、「お金」というシニフィアンはリアリティを得ている、と言える。実体はない、数字としての「お金」をやり取りする(ネットでの)為替や株取引というシステム。システムの存在そのものやシステム内の事象全て含めてのその「現象」は、pikarrr氏が言うところの「経済学の彼岸」に非常に近接した領域にあるものではないだろうか。経済学という「知」の集積=象徴界と、想像界あるいは現実界との「断絶」。株取引で得たただの数字である「お金」は、体感的かつ想像的に私を欲望させ、それを増やすことの享楽を私に与えてくれる(こんなこと言えるほど儲けてないけど)。
話がそれた。
ここでこの論争を精神分析的に見ることもできるが、それは私とって「無為」に思える。しかし、論争の争点とは関係無しに、私は池田氏のある言葉が印象に残った。引用しよう。
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トマス・クーンは、学問的なパラダイムが「通常科学」になる条件として、パズルの生産力をあげている。大きな科学者集団を維持するには、新しい問題が次々に作り出され、それを理論的に解明して実証的に確かめる手続きが明確で、多くの研究者が生活するための仕事がつねに生み出される必要がある。自然科学の学会はそのための組織で、経済学はそれをまねている。つまり経済学の形式的な学問体系は、彼らの生活手段なのである。
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彼が自ら言うように、学問としての経済学は、「大学院以上の経済学となると、(日常的な世界では)急に役に立たなくなる」。では、何故役に立たないと思われる言説=パズルを解くことが、学問の世界では価値あるものとされ、学者に求められるのだろうか。
池田氏の言うように、生活手段としてそれをやらざるを得ない、ということはあるだろう。しかし、それだけでは何故そういうシステムが作り上げられたかが説明されない。
「パズル」というシニフィアンで気づかれた方も多いだろう。そう、「通常科学」はサントームを形成するために、日常的には役に立たない言説を展開しているのではないだろうか、ということだ。そういう精神的な要請が、「パズルの生産力」というシステムを(無意識的に)作り上げていったのではないかと私は考える。
私は、ある記事で学問とは、「何故?」と「問う」ことでS2の構造を無化させていく、「死の欲動」的なものとして出現したのではないか、と書き、ある記事では「科学は学問でありながら、「生」の学問だ」と書いた。
これらは矛盾しない。何故か。
死の欲動とは生の欲動と逆のベクトルである。それを<Ⅰ>のように表現するなら、
対象a→S2=A→S1=Φ→/S -<Ⅱ>
である。
前者の死の欲動的な学問とは、哲学をイメージしてもらうとわかりやすいだろう。「何故?」と問い答えることでS2=「知」を体外に排泄していく。その排泄物が肥料となり、後世の人間はS2で構成された迷路を複雑化させていった。しかし、S2の構造を無化させていくことは、<Ⅱ>を見ればわかるように、Φのせきたてと対象aの引力により形成される生の欲動のベクトルの力と逆方向に進むことである。そのために学問は、対象aの引力を喚起するパトスや主観や感情論を排除するやり方で、ロゴスという思考様式を洗練していった。
S2の構造を無化させて行き着くのは、<Ⅱ>に従うなら、象徴的ファルスΦ=S1である。これは、古代の哲学が存在を求め信じ続けた絶対的「真理」に言い換えられるだろう。知の中心であるS1=Φは、全てのS2=「知」に暗喩作用を及ぼしているが、それ自体は存在しない。精神分析医の藤田博史氏は、こういった構造を円錐の形で図示し、頂点にあるのが「真理」で底辺の円形という二次元領域がS2の構造=超自我=象徴界であるとし、それを「ロゴスの構造」と呼んだ。
また、S2の構造を無化させることは、S2で構成された迷路の入り口=Φへと逆戻りしていくことでもある。これまで歩んできたS2=「知」の連鎖を遡ることになるので、全ての学問は「検証」的な印象を帯びる。
後者の生の欲動的な学問とは、「通常科学」(ここでは「科学」で統一する)である。なるほど科学も確かに哲学が生んだロゴスという対象aを遠ざける思考様式に則っている。しかし遠ざけているだけで、個人の資質により程度の差はあるだろうが、その引力(生の欲動ベクトルの力)は人間には必ず存在する。哲学が生んだロゴスという思考様式を引き継ぎ、「検証」的な「印象」を「反証可能性」という「概念」に置き換えて様式化し、生の欲動的な欲望に従って「便利なもの」「役に立つもの」を生み出す「生」の学問へと変貌したのが「科学」である。
