宗教とは正常人製造機である。
2009/11/28/Sat
ブログで時々宗教などに触れているが、なんていうかな、わたしは新興宗教も一つの宗教だと思って見ているのね。古来からあるたとえば三大宗教も新興宗教も平等に見ている。
それはわたしの生い立ちに原因があると思う。わたしの祖父は某新興宗教の幹部だった。オウムじゃねえよ? んでも、祖父の家にはなんか粘っこいものを常に噴出させているロボットみたいなジジババが集まっていたりしていたんだが、仏教やキリスト教なんてところも、その「ロボットが粘っこいものを噴出させている」感が全く同じだったのね。キリスト教は中学か高校時代、知り合いがキリスト教者で教会に行ったことがある。プロテスタントだな。何ヶ月かは通った。あれ、一ヶ月くらいだっけか。忘れた。なんか自分勝手に後ろめたかったので親には言ってない。多分。仏教はもいっこの家の方がそうだった。確認したら浄土真宗だって。でも空海のお札とか買ってた記憶あんだけどな。
祖父の宗教が世間から異端視されているというのは、中学生くらいには知っていたように思う。両親は普通に無宗教な人たちなのでわたしにはなんの関係もなかったけど、「そういうもんなんだー」くらいに思っていたように思う。
なので、わたしから見れば、仏教者もキリスト教者も新興宗教の教徒も、等しく精神疾患者に見えたんだな。今だから「精神疾患」なんて言葉を使っているけど、要するに「キチガイ」だな。キチガイそのものなんだよ。わたしにとっては。三大宗教だろうが新興宗教だろうが、等しくキチガイ製造機だったんだ。
んでも、大人になるにつれ、わたしの方が「キチガイ」のシニフィエに当てはまっているのがわかった。演劇学んだのが一番大きかったんだな。「なんだ世間でキチガイって言われてるのわたしの方じゃん」って。演出家視点で、「離見の見」的にそう思えた。なら最初からそう言ってくれよ、そしたらいろんな間違い起こらなかったろうに、などと今でも思う。って祖父はそれっぽいこと言ってたの思い出したりして「おー」とか思うんだけどね。この記事から。
=====
祖父は、わたしにこう言った。
「お前は、他の子と仲良くしちゃいけない」
多分、幼稚園か小学校で周りの子とトラブルを起こし、それで説教された時の言葉だろうと辻褄合わせ的に思うが、正直覚えていない。言葉だけをよく覚えている。
この言葉が世間から見たらおかしいものであることに気づいたのは、小学生の頃だったか。マンガとかでよくある、キチガイっぽい子について親がよく言う、「あの子と遊んじゃいけないよ」っていうのの逆バージョンだな、とか思った記憶がある。それだけだが。
=====
んでこう思ったんだ。
「キチガイかどうかの判断って、要は多数決じゃね? まともな宗教かやばい宗教かが多数決なのと同じように」
うん、この仮説は今でも採用している。わたしの思想において。
子供の頃に感じた「キチガイ製造機」を「去勢済み主体製造機」すなわち「正常人製造機」って言い換えてるだけ。わたしの思想って、ほんと子供の頃から考えていたことを翻訳しているだけなんだよ。「粘っこいもの」ってのはこのブログにおける「精液」だな。うん、すげーしっくりくる。
この「ロボットが粘っこいものを噴出させている」感ってまさに笙野頼子の『レストレス・ドリーム』なんだけどな。なんでああなったのやら。
ま、多分傍から見たらとっても現代人ライクな宗教に対する態度ではあるんだろうな。だから別にとやかく言わない。このブログ言語なら「うんこは投げない」。宗教については。わたしが煩わしくないから。いやまあ「うんこ投げられてる」って感じる宗教徒もいるかもしれないけど。
ねえ、教えてよ。
どうすればいいのか。どうすれば正常人になれるのか。「粘っこいもの」を感じずに済むのか。
