「魔術的思考」
2009/11/26/Thu
死ぬ。いつかは、ってギャグにしておこう。
わたしは多くの他人とシニフィエが違う。
この言葉は強力だ。意味を理解するとこの言葉によって示されるそれは、わたしを炭火で炙っている。遠赤外線。「そうだ、その熱だ、だがお前の発しているその熱をお前は熱く感じているのか?」と。
多分お前らはそう思わないんだろうが、ノエマが自壊する、っつってもわかんないんだろうな。わかりやすく言ったら「キチガイババアが死ぬ死ぬっつってるだけ」になるだろうから言わない。いやそれで正しいんだけどな。そうじゃなくて、お前らの自己防衛機制ってすげえな、ってことだよ。苦痛を伝染させられない。
「死にたい」じゃなくて「死ぬ」なところもポイントなんだがな。まーいいや。
苦痛の伝染に重心を置いたら、「殺してやる」になるのか。
お前らこのブログ読まない方がいいよ。殺意という呪いがかかるから。いやまー鈍感な奴、すなわちいかにも正常人な奴なら防衛できるんだろうけどな。防衛できるから鈍感なんだけどね。
鈍感じゃない奴は読むな。暗黒の夢に飲み込まれちゃうよ。マジモンのパラノイアもパス。こっちはわたしがうぜえから。
魔術的思考です、はい。
おそらく「魔術的思考」のシニフィエも違う。
多くの人たちは、魔術的思考というと精神的なものを想像する。幻想的なものを連想する。
わたしは違う。わたしにとって「魔術的思考」というシニフィアンは物理学に連鎖する。「魔術」とは「物理」なのだ。精神的なものではなく肉体的なものなのだ。
たとえば、好きな相手(呪いたい相手でもいい)に自分の血液を練り込んだチョコクッキーをプレゼントする。これって肉体的で魔術的だろ? チョコなのは血の味をごまかすため。この記事から。
=====
つうか、自分の手が関わった物が、自分という人格なんて関係なく使われていく楽しみって、魔術的思考だと思うんだよな。修羅くんが自作の竹刀をライバルの六三四にプレゼントしたシーンを覚えてたのもそういうのを感じたからかもしれない。
=====
わたしにとっての「魔術的思考」とはそういうものだ。この思考の構造を、どう表現すればいいかで、物理学は非常に的確だった。量子力学はまさにわたしが考えていた魔術的思考そのものだった。この記事のコメント欄から。
=====
どうでもいいけど固体でもすり抜ける感がわたしにはあって困る。「壁があるからそっち行けない」がピンと来ないというと大げさだがそのような感じ。
量子力学とかこの感覚の格好の言い訳にはなったわ。
「固体は固い」っていうのは単にお前らの思い込みだったんじゃんか、ってね。
2009-09-29 火 07:46:24 /URL /脂 /編集
さらに独り言。もうイトウさんとかは読まなくてもいいようなこと。
>「壁があるからそっち行けない」がピンと来ないというと大げさだがそのような感じ。
これを主張するのに、ちょっと知恵をつけ始めたガキんちょ時代なんか、「電気は金属って固体の中を通っていくじゃん」みたいなこと言ってたな。
大人からすれば屁理屈大魔王だ。
屁理屈じゃないんだよな。本当に固体を通り抜ける感覚があったから、なぜみんなにはそれがないのかわからないから、言ってたんだよ。
2009-09-29 火 10:19:03 /URL /脂 /編集
ギャグその3。
>「電気は金属って固体の中を通っていくじゃん」
の続き。
屁理屈大魔王を倒しにきた大人勇者の攻撃。
「お前は電気じゃないだろ」
またちょっと知恵をつけた屁理屈大魔王の反撃。
「原子には全て電子がありますが?」
2009-09-29 火 19:02:05 /URL /脂 /編集
そして屁理屈大魔王は量子力学という最終兵器を手に入れましたとさ。
2009-09-29 火 19:03:47 /URL /脂 /編集
=====
「壁をすり抜ける感覚」なんて魔術的だろ。でも電気なら可能だ。電気だって物だ。わたしにとっての「物」のシニフィエはそういうものだ。
物理学はむしろわたしの魔術的思考を形あるものにしてきた。
逆に言えば、わたしが量子力学の発生以前にこの魔術的思考を開陳していれば、量子力学の予言になっていた、ということでもある。現代風に言うならば、中二病者の戯言が物理学の発展によって証明された、ってことである。まあわたしが量子力学の発生以降に生まれているのは事実なのでそんなことは言わないが。
一応注記しておくが、これは万能感が根拠になっているのではない。「壁をすり抜けられる」などという一部で表象される万能感の維持、などではない。わたしにとって電気とは苦痛そのものだ。癲癇を疑われていたわたしは実感を持ってそう言える。脳内で電気がスパークすることは苦痛である。苦痛を証明することが万能感だと言うなら、「万能感の」シニフィエがそういうものならば、「万能感」でもいい。
この思考の実践が、演劇になるのだろう。この記事から。
=====
大学の専攻は物性物理だった。ある時、量子力学と演劇がわたしの中でがきゅーんと繋がった。マジデ。理屈とかそんなチャチなもんじゃねえ状態だった。
=====
物理とは、わたしという苦痛そのものである物質を証明するアリバイで、演劇がその証拠だったのだ。そのアリバイと証拠で行われる完全犯罪が、「魔術的思考」だ。
わたしにとって魔術的思考とは理系の思考なのだ。
しかしわたしは物理も演劇も手に入れられてない。中途半端なままだ。物理学者でもないしプロの演劇人でもない。いや大道具はプロとしてやってたけど、劇団に所属する学生をプロの人工(「にんく」な)として派遣するのは実はよくあることだ。アル○ザンとか。ちなみにテレビスタジオもやったことあるぜ。『電波少年』なんか三十分とかからずに仕込めた。大掛かりなのは時間かかったけどね。『特命リサーチ200X』とかすごかった。二階部分もちゃんと作ってたし。さすがにそういう金かかるのは二週撮りが普通みたいね。いや何がすごいってテレビのセットってあれ怖いよ。平台縫わないんだぜ? 箱馬の上に平台乗っけるだけ。舞台は釘で縫ったりツカミでつかんだりするだろ? それしないんだ。まじで驚いた。それでもなんとかなるもんなんだよな。へーって思ったわ。ああそうそう今思い出したけど、特番のクイズとか大量の芸能人が出演するのあるよな。