動く石柱
2009/11/23/Mon
中坊さんから初めてトラバもらってびびった。つか「トラックバック(1)」って文字だけでびくっとする。コメントはまだ慣れてるからか。
いや「トラバすんな」って言ってるんじゃなくてね。社交辞令的には「トラバありがとうございます」って奴になるんだろう。そういう文句だと思ってくれ。
こんな感じで毎日がハラハラドキドキ状態。そりゃーパニック発作も起こすわ。
最初は向こうのコメント欄に書こうと思ったけど長くなりそうだったのでメモ帳に書いてたら(今メインPC使ってない、なんとなく)予想通り長くなったので記事数稼ぎがてらこっちにうpっておく。
んで。
まー「ふんふん」ってレベルなのだよね。だから君の文章には「うりゃああ」って感じにならない。知り合いだからってわけじゃないのは常連読者の君なら知ってるだろ? たとえば君より古い知り合いのイトウさんにでも「うりゃああ」って感じになったことがある。
つーのは、君の文章って、わたしのシニフィエを劣化するようなものではあるんだが、どうしても『仏陀ヶ谷』みたいなイメージで読んでしまうんだな。だから「うりゃああ」となれない。
なかなかうまい防衛策じゃないか。対わたしとして。
ということで本題。
=====
新宿とか渋谷の駅前の混雑の中で、恐らくみんな感じているであろう「ウワー、モー、みんな邪魔!」というちょっとしたイライラ感を思い出してもらえればわかると思う。
僕なんか、巨大な箒で全員掃いてしまいたいと思ったりするけれど、しかしながら、一人一人に人格があると考えると(つまり“擬人化”だ)、「いや、そんなことは考えちゃいけない」と思い直す。
「掃いてしまいたい」と思った瞬間には(つまり“擬人化”していない瞬間)、そこにいるヒトの大群は、動物と同じように僕の認識上「モノ」扱いなわけだ。
=====
の部分。
まーわかりやすさを優先したらこういう説明でもいいんだよな。劣化は施されているが「うりゃああ」ってならない。
「うりゃああ」じゃない感じで一言言ってみよう、と思ったら、どうも自分の態度が教師みたいな感じがしてきた。まあわたしの文章が元になっているものだから、「いやこの文章はこういう意味で」という感じで教師的態度になる、と思ってくれ。なんせそれはわたしの文章だからな。なのでわたしは教師になる。君よりわたしの方が「わたしが書いた文章の意味」を知っているに決まっている。
「うん。そうだね」。これが全部読んだ後の感想。なんの感慨もない言い方で。わーほんと教師みてえ。
でもな、一応、「これは受験勉強の範囲じゃないけどね」って家庭教師が留意した上でする説明のような感じで突っ込んでおくなら、「渋谷の駅前の混雑の中で、巨大な箒で全員掃いてしまいたいと思う状態」っていうのは、掃かれる奴らが物じゃない場合だってあると思う。要するに、そいつらには人格があるからこそ「掃いてしまいたい」と思う気持ち。いわば対人恐怖症チックな精神状態。
そいつらを本当に物として見ているなら、去勢済み主体なら「物は支配できる」という確信が奥底にあるはずなので、「邪魔だからどける」となる。物に対して人間は常に王様だからね。まあ実際には何十キロある物体が数百体あるわけだから、ブルドーザーとか使わなきゃいけなくなるだろうな。建築設計なら基本計画図じゃなくて施工図的な思考法。そんな状態なら、まあ「そいつらを物として見ている」ってことになるんだろうな。その時の君は現場監督みたいなもんだ。
ところがだな、「物として見る」にも二つあるんだ。「物」の異なるシニフィエ。ここでは「支配可能な物」と「支配不可能な物」と説明したらわかりやすいか(わかりやすく述べているわけだからわたしもわたしの考えを劣化しているんだよ)。
後者の「支配不可能な物」は、「木村敏論における「絶対的未知」性を帯びた物」とか「ラカン論における「物の殺害」以前の物」とか「わたし論における「悪意としての物」」とか「哲学風に言えば物自体的な物」とかになる。ここではかっこつけて「物自体的な物」という言い方を採用しておこうか。仮に。
前者はまあ一般的な「物」のシニフィエだと思ってくんねえ。なので余計な説明はしない。むしろわたしがこっちを説明すると混乱するだけだろう。「物は支配可能だ」という固定観念が無意識化している正常人すなわち去勢済み主体が人類において大多数を占めているわけだし。多数派のシニフィエってことだな。
