妊娠とは病気であり、人とは物であり、正常人とは神である。
2009/11/20/Fri
わたしは産婦人科みたいな病院をさまよっている。あちこち奔走している。産婦人科「みたい」というのは、実際にぱっと見産婦人科っぽいのだが、妊婦がいないのでそう言っている。
野戦病院みたいでもあった。廊下のそこかしこに患者が寝ているベッドがあった。階段の踊り場にも。そんなに切羽詰っているのか、と思う。患者たちは全員寝ている。静かだ。死んでいるのではないか、とすら。
わたしはどうもこの施設の経営者みたいな立場にあって、職員やら資産家やらからあれこれ注文を受け、奔走している。ああ『Dr.HOUSE』のカディみたいなもんか。
施設の経営者なのに迷路みたいだ。広すぎる。どこに何があるのかわからない。患者だってさっき言ったようにそこかしこにいるのでどこが入院病棟でどこが治療室でとかがわかりにくい。だから奔走するしかない。結果的に遠回りしたりする。それで余計に怒られる。さらに奔走する。
わたしは赤ん坊を探し回っている。患者に割り当てる赤ん坊たちを貯蔵している倉庫を探している。だけど見つからない。職員に言われて探しているんだから、どこかにあるんだろう、と思って探し続ける。奔走し続ける。
起きてから、あれは実際の産婦人科施設の裏にある施設じゃないか、と思った。たとえば、中絶手術などの際、胎児を殺さずに摘出し、裏の施設で育て、倉庫に保管し、裏の世界に生きる妊娠できない患者たちに割り当てているのではないか、と。こんなこと言ってるけどもちろん妄想よ。そう考えたら辻褄が合いそうってだけで。
……と、ここまで書いてわかった。わたしにとって、赤ん坊はともかく、妊娠って疾患以外の何物でもないんだな、と。病院に行くんだし疾患で間違いないじゃん。妊娠も。じゃあ予防しなければいけない。病気の一番の対策は予防だ。
ああそういうことか、と納得した。
小川洋子の『妊娠カレンダー』とかそういうことよね。また、妊娠=病気だ、って考えて石川啄木の「ボクチンは病気になりたいんだ!」って叫びを読むと、いろいろ繋がっておもしろいかも。わたしがここでそこを「裏の世界」と表現したのも理解できるかもしれない。
わたしにとって赤ん坊なんて異物以外の何物でもない。異物が体内に巣食うんだから妊娠は疾患以外の何物でもない。
夢なわけだから、わたしは意識的にこんなことを言っているのではなく、無意識でそう考えている、ってことになる。
となると、疾患の、ここでは精神疾患のって限定してもいいけど、その根源たる倉庫を探している、ってことになるのか。職員や資産家にとやかく言われて。
多分この資産家は精神分析家だ。いや職員がそうで、資産家は精神分析理論そのものになるのか。
大変なところに就職してしまったもんだ。夢の中のわたしは。
わたしは人を物としてしか見れていない。物と言っても他人の言う「物」とは微妙に違う。周りの多くの人にとって「物」とは所有可能な、支配可能なものだと、固定観念的になってしまう。そういう意味が固定観念的に纏わりついている。
わたしは機械設計に従事したことがあるが、こういう考え方は、自分たちが製造する機械のユーザー様の意見と似てるな、と思える。別に批判じゃなくて、ユーザー様とはそういうものだと思っている。ユーザー様はその機械を支配していなければ我慢ならない。機械がユーザー様の予想外の動きをしてはならない。「お客様は神様です」って言葉は全く正しい。
機械を作る側に一度でも立てば、そんな要望を完璧に満たすことは不可能だと知れるだろう。物は支配なんかできない。人間の言うことなんか聞きやしない。人間と物とを比べたら明らかに人間の方が聞き分けがいい。ここのコメント欄から。
=====
一方、機械設計をやっているとわかるのですが、実際の機械の部品一つ一つってほんと言うことを聞きません。
機械のご機嫌伺いが仕事である生産技術的な視点で言うと、むしろ、機械の部品一つ一つより、集団という機械の部品である人間の方が聞き分けがよいのです。
=====
いや、もちろん人間だって聞き分けがよくない場合もあるが、機械と比べたら、って話ね。
これは、人の言うことを聞けないわたしは人よか物っぽい、ってことでもある。自分が物っぽいから人を物としてしか見れないのか、みたいなこと。「物」や「機械」って言葉に「支配される何か」のようなニュアンスを直感的に思い浮かべられないわたしはこう考える、って話。