あれ楽屋足りないんだわ。常識的に考えたらそうだよなとは思うけど、そういう時って大広間みたいなところを使うんだよね。かといってそこそこ有名な芸能人たちを大部屋役者扱いするわきゃいかない。だからどうするかっていうとな、大道具がパネルおっ立てて小部屋を作るんだよ、大広間に。そこを仮の個人楽屋にするんだ。これマジ話だかんな。特番の大道具ってセット組む以外にそういうこともさせられるんだ。あほみたいだろ? 芸能界ってほんとキチガイの世界なんだ。そんなあほみたいな楽屋は若いアイドルとかが使うんだが、お前らこういう余計な苦労をかけてるってこときちんと自覚しろよな、って思ったわ。でもキンキキッズなんかミュージックステーションの特番イベントで唯一一組だけ大道具部屋にも挨拶しにきてすげえって思った。いやわたしがいなかっただけで他にも来てたのかもしれないけど。ジャニーズってすげえよな、タレントの教育が、ってしみじみ思った。だから微妙にキンキファンだったりする。ちっこかった。二人とも。あとすげえ細かった。おどれーた。テレビに一般人が映るとリアルではそう見えなくてもデブに見えるってあれマジだよ。足とかナグリで叩いたらぽっきりいきそうだったもん。いやバラシとかほんとそんな風にバラすからさ。木足の筋交いとかいちいち釘抜いてらんないから叩いて外す。折れちゃうとだめなんだよ。折れないまま両端の釘で縫った部分が外れないと。折れたら釘のとこが外れないままだったりするし、折れた箇所ってささくれてて危ないだろ。だからナグリの横っ面で叩くんだ。衝突する面積が広くなって圧力が分散するから木材は折れにくくなる。ほんとベテランとか魔法みたいにぽんぽん外していくんだよな。きれいに。とか言いながらそのベテランって本職だと限らないのが大道具のおもしろいところ。某大御所俳優の二世とか、役者やっててテレビでセリフつきの役もらってたりするんだけど、それだけじゃ食えないらしくて大道具やってた。って好きでやってるのかもしんないけど。つかその大御所俳優がえらいわ。甘やかしてないって意味で。そんなわけでその大御所俳優も好感度アップしたという単純なわたしであった。
まあなんつか豆しばの豆知識みたいなもんだとってそんなことどうでもいい。ともかく、プロとしてやっていても、わたしは兵隊だったし、中途半端に終わった。全く演劇と関係ないところに就職したしね。大道具はむしろ、物に翻弄され続けてきたわたしの人生をそうだと証明したようなものだ。
あーそうそうそういう意味でとんねるずとか好きじゃないけどスタッフたちをいじるのは好感持てる。いじり方もいい。スタッフたちを見下していじっているのが。スタッフなんて見下されてナンボだからよ。見下された方がいい給料もらえる。ってお笑いと一緒か。あ、ちょっととんねるず許してやる気持ちになった。
……あ、何言いたいのか忘れた。ってか言いたいことは言えた気もするので、終わり。
この記事の、
=====
機械は故障するのが自然である。故障しないということが不自然なのである。物は言うことを聞かないのが現実である。
=====
って奴、あれ、宮崎駿作品ってよくメカが登場するんだが、彼の描くメカってそんな感じがする。一筋縄じゃ行かない。すぐ故障する。すぐおかしい動作をする。しそう。いや、確かに『ナウシカ』あたりはそうでもない。立派な、おそらくリコールされないようなメカばかりだ。だけど『ラピュタ』のメカはぼろい。すぐ故障しそう。
なので、宮崎は機械の現実を知ってそう、とわたしは推測してしまう。
こういう機械の自然な姿を、現実を描ける作家ってそういないよな。普通の人が機械を描いても、「物は完璧に支配できるはず」という無意識にある確信が漏れてしまう。『スチームボーイ』なんてそうだよな。故障しそうじゃない。故障しない、リコールされないような正規品としてのメカが大量に組み合わさってスチーム城はできている。製品として安心できる。信頼性がある。一方『ラピュタ』の海賊一家の乗る飛行船なんてすぐリコールされてしまいそう。そんな部品ばっかを組み合わせてできている。まさに海賊版の部品ばっかを組み合わせてる、ってつまんねえか。実際乗組員はメンテナンスで毎日走り回ってただろ。ああ、ブリコラージュだな。
機械製造の現場を生きれば「故障しない機械なんてありえない」とわかるはずなんだがな。全ての製品にリコールの可能性がある。被害妄想的かもしれないが、そう思うようになるんだよ。ほんと、「機械は故障するのが自然で、故障しないのが不自然」なんだ。スチーム城とかさすがに何人かの兵隊のっつか部下に当たる設計者がいたんだろうが、そういう人たちはおとーちゃんの機械を信頼しきっている態度に「ちゃんと現場を見ろよハゲ」なんて思ってただろうな。なんかちょこっとそんなシーンなかったっけ。現場の技術者みたいなのがおとーちゃんに報告するようなシーン。自分が関与した建築物でにこやかにテープカットするおえらいさん方を見てたらほんとそんな風に思う。わたしの設計した部品がそいつの頭上に落ちてこねえかな、って。あ、これも魔術的思考よね。っていうか、うわべだけ見てにやついてんじゃねえよ、ちゃんと現場も見ろよ、って感じなんだけど。
要するに、宮崎は「物は言うことを聞かない」ことを知っていそうだが、大友は、頭ではそう思っているのかもしれないけれど、無意識の奥底では「物は完璧に支配できるはず」と思い込んでいそう、ということだ。いや、この二つの作品を比べると、だけどね。とはいえ両者ともテレビアニメレベルのメカなんかよかよっぽどその現実を見ようとしているとは思う。『スチームボーイ』はその細密な描写からそう思える。『ラピュタ』のメカの描写なんて、作られた年代が違うってのもあるが、『スチームボーイ』より粗い。だけどわたしは『ラピュタ』の海賊船の方が機械の現実を描けていると思える。
要するにこの二人が機械論を語ったら、わたし個人は宮崎の方を信頼するだろう、って話にすぎないんだがね。『アンチ・オイディプス』が使う「機械」なんて言葉なんかよりよっぽど宮崎の「機械」のシニフィエの方が納得できる。
これ一応元機械設計者のイメージなわけだから割と信用できると思うぞ。このブログの文章の中では。人を人として見れない人間が語る人のイメージなんか信用できるわきゃないだろ。ところがこの文章は、人でさえ物として見てしまう人間が語る物のイメージなんだもの。