ねえ。
わたしを納得させて。
昔読んだSFマンガで、植物が進化した生物で、見た目は人間にそっくりだけど、会話はできない、っていうのがいて、核戦争だかが起きて、主人公とその生物がシェルターの中で暮らすことになるんだけど、食料が足りなくなって、主人公は空腹で荒れるんだが、その植物人間がどっかから食料を持ってきて、最初はうまいと思ったけど飽きてきて、だけどずっとそればっかり持ってきて、部屋を覗くと針金みたいになった植物人間がいて、自分が食べていたのは植物人間の体だった、っていうのがあった。それみたいだと思った。「身を削って」って意味が劣化している。世間では。
シニフィエを正常人たちに捧げている。わたしの肉を献上している。わたしは喰われてる。
『アンチ・オイディプス』における「脱領土」や「再領土化」ってこういうことな気がする。シニフィエが領土。前記事の肩車されることが「再領土化」か。
何やってんだわたしは。魔術的思考にもほどがある。
株日記にでもするか。いやそもそもブログなんかしなけりゃいい。
何が変わるんだ。
どうすれば正常人になれるのか。わたしの離見の見が間違っていることになるのか。
満員電車に押し出されているようなものだ。乗り込もうとして肉が喰われる。「脱領土」は世界中に満員電車を作ろうとしていることだ。ノマドの居場所を奪うことだ。
バカだ。お前ら本当にバカだ。なんでそんなに自己正当化だけが発達しているんだ。
このブログにおける「正常であることとは精神疾患である」って精神分析的文言は、わたしは頭だけで、つまり理屈を敷衍しただけでそう言っているんじゃなく、こういったシニフィエがちゃんとあるんだよ、って記事なわけか。中学生、高校生の頃なんて心理学の「し」の字も知らなかったしな。ばりばり理系だったからそんなのバカにすらしてた。「お前ら理屈に弱いからってそういうのやってるだけだろ」って。実際数学できない奴の方が心理学とかに興味持つ傾向はあるしね。この傾向は文系にもある。だから工学系はともかく基礎科学分野の人たちが文系学問や心理学をバカにするのってわかるんだよね。心理学なんて全然「理」じゃねえじゃん、ってわたしは今でも思っている。って物理学なんてのも全然「理」じゃねえんだけどな。人間関係で自分のロジックを変えたりすることが普通にある。それは現場に行くとよくわかる。人間はどうあがいても完全に「理」に染まれない。物理学も人間が作っている限り完全に「理」にならない。これもわたしはちゃんとしたシニフィエをもって言える。んで、なんで人間は「理」に染まれないのか、を考える際、心理学なんかじゃなく精神分析学が道具として有効だったわけだな。もちろんわたし個人にとってってことで別にお前らに薦めているのではない。
それはともかく、要するにわたしの主観世界において子供の頃からあったシニフィエに、たまたま精神分析的文言たる「正常であることとは精神疾患である」って言葉が当てはまっただけなんだよな。そこいらの精神分析厨とはそこが違うってこった。このことって「わたしは精神分析論を道具として利用しているだけ」って表現にもなるんだよな。笙野がわたしのことを「自分(わたし)の論に利用するために自分(笙野な)の作品を道具として利用している」みたいなこと言ってたけど、それは当たってるんだよね。だからこれについては反論していない。読んでないってのは事実じゃないけど。わたしの心的事実とは反するという意味で。ごめん、客観的事実なんてあほらしいと思ってる人間だからこういう言い方になる。理系学問なんて客観的事実を神様にした宗教にいればそうもなるさ。理系学問もわたしにとっては等しくカルト宗教だ。いや別に三大宗教と等しくしてあげてもいいんだけど。ま、だからインテルの分解くんみたいなアッピールになるんだろうな。理系学問教、客観的事実教へ対するやんわりとしたカウンターとも解釈できなくはない。