「赤ん坊」のシニフィエ然りだが、この、「物」や「機械」というシニフィアンのシニフィエも、わたしと周りの多くの人間とで違っている。だから、わたしは「子供なんて産まない派」だが、「女性は子供を産む機械だ」なんて言葉に別にヒステリックに反論したりしない。ヒステリックになれない。「機械」の実体を知っているから。「機械」に対しユーザー様視点以外の視点を持てているから。むしろ「ヒステリックになれないお前が人として異常だ」と言われている気分にすらなる。実際そうだと思う。人を物としてしか見れない自分は、あなたたちの言う「人」から言えば異常なのだろう、と。
わたしは子供を産んでいない。女が子供を産む機械だとしたら故障しているわけだ。
機械が故障するのはおかしい、というのがお前ら人間の固定観念なんだよ。お前がユーザー様としてしか生きてこなかった証拠だ。機械は故障するのが自然である。故障しないということが不自然なのである。物は言うことを聞かないのが現実である。これは生産技術に携わっていた時のある先輩(つってもおっさんな。組織上は同等で「上司」とは言えないのでこう述べた)の思想を拝借した言葉だが、なんでこんな当たり前のことが無視されているのだろう、といつも不思議に思う。先輩の言い分は「不自然だからこそメンテナンスというのは一般の人が思っているより大事なんだ」みたいな理屈に展開していたが、一般の人やユーザー様の言う「機械」にこういった意味は含まれていない。ユーザー様と彼とで「機械」のシニフィエが違う。始点が違うから違う意味連鎖になる。わたしはこの時やっと、ユーザー様はそんな現実を見ないのが普通なんだ、とわかった。「メンテナンスなんかしなくても機械は故障しない」と本当に信じ込んでいるのがユーザー様という生き物なんだ、と。逆説的にそうわからせてくれた言葉だった。
おそらく機械の実体を知らないドゥルーズ=ガタリもこんなセリフを吐けないだろう。彼らは油まみれになって機械をメンテナンスしたことなどないだろう。「機械」のシニフィエが『アンチ・オイディプス』のそれと先輩のそれとで違う。ドゥルーズ=ガタリの「機械」のシニフィエがどんなものか正確には言えないが(つか興味ない。「あ、こいつら機械の実体を知らないな」とわたしが判断した時点でどうでもよくなった。彼らの「機械」という言葉はわたしにとって上滑りしているだけのものだ)、少なくとも違うということだけは文脈からわかる。わたしは先輩の方の「機械」に同意する。
要するにドゥルーズ=ガタリの「機械」のシニフィエは幻想である、ということだ。わたしにはそうとしか思えない。彼らはその論の中で分裂症者の臨床実体を棄却していることを明言しているが、「機械」の実体までも棄却している。ガタリは精神分析家であり、実際に分裂症者を臨床してはいたのだと思う。「機械」はどうか知らないが「分裂症者」の実体には触れていた。だから「分裂症者」だけは臨床実体を(論の中で)棄却することを言わずにはいられなかったのだろう。あ、そういう意味でわたしはこの「分裂症者の臨床実体の棄却」は作為的なものだと思ってるよ。2ちゃん風に言うなら「釣り」だと。「全力で釣られる」のがVIPPER流儀なのです。
わたしはドゥルーズ=ガタリの著作について、「文学界ではジャンルとして確立している中二病文学(セリーヌとか)の系統として、SFみたいに感じで読むとおもしろいよ」などと言うことがあるが、そういうことだ。
お前らは物に対する「物は支配できる」という幻想の中だけで生きている。そんなお前らの方が精神疾患なんだよ、わたしから見れば。
支配者としての本性を露に、物に対して支配していなければ気が済まないのが、お前ら正常人だ。
「女性は子供を産む機械だ」という言葉に女性に対する支配的な態度を読み込んでしまうお前らも、物に対して支配者なんだよ。
支配者は支配者らしくしろよ。わたしから見れば、「幻想の中だけで生きている人」ってシニフィエになるんだから、その方がかわいくすら思えるわ。自分に迷惑がかかってるわけじゃないし。
支配者的態度を問題にするなら、「物」に対するお前ら自身の支配者的態度を見つめ直してごらん。いかに自分が自分の批判するジジイと同種の人間かわかるんじゃねえか?
