「ジェンダー」(笑)
2009/11/21/Sat
自分はおじいちゃんっ子だったと思う。ある時ふとそんなことを思い立って叔母に話を聞くと、「そんなことなかったわよ」と言われた。「じゃあ誰に甘えてた?」と聞くと、「普通に○○(母の名前)に甘えてたねえ」と答えた。え、母親が忙しいから祖父の家に預けられてたんじゃないの? と思ったが、話がこんがらがりそうだったのでやめた。
母か。
わたしはどうも、母を物としてしか見ていないように思う。
幼児は生後一年くらいまで断片の世界を生きている。これは部分対象の世界であり、物自体(に親近した)の世界だ。
ここでは全てのものが物だ。当然だ。「人」というのは概念にすぎない。概念を知らない赤ん坊が人と物の区別などついているわけがない。「そんなことはない。赤ん坊はお乳を飲むじゃないか」などという反論が予想されるが、赤ん坊にとってそれは母乳を吐き出す乳房という部分的な物でしかない。この世界では身体は寸断されている。いわば、その時代の赤ん坊にとっての母とは、乳房とは、そういう道具でしかない。
わたしは母をただの道具のように扱っていた。気になったマンガ本があると、だだをこね夜中(つっても田舎だから八時とかそんなレベルよ)に車を出させたりした。
道具ではあるがもちろん思い通りに扱えるわけがない。いつも折れて車を出してくれるわけじゃない。むしろ逆だ。いつも断られる。そもそも彼女は子育てについて放任主義を自負するような人間だ。車を出してくれたのも、彼女の行きつけの飲み屋が近くにあったからに違いない。うん、そこに寄ったの覚えてるもん。大人になった今、自分の行きつけのカラオケスナックに、幼稚園くらいの子供を連れてくるカップルがいて、「それってあんまりよくないよねえ」などと思ったりするのだが(口には出さない)、そういう経験を自分がしたからそう思ってしまうのだろう。
大人の世界に闇があってはならない。大人という神は闇に生きていてはならない。そうしないと、わたしのような光を痛がる人間は、「大人になれば闇を生きられる」と思ってしまうだろう。
――そんなことを話したいわけじゃない。
母を人として認識し始めたのは、覚えていないが、普通に小学生くらいになると、「ふりだけ」母を人として扱っていたように思う。特別扱いしていた。当然だ。ご飯製造機は生活上大事なものだ。わたしは機械に支配されていた。
小学生高学年になると、わたしは全国模試で十番以内に入るなどし、大人たちからちやほやされるようになった。わたしには祖父が三人いるのだが、預けられていた人じゃない祖父の村の村長が、わたしに「会ってみたい」などと言ってきたらしく、なんかお酒を注ぐとか接待のようなことをさせられたのを覚えている。
この頃から母は、ご飯製造機から、ペットというか家畜のようなものにランクアップした。心理学的な心的距離としては、わたしの主観で言えば、距離が離れる方向である。いわば母離れだ。普通に第二次性徴期だな。とっても普通じゃないか。
しかし、一般の世界では、機械から家畜になるのは、心的距離が近くなることになる。機械とペットなどを含む家畜とでは、心的距離は後者の方が近い、ということになる。
ここがよくわからない。
生まれたばかりの頃の世界は物ばかりなはずなのに、なぜ機械という物じゃなくてペットの方が心的距離が近いということになるんだろう。
人が人を特別扱いするのは、自然なことなのだろうか。
この人が人を特別扱いすることとは、多くの人にとって無意識的なものである。無意識的な固定観念である。たとえば心理学では、「心(理)的距離」と言うと「人と人の心の距離」としか定義できない。これなどわたしから見れば、人に対して特別に興味を固定化させる無意識的な機能の症状化だと思える。この記事から。
=====