っていうか、客観的事実って理系学問以外にも世間的に結構いい位置にいる神様だから、いい道具ではあると思うよ。魔術的思考の。
あー笙野の「道具として利用しているから読んでないんだろう」って思考回路も「物は支配可能だ」って固定観念があるからか。道具として利用するならそれを知らなきゃいけないに決まってるじゃん。物なんて原則として支配不可能なんだから。剣道だって竹刀は道具だけど、きちんと分解できるし組み立てられるよ、わたし。剣道部の人なら知ってると思うけど、四つの竹材で竹刀はできてるんだけど、一本の材が割れたからって全部交換するのって非合理的だろ? だから部室には竹材を入れる箱があったり(うちは男子部室にしかなくてよくそれ口実にして覗いた)、竹刀の部品がそこらに転がってた。文字通り。床にツカとかナカユイとか落ちてたもん。すみません先生。そういった落ちている部品だけで竹刀作れるかってやって実際に作ったことあるんだけど、やっぱ使えないんだよな。軽すぎたり(ささくれを削るので中古部品を組み立てるとどうしても軽くなってしまう)ツカの長さがしっくりこなかったり。ナカユイとかケンサキは新品使った方がいいよ。安いし。やっぱすぐ破れる。あ、そういえばナグリも作ったことあるわ。さすがに頭の部分は買ったけど、柄は自分で削った。ほら一般女子と比べても体力テストで級外になる人間だから、既製品だと逆に振り回されちゃうんだよ。こちとら握力や腕力のなさはハンパじゃないんだ(っていばることじゃない)。「このナグリカワイー」とか言われたよ。ナグリすらカワイーってなるスタッフの世界。普通に渋谷ハンズで売ってるよ。完成品じゃなくて部品が。あーなんか分解くんの記事でPC組み立てをバカにしてるような箇所あったけど、こういう意味でバカにしてないよ、と断っておく。びくびくしすぎだわたし。
既製品じゃなくてこういった部品を組み立てるのがブリコラージュなんだよな。ご冥福は祈りません。要するにブリコラージュで作った道具は決して設計図通りに作った道具より性能がいいわけではない、ということを言いたかったのね。ここんとこ勘違いしているバカ構造主義者が多いので釘刺しとく。だからレヴィの理論だって(正常人にとっての)「道具」としては使えないんだ。使えない物(つまり「支配不可能な物」だよな)と対峙してなんやかやする作業の方を意味しているんだよ、これは。語義通りに。使える物ができるか使えない物ができるかはただの結果だ。そんなの時と場合による。そんな判断人による。部族による。そんなんじゃないところを言いたかったんじゃないか。その時自分も等しく物になっている。茂みの中で迷っている自分はただの物になっている。正常人というキチガイが考えるような「物」ではなく、本当の、ただそうであるだけの物に。そういった状態の自分をレヴィは「小道」と表現したと思うんだが、どうよ?
これ数年前から言ってるんだけどな。某チャットでも話したことがある。「巷の構造主義者はバカばっかだよ。ブリコラージュがどういうものか(つまりシニフィエだよな)わかってない」って。
ほんと正常人って煩悩そのものだよな。
わたしの肉を返せ。返さなくていい。もっと喰え。たらふく喰え。わたしの肉はお前の体内で異物を産むだろう。癌細胞だ。
さあ、どんどんお食べ。
異物に翻弄されろ。
母乳でさえ異物であった生まれたばかりの頃を思い出せ。「始原の暴力」を思い出せ。
=====
「赤ちゃんはそれまでへその緒で栄養をもらっていたわけだから、初めのうちはうまく摂取できないのも当然だと思いません?」
=====
なぜお前らはこの言葉を笑いながら言えるのだ?