まさにこういう言い方で「笑わせるな」って感じ(すまんこの動画癖になりつつある。セリフの並べ方もうまいよな)。
「神はサイコロを振らない」ってのは正しいよ。物に対する万能感を無意識に刷り込まれているお前らはまさに万能の神だ。わたしにとって。お前らはわたしから遠すぎる。遠すぎるのに、同じ場所にいるような口ぶりをされても困る。わけがわからなくなる。万能な人間にその世界観を語られても万能じゃない人間は混乱するだけだ。遠くにいるから混乱しないんだ。支配者面する支配者をかわいく思えるんだ。対岸の火事だ。エデンの園だ。
お前らは神でいてくれ。わたしに近寄るな。わたしとお前らは別種の動物だ。わたしは物であり、病気そのものだ。
お前たちに反抗しているわけじゃないよ。実際その生産技術の先輩と議論する際、わたしは大体ユーザー様の側に立っていたぜ。先に書いた夢でもそうだろ、患者や職員たちのために奔走している。結果は出せてないけど。
むしろ敬虔な信者なのだよ、わたしは。敬虔な信者だから、遠くにいてくれ、と神に言っている。敬虔な信者だから、わたしは神じゃない、という事実を述べている。
いや敬虔でもないか、「かわいく」思えちゃうんだから。つかどこにでもいるだろこういうの。どこにでもある物だからどうでもいい。それに反論する奴らも同種に見えるわたしから見れば、だけどね。
ぶっちゃけると、「話が通じなさそう」って奴だ。そう思ってたらヒステリックに反論したりしないだろうよ。そういう意味では、わたしはそれにヒステリックに反論する奴らと比べ「話が通じる相手」を欲望していない、ということになる。全く欲望してないわけじゃないけどね。このブログでは「海に投棄する宛先のない瓶詰め手紙」などと表現している。
つかわたしの前提はそうだ。話が通じる相手なんていない。わたしはそういう人生を送ってきた。物に話が通じるわけがない。物は支配不可能だ。所有不可能だ。
「わたしと他人とでシニフィエが違う」というのはそういう意味だ。他人と見ている・聞こえている世界が違うと本気で思っている。現象学的に言うと「ノエマが自壊する」。そう思いたいわけじゃない。そんなこと思いたくはない。そんな風に思っていたら社会で生きていけないことも経験からわかっている。だからうわべだけ他人と同じ世界を生きているふりをしている。化粧と同じ。他人がみんなしていて、そうしないと生きていくのに不都合だからしているだけ。
わたしが生きてきた過去を感情移入なしで振り返ると、そう考えた方が辻褄が合うってだけの話である。
周りの多くの他人たちは、自分が見ている・聞こえている世界が、他人のそれと同じだと思い込めている。それが不思議だ。
要するに、わたしは「人」に対して関心が低いってことだ。そんなわたしから見れば、多くの他人は、「人」と「物」とで「人」を特別視しているように思える。「わたしは人を物としてしか見れない」というのはそういう意味だ。
そう言えばフロイトの「対象愛」って言葉にもこのトリックがあるよな。この場合の対象は「人」である。物や動物は対象ではない。自分と同じ形の人間を(ラカン風に言えば鏡像を)愛するという意味で、対象愛とは自己愛が変化したものにすぎないのだ。逆に言えば自己愛の対象たる自己も鏡像という他者になるんだが。
人ではない物も含まれた対象愛とは、人なるものという固定観念が存在しない時期にある自体愛である。そしてそれは既に「愛」とは表現できない。「愛」の原型ではあるが去勢済みな主体にとってのそれとシニフィエが異なる。それは人と限らない物を所有しようとすることだ。それを支配しようとすることだ。支配できない物の実体を殺害しようとすることだ。「わたし、潰すの、頭、フランシス」である。
だからわたしは「愛」の代わりに「興味」という言葉を好んで用いる。自体愛は「愛」などではなく「興味」と表現した方が正確だ。
フロイトなんかよりわたしの方が「愛」という言葉を正確に用いようとしているんだぜ? 「愛」とは去勢済み主体たちだけの所有物だと言ってあげてるんだ。お前たちに譲ってあげてるんだよ、「愛」のシニフィエを。
だからクリステヴァの「初めに愛があった」なんて言葉にも何も言わない。そういうことだと思うから。理屈的に。去勢済み主体にとって。
話が通じないならそれで終了。それだけ。欲望じゃなく欲求だ。実際に話をしていても、相手がまだ自分と話そうとしていようと、わたしは相手に対する関心がなくなってしまう。それが怖い。そうなると常に相手に怒られることを経験として知っているから。