しかし、生の欲動的なベクトルを進んでいるとはいえ、ロゴスという思考様式により、対象aへとあからさまに進むことは抑圧される。科学全てが「役に立つもの」を生み出すためのものにならない。科学者たちの言説=「知」=S2は、対象aという欲望の原因に向かう方向とは違った方向を進む。それが「父の名」である。科学者たちを「パズルの生産力」というシステムに向かわせているその状態は、事後的に「サントーム」である、と言えるだろう。彼らの「知」=S2の積み重ねは、「父の名」という「無為」に進む。「無為」だから「役に立たな」くて当然なのだ。このジレンマを、池田氏はこういう文章で表現している。
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経済学って大したもんじゃない。昔から「憂鬱な科学」としてバカにされているように、それは自然科学のまねをしようとしてできない中途半端な学問である。では、まったく役に立たないかというと、ないよりはましだろう。変ないい方だが、経済学が役に立つのは、それが日常的な実感に合わないからなのだ。
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役に立たない「知」を積み重ねる(経済学者含む)科学者たちは、「父の名」という象徴的ファルスΦの裏の顔を目指している。それは「無為」を目指すことでもある。Φを哲学的に「真理」と言い換えるなら、科学者たちはパズルを解くことで、「父の名」であり「無為」である「(哲学的な)真理の裏側」を目指していると言える。例えば、ゲーテルの不完全性定理などを「真理の裏側」的なもの、と表現するとしっくりこないだろうか。
Φ=「真理」がそこに存在しないように、「父の名」もそこに存在しない。Φは、「存在しないけれど、全ての「知」に暗喩作用を及ぼしている」が、「父の名」は「存在しない「無為」」である。赤ん坊の頃の全能感を記憶している主体=Sが「象徴界への参入」「原抑圧」「去勢」されて抹消された主体/Sになる。このトラウマ的な出来事を、それこそ言葉を手に入れる前の幼児がするような二項への象徴化、即ち、去勢後も全能感を信じさせる「良い」「プラス」の面と、「死」や「無」に近い「悪い」「マイナス」の面の二つの側面に分けて象徴化したのが、Φと「父の名」ではないだろうか。
「父の名」は、S2を暗喩的に積み重ねて、その上に立って初めてその面影が見えてくる。その時の主体の状態を、精神分析家はサントームであると言うだろう。その暗喩的積み重ねは、ボロメオの輪の解体を食い止める「第四の輪」を形成しているだろう。また、解答があるかどうか関係無くパズルを解くように、S2を積み重ねていく行為を「意味の享楽」と呼ぶだろう。
ジジェクを引用する。
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この<一者>は他の中の一つではなく、<他者>の秩序に固有の分節にまだ参加していない。この<一者>はいうまでもなく意味-の-享楽の<一者>、まだ鎖に繋がれておらず、享楽にたっぷり浸かって自由に浮遊しているシニフィアンの<一者>にほかならない。この享楽が、シニフィアンが鎖の一つへと分節されるのを阻止している。
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この<一者>が「父の名」であり、意味-の-享楽により鎖の一つへと分節されないから、第四の輪を形成できる。これが、サントームである。サントームはシニフィアンの鎖の一つ=連鎖の要素ではないから、幻想ではなく、分析の対象とはならない。主体の中にあって主体にとっては主体以上のものである。サントームについて、ラカンはこう言う。
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神経症者達は困難な人生を生きていて、われわれは彼らの不快を和らげようとしている……。分析をあまりに先へと無理に押し進めることはない。分析主体が生きていることに幸せを感じるなら、それで十分なのだ。
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「父の名」は、「無為」である。「無為」は、強迫神経症者に限らずとも、主体を恐怖させ不安に陥れるだろう。特に去勢というトラウマ的なものの影響が強い男性は、女性と比べて「父の名」あるいは「無為」を恐れやすい傾向があるだろう。強迫神経症者には男性が多いことがそれを証明している。
「父の名」を目指すことは「無為」との闘いでもあるだろう。科学、特に基礎研究に関わるようなものを研究している学者たちは、自分の研究が果たして役に立つものなのかどうかという自問の中、研究を続けている。その研究という「工夫」的な行為そのものが、己のボロメオの輪の解体を食い止めるサントームに向かっていることを知らずに。この、役に立つかどうかわからない研究は、それを享受するものにとっても、それに関わる知識を得て暗号を解読するが如き「工夫」をして、それを享受する行為がサントームとなるだろう。