あ、ブリコラージュのwikipedia読んでたらおもしろいのがあったので。カルチュラル・スタディーズんとこ。
=====
例えばパンク・ロックやパンク・ファッションなどのパンク・ムーブメントでは、主流文化では単一の意味しか持たない(あるいは意味を持たない)対象物が、新しい意味、あるいは通常の意味を転覆させる意味を獲得している。安全ピンやチェーンは、パンク文化ではアクセサリーであり反逆的な意味を付与されている。
=====
なんで安全ピンが「反逆」のシンボルになるのか考えてたら、わたしもやってたことに気づいた。いやパンクファッションなんてだせえって思ってた人だけど。なんせ小劇場人ですから。パンク=ギャグだったハイレグジーザスとかは好きだった。
んで安全ピンなんだけどね。これやってたんだわ。いや小劇場とかって、昔の駒場小劇場とか特にそうなんだけど、幕をどうこうするのに安全ピンは必要不可欠なのね。駒小はすごく遮光が悪いから、常に安全ピンを携帯して、幕の隙間が開いてるのを見つけたら縫ったりしてたんだよ。おっきな劇場の幕だとバトンに結びつけるひもがついているんだけど、小劇場でもついているのはあるんだけど、駒小の照明バトンなんか学生が自分で組んだりするもんだから、ひもとかつけてらんないんだよね。当然そんなだから幕は早く痛む。ふちとかぼろぼろ。
これだと、「幕はここに結びつけるもんだ」っていう風にひもがついている幕と、そんなのない駒小の幕なら、駒小の幕の方が、それをなんやかやする方がブリコラージュなんだよ。駒小(野田が作った昔の奴ね。蓮實が作った今の奴は知らない。行ったことすらない)はまさしくブリコラージュの作業場だったんだ。それに全く理解を示さなかった蓮實は本当にレヴィ読んでるの? って思ったくらいだ。
まあ確かに危険な場所ではあったんだがね。よくナグリとかラチェットが落ちてきたよ。わたしの知り合い頭にナグリが落ちてきたことがある。でも救急車呼べないんだよね。そんなことがあったとか言ったらそれこそ蓮實の格好の攻撃材料になるから。観客が怪我してもおんなじ。劇団員が車で病院に送ってった。メットかぶればいいって話でもないんだよな。これは大劇場もおんなじだけど、ああいうところでメットかぶっても今度はメットが落ちるんだよ。建築現場の鉄骨とはスケールが違う。スケールが小さいからよく物にぶつかる。だからメットは落ちる。でも大劇場なんかはメットかぶった方がいいとは思うし、最近はそういう風になってるらしいけどね。ライトブリッジも安全帯用のパイプがついている。今では。まあスタッフにしてみれば煩わしさが増えただけなんだよね。死ぬのが当たり前の現場だと自覚してやってるわけだから、そういうのって単なる煩わしさになる。
なんだろうな、こういう「真の3K職場」とでも言うのかな、そういうのって人類に必要だと思うんだけどなあ。必要悪みたいなんで。こういうのがなくなったらブリコラージュは絶滅するだろうね。
まあそんなところだからシモネタにもこと欠かず、楽屋なんて連れ込み宿状態で(げほげほ)。
ほんと「駒小関係者なんてみんな動物だ」と思ったもん。『動物化するポストモダン』の「動物」とシニフィエが全く違う。レヴィの「野生」の方がしっくりくる。だからちょっとでもましなプロの世界にってあんまり変わらなかったけど。
ま、あれぶっ壊そうとした蓮實の気持ちもわかんなくない、ってことだ。ほんと死人出ても不思議じゃなかったし。デカ台の下には遊眠社の人の死体があるって笑い話になってたわ。
でも蓮實のポストモダン論も一切信用できなくなったけどね。わたしは奴は詐欺師だと思ってるよ。中身を知らないでうわべだけで物を語る学者バカ。学者バカを芸にしているのはまあ評価してやってもよい、くらい。中沢新一なんかはこの芸人魂を確実に受け継いでるよな。