自閉症に限った話になっているが、たとえばスキゾイドを考えてみよう。スキゾイドは、その情動を定型人たちのように「(自分と同じ形をした)人間(という総体)的なもの」に限定して向ける傾向がないだけで、自然物や人工物や断片的なものに拡散的に向いているのであり、情動がないわけではない。それがスキゾイドの特徴たる「心的距離の遠さ」という表出になっているのであり、そもそもわたしたちが「心的距離」という言葉を考える場合、人間対人間の心的距離しか想像できないから、「遠い」という表現になっているだけなのだ。
=====
おそらく、わたしと多くの他人とでは、「情動」や「人情」や「パトス」のシニフィエが異なっている。他人のブログだけどこの記事のコメント欄とか参考になるかもね。わたしのそれは人なるものに向けて特別に固定化されているものではなく、物や動物にも向けられるものだ。「いや私だって物や動物にも情動を向けているわよ」などという反論が予想されるが、それはおそらく違う。多くの人が物や動物に向ける情動は人なるものが根拠になったものだ。相手が物なら、それこそラカンの「欲望とは他者の欲望である」が参照できるだろう。相手が動物なら、あなたは動物を擬人化させて情動を向けていないか? とわたしは問う。動物を動物そのものとして見て情動を向けているのかい? と。たとえばペットに対する愛情は「動物を動物そのものとして向ける情動」ではないと言いきれる。わたしの臨床から。その情動は奥底で動物を擬人化している。わたしのようにドアベル代わりとして飼い犬を見るような見方が、「動物を動物そのものとして向ける情動」である。動物を物として見ている方が、人なるものが根拠になった情動とは言えないのだ。
そういえばわたしはよく「男らしい」と言われる。このブログの文体においてそれは顕著だと自分でも思うが、リアルでこんな口調をしているわけがない。なのになぜ「男らしい」と言われるのか、というと、おそらく、女性があまりやりたがらない、男性が女性にあまりやらせたがらない仕事を、割と自ら進んでやっているように思われたからだと思う。演劇でも大道具をやっていたし、建築関係の仕事をしていた時も現場主義だった。汗や埃や油や泥に塗れて仕事をすることが多かった。こういう性質を指して「男らしい」と言われているのだと思う。とか言いながらそうでもないよなあって自分では思う。大道具はともかく設計ってどうこう言ってもデスクワークだと思うから。ただ日本の建築業、製造業って現場主義みたいなところあるじゃん。OJTとかそういう奴。設計は必ず現場(工場)と交流してなければならない、みたいな。それに従ってただけ。大道具はー、わたしは演劇を作りたいというより世界を作りたかった、みたいな言い方になるのか。だから舞台美術。その下積みとしての大道具。下積みだけで終わっちゃったけど。だから別に進んで汗や埃や油や泥に塗れようとしてたってわけじゃない、って話。結果的にそうなっただけ。
っていうか、女に限らず男も厭うようなそんな現場を、わたしはそれほど厭ってなかった、ってだけだと思う。成績がよかったってのもそうなんだよな。他の周りの多くの子たちが、勉強を勝手に厭ってただけで、わたしはそれほど厭わなかったから、相対的に成績がよくなっただけ。別に勉強が好きだったわけじゃない。好きでも嫌いでもなかった。周りは嫌いな子たちが多かった。それだけの話。
支配なんかできやしない、みんなそれぞれ自分勝手な物たちに、現実的な物質に、物自体的なそれらに囲まれて生きることが「男らしい」のか。支配するどころか物たちに支配されて、物たちに突っつき回され奔走させられているような状態が「男らしい」のか。
よくわからんなー、ほんとに。
わたしの主観ではほんと迷子状態なのに。物自体的な、到達不可能な、絶対的未知な物たちに囲まれている状態が迷子である。それらに怯えながら、あっちこっちに動き回る状態である。
そんな状態が、傍から見てる分には「男らしい」ってなる。
なんか大航海時代みたいなことを連想した。大航海時代、大海原に漕ぎ出した海の男たちは確かに「男らしい」。しかし彼らは大海原で迷子になっている。迷子の不安の中を生きている。船室でクック船長は慢性的な不安に耐えきれずしくしく泣いているかもしれない。