んじゃ、渋谷の駅前の混雑の中というシチュエーションで、そいつらを「物として見てい」て、その「物」が、一般的な「支配可能な物」というシニフィエではない、「支配不可能な物」すなわち「物自体的な物」というシニフィエである場合はどうなのか。
それこそ、そこにある「人ごみ」すなわち「大量の動く石柱のごとき物々」は、君が書いている「里に降りてきたクマ」やら「薬やって錯乱したパンツいっちょのライフル男」になるんだ。後者とか近いよな。要するにそれキチガイだろ。わたしのブログでは、キチガイとは「人を人らしくたらしめる人なるもの」という精神疾患に罹患していない人間たちだ、となる。キチガイは人じゃなくて物だ。物だから人も物として見る。そいつが未去勢者だったなら、「物自体的な物」としてそれを見ている。
だからクマは人を襲い、ライフル男は無差別に人を撃つんだよ。物を本当の物(に親近した物)として見ているから。駅前の混雑を構成する動く石柱どもは、全てクマでありライフル男なんだ。自分も等しく「物自体的な物」であるクマであったりライフル男だったりするその物は、「物自体的な物」である動く石柱たちを襲う。
クマはライフル男はそれを箒で掃いても無駄だということを知っている、心の奥底ではそう思っている。最終的に「物とは支配不可能なんだ」というところに行き着いてしまう。動く石柱群を撤去しても新しい障害物が生じてしまう世界に生きている。クマやライフル男が人を襲うのは、賽の河原で孤児が石を積み重ねているのと同じだ。
でもさ、ここでポイントなのが、動く石柱群をブルドーザーではけるのと、爪やライフルで襲うのって、同様のアクティングアウトだと言えるよな。「襲う」って感じの意味で。「ブルドーザー」も「爪」も「ライフル」も比喩なんだから。言うこと聞かない、つまり支配不可能なクマを撃ち殺すのも同じだ。
要するに、「物は支配できる」という固定観念が無意識にばっちり備わっている人間(=去勢済み主体=正常人)も、「物は支配不可能だ」っていう人間(=未去勢者=わたし語用におけるキチガイ)も、渋谷の駅前で同じような行動を起こすかもしれない、ということだ。
ここなんだよな。最近わたしが引っかかってるのって。どっかの記事にも書いたが、「キチガイの行動学」みたいなもんを考えていると、結果的に正常人と同じような行動になっちゃうことが多いじゃん、って思ったんだわ。これだってそういうことだよな。現場監督がブルドーザーではけさせるのも、クマを撃ち殺すのも、クマが爪で襲うのも、ライフル男がライフルを乱射するのも、同種と言えば同種だろ。「襲う」ってニュアンスで考えれば。違うと言えば違うが。
だけど中身が決定的に違う。シニフィエが違う。
石柱を撤去する現場監督やクマを撃ち殺す猟友会メンバーと、人を襲うクマやライフルを乱射する薬中男とで、見ているものが違う。生きている世界が違う。
ああ、「対人恐怖症」なんて言葉がぽろって出ているから蛇足するなら、どっちのシニフィエで「物として見ているか」って違いは、神経症としての対人恐怖症と、未去勢者(わたし論では統合失調症者、自閉症者、スキゾイドとなる)の対人恐怖症的症状の違いでもある、ってことになるな。「対人」の「人」のシニフィエが違う。
そうなんだよな。アスペルガー症候群者の症状なんてまるっきり神経症なんだもん。これもそう。結果的に正常人と同様になってしまう「キチガイの行動学」。
でも、明らかにシニフィエが違う、って話。ちゃちいくなることを自覚して言うなら、本当に、「見ている世界が違う」。独我論における世界が違う。独我論の文脈で言って「違う世界に生きている」ってことだ。
中二病者は好きそうじゃね、こんなセリフ。「見ている世界が違う」、「違う世界に生きている」。
正常人とキチガイは違う世界を生きている、という意味じゃない。一人一人の見ている世界は違う。一人一人が違う世界を生きている。キチガイはそういう世界を生きている。相手が正常人である場合ももちろん、キチガイ同士であっても別々の世界になる。なのに正常人だけが「みんな同じ世界を生きている」となる。なってしまう。パラノイアの妄想と同じなんだよな。そういう精神疾患なんだよ、(精神医学的な意味で)正常であるということは。
この「一人一人が違う世界を生きている。キチガイはそういう世界を生きている。相手が正常人である時ももちろん、キチガイ同士であっても別々の世界になる。なのに正常人だけが「みんな同じ世界を生きている」となる。なってしまう。」を、先の「石柱を撤去する現場監督」と「クマを撃ち殺す猟友会メンバー」と「人を襲うクマ」と「ライフル男」っていう四つのキャラで言い換えてみよう。