んでなんだ、安全ピンか。あー単にそれギャグでアクセサリーにしてたことがあるってだけ。安全ピンをチェーンみたいにして「ネックレスー」とかやってたもん。「反逆」というより揶揄だな。
根っこがそういう揶揄っていうか(まさしく動物が人間の真似をするという意味で)猿真似だって気づかずにパンクファッションやってる奴らはバカだよ。だからだせえと思ったんだろうな。少なくとも猿真似は「反逆」などではない。
安全ピンよく口にくわえてたな。金属の味が好きだった。まさにおしゃぶり状態。釘は油がついてるので体に悪いって聞いたからあんましなかったけど。
そういえばあずまんも駒場で芝居やったことあるらしいが、文三劇場だろwww お前らの小学生レベルの箱庭乗っけるために駒小関係者がどれだけ苦労してるか知っててやってたのかい? あ、実行委員の人とかは手伝いにきてたな。お前が実行委員やってたらすまなんだ。
今思い出したけど、安全ピンをネックレスにするっての、実用面からだったんだよな。ポケットに入れてると、取り出す時他のがこぼれてしまう。なもんでTシャツの裾とかにつけて、さらにそこにいくつかぶら下げてたりしたんだよね。これだと必要な時に一個だけ外せばいい。でもこれでもだめなんだよ。舞台ができあがって、袖とか狭いもんだから、幕とか衣装とかに引っかかる。だからネックレス状にして、その一つ一つにぶら下げておけば、袖で動く時はすぐ外せるっしょ? よく髪が引っかかったけど。
駒小は安全ピン使用率高いからそうなんだけど、普通の小劇場はそうでもない。でもガムテとかは同じようによく使う。で、どうしてたかっていうと、ひも(いくらでもあったからね)で通して、肩からかけてたりしたんだよね。さすがにそれをおしゃれだなんて思わない。でも、中劇場とかになると色とりどりのガムテを使うから、おしゃれっちゃーおしゃれだよなーとうっすら思ったことはある。
んだな。ガチ袋ぶら下げて街歩いている人とかかっこいいと思ったよ。一瞬だけ。どっかでも書いたけど、徹夜で作業して、朝きったねーかっこのままおしゃれなカフェで普通の社会人たちに混じってご飯食べてるのとか、「あ、今わたしあれだ、ガチ袋下げて歩いている人だ」と思ったんだよな。
「反逆」するならここまでやれよ、って話か。ってこれも「反逆」じゃないよな。すまなんだ。
「反逆」じゃないから、ガチ袋はきちんとバッグに入れて運ぼうね、って話か。プロになって怒られたわ。「汚いかっこで帰るな」って。だからプロではちゃんと着替えを持ってった。
そうなんだよな。隠すことまでなしにしたらパンクになるんだよな。そうじゃないんだよなー。
別にラカン文脈の「ヴェール」は否定しないよ、って話。劇場論ならプロセニアムアーチの存在すら否定するわけじゃない、ってことか。
うん、ファルスそのものが幻想だと言ってるわけじゃないんだ。ファルスは器質因でもあると思っている。ただ、統合失調症や鬱病などと同様に、内因だと思ってくれ、と言っているのか。
統合失調症も病気なら、正常であること(ファルスによって人は正常になるわけだからね)も病気だと考えてくれ、ということか。
幻想は幻想として現実にある。
ファルスを根拠にしていないファロセントリスム。サントーム、軸のない柵。
あーこの言い方でもだめなんだろうなー。
そっか、劇場の舞台裏はみんながみんな常時テンパってる状態で、舞台裏じゃなくてもテンパってるわたしがそこにいても目立たなかった、ってことか。
そのテンパることが、ブリコラージュだと。
そりゃそうだよな、使えない物つまり支配不可能な物に囲まれているわけだから、いわば迷子状態であり、テンパるに決まっている。
理屈的にそうなのに、なんでそうならないの? ブリコルール=テンパってる人ってなってないじゃん。
ねえ、なんで? なんでお前らはテンパらないの?