自分の話を理解して欲しいわけじゃない。「一人一人にとって世界が違う」という世界が本当に存在するのか確かめたいだけ。
「一人一人にとって世界が違う」となるとアナーキズムっぽくなるが、そうじゃない。本当のアナーキズムなんて存在するかどうか疑わしいと思っている。アナーキストたちは実際は他人と同じ世界を生きていると思い込んでいるが、意識上それを否認しているだけじゃないか、と。
わたしという世界が存在するのかどうか確かめようとしているだけだ。
それを疑わしくも思っているので、わたしはアナーキストと認められないだろう。
とはいえこんな風にも思う。「神はサイコロを振らない」ってサイコロが神なんじゃね? と。サイコロならサイコロを振れるわきゃないよな。物神だから多神教チックになるけども。東洋的発想。「当たるも八卦当たらぬも八卦」。この場合「八卦」そのものが神ってなるな。
こう言うと「わたしこそが神だ」ってことになるんだな(笑)。万能の神に支配される神。サイコロとして所有される神。
なんにつけ一応は絶望的観測をするのが癖です
宝くじを買う時は
「当たるはずなどない」と言いながら買います
その癖誰かがかつて一等賞をもらった店で買うんです
夢もあります 欲もあります
叶うはずなんてないと思います
夢に破れて あてにはずれて泣いてばかりじゃいやになります
宝くじなんてのもサイコロだよな。夢も欲もサイコロならば叶うはずなんてない。「わかりもしない望み」が叶うはずなんてない。「わかりもしない」んだから。予測不可能なんだから。次にどの目が出るかわからないんだから。
欲望ならば叶うだろう。欲望とは他者の欲望だからだ。人という幻想は、常に既に他者を根拠にしているのだから、欲望は叶い合えることになる。
しかし現実は違う。欲望の現実は欲求だ。欲動だ。サイコロだ。予測不可能なものだ。
この歌は、人とは物であり、サイコロであるという現実を歌っている。アインシュタインが否定した物性の現実を歌っている、って言いすぎか。万能の神を常に既にうちに秘めた正常人になれなかった人間の歌だ、とわたしは解釈する。中島みゆき自身は正常人だなーって最近は思ってるけど。
そんな現実はいやに決まっている。「絶望的」と表現されるものだと知っている。
そんなになりたくてわたしはこう言っているんじゃない。
手紙は必ず宛先に届くとは限らない。サイコロによる。
そういう現実を述べているだけだ。
そういう現実を根拠に、そういう前提から始めようと言っているだけだ。
つか言葉尻だけで『あした天気になれ』を引用したが、歌全体としてはこっちのが近いな。
生れ落ちて最初に聞いた声は落胆のため息だった
生れ落ちて最初に聞いた声が落胆のため息だったから、わたしは子供を産まない。母親となったわたしが落胆のため息をつかなければいいなどという話ではない。わたしの言動をどう受け取るかはその赤ん坊によるからだ。サイコロによるからだ。
わたしが子供を産まないのは、アインシュタインが「神はサイコロを振らない」と言ったのと同じ機制をしているのかもしれない。
物が、現実がサイコロであることを一番いやがっているのは、そうだと知っている奴の方なんだよ。
そういう現実に生きていないふりをするために、正常であるふりを保持するために、わたしは子供を産んではならない。わたしの子供を産まないという選択は、お前ら正常人側から言って、前向きなものなんだよ。
そうそう、それと、
女に生まれて喜んでくれたのは
菓子屋とドレス屋と女衒と女たらし
斎藤環のこの文章とかほんと女衒の言葉としか思えないんだけど。こっちの方が「自分が支配者だとわかってない癖に支配者である」という意味でタチが悪いとわたしは思う。そういう意味で、「女は子供を産む機械である」って言葉にヒステリックになる人間も、「根っこは支配者の癖して支配者を批判している」ってコントに見えて「笑わせるな」となるんだな。自分が支配者になりたがっているから相手を主観で支配者に仕立て上げる。精神分析的な言い回しだが、コントっつか外国コメディではよくあるパターンだ。そういうことにすぎない。
「女」ってのもラカン風に「存在しないことになっているファルスのない人間」だと解釈すればばっちし辻褄が合う。自閉症ってファルスに異常のある疾患なんだろ?