「現場監督」と「猟友会メンバー」はおそらく同じ(と思い込んでいるだけなのだが)世界を生きているだろう。それとは別の世界を「クマ」と「ライフル男」は生きているが、「クマ」と「ライフル男」は同じ世界を生きているわけではない、ということだ。
とはいえ、猟友会メンバーなんかは、言うことを聞かない動物たちと対峙しているんだから、おそらく「支配不可能な物に囲まれた世界」を生きているという意味で、「クマ」や「ライフル男」に若干似た世界を生きていると思われる。都市に生きる一般人なんかよりね。実は現場監督もそうだと思えるんだよな。わたしは。建築現場にもいたことがあるからわかるけど、そこは本当に言うことを聞かない物や自然と対峙し悪戦苦闘している場だ。死と隣り合わせの場。
だけど、猟友会メンバーは森から、現場監督は建築現場から離れれば、そんな世界から逃れられる。日常に戻れる。彼らにとって「支配不可能な物」に囲まれた世界は一部であり、ただの「そういう現場」であり、世界じゃない。一方、「クマ」や「薬中男」は、死と隣り合わせの森や建築現場から逃げられない。一部じゃなくて全てだから逃げられない。そこは「そういう現場」ではなくまさに世界だ。
わかりやすく言えば、キチガイは正常人が非日常だと思っているような日常を生きている、ってことになる。これだとわかりやすいだろ? 非日常が日常になってるのってまさにキチガイじゃん。
わたしも逃げられなかった。一時期「逃げられた」と思ってたんだけどね。社会人やってた頃は。だからわたしにとっては、大人になることこそが現実逃避だと思えるんだよな。屁理屈じゃなくて感覚がそういう感覚なんだ。ここでも「現実」のシニフィエが違うんだよ。
まあ君から見れば「ボクチンが言おうとしていたことをわざわざわかりにくく整理し直しただけじゃねえか」って文章かもしれないが、一応なすりつけとくわ。
いやまあ、ジジェク派すなわちラカン正統派な人なら、「女(ファルスのない人間すなわち未去勢者)は存在しない」ってことになるんだから、「物」のシニフィエが違う人間のことなんか考える必要ないんだけどね。なんせ存在しないわけで。
ジジェクなんて職人技だと思うよ。「女を存在させない言い回し」が。ほんとラカニアンとして正統派だと思う。ラカニアンたちはそう思ってないみたいだけど。
だからジジェクも攻撃しづらい。「うりゃああ」ってならん。だって存在してないんだもんよ、そいつの世界にわたしの思想が。
一方ガタリンとかこっちをダシにしてるでしょ? だから絡まれるんだよ。わたしみたいなのに。
わたしの記事を引用しているわけだから君はわたしに絡んできていることになるが、わたし(という物自体)には触れてないような気がするのよね。絡んできているようで絡んでない。ガタリとかは絡んでないようで絡んできている。そうだよな、『アンチ・オイディプス』でわたしの論に触れてなんかいないわけだから、絡んでないことになる。ジジェクはそのまんま、絡んでいないようで絡んでいないってことだから、わたしから触れる必要が全くないんだ。
ああ、この「絡み」ってヤクザのそれとかお笑いのそれみたいな文脈で理解してね。
お前ってわたしに絡んできてないんだよ、ほんとに。だから「うんこ」にならない。それはそれで困るわ。こんなめんどくさい説明しなきゃなんないから。
絡んでるかもな、って思えるのは「これってさ、「ジェンダー」と同根じゃないかと思うんだよね。」って一箇所のみなんだが、お前が引用した記事における「ジェンダー」ってシニフィアンには深い意味がないので、返答のしようがないんだよな。もしそうなら会話がすれ違っているってことになるのか。すれ違いだから「うんこの投げ合い」にならないのか。
どうでもいいけど文中の「ウワー、モー」って谷岡ヤスジの絵柄でイメージした。
どうでもいいけどお前の文体って語尾に「だよね」をつけるの多いな。友だちをたくさん作ろうと卑屈な笑みを浮かべるガリ勉くんみたいなイメージ。これ嫌いじゃなかったな、ってかいとうせいこうやスチャダラでラップを知ったわたしにとってはドラゴンアッシュみたいなのが「ちげーよなー」なんだよな。でもFIRE BALLみたいなんは好き。ドラゴンアッシュ系とは言わないけど、バイオレンス系、マッチョ系って感じ? 少なくともいとうせいこうやスチャダラって全然マッチョじゃねえだろ?