池田氏はこの「無為」への恐れから、先に記したような文章を書いたのではないだろうか。サントームを目指す営為を説明することは、「無為の為」を説明するようなものだ。だから、経済学者らしからぬあやふやな文章になってしまう。サントームを目指す営為は「工夫」でありシニフィアンの暗喩的積み重ねだ。シニフィアンと積み重ねるとそこにはハイ・コンテクストが成立する。これまで何度も述べたように、ハイ・コンテクスト化は現実界や想像界的なものから自己を浮遊させる。象徴界が浮遊してしまうのだ。だからボロメオの輪が解体しそうになる。そのために第四の輪を形成するのが「無為の為」というなら、いささかマッチポンプ的な印象を生む。しかし学問には、それが生の欲動的なものであれ死の欲動的なものであれ、「知」=S2を他者と共有するという役割がある。学問が細分化し複雑化した現代においては、言外にサントームという「無為の為」を醸し出す必要があるのではないだろうか。「知」を教わる学生たちが、ボロメオの輪の解体による狂気に不安を感じていてもおかしくない時代なのだ。ただ、これを明文化するのはあまり良いこととは言えない。明文化してしまうと、哲学の「検証」的「印象」が科学では「反証可能性」という「概念」になり、それが超自我となって主体を抑圧する結果になったように、サントームへ目指す営為が、単なる超自我を構成するS2になってしまうだろう。だから、この「無為の為」は言外に示す以外に選択はない。池田氏の文章はあれで正しかったのだ。「経済学が役に立つのは、それが日常的な実感に合わないからなのだ」。(経済学が)日常的な実感から離れて、ハイ・コンテクスト化しているからこそ、サントームを目指す営為は「無為の為」として役に立つのだ。
学問の言外に、精神を安定させる効用を期待すること。それはおかしなことだろうか。
精神生活の安定という意味では、世間の印象的には学問より芸術文化の方が親和性が高いのかもしれない。事実、ラカンはこのサントームという概念を、作家ジェイムズ・ジョイスについての論文において説明した。彼にとって、小説を書くという行為がサントーム第四の輪を形成し、ボロメオの輪が解体することを防いでいた。ラカンが示した図示によれば、第四の輪はボロメオの輪の交差エラーを補填する。つまり第四の輪はボロメオの輪のそれぞれの輪の境界や交点に立ち現れる。境界を、「彼岸」に最も近接した場所と考えるなら、サントームとは、ボロメオの輪が解体する=精神バランスが崩れそうになることの防衛としての力と、「父の名」という「無為」の恐怖との葛藤の結果、「父の名」に向かって、彼岸の縁に「跳躍」することを指すと言える。この跳躍は「彼岸」に向かってのものだが、「彼岸」は到達不可能な領域なので、着地する場所は縁になる。池田氏の文章から引用するなら、「しかし経済学者は「役に立たない」といわれても怒らない。いつもいわれているからだ」に当たるだろうか。「役に立たない」=「無為」と言われても、「無為」の方向に向かわなければならない。そこへ向かうことそれ自体が、「無為の為」なのだから。
生の欲動に従って人間の欲望に基づいた「役に立つもの」を作り出そうとする科学。しかし対象aの引力から遠ざかる思考様式を取っているため、「役に立たない」「無為」な目的へと向かうことは当然の成り行きだ。その偶然あるいは必然の結果、彼らの研究は「意味の享楽」的なものとなり、「真理の裏側」とも言える「父の名」的なものを発見することに至るのだ。
死の欲動的な哲学による「知」が、生の欲動的な科学という学問を形成したことと対照的に、生の欲動的なサントームへ向かうことが、「死」的な「父の名」という「無為」を発見する。この「無為の為」は、ボロメオの輪の解体を食い止め、「幸せ」な精神生活を可能にせしめることであり、「真理の裏側」へと導くことである、と言える。
この「父の名」は対象aやΦと同様に、現実的に得ることが出来ないものだ。そういった意味では、まさに「断絶」の向こうにある「彼岸」であると言えるだろう。
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「無為」を恐れるから、男性はアイロニズムに陥り、ニヒリズムを覚える。いわば「父の名」「無為」に対する過剰反応。去勢というトラウマによるPTSD。一方、女性はそんな男性達を理解できない。何故なら、彼女達は、自らの存在が、曖昧な主体に/Laという外骨格を男性から与えられた「もの」だと薄々感づいているからだ。
外骨格の中身は混沌。
だから、女性は「無為」を恐れない。
自分も含めたこの世の構成原子は、「無」だと知っているから。
――なんてね。