まー要するに、「機械」って言葉に「支配されるもの」って意味を見出しちゃう人間も、ファルスを持っているという意味で「女」じゃない可能性が高い、って話だな。
もちろん違う可能性もあるけどね。この文章はリトマス試験紙みたいなもん。
どう色が変わるか、どうお前らが解釈するかによって、お前らの物性が知れる。
空からもらった贈り物がこの爪だけなんて
「この爪」は理屈解釈能力だな。多分一般平均よか高い方だろうしね、わたし。
やまねこという「人」じゃない動物。物。物だって爪を立てる。
野戦病院みたいでもあった。廊下のそこかしこに患者が寝ているベッドがあった。階段の踊り場にも。そんなに切羽詰っているのか、と思う。患者たちは全員寝ている。静かだ。死んでいるのではないか、とすら。
わたしはどうもこの施設の経営者みたいな立場にあって、職員やら資産家やらからあれこれ注文を受け、奔走している。ああ『Dr.HOUSE』のカディみたいなもんか。
施設の経営者なのに迷路みたいだ。広すぎる。どこに何があるのかわからない。患者だってさっき言ったようにそこかしこにいるのでどこが入院病棟でどこが治療室でとかがわかりにくい。だから奔走するしかない。結果的に遠回りしたりする。それで余計に怒られる。さらに奔走する。
わたしは赤ん坊を探し回っている。患者に割り当てる赤ん坊たちを貯蔵している倉庫を探している。だけど見つからない。職員に言われて探しているんだから、どこかにあるんだろう、と思って探し続ける。奔走し続ける。
起きてから、あれは実際の産婦人科施設の裏にある施設じゃないか、と思った。たとえば、中絶手術などの際、胎児を殺さずに摘出し、裏の施設で育て、倉庫に保管し、裏の世界に生きる妊娠できない患者たちに割り当てているのではないか、と。こんなこと言ってるけどもちろん妄想よ。そう考えたら辻褄が合いそうってだけで。
……と、ここまで書いてわかった。わたしにとって、赤ん坊はともかく、妊娠って疾患以外の何物でもないんだな、と。病院に行くんだし疾患で間違いないじゃん。妊娠も。じゃあ予防しなければいけない。病気の一番の対策は予防だ。
ああそういうことか、と納得した。
小川洋子の『妊娠カレンダー』とかそういうことよね。また、妊娠=病気だ、って考えて石川啄木の「ボクチンは病気になりたいんだ!」って叫びを読むと、いろいろ繋がっておもしろいかも。わたしがここでそこを「裏の世界」と表現したのも理解できるかもしれない。
わたしにとって赤ん坊なんて異物以外の何物でもない。異物が体内に巣食うんだから妊娠は疾患以外の何物でもない。
夢なわけだから、わたしは意識的にこんなことを言っているのではなく、無意識でそう考えている、ってことになる。
となると、疾患の、ここでは精神疾患のって限定してもいいけど、その根源たる倉庫を探している、ってことになるのか。職員や資産家にとやかく言われて。
多分この資産家は精神分析家だ。いや職員がそうで、資産家は精神分析理論そのものになるのか。
大変なところに就職してしまったもんだ。夢の中のわたしは。
わたしは人を物としてしか見れていない。物と言っても他人の言う「物」とは微妙に違う。周りの多くの人にとって「物」とは所有可能な、支配可能なものだと、固定観念的になってしまう。そういう意味が固定観念的に纏わりついている。
わたしは機械設計に従事したことがあるが、こういう考え方は、自分たちが製造する機械のユーザー様の意見と似てるな、と思える。別に批判じゃなくて、ユーザー様とはそういうものだと思っている。ユーザー様はその機械を支配していなければ我慢ならない。機械がユーザー様の予想外の動きをしてはならない。「お客様は神様です」って言葉は全く正しい。
機械を作る側に一度でも立てば、そんな要望を完璧に満たすことは不可能だと知れるだろう。物は支配なんかできない。人間の言うことなんか聞きやしない。人間と物とを比べたら明らかに人間の方が聞き分けがいい。ここのコメント欄から。
=====
一方、機械設計をやっているとわかるのですが、実際の機械の部品一つ一つってほんと言うことを聞きません。
機械のご機嫌伺いが仕事である生産技術的な視点で言うと、むしろ、機械の部品一つ一つより、集団という機械の部品である人間の方が聞き分けがよいのです。
=====
いや、もちろん人間だって聞き分けがよくない場合もあるが、機械と比べたら、って話ね。