ところでこのブログそういう言葉を使ってるからよく「そういうのを検索してたんだな、すまんね」って思っちゃうキーワード検索でのアクセスがあるんだが、「沢口靖子 浣腸」ってので来てたのを見てなんつーかかんつーかって思った。確かに「沢口靖子」も「浣腸」も使ってるけどさ。
検索エンジンっておもしろいよね、って話。
「沢口靖子 浣腸」を記事タイトルにしようかと思ったけどいくらなんでもそりゃ遊びすぎなのでやめとく。
あとime.nuから時々飛んでくるんだがそれも怖い。
わたしは渋谷の雑踏にも一人一人人格を認めるよ。そうでなきゃ話が通じない。
その上で、「人格」を物化して、攻撃する。
お前の言う「井」の上にまず乗って、「わたしという「丼」の上の「ヽ」は「ヽ」などではなく、お前らが大地と思っている「井」が乗っている本当の大地だ」って言う。
そうした方が「人格」や「井」は壊れやすいことを経験上知ってるから。
従って、わたしがライフルを乱射するのは、その後になる。今はその前段階、ってこと。
この「人格」や「井」を、わたしはスターンの自己感形成論の文脈で「着ぐるみ」と表現することがあるが、「まずその着ぐるみ脱げよ、お前初めてか?」って阿部さんみたいな感じになるのか。
あ、読み直して気づいたけど、「わたしという「丼」の上の「ヽ」は「ヽ」などではなく、お前らが大地と思っている「井」が乗っている本当の大地だ」って要するに、ラカンも言ってた「構造主義的贈与交換システムの上に取り込まれる交接、つまり、男性的享楽の上に取り込まれるそれ」って奴だよな。お前の言ってた「井」の意味・文脈にもばっちし当てはまる。ラカニアンだなーほんと君って。エセセセセセ(真似てみた)。
日常の一部としての非日常、「井」の中の「ヽ」としてのパトスは、お前らが取り囲んでいるようで、お前らを取り囲んでいるんだよ。まさにラカンの言う「トーラス」すなわちドーナツじゃないか。ドーナツの穴はドーナツの外側の空間でもある。お前たちは自分が穴を取り囲んでいると思っているだけで穴に取り囲まれている。男性的享楽は、構造主義的贈与交換システムは、「井」は、それを取り込んでいると思い込んでいるだけ。日常の上に非日常があるのではなく、非日常という空間の中に日常がある。お前らが日常から抜け出せないからそれを非日常と表現しているだけ。
これが「無限に有限が寄生する」ということだ。
これ別になんにも難しいことじゃないんだよな。犬を飼うのなんてのもそうだ。自然の一部である犬を、自分たちの都合のいいように取り込んでいる。犬は取り込めたと思い込んでいても、同じ自然の一部である台風には翻弄される。犬という物を支配できたと思っていても、犬を構成する量子は不確定性だ。人も不確定性の量子で構成されている物だ。
要するに、ドーナツの生地の部分を生きているか、外側の空間を生きているか、の違いなんだよね。DA・YO・NE。「猟友会メンバー」や「現場監督」は、生地の中から生地の表面に出向いた人たち、ってことになるな。
あ、ちなみに言っておくとわたしは構造主義者だぜ。ドーナツの外側を生きてきたからか、大多数の人間(正常人と限る)の精神において、ドーナツという、「井」という構造があるのがよくわかるから。
わたしは、ラカン的な意味での「存在しないはずの女」だからこそ、「男性的享楽」がどんなものか見える。あ、中坊さんならいちいちこんなこと断らなくてもいいだろうが他の読者のために言っておくなら、ここでの「女」とは「ファルスのない人間」って意味であり、そういう意味では、人間の生物学的な女性でも、その多くはファルスを持っている。つまり「女」じゃない。わたしは一般の女性にも「男性的享楽」を感じることが多い。このブログではそれを「精液」などと呼んだりしている。一般の女性の方が「精液」を撒き散らかしてくることが多い。
要するに、わたしが書く人(正常人)についての論説は、人でなしが見ているような人をシニフィエにしている、ということだ。クマやライフル男から見る人だ。クマやライフル男は、人が生きている場所をずっと観察すれば、「人同士はなんらかのテレパシーを使って行動しているんじゃないか」などと思うかもしれない。ちょうど動物行動学者が蟻や蜂を観察してそんな風に思うごとく。まあ、わたしとクマとライフル男も別々の世界を生きているのが前提だから、どうかわからないけどね。「人とは蟻のようだ」って別に見下してなくてもそう言えるんだよな。そうだろ、動物行動学者は確かに蟻や蜂を見下しているのかもしれないが、逆に、「なんて高度なコミュニケーションツールを持っているんだ」と思っているのかもしれない。その時彼は蟻や蜂をむしろ見上げているだろう。わたしは周りの人間たちを「天使」だと思っている。