人でさえ物として見てしまう人間なのだが、物を信用しきれてもいない、ってところがミソなのよね。
だから人だって信用できない。当然だ。人間だって、どうあがいても、お前がいくら否認しようとも、物である現実は揺るがない。量子の集合体であることは揺るがない。
また当然、物である自分だって信用できていない。わたしは。
結局、ちょっとこなれた表現をするなら、「人と機械が関わっている光景において、人でさえ機械の一部のように見えるかどうか」という話なんだろうな。『ラピュタ』の海賊船において乗組員は機械の一部だ。仕込みやバラシの光景なんかも、機械とは言えないけど、大道具たちは物に見える。わたしには。わたしも物として動いている。人が物を支配などしていないので、海賊船の乗組員たちは飛行船という機械に支配されている、大道具たちはセットという物に支配されている、とも表現可能な光景。まあ現場の人間にこんなこと言ったら反論されるだろうけどね。「物とは支配可能だ」という固定観念から逃れられないお前たちに向けてわかりやすく説明しようとしてこう言っただけ。支配するとかされるとかじゃない関係なんだよな。
これは、そこで働く人たちが、「物とは信用できない、物とは支配不可能だ」と、頭じゃなくて体で、考えているかどうか、そう思ってしまっているのかどうか、が原因となっていると思える。そういったことを原因としたアクティングアウト。それが『ラピュタ』の海賊船の中であり、仕込みやバラシの現場だ。
ああそうね、『アンチ・オイディプス』における「機械」なんか、そう述べる「語る主体」が「物とは信用できない」と思ってなさそうだから、わたしには嘘臭く聞こえるんだな。信用できないということは警戒しているってことだろ? 彼らという「語る主体」は「機械」に対して全く警戒していない。だからドゥルーズ=ガタリとわたしの「機械」のシニフィエは別物だ、と思える。
そうね、「警戒」。「支配するとかされるとかじゃない関係」ってそういうことだ。動物なんて人間と比べたら周囲を警戒している状態が多いと思われるが、あれどうだよ。動物は周囲の物を支配しているわけじゃない。周囲の物に支配されているわけじゃない。そういうこった。
思考がばらばらだ。君はバラバラハートは赤いバラってなんだっけってトシちゃんか。
最近綾瀬はるかと沢口靖子がだぶる。ってか綾瀬演じるドラマ『JIN -仁-』の咲と沢口演じる『科捜研の女』のマリコがだぶってるだけだが。
「草食系男子」に続き「理系の女」を流行らせようなんて『平凡パンチ』の時代からやってそうなこと(いやごめん『パンチ』にいたことがあるって某編集者を想定して言っているだけ。個人的なイメージ)をテレビでやってたが、あれだよ。咲でありマリコ。リアルの理系女が言うんだから間違いない。
でもこの二人もわたしとは違う。『BONES』のボーンズもそうだが、咲やマリコ側であり、わたしとは違う。いや咲やマリコと比べたらもっと向こうにいそうだ。男性的享楽側に。単に咲やマリコの方がガキだって話にすぎないんだが。
こういう対比をすると、自分はマッドサイエンティストとか、サイコパスの側になるんだよな。自分がそうなりたい、と思っているのではなく、他人事で自分をキャラ化したらどうなるか、って思考実験の結果にすぎないんだけど。演出家の視点で考えて。もちろんキャラ化だからリアルの自分じゃない。そういうキャラが出ても「ここが違う」と思うだろう。『JIN -仁-』なら野風だ。篭の鳥。わたしは自分を篭の中の鳥だと思っているのに、男たちは篭から抜け出ようとわたしという篭の中に入りたがる。それでわたしを見つけて逃げていく。野風なら梅毒に蝕まれた観音様を拝んで逃げていく。家に帰っていく。
わたしがなりたいのは咲やマリコやボーンズなどといったキャラだ。勝手に決めつけないでくれ。その証拠に咲もマリコも誉めてるだろ、このブログで。
実際いるんだよ、こういうタイプ。こういうのが男に好かれる。ブサイクでも。お前らほんとに「ごっこ遊び」だよな、ってしみじみ思う。
ああ羨ましいんだよ、そいつらが。
ゆうこあいこりょうこけいこまちこかずみひろこまゆみ
似たよな名前はいくらもあるのにわたしじゃだめね
綺麗ね可憐ね素直ね比べりゃあの子が天使
泣いても妬いてもあの子にゃなれないわたしじゃだめね
この歌詞そらで書ける自分にワロタ。
男たちが、いや男に限らない、一般的な大人たちが求める幻想と、わたしは常に食い違っている。
そうなりたいと思うが、それは余計な煩わしさを避けたいからだ。
そうなりたいと思うのが原因じゃない。それは結果だ。
だからわたしは一生「あの子」になれない。
そうなりたいと思うのが原因になれば、咲やマリコやボーンズになれるのかもしれない。
あ。あくまで咲やマリコって役は評価している、と繰り返しておいてから言うが、綾瀬も沢口も決して「うまい」役者じゃないんだよな。いや役者の場合「うまい」のって悪い場合もあるんだ。演技がうまいって嘘がうまいってことだろ? だからうますぎると観客は逆に信用できなくなることがある。そういう役者は脇に回される。脇役やるのはうまい役者だってのよく言われるじゃん、こういう合理的理由もあると思うんだ。主役もやってて「うまい」のってそうそういないんだよな。若手なら木村拓哉はうまいと思う。この場合のうまさって「小手先の演技がうまい」って表現になるんだけど。阿部寛もうまい。うまいから嘘に見えるのを楽しんでいる域に達している気がする。唐沢寿明もそうよね。阿部ちゃんが演技派になったきっかけってつかこうへいのメタシアター的作品だから、そういうところから彼の演技論を考えてもおもしろそうだ。藤原竜也くんあたりは微妙。うまいとも言えるしうまくないとも言える。そういう意味で、綾瀬や沢口は演技が「うまくない」、すなわち嘘がうまくなさそうってなる。この「演技がうまくない」=「嘘がうまくなさそう」が「理系の女」ってキャラにたまたまはまった、って気もする。逆説的な要件から咲やマリコは評価できる、ってことだな。
今読み返して思ったんだが、『ラピュタ』の乗組員や大道具だけじゃなく、ホステスもそうだよな、と思った。まあわたしホステスはあくまでバイトだったからとやかく言えないけど。だから以下はあくまでただの印象を根拠にした戯言。