これは、人の言うことを聞けないわたしは人よか物っぽい、ってことでもある。自分が物っぽいから人を物としてしか見れないのか、みたいなこと。「物」や「機械」って言葉に「支配される何か」のようなニュアンスを直感的に思い浮かべられないわたしはこう考える、って話。
「赤ん坊」のシニフィエ然りだが、この、「物」や「機械」というシニフィアンのシニフィエも、わたしと周りの多くの人間とで違っている。だから、わたしは「子供なんて産まない派」だが、「女性は子供を産む機械だ」なんて言葉に別にヒステリックに反論したりしない。ヒステリックになれない。「機械」の実体を知っているから。「機械」に対しユーザー様視点以外の視点を持てているから。むしろ「ヒステリックになれないお前が人として異常だ」と言われている気分にすらなる。実際そうだと思う。人を物としてしか見れない自分は、あなたたちの言う「人」から言えば異常なのだろう、と。
わたしは子供を産んでいない。女が子供を産む機械だとしたら故障しているわけだ。
機械が故障するのはおかしい、というのがお前ら人間の固定観念なんだよ。お前がユーザー様としてしか生きてこなかった証拠だ。機械は故障するのが自然である。故障しないということが不自然なのである。物は言うことを聞かないのが現実である。これは生産技術に携わっていた時のある先輩(つってもおっさんな。組織上は同等で「上司」とは言えないのでこう述べた)の思想を拝借した言葉だが、なんでこんな当たり前のことが無視されているのだろう、といつも不思議に思う。先輩の言い分は「不自然だからこそメンテナンスというのは一般の人が思っているより大事なんだ」みたいな理屈に展開していたが、一般の人やユーザー様の言う「機械」にこういった意味は含まれていない。ユーザー様と彼とで「機械」のシニフィエが違う。始点が違うから違う意味連鎖になる。わたしはこの時やっと、ユーザー様はそんな現実を見ないのが普通なんだ、とわかった。「メンテナンスなんかしなくても機械は故障しない」と本当に信じ込んでいるのがユーザー様という生き物なんだ、と。逆説的にそうわからせてくれた言葉だった。
おそらく機械の実体を知らないドゥルーズ=ガタリもこんなセリフを吐けないだろう。彼らは油まみれになって機械をメンテナンスしたことなどないだろう。「機械」のシニフィエが『アンチ・オイディプス』のそれと先輩のそれとで違う。ドゥルーズ=ガタリの「機械」のシニフィエがどんなものか正確には言えないが(つか興味ない。「あ、こいつら機械の実体を知らないな」とわたしが判断した時点でどうでもよくなった。彼らの「機械」という言葉はわたしにとって上滑りしているだけのものだ)、少なくとも違うということだけは文脈からわかる。わたしは先輩の方の「機械」に同意する。
要するにドゥルーズ=ガタリの「機械」のシニフィエは幻想である、ということだ。わたしにはそうとしか思えない。彼らはその論の中で分裂症者の臨床実体を棄却していることを明言しているが、「機械」の実体までも棄却している。ガタリは精神分析家であり、実際に分裂症者を臨床してはいたのだと思う。「機械」はどうか知らないが「分裂症者」の実体には触れていた。だから「分裂症者」だけは臨床実体を(論の中で)棄却することを言わずにはいられなかったのだろう。あ、そういう意味でわたしはこの「分裂症者の臨床実体の棄却」は作為的なものだと思ってるよ。2ちゃん風に言うなら「釣り」だと。「全力で釣られる」のがVIPPER流儀なのです。
わたしはドゥルーズ=ガタリの著作について、「文学界ではジャンルとして確立している中二病文学(セリーヌとか)の系統として、SFみたいに感じで読むとおもしろいよ」などと言うことがあるが、そういうことだ。
お前らは物に対する「物は支配できる」という幻想の中だけで生きている。そんなお前らの方が精神疾患なんだよ、わたしから見れば。
支配者としての本性を露に、物に対して支配していなければ気が済まないのが、お前ら正常人だ。
「女性は子供を産む機械だ」という言葉に女性に対する支配的な態度を読み込んでしまうお前らも、物に対して支配者なんだよ。
支配者は支配者らしくしろよ。わたしから見れば、「幻想の中だけで生きている人」ってシニフィエになるんだから、その方がかわいくすら思えるわ。自分に迷惑がかかってるわけじゃないし。
支配者的態度を問題にするなら、「物」に対するお前ら自身の支配者的態度を見つめ直してごらん。いかに自分が自分の批判するジジイと同種の人間かわかるんじゃねえか?