こんなこと書きながら言葉にできない身体反応に翻弄されているってのも、お前らの主観世界ではわからないんだろうなー。本当、お前たちの主観世界に、物としての、肉体としてのわたしは存在していない。
まず足元見てごらんよ。お前の体だって量子でできているんだ。
いや「トラバすんな」って言ってるんじゃなくてね。社交辞令的には「トラバありがとうございます」って奴になるんだろう。そういう文句だと思ってくれ。
こんな感じで毎日がハラハラドキドキ状態。そりゃーパニック発作も起こすわ。
最初は向こうのコメント欄に書こうと思ったけど長くなりそうだったのでメモ帳に書いてたら(今メインPC使ってない、なんとなく)予想通り長くなったので記事数稼ぎがてらこっちにうpっておく。
んで。
まー「ふんふん」ってレベルなのだよね。だから君の文章には「うりゃああ」って感じにならない。知り合いだからってわけじゃないのは常連読者の君なら知ってるだろ? たとえば君より古い知り合いのイトウさんにでも「うりゃああ」って感じになったことがある。
つーのは、君の文章って、わたしのシニフィエを劣化するようなものではあるんだが、どうしても『仏陀ヶ谷』みたいなイメージで読んでしまうんだな。だから「うりゃああ」となれない。
なかなかうまい防衛策じゃないか。対わたしとして。
ということで本題。
=====
新宿とか渋谷の駅前の混雑の中で、恐らくみんな感じているであろう「ウワー、モー、みんな邪魔!」というちょっとしたイライラ感を思い出してもらえればわかると思う。
僕なんか、巨大な箒で全員掃いてしまいたいと思ったりするけれど、しかしながら、一人一人に人格があると考えると(つまり“擬人化”だ)、「いや、そんなことは考えちゃいけない」と思い直す。
「掃いてしまいたい」と思った瞬間には(つまり“擬人化”していない瞬間)、そこにいるヒトの大群は、動物と同じように僕の認識上「モノ」扱いなわけだ。
=====
の部分。
まーわかりやすさを優先したらこういう説明でもいいんだよな。劣化は施されているが「うりゃああ」ってならない。
「うりゃああ」じゃない感じで一言言ってみよう、と思ったら、どうも自分の態度が教師みたいな感じがしてきた。まあわたしの文章が元になっているものだから、「いやこの文章はこういう意味で」という感じで教師的態度になる、と思ってくれ。なんせそれはわたしの文章だからな。なのでわたしは教師になる。君よりわたしの方が「わたしが書いた文章の意味」を知っているに決まっている。
「うん。そうだね」。これが全部読んだ後の感想。なんの感慨もない言い方で。わーほんと教師みてえ。
でもな、一応、「これは受験勉強の範囲じゃないけどね」って家庭教師が留意した上でする説明のような感じで突っ込んでおくなら、「渋谷の駅前の混雑の中で、巨大な箒で全員掃いてしまいたいと思う状態」っていうのは、掃かれる奴らが物じゃない場合だってあると思う。要するに、そいつらには人格があるからこそ「掃いてしまいたい」と思う気持ち。いわば対人恐怖症チックな精神状態。
そいつらを本当に物として見ているなら、去勢済み主体なら「物は支配できる」という確信が奥底にあるはずなので、「邪魔だからどける」となる。物に対して人間は常に王様だからね。まあ実際には何十キロある物体が数百体あるわけだから、ブルドーザーとか使わなきゃいけなくなるだろうな。建築設計なら基本計画図じゃなくて施工図的な思考法。そんな状態なら、まあ「そいつらを物として見ている」ってことになるんだろうな。その時の君は現場監督みたいなもんだ。
ところがだな、「物として見る」にも二つあるんだ。「物」の異なるシニフィエ。ここでは「支配可能な物」と「支配不可能な物」と説明したらわかりやすいか(わかりやすく述べているわけだからわたしもわたしの考えを劣化しているんだよ)。
後者の「支配不可能な物」は、「木村敏論における「絶対的未知」性を帯びた物」とか「ラカン論における「物の殺害」以前の物」とか「わたし論における「悪意としての物」」とか「哲学風に言えば物自体的な物」とかになる。ここではかっこつけて「物自体的な物」という言い方を採用しておこうか。仮に。
前者はまあ一般的な「物」のシニフィエだと思ってくんねえ。なので余計な説明はしない。むしろわたしがこっちを説明すると混乱するだけだろう。「物は支配可能だ」という固定観念が無意識化している正常人すなわち去勢済み主体が人類において大多数を占めているわけだし。多数派のシニフィエってことだな。