本当にジェンダーってどうでもいいわ。無意味としか感じられない。要するに今のわたしはジェンダーという言葉・意味に興味をそそられない。
無意味というか本当にただのレトリック、って感じ。
ああそうね。
「支配なんかできやしない、みんなそれぞれ自分勝手な物たちに、現実的な物質に、物自体的なそれらに囲まれて生きること」
って、確かに傍から見たら「男らしい」のかもしれないけど、大航海時代の航海士たちなのかもしれないけれど、わたしの主観では、谷山浩子の『魔法使いの恋人が逃げた』の歌詞、
みんなねえみんな 出てきておくれ
今ならばひとりきりさ 祭りもできる
みんなねえみんな 出てきておくれよ
暗い夜空に身を投げて 踊り明かそうよ
なんだよな。
もしくはこの動画の2:07あたりの映像とかそんな感じ。
海じゃなくて森なのか。それとモノノケたち。人じゃない「物の怪」たち。
あーそういやチャットで「脂さんってもののけ姫みたいだ」って言われたことあるわ。もちろんギャグで。
谷山の『夜の一品』がエロくてたまらない。身もだえしてしまう。谷山にしては珍しい、わたしの主観で珍しいと思える、性的な作品だ。
あれ、母や父に連れられて行った飲み屋を連想させるから身もだえするのか。トラウマになってるのかこれって。んじゃわたしの飲み歩き好きってPTSDの症状なんだな。そういうことになるよな、って揶揄だよ揶揄。精神分析厨たちへの。
キモ。そう、キモイ。この曲はキモイ。キモイから聞いてしまう。「この曲が好き」とかそんな単純な状態じゃない。
ぞわぞわする。
つかあれだな。『魔法使いの恋人が逃げた』の「ねえみんな出てきておくれよ」って、恋人ができちゃったから「みんな」は出にくくなったのかもね。魔女は恋をすることでモノノケたちと交流できなくなったってよくありそうな構造じゃね?
人に対して情動を固定化できれば、すなわち正常人化すれば、モノノケたちは見えなくなる。妖精さんは見えなくなる。迷子の森から脱出できる。
この魔女は森に残っているように見えるけど、恋人ができた時点で、森の方が彼女から離れていってしまったのかもしれない。
でも恋人は逃げてしまった。魔女は追いかけない。森は戻ってくるかもしれない。迷子の森が。
迷子の魔女に救いの手を差し伸べた白馬の王子様は白馬の王子様になりえなかった、そんな歌かもね。
ああそうそう、一応言っておくか。わたしの言う「白馬の王子様」って揶揄を込めてるのよ。白馬の王子様を待っている女性たちにじゃなくて、白馬の王子様を待っている女性たちをバカにしながら無意識的に白馬の王子様になりたがっている男性たちへの。要するにわたしにゃ、白馬の王子様を待っている女性たちをバカにする男性たちの言動は(精神分析的な意味での)否認にしか見えない、ってことだ。
正直どうでもいいだろ、こんなこと。お前がそれを理解できないってだけの話なのに、わざわざそれをバカにするのってなんで? って話さ。
否認していいんだよ、別にお前は。お前が白馬の王子様なわけじゃないから。
エロイで思い出したんだが、『ブラック・ジャック』でブラック・ジャックが自分の足を一人で手術するシーンがあったんだよ、そこで、肉の上に移植する皮膚を置いて、別に縫合もしないまま終わりってのがあった。わたしはこのブログでよく「皮膚が肉に癒着しなかった」という文章を書いているが、これってこの影響があるのかもしれない。いや逆かもしれない。皮膚が肉に癒着してこなかったという実感があったから、このシーンに性的興奮に似たぞわぞわ感を覚えたのかもしれない。あれ皮膚と肉の間を甲虫が走り回る感覚っていつ頃からだったっけ。まーどっちでもいいや。
皮膚って乗せるだけで肉に癒着するんだ、みたいな。するんだ、っていうか、しそう、っていうか、そりゃーするよねカサブタだって治るし、みたいな。ああそうそうヤクザものだったか忘れたけどなんかのマンガで「指を切断したらその指を切れたところにくっつけたまま病院に搬送するといい」とかってあったのも今思い出した。ほんとかどうか知らねえよ? でもまあ、実際くっつけるのだって縫合して放置(じゃないけど)してたらくっつくんだから、ありえるよねえ、と思う。