まさにこういう言い方で「笑わせるな」って感じ(すまんこの動画癖になりつつある。セリフの並べ方もうまいよな)。
「神はサイコロを振らない」ってのは正しいよ。物に対する万能感を無意識に刷り込まれているお前らはまさに万能の神だ。わたしにとって。お前らはわたしから遠すぎる。遠すぎるのに、同じ場所にいるような口ぶりをされても困る。わけがわからなくなる。万能な人間にその世界観を語られても万能じゃない人間は混乱するだけだ。遠くにいるから混乱しないんだ。支配者面する支配者をかわいく思えるんだ。対岸の火事だ。エデンの園だ。
お前らは神でいてくれ。わたしに近寄るな。わたしとお前らは別種の動物だ。わたしは物であり、病気そのものだ。
お前たちに反抗しているわけじゃないよ。実際その生産技術の先輩と議論する際、わたしは大体ユーザー様の側に立っていたぜ。先に書いた夢でもそうだろ、患者や職員たちのために奔走している。結果は出せてないけど。
むしろ敬虔な信者なのだよ、わたしは。敬虔な信者だから、遠くにいてくれ、と神に言っている。敬虔な信者だから、わたしは神じゃない、という事実を述べている。
いや敬虔でもないか、「かわいく」思えちゃうんだから。つかどこにでもいるだろこういうの。どこにでもある物だからどうでもいい。それに反論する奴らも同種に見えるわたしから見れば、だけどね。
ぶっちゃけると、「話が通じなさそう」って奴だ。そう思ってたらヒステリックに反論したりしないだろうよ。そういう意味では、わたしはそれにヒステリックに反論する奴らと比べ「話が通じる相手」を欲望していない、ということになる。全く欲望してないわけじゃないけどね。このブログでは「海に投棄する宛先のない瓶詰め手紙」などと表現している。
つかわたしの前提はそうだ。話が通じる相手なんていない。わたしはそういう人生を送ってきた。物に話が通じるわけがない。物は支配不可能だ。所有不可能だ。
「わたしと他人とでシニフィエが違う」というのはそういう意味だ。他人と見ている・聞こえている世界が違うと本気で思っている。現象学的に言うと「ノエマが自壊する」。そう思いたいわけじゃない。そんなこと思いたくはない。そんな風に思っていたら社会で生きていけないことも経験からわかっている。だからうわべだけ他人と同じ世界を生きているふりをしている。化粧と同じ。他人がみんなしていて、そうしないと生きていくのに不都合だからしているだけ。
わたしが生きてきた過去を感情移入なしで振り返ると、そう考えた方が辻褄が合うってだけの話である。
周りの多くの他人たちは、自分が見ている・聞こえている世界が、他人のそれと同じだと思い込めている。それが不思議だ。
要するに、わたしは「人」に対して関心が低いってことだ。そんなわたしから見れば、多くの他人は、「人」と「物」とで「人」を特別視しているように思える。「わたしは人を物としてしか見れない」というのはそういう意味だ。
そう言えばフロイトの「対象愛」って言葉にもこのトリックがあるよな。この場合の対象は「人」である。物や動物は対象ではない。自分と同じ形の人間を(ラカン風に言えば鏡像を)愛するという意味で、対象愛とは自己愛が変化したものにすぎないのだ。逆に言えば自己愛の対象たる自己も鏡像という他者になるんだが。
人ではない物も含まれた対象愛とは、人なるものという固定観念が存在しない時期にある自体愛である。そしてそれは既に「愛」とは表現できない。「愛」の原型ではあるが去勢済みな主体にとってのそれとシニフィエが異なる。それは人と限らない物を所有しようとすることだ。それを支配しようとすることだ。支配できない物の実体を殺害しようとすることだ。「わたし、潰すの、頭、フランシス」である。
だからわたしは「愛」の代わりに「興味」という言葉を好んで用いる。自体愛は「愛」などではなく「興味」と表現した方が正確だ。
フロイトなんかよりわたしの方が「愛」という言葉を正確に用いようとしているんだぜ? 「愛」とは去勢済み主体たちだけの所有物だと言ってあげてるんだ。お前たちに譲ってあげてるんだよ、「愛」のシニフィエを。
だからクリステヴァの「初めに愛があった」なんて言葉にも何も言わない。そういうことだと思うから。理屈的に。去勢済み主体にとって。
話が通じないならそれで終了。それだけ。欲望じゃなく欲求だ。実際に話をしていても、相手がまだ自分と話そうとしていようと、わたしは相手に対する関心がなくなってしまう。それが怖い。そうなると常に相手に怒られることを経験として知っているから。
自分の話を理解して欲しいわけじゃない。「一人一人にとって世界が違う」という世界が本当に存在するのか確かめたいだけ。