んじゃ、渋谷の駅前の混雑の中というシチュエーションで、そいつらを「物として見てい」て、その「物」が、一般的な「支配可能な物」というシニフィエではない、「支配不可能な物」すなわち「物自体的な物」というシニフィエである場合はどうなのか。
それこそ、そこにある「人ごみ」すなわち「大量の動く石柱のごとき物々」は、君が書いている「里に降りてきたクマ」やら「薬やって錯乱したパンツいっちょのライフル男」になるんだ。後者とか近いよな。要するにそれキチガイだろ。わたしのブログでは、キチガイとは「人を人らしくたらしめる人なるもの」という精神疾患に罹患していない人間たちだ、となる。キチガイは人じゃなくて物だ。物だから人も物として見る。そいつが未去勢者だったなら、「物自体的な物」としてそれを見ている。
だからクマは人を襲い、ライフル男は無差別に人を撃つんだよ。物を本当の物(に親近した物)として見ているから。駅前の混雑を構成する動く石柱どもは、全てクマでありライフル男なんだ。自分も等しく「物自体的な物」であるクマであったりライフル男だったりするその物は、「物自体的な物」である動く石柱たちを襲う。
クマはライフル男はそれを箒で掃いても無駄だということを知っている、心の奥底ではそう思っている。最終的に「物とは支配不可能なんだ」というところに行き着いてしまう。動く石柱群を撤去しても新しい障害物が生じてしまう世界に生きている。クマやライフル男が人を襲うのは、賽の河原で孤児が石を積み重ねているのと同じだ。
でもさ、ここでポイントなのが、動く石柱群をブルドーザーではけるのと、爪やライフルで襲うのって、同様のアクティングアウトだと言えるよな。「襲う」って感じの意味で。「ブルドーザー」も「爪」も「ライフル」も比喩なんだから。言うこと聞かない、つまり支配不可能なクマを撃ち殺すのも同じだ。
要するに、「物は支配できる」という固定観念が無意識にばっちり備わっている人間(=去勢済み主体=正常人)も、「物は支配不可能だ」っていう人間(=未去勢者=わたし語用におけるキチガイ)も、渋谷の駅前で同じような行動を起こすかもしれない、ということだ。
ここなんだよな。最近わたしが引っかかってるのって。どっかの記事にも書いたが、「キチガイの行動学」みたいなもんを考えていると、結果的に正常人と同じような行動になっちゃうことが多いじゃん、って思ったんだわ。これだってそういうことだよな。現場監督がブルドーザーではけさせるのも、クマを撃ち殺すのも、クマが爪で襲うのも、ライフル男がライフルを乱射するのも、同種と言えば同種だろ。「襲う」ってニュアンスで考えれば。違うと言えば違うが。
だけど中身が決定的に違う。シニフィエが違う。
石柱を撤去する現場監督やクマを撃ち殺す猟友会メンバーと、人を襲うクマやライフルを乱射する薬中男とで、見ているものが違う。生きている世界が違う。
ああ、「対人恐怖症」なんて言葉がぽろって出ているから蛇足するなら、どっちのシニフィエで「物として見ているか」って違いは、神経症としての対人恐怖症と、未去勢者(わたし論では統合失調症者、自閉症者、スキゾイドとなる)の対人恐怖症的症状の違いでもある、ってことになるな。「対人」の「人」のシニフィエが違う。
そうなんだよな。アスペルガー症候群者の症状なんてまるっきり神経症なんだもん。これもそう。結果的に正常人と同様になってしまう「キチガイの行動学」。
でも、明らかにシニフィエが違う、って話。ちゃちいくなることを自覚して言うなら、本当に、「見ている世界が違う」。独我論における世界が違う。独我論の文脈で言って「違う世界に生きている」ってことだ。
中二病者は好きそうじゃね、こんなセリフ。「見ている世界が違う」、「違う世界に生きている」。
正常人とキチガイは違う世界を生きている、という意味じゃない。一人一人の見ている世界は違う。一人一人が違う世界を生きている。キチガイはそういう世界を生きている。相手が正常人である場合ももちろん、キチガイ同士であっても別々の世界になる。なのに正常人だけが「みんな同じ世界を生きている」となる。なってしまう。パラノイアの妄想と同じなんだよな。そういう精神疾患なんだよ、(精神医学的な意味で)正常であるということは。