……あ、ごめん、皮膚を肉の上に乗せてはい終わりってシーンと自分の足を手術するシーンって別だったかもしれない。確認めんどくせ。単行本棄てちゃったし。
『加山雄三のブラック・ジャック』の歌って妙に覚えているんだが、ヒカシューだったって知ったの実は最近だったりする。ごめんなさいサブカルミーハーってこんなもんです。
まさに「部分が部分を横断する」。いえ独り言です。「つまみ食い」とかって表現の方が通じそうかな。いえこっちの話です。
「サブカルファン気取るならサブカルについて詳しくなけりゃならない」っつうのって、斎藤環『戦闘美少女の精神分析』における「マニアという部族から派生したのがおたく」って論を借用するなら、「マニア」という前部族からの脅迫だよな。保守派の圧力。「おたく」の中でこんなこと言う奴がいたらそいつは前部族のスパイだ、ってこと。ガタリン用語なら「事後的であるはずの全体が前提になっている」って感じ。
スキゾはミーハーなんだよ。「ミーハー」ってだけだと微妙に違うがね。
んー「部分が部分を横断する」って個人的にしっぽりはまるわー。ガタリンもなかなかやるじゃない。
あーそうそう、「整形手術」なんだよな。
「バルス」またやってたのか。
追記。ああめんどくせ。
「え、母親が忙しいから祖父の家に預けられてたんじゃないの? と思ったが、」ってのは、「わたしは母に甘えていなかった」という意味での反論ではない。そう思われそうなので注釈しておく。母を道具のように扱うことは、傍から見れば甘えていることになるのは理解できる。
そうではなく、母は忙しくてわたしを祖父の家に預けていたのだから、祖父の家に母は(大体)いなかったはずだ。なのに叔母はなぜ「母に甘えていた」ことを思い出したのだろう? ということだ。おそらくわたしは「祖父の家では」という限定された場での状態を聞いていたのだが、叔母はそう受け取らず、「全体的にわたしは誰に甘えていたか」という質問に受け取ったのだろう。
ほら、こんがらがるだろ? いや時間経ってるからこう説明できるだけで。
母か。
わたしはどうも、母を物としてしか見ていないように思う。
幼児は生後一年くらいまで断片の世界を生きている。これは部分対象の世界であり、物自体(に親近した)の世界だ。
ここでは全てのものが物だ。当然だ。「人」というのは概念にすぎない。概念を知らない赤ん坊が人と物の区別などついているわけがない。「そんなことはない。赤ん坊はお乳を飲むじゃないか」などという反論が予想されるが、赤ん坊にとってそれは母乳を吐き出す乳房という部分的な物でしかない。この世界では身体は寸断されている。いわば、その時代の赤ん坊にとっての母とは、乳房とは、そういう道具でしかない。
わたしは母をただの道具のように扱っていた。気になったマンガ本があると、だだをこね夜中(つっても田舎だから八時とかそんなレベルよ)に車を出させたりした。
道具ではあるがもちろん思い通りに扱えるわけがない。いつも折れて車を出してくれるわけじゃない。むしろ逆だ。いつも断られる。そもそも彼女は子育てについて放任主義を自負するような人間だ。車を出してくれたのも、彼女の行きつけの飲み屋が近くにあったからに違いない。うん、そこに寄ったの覚えてるもん。大人になった今、自分の行きつけのカラオケスナックに、幼稚園くらいの子供を連れてくるカップルがいて、「それってあんまりよくないよねえ」などと思ったりするのだが(口には出さない)、そういう経験を自分がしたからそう思ってしまうのだろう。
大人の世界に闇があってはならない。大人という神は闇に生きていてはならない。そうしないと、わたしのような光を痛がる人間は、「大人になれば闇を生きられる」と思ってしまうだろう。
――そんなことを話したいわけじゃない。