「一人一人にとって世界が違う」となるとアナーキズムっぽくなるが、そうじゃない。本当のアナーキズムなんて存在するかどうか疑わしいと思っている。アナーキストたちは実際は他人と同じ世界を生きていると思い込んでいるが、意識上それを否認しているだけじゃないか、と。
わたしという世界が存在するのかどうか確かめようとしているだけだ。
それを疑わしくも思っているので、わたしはアナーキストと認められないだろう。
とはいえこんな風にも思う。「神はサイコロを振らない」ってサイコロが神なんじゃね? と。サイコロならサイコロを振れるわきゃないよな。物神だから多神教チックになるけども。東洋的発想。「当たるも八卦当たらぬも八卦」。この場合「八卦」そのものが神ってなるな。
こう言うと「わたしこそが神だ」ってことになるんだな(笑)。万能の神に支配される神。サイコロとして所有される神。
なんにつけ一応は絶望的観測をするのが癖です
宝くじを買う時は
「当たるはずなどない」と言いながら買います
その癖誰かがかつて一等賞をもらった店で買うんです
夢もあります 欲もあります
叶うはずなんてないと思います
夢に破れて あてにはずれて泣いてばかりじゃいやになります
宝くじなんてのもサイコロだよな。夢も欲もサイコロならば叶うはずなんてない。「わかりもしない望み」が叶うはずなんてない。「わかりもしない」んだから。予測不可能なんだから。次にどの目が出るかわからないんだから。
欲望ならば叶うだろう。欲望とは他者の欲望だからだ。人という幻想は、常に既に他者を根拠にしているのだから、欲望は叶い合えることになる。
しかし現実は違う。欲望の現実は欲求だ。欲動だ。サイコロだ。予測不可能なものだ。
この歌は、人とは物であり、サイコロであるという現実を歌っている。アインシュタインが否定した物性の現実を歌っている、って言いすぎか。万能の神を常に既にうちに秘めた正常人になれなかった人間の歌だ、とわたしは解釈する。中島みゆき自身は正常人だなーって最近は思ってるけど。
そんな現実はいやに決まっている。「絶望的」と表現されるものだと知っている。
そんなになりたくてわたしはこう言っているんじゃない。
手紙は必ず宛先に届くとは限らない。サイコロによる。
そういう現実を述べているだけだ。
そういう現実を根拠に、そういう前提から始めようと言っているだけだ。
つか言葉尻だけで『あした天気になれ』を引用したが、歌全体としてはこっちのが近いな。
生れ落ちて最初に聞いた声は落胆のため息だった
生れ落ちて最初に聞いた声が落胆のため息だったから、わたしは子供を産まない。母親となったわたしが落胆のため息をつかなければいいなどという話ではない。わたしの言動をどう受け取るかはその赤ん坊によるからだ。サイコロによるからだ。
わたしが子供を産まないのは、アインシュタインが「神はサイコロを振らない」と言ったのと同じ機制をしているのかもしれない。
物が、現実がサイコロであることを一番いやがっているのは、そうだと知っている奴の方なんだよ。
そういう現実に生きていないふりをするために、正常であるふりを保持するために、わたしは子供を産んではならない。わたしの子供を産まないという選択は、お前ら正常人側から言って、前向きなものなんだよ。
そうそう、それと、
女に生まれて喜んでくれたのは
菓子屋とドレス屋と女衒と女たらし
斎藤環のこの文章とかほんと女衒の言葉としか思えないんだけど。こっちの方が「自分が支配者だとわかってない癖に支配者である」という意味でタチが悪いとわたしは思う。そういう意味で、「女は子供を産む機械である」って言葉にヒステリックになる人間も、「根っこは支配者の癖して支配者を批判している」ってコントに見えて「笑わせるな」となるんだな。自分が支配者になりたがっているから相手を主観で支配者に仕立て上げる。精神分析的な言い回しだが、コントっつか外国コメディではよくあるパターンだ。そういうことにすぎない。
「女」ってのもラカン風に「存在しないことになっているファルスのない人間」だと解釈すればばっちし辻褄が合う。自閉症ってファルスに異常のある疾患なんだろ?
まー要するに、「機械」って言葉に「支配されるもの」って意味を見出しちゃう人間も、ファルスを持っているという意味で「女」じゃない可能性が高い、って話だな。
もちろん違う可能性もあるけどね。この文章はリトマス試験紙みたいなもん。
どう色が変わるか、どうお前らが解釈するかによって、お前らの物性が知れる。
空からもらった贈り物がこの爪だけなんて
「この爪」は理屈解釈能力だな。多分一般平均よか高い方だろうしね、わたし。
やまねこという「人」じゃない動物。物。物だって爪を立てる。