水商売の隠語で客のことを「枝」とかって言うんだよね。客を「物」として見ている。じゃあそのシニフィエは支配可能なのかどうか、って話になるんだが、微妙。ホステスやボーイは客から「物」として見られている。これは大道具なんかより顕著だよな。「物」として扱う態度が水商売の客の方が顕著。大道具や建築現場の職人の相手はまだ「設計図」だからな。その裏に「客」がいる。この「客」たちが「物」として扱う「物」のシニフィエは支配可能な物だ。それも顕著。物の中に物じゃない人格を見出そうとして客はホステスにプロポーズをする。花魁は身請けされる。「支配可能な物」というより「支配可能な人」だな。だから支配できないんだけど。客側自身がそう見てるから。支配し支配されるなんてことこそが幻想で、現実じゃないから、支配しようとしても支配できないって話なんだけどね。
だからこそ水商売人たちは客に物のシニフィアンを当てはめている、となると、支配し支配される関係なんだな。支配されてるから支配し返してやろう、っていうのは「支配」っていう幻想の中での意味でしかない。結局「主人のディスクール」じゃん、って。渋谷に集うコギャルたちと変わらない。うん、実際そうだと思う。バイトレベルのホステス(っていうかホステスって大体バイトだしな)は神経症だ。
だけどね。こう、わたしキャバじゃなくてスナックで働いてたんだけど(キャバも突発でやったことはある)、そこのママとかは神経症じゃないと思う。「主人のディスクール」ではない。
「神経症じゃない」って言ったけど、実際は神経症なんだと思う。つまり正常人だと。好きになった男には素の顔を見せるんだろうね。それを見てたらわたしも「神経症だ」と言えるけど、そうは言えない。わたしがうわべだけしか見てなかったってことだけど、ほんとうわべだけなんだもん。好きになった男になんやかやするってところが想像できないってわけじゃないけど想像しにくい。なよなよって男に甘えるのか男を尻に敷くのか。なんでもありそうだった。全ての予測が可能だから予測不可能だった。パワフルだった。明らかな吃音症の自称暴力団員の常連と取っ組み合いのケンカして追い出したり。暴力団員とか嘘っぱちだって見抜いてたんだろうね。本当に暴力団だったとしても動じないんだろうな。「あんなの飼ってたらおたくの看板に傷がつくよ」ぐらい言いそうだ。ほーんと映画みたいな世界。あ、ごめん、個人的に「役者の勉強」って言い訳でやってたからこういう言い方になっちゃう。「(稽古の)エチュードだよ」って本気で言ってたもん。劇団員には。
何が「主人のディスクール」と違うのか。
やっぱり、「人」を含めた「物」は支配不可能だ、って前提が、彼女にはあったから、って気がする。確かに昔は支配可能だと思っていたのかもしれないけど、世界に対するあきらめ、みたいな。じゃなきゃ夜の人間にならないよな、って。今の女子大生バイト(わたしとかって)じゃなくて、昔ながらの夜の人間ってそういうところがあるのかもしれない。
「枝」なんていつ生えるかどこから生えるかわからない。
そうね、前提として、「支配し支配される関係」なんて嘘っぱちだって部分があるんだな。「嘘」だからそれに乗ってあげよう、って。嘘は優しさで優しさは嘘だから、ってこれはわたし論でむりくりすぎた。
要するに、「主人のディスクール」なんて非現実界という意味で非現実的な想像的かつ象徴的構造(構造主義的な意味での)にすぎないんだけど、非現実という意味で嘘だと思ってそれに乗ってあげてる、ってところが、「主人のディスクール」じゃないんだよね。「主人のディスクール」をしている人たちはその世界が嘘だと気づいていない。上野千鶴子なんかもここに入る。
中坊さんとごちゃごちゃやっててそこで西原理恵子や松浦理英子って名前出したんだけど、この二人もそんな感じがする。スナックのママと似ている。って両方とも「理」って文字が入ってるのな。わたしは入ってないけど。
でも、こういった人たちともわたしは違う気がする。わたしは「それ嘘じゃん」って言う。言ってしまう。何も考えずに、素の顔で。
……まーだからカウンターに顔を叩きつけられるんだろうね。
……あれ? 「嘘だと思ってそれに乗ってあげてる」ってあずまん『動物化するポストモダン』のシニシズムじゃんね。ああそうね、「あきらめ」感は共通してるかも。でも「嘘」に乗って切腹までするんでしょ? あずまんのは。スナックのママはそんなことしねーよ。車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』でもラストで女は心中しないだろ。当然、「嘘」なんだから。意味なんて全て。「嘘」に乗って切腹したりする男は「嘘だ」と頭で思ってるだけ。あずまんの言うシニシズムはそういうもの。「嘘」とわかっていながら「嘘」に重心を置いてしまう悲しい男の性。一方狡猾なテリブルマザーは心中寸前「バーカ」と言って身を翻す。
そういう違い。だから「ほんとうわべだけなんだもん」となるんだよ。あ、ごめん、「「嘘」とわかっていながら「嘘」に重心を置いてしまう悲しい男の性」ってまるっきり中坊さんに当てはまるよな。そうと思って言ったわけじゃないけどそうだねと思った。
『赤目』のヒロインはあとでこんなことを言うんだろうな。
「違うの、その時は本当に心中しようと思ってた。心中してもいいって。でも、なんだか急にバカらしいっていうか、無意味だなーっていうか、そんな風に思えたんだよね。そんな自分にびっくりするほど」
うん、この人も昔ながらの夜の女なんだろう。わたしとは違う。いやわたしもしないと思うけど、「心中してもいい」と思った自分が異物になっていないのが違う気がする。彼女はそれが異物にならない気がする。あのママだってそうだ。好きな男の前での自分が異物じゃないと思う。彼女も。
つか、大道具の話と水商売の話で口調が変わってるのもおもしれえな。まあ書いた時間は離れてるけど。シニフィアンじゃなくてシニフィエにすぐ影響されるんだよな。
わたしって単純。
わたしは多くの他人とシニフィエが違う。
この言葉は強力だ。意味を理解するとこの言葉によって示されるそれは、わたしを炭火で炙っている。遠赤外線。「そうだ、その熱だ、だがお前の発しているその熱をお前は熱く感じているのか?」と。