母を人として認識し始めたのは、覚えていないが、普通に小学生くらいになると、「ふりだけ」母を人として扱っていたように思う。特別扱いしていた。当然だ。ご飯製造機は生活上大事なものだ。わたしは機械に支配されていた。
小学生高学年になると、わたしは全国模試で十番以内に入るなどし、大人たちからちやほやされるようになった。わたしには祖父が三人いるのだが、預けられていた人じゃない祖父の村の村長が、わたしに「会ってみたい」などと言ってきたらしく、なんかお酒を注ぐとか接待のようなことをさせられたのを覚えている。
この頃から母は、ご飯製造機から、ペットというか家畜のようなものにランクアップした。心理学的な心的距離としては、わたしの主観で言えば、距離が離れる方向である。いわば母離れだ。普通に第二次性徴期だな。とっても普通じゃないか。
しかし、一般の世界では、機械から家畜になるのは、心的距離が近くなることになる。機械とペットなどを含む家畜とでは、心的距離は後者の方が近い、ということになる。
ここがよくわからない。
生まれたばかりの頃の世界は物ばかりなはずなのに、なぜ機械という物じゃなくてペットの方が心的距離が近いということになるんだろう。
人が人を特別扱いするのは、自然なことなのだろうか。
この人が人を特別扱いすることとは、多くの人にとって無意識的なものである。無意識的な固定観念である。たとえば心理学では、「心(理)的距離」と言うと「人と人の心の距離」としか定義できない。これなどわたしから見れば、人に対して特別に興味を固定化させる無意識的な機能の症状化だと思える。この記事から。
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自閉症に限った話になっているが、たとえばスキゾイドを考えてみよう。スキゾイドは、その情動を定型人たちのように「(自分と同じ形をした)人間(という総体)的なもの」に限定して向ける傾向がないだけで、自然物や人工物や断片的なものに拡散的に向いているのであり、情動がないわけではない。それがスキゾイドの特徴たる「心的距離の遠さ」という表出になっているのであり、そもそもわたしたちが「心的距離」という言葉を考える場合、人間対人間の心的距離しか想像できないから、「遠い」という表現になっているだけなのだ。
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おそらく、わたしと多くの他人とでは、「情動」や「人情」や「パトス」のシニフィエが異なっている。他人のブログだけどこの記事のコメント欄とか参考になるかもね。わたしのそれは人なるものに向けて特別に固定化されているものではなく、物や動物にも向けられるものだ。「いや私だって物や動物にも情動を向けているわよ」などという反論が予想されるが、それはおそらく違う。多くの人が物や動物に向ける情動は人なるものが根拠になったものだ。相手が物なら、それこそラカンの「欲望とは他者の欲望である」が参照できるだろう。相手が動物なら、あなたは動物を擬人化させて情動を向けていないか? とわたしは問う。動物を動物そのものとして見て情動を向けているのかい? と。たとえばペットに対する愛情は「動物を動物そのものとして向ける情動」ではないと言いきれる。わたしの臨床から。その情動は奥底で動物を擬人化している。わたしのようにドアベル代わりとして飼い犬を見るような見方が、「動物を動物そのものとして向ける情動」である。動物を物として見ている方が、人なるものが根拠になった情動とは言えないのだ。