この「一人一人が違う世界を生きている。キチガイはそういう世界を生きている。相手が正常人である時ももちろん、キチガイ同士であっても別々の世界になる。なのに正常人だけが「みんな同じ世界を生きている」となる。なってしまう。」を、先の「石柱を撤去する現場監督」と「クマを撃ち殺す猟友会メンバー」と「人を襲うクマ」と「ライフル男」っていう四つのキャラで言い換えてみよう。
「現場監督」と「猟友会メンバー」はおそらく同じ(と思い込んでいるだけなのだが)世界を生きているだろう。それとは別の世界を「クマ」と「ライフル男」は生きているが、「クマ」と「ライフル男」は同じ世界を生きているわけではない、ということだ。
とはいえ、猟友会メンバーなんかは、言うことを聞かない動物たちと対峙しているんだから、おそらく「支配不可能な物に囲まれた世界」を生きているという意味で、「クマ」や「ライフル男」に若干似た世界を生きていると思われる。都市に生きる一般人なんかよりね。実は現場監督もそうだと思えるんだよな。わたしは。建築現場にもいたことがあるからわかるけど、そこは本当に言うことを聞かない物や自然と対峙し悪戦苦闘している場だ。死と隣り合わせの場。
だけど、猟友会メンバーは森から、現場監督は建築現場から離れれば、そんな世界から逃れられる。日常に戻れる。彼らにとって「支配不可能な物」に囲まれた世界は一部であり、ただの「そういう現場」であり、世界じゃない。一方、「クマ」や「薬中男」は、死と隣り合わせの森や建築現場から逃げられない。一部じゃなくて全てだから逃げられない。そこは「そういう現場」ではなくまさに世界だ。
わかりやすく言えば、キチガイは正常人が非日常だと思っているような日常を生きている、ってことになる。これだとわかりやすいだろ? 非日常が日常になってるのってまさにキチガイじゃん。
わたしも逃げられなかった。一時期「逃げられた」と思ってたんだけどね。社会人やってた頃は。だからわたしにとっては、大人になることこそが現実逃避だと思えるんだよな。屁理屈じゃなくて感覚がそういう感覚なんだ。ここでも「現実」のシニフィエが違うんだよ。
まあ君から見れば「ボクチンが言おうとしていたことをわざわざわかりにくく整理し直しただけじゃねえか」って文章かもしれないが、一応なすりつけとくわ。
いやまあ、ジジェク派すなわちラカン正統派な人なら、「女(ファルスのない人間すなわち未去勢者)は存在しない」ってことになるんだから、「物」のシニフィエが違う人間のことなんか考える必要ないんだけどね。なんせ存在しないわけで。
ジジェクなんて職人技だと思うよ。「女を存在させない言い回し」が。ほんとラカニアンとして正統派だと思う。ラカニアンたちはそう思ってないみたいだけど。
だからジジェクも攻撃しづらい。「うりゃああ」ってならん。だって存在してないんだもんよ、そいつの世界にわたしの思想が。
一方ガタリンとかこっちをダシにしてるでしょ? だから絡まれるんだよ。わたしみたいなのに。
わたしの記事を引用しているわけだから君はわたしに絡んできていることになるが、わたし(という物自体)には触れてないような気がするのよね。絡んできているようで絡んでない。ガタリとかは絡んでないようで絡んできている。そうだよな、『アンチ・オイディプス』でわたしの論に触れてなんかいないわけだから、絡んでないことになる。ジジェクはそのまんま、絡んでいないようで絡んでいないってことだから、わたしから触れる必要が全くないんだ。
ああ、この「絡み」ってヤクザのそれとかお笑いのそれみたいな文脈で理解してね。
お前ってわたしに絡んできてないんだよ、ほんとに。だから「うんこ」にならない。それはそれで困るわ。こんなめんどくさい説明しなきゃなんないから。
絡んでるかもな、って思えるのは「これってさ、「ジェンダー」と同根じゃないかと思うんだよね。」って一箇所のみなんだが、お前が引用した記事における「ジェンダー」ってシニフィアンには深い意味がないので、返答のしようがないんだよな。もしそうなら会話がすれ違っているってことになるのか。すれ違いだから「うんこの投げ合い」にならないのか。
どうでもいいけど文中の「ウワー、モー」って谷岡ヤスジの絵柄でイメージした。
どうでもいいけどお前の文体って語尾に「だよね」をつけるの多いな。友だちをたくさん作ろうと卑屈な笑みを浮かべるガリ勉くんみたいなイメージ。これ嫌いじゃなかったな、ってかいとうせいこうやスチャダラでラップを知ったわたしにとってはドラゴンアッシュみたいなのが「ちげーよなー」なんだよな。でもFIRE BALLみたいなんは好き。ドラゴンアッシュ系とは言わないけど、バイオレンス系、マッチョ系って感じ? 少なくともいとうせいこうやスチャダラって全然マッチョじゃねえだろ?