多分お前らはそう思わないんだろうが、ノエマが自壊する、っつってもわかんないんだろうな。わかりやすく言ったら「キチガイババアが死ぬ死ぬっつってるだけ」になるだろうから言わない。いやそれで正しいんだけどな。そうじゃなくて、お前らの自己防衛機制ってすげえな、ってことだよ。苦痛を伝染させられない。
「死にたい」じゃなくて「死ぬ」なところもポイントなんだがな。まーいいや。
苦痛の伝染に重心を置いたら、「殺してやる」になるのか。
お前らこのブログ読まない方がいいよ。殺意という呪いがかかるから。いやまー鈍感な奴、すなわちいかにも正常人な奴なら防衛できるんだろうけどな。防衛できるから鈍感なんだけどね。
鈍感じゃない奴は読むな。暗黒の夢に飲み込まれちゃうよ。マジモンのパラノイアもパス。こっちはわたしがうぜえから。
魔術的思考です、はい。
おそらく「魔術的思考」のシニフィエも違う。
多くの人たちは、魔術的思考というと精神的なものを想像する。幻想的なものを連想する。
わたしは違う。わたしにとって「魔術的思考」というシニフィアンは物理学に連鎖する。「魔術」とは「物理」なのだ。精神的なものではなく肉体的なものなのだ。
たとえば、好きな相手(呪いたい相手でもいい)に自分の血液を練り込んだチョコクッキーをプレゼントする。これって肉体的で魔術的だろ? チョコなのは血の味をごまかすため。この記事から。
=====
つうか、自分の手が関わった物が、自分という人格なんて関係なく使われていく楽しみって、魔術的思考だと思うんだよな。修羅くんが自作の竹刀をライバルの六三四にプレゼントしたシーンを覚えてたのもそういうのを感じたからかもしれない。
=====
わたしにとっての「魔術的思考」とはそういうものだ。この思考の構造を、どう表現すればいいかで、物理学は非常に的確だった。量子力学はまさにわたしが考えていた魔術的思考そのものだった。この記事のコメント欄から。
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どうでもいいけど固体でもすり抜ける感がわたしにはあって困る。「壁があるからそっち行けない」がピンと来ないというと大げさだがそのような感じ。
量子力学とかこの感覚の格好の言い訳にはなったわ。
「固体は固い」っていうのは単にお前らの思い込みだったんじゃんか、ってね。
2009-09-29 火 07:46:24 /URL /脂 /編集
さらに独り言。もうイトウさんとかは読まなくてもいいようなこと。
>「壁があるからそっち行けない」がピンと来ないというと大げさだがそのような感じ。
これを主張するのに、ちょっと知恵をつけ始めたガキんちょ時代なんか、「電気は金属って固体の中を通っていくじゃん」みたいなこと言ってたな。
大人からすれば屁理屈大魔王だ。
屁理屈じゃないんだよな。本当に固体を通り抜ける感覚があったから、なぜみんなにはそれがないのかわからないから、言ってたんだよ。
2009-09-29 火 10:19:03 /URL /脂 /編集
ギャグその3。
>「電気は金属って固体の中を通っていくじゃん」
の続き。
屁理屈大魔王を倒しにきた大人勇者の攻撃。
「お前は電気じゃないだろ」
またちょっと知恵をつけた屁理屈大魔王の反撃。
「原子には全て電子がありますが?」
2009-09-29 火 19:02:05 /URL /脂 /編集
そして屁理屈大魔王は量子力学という最終兵器を手に入れましたとさ。
2009-09-29 火 19:03:47 /URL /脂 /編集
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「壁をすり抜ける感覚」なんて魔術的だろ。でも電気なら可能だ。電気だって物だ。わたしにとっての「物」のシニフィエはそういうものだ。
物理学はむしろわたしの魔術的思考を形あるものにしてきた。
逆に言えば、わたしが量子力学の発生以前にこの魔術的思考を開陳していれば、量子力学の予言になっていた、ということでもある。現代風に言うならば、中二病者の戯言が物理学の発展によって証明された、ってことである。まあわたしが量子力学の発生以降に生まれているのは事実なのでそんなことは言わないが。
一応注記しておくが、これは万能感が根拠になっているのではない。「壁をすり抜けられる」などという一部で表象される万能感の維持、などではない。わたしにとって電気とは苦痛そのものだ。癲癇を疑われていたわたしは実感を持ってそう言える。脳内で電気がスパークすることは苦痛である。苦痛を証明することが万能感だと言うなら、「万能感の」シニフィエがそういうものならば、「万能感」でもいい。
この思考の実践が、演劇になるのだろう。この記事から。
=====
大学の専攻は物性物理だった。ある時、量子力学と演劇がわたしの中でがきゅーんと繋がった。マジデ。理屈とかそんなチャチなもんじゃねえ状態だった。
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物理とは、わたしという苦痛そのものである物質を証明するアリバイで、演劇がその証拠だったのだ。そのアリバイと証拠で行われる完全犯罪が、「魔術的思考」だ。
わたしにとって魔術的思考とは理系の思考なのだ。