そういえばわたしはよく「男らしい」と言われる。このブログの文体においてそれは顕著だと自分でも思うが、リアルでこんな口調をしているわけがない。なのになぜ「男らしい」と言われるのか、というと、おそらく、女性があまりやりたがらない、男性が女性にあまりやらせたがらない仕事を、割と自ら進んでやっているように思われたからだと思う。演劇でも大道具をやっていたし、建築関係の仕事をしていた時も現場主義だった。汗や埃や油や泥に塗れて仕事をすることが多かった。こういう性質を指して「男らしい」と言われているのだと思う。とか言いながらそうでもないよなあって自分では思う。大道具はともかく設計ってどうこう言ってもデスクワークだと思うから。ただ日本の建築業、製造業って現場主義みたいなところあるじゃん。OJTとかそういう奴。設計は必ず現場(工場)と交流してなければならない、みたいな。それに従ってただけ。大道具はー、わたしは演劇を作りたいというより世界を作りたかった、みたいな言い方になるのか。だから舞台美術。その下積みとしての大道具。下積みだけで終わっちゃったけど。だから別に進んで汗や埃や油や泥に塗れようとしてたってわけじゃない、って話。結果的にそうなっただけ。
っていうか、女に限らず男も厭うようなそんな現場を、わたしはそれほど厭ってなかった、ってだけだと思う。成績がよかったってのもそうなんだよな。他の周りの多くの子たちが、勉強を勝手に厭ってただけで、わたしはそれほど厭わなかったから、相対的に成績がよくなっただけ。別に勉強が好きだったわけじゃない。好きでも嫌いでもなかった。周りは嫌いな子たちが多かった。それだけの話。
支配なんかできやしない、みんなそれぞれ自分勝手な物たちに、現実的な物質に、物自体的なそれらに囲まれて生きることが「男らしい」のか。支配するどころか物たちに支配されて、物たちに突っつき回され奔走させられているような状態が「男らしい」のか。
よくわからんなー、ほんとに。
わたしの主観ではほんと迷子状態なのに。物自体的な、到達不可能な、絶対的未知な物たちに囲まれている状態が迷子である。それらに怯えながら、あっちこっちに動き回る状態である。
そんな状態が、傍から見てる分には「男らしい」ってなる。
なんか大航海時代みたいなことを連想した。大航海時代、大海原に漕ぎ出した海の男たちは確かに「男らしい」。しかし彼らは大海原で迷子になっている。迷子の不安の中を生きている。船室でクック船長は慢性的な不安に耐えきれずしくしく泣いているかもしれない。
本当にジェンダーってどうでもいいわ。無意味としか感じられない。要するに今のわたしはジェンダーという言葉・意味に興味をそそられない。
無意味というか本当にただのレトリック、って感じ。
ああそうね。
「支配なんかできやしない、みんなそれぞれ自分勝手な物たちに、現実的な物質に、物自体的なそれらに囲まれて生きること」
って、確かに傍から見たら「男らしい」のかもしれないけど、大航海時代の航海士たちなのかもしれないけれど、わたしの主観では、谷山浩子の『魔法使いの恋人が逃げた』の歌詞、
みんなねえみんな 出てきておくれ
今ならばひとりきりさ 祭りもできる
みんなねえみんな 出てきておくれよ
暗い夜空に身を投げて 踊り明かそうよ
なんだよな。
もしくはこの動画の2:07あたりの映像とかそんな感じ。
海じゃなくて森なのか。それとモノノケたち。人じゃない「物の怪」たち。
あーそういやチャットで「脂さんってもののけ姫みたいだ」って言われたことあるわ。もちろんギャグで。
谷山の『夜の一品』がエロくてたまらない。身もだえしてしまう。谷山にしては珍しい、わたしの主観で珍しいと思える、性的な作品だ。
あれ、母や父に連れられて行った飲み屋を連想させるから身もだえするのか。トラウマになってるのかこれって。んじゃわたしの飲み歩き好きってPTSDの症状なんだな。そういうことになるよな、って揶揄だよ揶揄。精神分析厨たちへの。
キモ。そう、キモイ。この曲はキモイ。キモイから聞いてしまう。「この曲が好き」とかそんな単純な状態じゃない。
ぞわぞわする。
つかあれだな。『魔法使いの恋人が逃げた』の「ねえみんな出てきておくれよ」って、恋人ができちゃったから「みんな」は出にくくなったのかもね。魔女は恋をすることでモノノケたちと交流できなくなったってよくありそうな構造じゃね?