ところでこのブログそういう言葉を使ってるからよく「そういうのを検索してたんだな、すまんね」って思っちゃうキーワード検索でのアクセスがあるんだが、「沢口靖子 浣腸」ってので来てたのを見てなんつーかかんつーかって思った。確かに「沢口靖子」も「浣腸」も使ってるけどさ。
検索エンジンっておもしろいよね、って話。
「沢口靖子 浣腸」を記事タイトルにしようかと思ったけどいくらなんでもそりゃ遊びすぎなのでやめとく。
あとime.nuから時々飛んでくるんだがそれも怖い。
わたしは渋谷の雑踏にも一人一人人格を認めるよ。そうでなきゃ話が通じない。
その上で、「人格」を物化して、攻撃する。
お前の言う「井」の上にまず乗って、「わたしという「丼」の上の「ヽ」は「ヽ」などではなく、お前らが大地と思っている「井」が乗っている本当の大地だ」って言う。
そうした方が「人格」や「井」は壊れやすいことを経験上知ってるから。
従って、わたしがライフルを乱射するのは、その後になる。今はその前段階、ってこと。
この「人格」や「井」を、わたしはスターンの自己感形成論の文脈で「着ぐるみ」と表現することがあるが、「まずその着ぐるみ脱げよ、お前初めてか?」って阿部さんみたいな感じになるのか。
あ、読み直して気づいたけど、「わたしという「丼」の上の「ヽ」は「ヽ」などではなく、お前らが大地と思っている「井」が乗っている本当の大地だ」って要するに、ラカンも言ってた「構造主義的贈与交換システムの上に取り込まれる交接、つまり、男性的享楽の上に取り込まれるそれ」って奴だよな。お前の言ってた「井」の意味・文脈にもばっちし当てはまる。ラカニアンだなーほんと君って。エセセセセセ(真似てみた)。
日常の一部としての非日常、「井」の中の「ヽ」としてのパトスは、お前らが取り囲んでいるようで、お前らを取り囲んでいるんだよ。まさにラカンの言う「トーラス」すなわちドーナツじゃないか。ドーナツの穴はドーナツの外側の空間でもある。お前たちは自分が穴を取り囲んでいると思っているだけで穴に取り囲まれている。男性的享楽は、構造主義的贈与交換システムは、「井」は、それを取り込んでいると思い込んでいるだけ。日常の上に非日常があるのではなく、非日常という空間の中に日常がある。お前らが日常から抜け出せないからそれを非日常と表現しているだけ。
これが「無限に有限が寄生する」ということだ。
これ別になんにも難しいことじゃないんだよな。犬を飼うのなんてのもそうだ。自然の一部である犬を、自分たちの都合のいいように取り込んでいる。犬は取り込めたと思い込んでいても、同じ自然の一部である台風には翻弄される。犬という物を支配できたと思っていても、犬を構成する量子は不確定性だ。人も不確定性の量子で構成されている物だ。
要するに、ドーナツの生地の部分を生きているか、外側の空間を生きているか、の違いなんだよね。DA・YO・NE。「猟友会メンバー」や「現場監督」は、生地の中から生地の表面に出向いた人たち、ってことになるな。
あ、ちなみに言っておくとわたしは構造主義者だぜ。ドーナツの外側を生きてきたからか、大多数の人間(正常人と限る)の精神において、ドーナツという、「井」という構造があるのがよくわかるから。
わたしは、ラカン的な意味での「存在しないはずの女」だからこそ、「男性的享楽」がどんなものか見える。あ、中坊さんならいちいちこんなこと断らなくてもいいだろうが他の読者のために言っておくなら、ここでの「女」とは「ファルスのない人間」って意味であり、そういう意味では、人間の生物学的な女性でも、その多くはファルスを持っている。つまり「女」じゃない。わたしは一般の女性にも「男性的享楽」を感じることが多い。このブログではそれを「精液」などと呼んだりしている。一般の女性の方が「精液」を撒き散らかしてくることが多い。
要するに、わたしが書く人(正常人)についての論説は、人でなしが見ているような人をシニフィエにしている、ということだ。クマやライフル男から見る人だ。クマやライフル男は、人が生きている場所をずっと観察すれば、「人同士はなんらかのテレパシーを使って行動しているんじゃないか」などと思うかもしれない。ちょうど動物行動学者が蟻や蜂を観察してそんな風に思うごとく。まあ、わたしとクマとライフル男も別々の世界を生きているのが前提だから、どうかわからないけどね。「人とは蟻のようだ」って別に見下してなくてもそう言えるんだよな。そうだろ、動物行動学者は確かに蟻や蜂を見下しているのかもしれないが、逆に、「なんて高度なコミュニケーションツールを持っているんだ」と思っているのかもしれない。その時彼は蟻や蜂をむしろ見上げているだろう。わたしは周りの人間たちを「天使」だと思っている。
こんなこと書きながら言葉にできない身体反応に翻弄されているってのも、お前らの主観世界ではわからないんだろうなー。本当、お前たちの主観世界に、物としての、肉体としてのわたしは存在していない。
まず足元見てごらんよ。お前の体だって量子でできているんだ。