しかしわたしは物理も演劇も手に入れられてない。中途半端なままだ。物理学者でもないしプロの演劇人でもない。いや大道具はプロとしてやってたけど、劇団に所属する学生をプロの人工(「にんく」な)として派遣するのは実はよくあることだ。アル○ザンとか。ちなみにテレビスタジオもやったことあるぜ。『電波少年』なんか三十分とかからずに仕込めた。大掛かりなのは時間かかったけどね。『特命リサーチ200X』とかすごかった。二階部分もちゃんと作ってたし。さすがにそういう金かかるのは二週撮りが普通みたいね。いや何がすごいってテレビのセットってあれ怖いよ。平台縫わないんだぜ? 箱馬の上に平台乗っけるだけ。舞台は釘で縫ったりツカミでつかんだりするだろ? それしないんだ。まじで驚いた。それでもなんとかなるもんなんだよな。へーって思ったわ。ああそうそう今思い出したけど、特番のクイズとか大量の芸能人が出演するのあるよな。あれ楽屋足りないんだわ。常識的に考えたらそうだよなとは思うけど、そういう時って大広間みたいなところを使うんだよね。かといってそこそこ有名な芸能人たちを大部屋役者扱いするわきゃいかない。だからどうするかっていうとな、大道具がパネルおっ立てて小部屋を作るんだよ、大広間に。そこを仮の個人楽屋にするんだ。これマジ話だかんな。特番の大道具ってセット組む以外にそういうこともさせられるんだ。あほみたいだろ? 芸能界ってほんとキチガイの世界なんだ。そんなあほみたいな楽屋は若いアイドルとかが使うんだが、お前らこういう余計な苦労をかけてるってこときちんと自覚しろよな、って思ったわ。でもキンキキッズなんかミュージックステーションの特番イベントで唯一一組だけ大道具部屋にも挨拶しにきてすげえって思った。いやわたしがいなかっただけで他にも来てたのかもしれないけど。ジャニーズってすげえよな、タレントの教育が、ってしみじみ思った。だから微妙にキンキファンだったりする。ちっこかった。二人とも。あとすげえ細かった。おどれーた。テレビに一般人が映るとリアルではそう見えなくてもデブに見えるってあれマジだよ。足とかナグリで叩いたらぽっきりいきそうだったもん。いやバラシとかほんとそんな風にバラすからさ。木足の筋交いとかいちいち釘抜いてらんないから叩いて外す。折れちゃうとだめなんだよ。折れないまま両端の釘で縫った部分が外れないと。折れたら釘のとこが外れないままだったりするし、折れた箇所ってささくれてて危ないだろ。だからナグリの横っ面で叩くんだ。衝突する面積が広くなって圧力が分散するから木材は折れにくくなる。ほんとベテランとか魔法みたいにぽんぽん外していくんだよな。きれいに。とか言いながらそのベテランって本職だと限らないのが大道具のおもしろいところ。某大御所俳優の二世とか、役者やっててテレビでセリフつきの役もらってたりするんだけど、それだけじゃ食えないらしくて大道具やってた。って好きでやってるのかもしんないけど。つかその大御所俳優がえらいわ。甘やかしてないって意味で。そんなわけでその大御所俳優も好感度アップしたという単純なわたしであった。
まあなんつか豆しばの豆知識みたいなもんだとってそんなことどうでもいい。ともかく、プロとしてやっていても、わたしは兵隊だったし、中途半端に終わった。全く演劇と関係ないところに就職したしね。大道具はむしろ、物に翻弄され続けてきたわたしの人生をそうだと証明したようなものだ。
あーそうそうそういう意味でとんねるずとか好きじゃないけどスタッフたちをいじるのは好感持てる。いじり方もいい。スタッフたちを見下していじっているのが。スタッフなんて見下されてナンボだからよ。見下された方がいい給料もらえる。ってお笑いと一緒か。あ、ちょっととんねるず許してやる気持ちになった。
……あ、何言いたいのか忘れた。ってか言いたいことは言えた気もするので、終わり。
この記事の、
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機械は故障するのが自然である。故障しないということが不自然なのである。物は言うことを聞かないのが現実である。
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って奴、あれ、宮崎駿作品ってよくメカが登場するんだが、彼の描くメカってそんな感じがする。一筋縄じゃ行かない。すぐ故障する。すぐおかしい動作をする。しそう。いや、確かに『ナウシカ』あたりはそうでもない。立派な、おそらくリコールされないようなメカばかりだ。だけど『ラピュタ』のメカはぼろい。すぐ故障しそう。
なので、宮崎は機械の現実を知ってそう、とわたしは推測してしまう。
こういう機械の自然な姿を、現実を描ける作家ってそういないよな。普通の人が機械を描いても、「物は完璧に支配できるはず」という無意識にある確信が漏れてしまう。『スチームボーイ』なんてそうだよな。故障しそうじゃない。故障しない、リコールされないような正規品としてのメカが大量に組み合わさってスチーム城はできている。製品として安心できる。信頼性がある。一方『ラピュタ』の海賊一家の乗る飛行船なんてすぐリコールされてしまいそう。そんな部品ばっかを組み合わせてできている。まさに海賊版の部品ばっかを組み合わせてる、ってつまんねえか。実際乗組員はメンテナンスで毎日走り回ってただろ。ああ、ブリコラージュだな。
機械製造の現場を生きれば「故障しない機械なんてありえない」とわかるはずなんだがな。全ての製品にリコールの可能性がある。被害妄想的かもしれないが、そう思うようになるんだよ。ほんと、「機械は故障するのが自然で、故障しないのが不自然」なんだ。スチーム城とかさすがに何人かの兵隊のっつか部下に当たる設計者がいたんだろうが、そういう人たちはおとーちゃんの機械を信頼しきっている態度に「ちゃんと現場を見ろよハゲ」なんて思ってただろうな。なんかちょこっとそんなシーンなかったっけ。現場の技術者みたいなのがおとーちゃんに報告するようなシーン。自分が関与した建築物でにこやかにテープカットするおえらいさん方を見てたらほんとそんな風に思う。わたしの設計した部品がそいつの頭上に落ちてこねえかな、って。あ、これも魔術的思考よね。っていうか、うわべだけ見てにやついてんじゃねえよ、ちゃんと現場も見ろよ、って感じなんだけど。
要するに、宮崎は「物は言うことを聞かない」ことを知っていそうだが、大友は、頭ではそう思っているのかもしれないけれど、無意識の奥底では「物は完璧に支配できるはず」と思い込んでいそう、ということだ。いや、この二つの作品を比べると、だけどね。とはいえ両者ともテレビアニメレベルのメカなんかよかよっぽどその現実を見ようとしているとは思う。『スチームボーイ』はその細密な描写からそう思える。『ラピュタ』のメカの描写なんて、作られた年代が違うってのもあるが、『スチームボーイ』より粗い。だけどわたしは『ラピュタ』の海賊船の方が機械の現実を描けていると思える。
要するにこの二人が機械論を語ったら、わたし個人は宮崎の方を信頼するだろう、って話にすぎないんだがね。『アンチ・オイディプス』が使う「機械」なんて言葉なんかよりよっぽど宮崎の「機械」のシニフィエの方が納得できる。