人に対して情動を固定化できれば、すなわち正常人化すれば、モノノケたちは見えなくなる。妖精さんは見えなくなる。迷子の森から脱出できる。
この魔女は森に残っているように見えるけど、恋人ができた時点で、森の方が彼女から離れていってしまったのかもしれない。
でも恋人は逃げてしまった。魔女は追いかけない。森は戻ってくるかもしれない。迷子の森が。
迷子の魔女に救いの手を差し伸べた白馬の王子様は白馬の王子様になりえなかった、そんな歌かもね。
ああそうそう、一応言っておくか。わたしの言う「白馬の王子様」って揶揄を込めてるのよ。白馬の王子様を待っている女性たちにじゃなくて、白馬の王子様を待っている女性たちをバカにしながら無意識的に白馬の王子様になりたがっている男性たちへの。要するにわたしにゃ、白馬の王子様を待っている女性たちをバカにする男性たちの言動は(精神分析的な意味での)否認にしか見えない、ってことだ。
正直どうでもいいだろ、こんなこと。お前がそれを理解できないってだけの話なのに、わざわざそれをバカにするのってなんで? って話さ。
否認していいんだよ、別にお前は。お前が白馬の王子様なわけじゃないから。
エロイで思い出したんだが、『ブラック・ジャック』でブラック・ジャックが自分の足を一人で手術するシーンがあったんだよ、そこで、肉の上に移植する皮膚を置いて、別に縫合もしないまま終わりってのがあった。わたしはこのブログでよく「皮膚が肉に癒着しなかった」という文章を書いているが、これってこの影響があるのかもしれない。いや逆かもしれない。皮膚が肉に癒着してこなかったという実感があったから、このシーンに性的興奮に似たぞわぞわ感を覚えたのかもしれない。あれ皮膚と肉の間を甲虫が走り回る感覚っていつ頃からだったっけ。まーどっちでもいいや。
皮膚って乗せるだけで肉に癒着するんだ、みたいな。するんだ、っていうか、しそう、っていうか、そりゃーするよねカサブタだって治るし、みたいな。ああそうそうヤクザものだったか忘れたけどなんかのマンガで「指を切断したらその指を切れたところにくっつけたまま病院に搬送するといい」とかってあったのも今思い出した。ほんとかどうか知らねえよ? でもまあ、実際くっつけるのだって縫合して放置(じゃないけど)してたらくっつくんだから、ありえるよねえ、と思う。
……あ、ごめん、皮膚を肉の上に乗せてはい終わりってシーンと自分の足を手術するシーンって別だったかもしれない。確認めんどくせ。単行本棄てちゃったし。
『加山雄三のブラック・ジャック』の歌って妙に覚えているんだが、ヒカシューだったって知ったの実は最近だったりする。ごめんなさいサブカルミーハーってこんなもんです。
まさに「部分が部分を横断する」。いえ独り言です。「つまみ食い」とかって表現の方が通じそうかな。いえこっちの話です。
「サブカルファン気取るならサブカルについて詳しくなけりゃならない」っつうのって、斎藤環『戦闘美少女の精神分析』における「マニアという部族から派生したのがおたく」って論を借用するなら、「マニア」という前部族からの脅迫だよな。保守派の圧力。「おたく」の中でこんなこと言う奴がいたらそいつは前部族のスパイだ、ってこと。ガタリン用語なら「事後的であるはずの全体が前提になっている」って感じ。
スキゾはミーハーなんだよ。「ミーハー」ってだけだと微妙に違うがね。
んー「部分が部分を横断する」って個人的にしっぽりはまるわー。ガタリンもなかなかやるじゃない。
あーそうそう、「整形手術」なんだよな。
「バルス」またやってたのか。
追記。ああめんどくせ。
「え、母親が忙しいから祖父の家に預けられてたんじゃないの? と思ったが、」ってのは、「わたしは母に甘えていなかった」という意味での反論ではない。そう思われそうなので注釈しておく。母を道具のように扱うことは、傍から見れば甘えていることになるのは理解できる。
そうではなく、母は忙しくてわたしを祖父の家に預けていたのだから、祖父の家に母は(大体)いなかったはずだ。なのに叔母はなぜ「母に甘えていた」ことを思い出したのだろう? ということだ。おそらくわたしは「祖父の家では」という限定された場での状態を聞いていたのだが、叔母はそう受け取らず、「全体的にわたしは誰に甘えていたか」という質問に受け取ったのだろう。
ほら、こんがらがるだろ? いや時間経ってるからこう説明できるだけで。