これ一応元機械設計者のイメージなわけだから割と信用できると思うぞ。このブログの文章の中では。人を人として見れない人間が語る人のイメージなんか信用できるわきゃないだろ。ところがこの文章は、人でさえ物として見てしまう人間が語る物のイメージなんだもの。
人でさえ物として見てしまう人間なのだが、物を信用しきれてもいない、ってところがミソなのよね。
だから人だって信用できない。当然だ。人間だって、どうあがいても、お前がいくら否認しようとも、物である現実は揺るがない。量子の集合体であることは揺るがない。
また当然、物である自分だって信用できていない。わたしは。
結局、ちょっとこなれた表現をするなら、「人と機械が関わっている光景において、人でさえ機械の一部のように見えるかどうか」という話なんだろうな。『ラピュタ』の海賊船において乗組員は機械の一部だ。仕込みやバラシの光景なんかも、機械とは言えないけど、大道具たちは物に見える。わたしには。わたしも物として動いている。人が物を支配などしていないので、海賊船の乗組員たちは飛行船という機械に支配されている、大道具たちはセットという物に支配されている、とも表現可能な光景。まあ現場の人間にこんなこと言ったら反論されるだろうけどね。「物とは支配可能だ」という固定観念から逃れられないお前たちに向けてわかりやすく説明しようとしてこう言っただけ。支配するとかされるとかじゃない関係なんだよな。
これは、そこで働く人たちが、「物とは信用できない、物とは支配不可能だ」と、頭じゃなくて体で、考えているかどうか、そう思ってしまっているのかどうか、が原因となっていると思える。そういったことを原因としたアクティングアウト。それが『ラピュタ』の海賊船の中であり、仕込みやバラシの現場だ。
ああそうね、『アンチ・オイディプス』における「機械」なんか、そう述べる「語る主体」が「物とは信用できない」と思ってなさそうだから、わたしには嘘臭く聞こえるんだな。信用できないということは警戒しているってことだろ? 彼らという「語る主体」は「機械」に対して全く警戒していない。だからドゥルーズ=ガタリとわたしの「機械」のシニフィエは別物だ、と思える。
そうね、「警戒」。「支配するとかされるとかじゃない関係」ってそういうことだ。動物なんて人間と比べたら周囲を警戒している状態が多いと思われるが、あれどうだよ。動物は周囲の物を支配しているわけじゃない。周囲の物に支配されているわけじゃない。そういうこった。
思考がばらばらだ。君はバラバラハートは赤いバラってなんだっけってトシちゃんか。
最近綾瀬はるかと沢口靖子がだぶる。ってか綾瀬演じるドラマ『JIN -仁-』の咲と沢口演じる『科捜研の女』のマリコがだぶってるだけだが。
「草食系男子」に続き「理系の女」を流行らせようなんて『平凡パンチ』の時代からやってそうなこと(いやごめん『パンチ』にいたことがあるって某編集者を想定して言っているだけ。個人的なイメージ)をテレビでやってたが、あれだよ。咲でありマリコ。リアルの理系女が言うんだから間違いない。
でもこの二人もわたしとは違う。『BONES』のボーンズもそうだが、咲やマリコ側であり、わたしとは違う。いや咲やマリコと比べたらもっと向こうにいそうだ。男性的享楽側に。単に咲やマリコの方がガキだって話にすぎないんだが。
こういう対比をすると、自分はマッドサイエンティストとか、サイコパスの側になるんだよな。自分がそうなりたい、と思っているのではなく、他人事で自分をキャラ化したらどうなるか、って思考実験の結果にすぎないんだけど。演出家の視点で考えて。もちろんキャラ化だからリアルの自分じゃない。そういうキャラが出ても「ここが違う」と思うだろう。『JIN -仁-』なら野風だ。篭の鳥。わたしは自分を篭の中の鳥だと思っているのに、男たちは篭から抜け出ようとわたしという篭の中に入りたがる。それでわたしを見つけて逃げていく。野風なら梅毒に蝕まれた観音様を拝んで逃げていく。家に帰っていく。
わたしがなりたいのは咲やマリコやボーンズなどといったキャラだ。勝手に決めつけないでくれ。その証拠に咲もマリコも誉めてるだろ、このブログで。
実際いるんだよ、こういうタイプ。こういうのが男に好かれる。ブサイクでも。お前らほんとに「ごっこ遊び」だよな、ってしみじみ思う。
ああ羨ましいんだよ、そいつらが。
ゆうこあいこりょうこけいこまちこかずみひろこまゆみ
似たよな名前はいくらもあるのにわたしじゃだめね
綺麗ね可憐ね素直ね比べりゃあの子が天使
泣いても妬いてもあの子にゃなれないわたしじゃだめね
この歌詞そらで書ける自分にワロタ。
男たちが、いや男に限らない、一般的な大人たちが求める幻想と、わたしは常に食い違っている。
そうなりたいと思うが、それは余計な煩わしさを避けたいからだ。
そうなりたいと思うのが原因じゃない。それは結果だ。
だからわたしは一生「あの子」になれない。
そうなりたいと思うのが原因になれば、咲やマリコやボーンズになれるのかもしれない。
あ。あくまで咲やマリコって役は評価している、と繰り返しておいてから言うが、綾瀬も沢口も決して「うまい」役者じゃないんだよな。いや役者の場合「うまい」のって悪い場合もあるんだ。演技がうまいって嘘がうまいってことだろ? だからうますぎると観客は逆に信用できなくなることがある。そういう役者は脇に回される。脇役やるのはうまい役者だってのよく言われるじゃん、こういう合理的理由もあると思うんだ。主役もやってて「うまい」のってそうそういないんだよな。若手なら木村拓哉はうまいと思う。この場合のうまさって「小手先の演技がうまい」って表現になるんだけど。阿部寛もうまい。うまいから嘘に見えるのを楽しんでいる域に達している気がする。唐沢寿明もそうよね。阿部ちゃんが演技派になったきっかけってつかこうへいのメタシアター的作品だから、そういうところから彼の演技論を考えてもおもしろそうだ。藤原竜也くんあたりは微妙。うまいとも言えるしうまくないとも言える。そういう意味で、綾瀬や沢口は演技が「うまくない」、すなわち嘘がうまくなさそうってなる。この「演技がうまくない」=「嘘がうまくなさそう」が「理系の女」ってキャラにたまたまはまった、って気もする。逆説的な要件から咲やマリコは評価できる、ってことだな。
今読み返して思ったんだが、『ラピュタ』の乗組員や大道具だけじゃなく、ホステスもそうだよな、と思った。まあわたしホステスはあくまでバイトだったからとやかく言えないけど。だから以下はあくまでただの印象を根拠にした戯言。
水商売の隠語で客のことを「枝」とかって言うんだよね。客を「物」として見ている。じゃあそのシニフィエは支配可能なのかどうか、って話になるんだが、微妙。ホステスやボーイは客から「物」として見られている。これは大道具なんかより顕著だよな。「物」として扱う態度が水商売の客の方が顕著。大道具や建築現場の職人の相手はまだ「設計図」だからな。その裏に「客」がいる。この「客」たちが「物」として扱う「物」のシニフィエは支配可能な物だ。それも顕著。物の中に物じゃない人格を見出そうとして客はホステスにプロポーズをする。花魁は身請けされる。「支配可能な物」というより「支配可能な人」だな。だから支配できないんだけど。客側自身がそう見てるから。支配し支配されるなんてことこそが幻想で、現実じゃないから、支配しようとしても支配できないって話なんだけどね。
だからこそ水商売人たちは客に物のシニフィアンを当てはめている、となると、支配し支配される関係なんだな。支配されてるから支配し返してやろう、っていうのは「支配」っていう幻想の中での意味でしかない。結局「主人のディスクール」じゃん、って。渋谷に集うコギャルたちと変わらない。うん、実際そうだと思う。バイトレベルのホステス(っていうかホステスって大体バイトだしな)は神経症だ。
だけどね。こう、わたしキャバじゃなくてスナックで働いてたんだけど(キャバも突発でやったことはある)、そこのママとかは神経症じゃないと思う。「主人のディスクール」ではない。
「神経症じゃない」って言ったけど、実際は神経症なんだと思う。つまり正常人だと。好きになった男には素の顔を見せるんだろうね。それを見てたらわたしも「神経症だ」と言えるけど、そうは言えない。わたしがうわべだけしか見てなかったってことだけど、ほんとうわべだけなんだもん。好きになった男になんやかやするってところが想像できないってわけじゃないけど想像しにくい。なよなよって男に甘えるのか男を尻に敷くのか。なんでもありそうだった。全ての予測が可能だから予測不可能だった。パワフルだった。明らかな吃音症の自称暴力団員の常連と取っ組み合いのケンカして追い出したり。暴力団員とか嘘っぱちだって見抜いてたんだろうね。本当に暴力団だったとしても動じないんだろうな。「あんなの飼ってたらおたくの看板に傷がつくよ」ぐらい言いそうだ。ほーんと映画みたいな世界。あ、ごめん、個人的に「役者の勉強」って言い訳でやってたからこういう言い方になっちゃう。「(稽古の)エチュードだよ」って本気で言ってたもん。劇団員には。
何が「主人のディスクール」と違うのか。
やっぱり、「人」を含めた「物」は支配不可能だ、って前提が、彼女にはあったから、って気がする。確かに昔は支配可能だと思っていたのかもしれないけど、世界に対するあきらめ、みたいな。じゃなきゃ夜の人間にならないよな、って。今の女子大生バイト(わたしとかって)じゃなくて、昔ながらの夜の人間ってそういうところがあるのかもしれない。
「枝」なんていつ生えるかどこから生えるかわからない。
そうね、前提として、「支配し支配される関係」なんて嘘っぱちだって部分があるんだな。「嘘」だからそれに乗ってあげよう、って。嘘は優しさで優しさは嘘だから、ってこれはわたし論でむりくりすぎた。
要するに、「主人のディスクール」なんて非現実界という意味で非現実的な想像的かつ象徴的構造(構造主義的な意味での)にすぎないんだけど、非現実という意味で嘘だと思ってそれに乗ってあげてる、ってところが、「主人のディスクール」じゃないんだよね。「主人のディスクール」をしている人たちはその世界が嘘だと気づいていない。上野千鶴子なんかもここに入る。
中坊さんとごちゃごちゃやっててそこで西原理恵子や松浦理英子って名前出したんだけど、この二人もそんな感じがする。スナックのママと似ている。って両方とも「理」って文字が入ってるのな。わたしは入ってないけど。
でも、こういった人たちともわたしは違う気がする。わたしは「それ嘘じゃん」って言う。言ってしまう。何も考えずに、素の顔で。
……まーだからカウンターに顔を叩きつけられるんだろうね。
……あれ? 「嘘だと思ってそれに乗ってあげてる」ってあずまん『動物化するポストモダン』のシニシズムじゃんね。ああそうね、「あきらめ」感は共通してるかも。でも「嘘」に乗って切腹までするんでしょ? あずまんのは。スナックのママはそんなことしねーよ。車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』でもラストで女は心中しないだろ。当然、「嘘」なんだから。意味なんて全て。「嘘」に乗って切腹したりする男は「嘘だ」と頭で思ってるだけ。あずまんの言うシニシズムはそういうもの。「嘘」とわかっていながら「嘘」に重心を置いてしまう悲しい男の性。一方狡猾なテリブルマザーは心中寸前「バーカ」と言って身を翻す。
そういう違い。だから「ほんとうわべだけなんだもん」となるんだよ。あ、ごめん、「「嘘」とわかっていながら「嘘」に重心を置いてしまう悲しい男の性」ってまるっきり中坊さんに当てはまるよな。そうと思って言ったわけじゃないけどそうだねと思った。
『赤目』のヒロインはあとでこんなことを言うんだろうな。
「違うの、その時は本当に心中しようと思ってた。心中してもいいって。でも、なんだか急にバカらしいっていうか、無意味だなーっていうか、そんな風に思えたんだよね。そんな自分にびっくりするほど」
うん、この人も昔ながらの夜の女なんだろう。わたしとは違う。いやわたしもしないと思うけど、「心中してもいい」と思った自分が異物になっていないのが違う気がする。彼女はそれが異物にならない気がする。あのママだってそうだ。好きな男の前での自分が異物じゃないと思う。彼女も。
つか、大道具の話と水商売の話で口調が変わってるのもおもしれえな。まあ書いた時間は離れてるけど。シニフィアンじゃなくてシニフィエにすぐ影響されるんだよな。
わたしって単純。