「心の底では物は支配可能だと確信してるからだよお」(森のクマさんみたいな声で)。
それはわたしの生い立ちに原因があると思う。わたしの祖父は某新興宗教の幹部だった。オウムじゃねえよ? んでも、祖父の家にはなんか粘っこいものを常に噴出させているロボットみたいなジジババが集まっていたりしていたんだが、仏教やキリスト教なんてところも、その「ロボットが粘っこいものを噴出させている」感が全く同じだったのね。キリスト教は中学か高校時代、知り合いがキリスト教者で教会に行ったことがある。プロテスタントだな。何ヶ月かは通った。あれ、一ヶ月くらいだっけか。忘れた。なんか自分勝手に後ろめたかったので親には言ってない。多分。仏教はもいっこの家の方がそうだった。確認したら浄土真宗だって。でも空海のお札とか買ってた記憶あんだけどな。
祖父の宗教が世間から異端視されているというのは、中学生くらいには知っていたように思う。両親は普通に無宗教な人たちなのでわたしにはなんの関係もなかったけど、「そういうもんなんだー」くらいに思っていたように思う。
なので、わたしから見れば、仏教者もキリスト教者も新興宗教の教徒も、等しく精神疾患者に見えたんだな。今だから「精神疾患」なんて言葉を使っているけど、要するに「キチガイ」だな。キチガイそのものなんだよ。わたしにとっては。三大宗教だろうが新興宗教だろうが、等しくキチガイ製造機だったんだ。
んでも、大人になるにつれ、わたしの方が「キチガイ」のシニフィエに当てはまっているのがわかった。演劇学んだのが一番大きかったんだな。「なんだ世間でキチガイって言われてるのわたしの方じゃん」って。演出家視点で、「離見の見」的にそう思えた。なら最初からそう言ってくれよ、そしたらいろんな間違い起こらなかったろうに、などと今でも思う。って祖父はそれっぽいこと言ってたの思い出したりして「おー」とか思うんだけどね。この記事から。
=====
祖父は、わたしにこう言った。
「お前は、他の子と仲良くしちゃいけない」
多分、幼稚園か小学校で周りの子とトラブルを起こし、それで説教された時の言葉だろうと辻褄合わせ的に思うが、正直覚えていない。言葉だけをよく覚えている。
この言葉が世間から見たらおかしいものであることに気づいたのは、小学生の頃だったか。マンガとかでよくある、キチガイっぽい子について親がよく言う、「あの子と遊んじゃいけないよ」っていうのの逆バージョンだな、とか思った記憶がある。それだけだが。
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んでこう思ったんだ。
「キチガイかどうかの判断って、要は多数決じゃね? まともな宗教かやばい宗教かが多数決なのと同じように」
うん、この仮説は今でも採用している。わたしの思想において。
子供の頃に感じた「キチガイ製造機」を「去勢済み主体製造機」すなわち「正常人製造機」って言い換えてるだけ。わたしの思想って、ほんと子供の頃から考えていたことを翻訳しているだけなんだよ。「粘っこいもの」ってのはこのブログにおける「精液」だな。うん、すげーしっくりくる。
この「ロボットが粘っこいものを噴出させている」感ってまさに笙野頼子の『レストレス・ドリーム』なんだけどな。なんでああなったのやら。
ま、多分傍から見たらとっても現代人ライクな宗教に対する態度ではあるんだろうな。だから別にとやかく言わない。このブログ言語なら「うんこは投げない」。宗教については。わたしが煩わしくないから。いやまあ「うんこ投げられてる」って感じる宗教徒もいるかもしれないけど。
ねえ、教えてよ。
どうすればいいのか。どうすれば正常人になれるのか。「粘っこいもの」を感じずに済むのか。
ねえ。
わたしを納得させて。
昔読んだSFマンガで、植物が進化した生物で、見た目は人間にそっくりだけど、会話はできない、っていうのがいて、核戦争だかが起きて、主人公とその生物がシェルターの中で暮らすことになるんだけど、食料が足りなくなって、主人公は空腹で荒れるんだが、その植物人間がどっかから食料を持ってきて、最初はうまいと思ったけど飽きてきて、だけどずっとそればっかり持ってきて、部屋を覗くと針金みたいになった植物人間がいて、自分が食べていたのは植物人間の体だった、っていうのがあった。それみたいだと思った。「身を削って」って意味が劣化している。世間では。
シニフィエを正常人たちに捧げている。わたしの肉を献上している。わたしは喰われてる。
『アンチ・オイディプス』における「脱領土」や「再領土化」ってこういうことな気がする。シニフィエが領土。前記事の肩車されることが「再領土化」か。
何やってんだわたしは。魔術的思考にもほどがある。
株日記にでもするか。いやそもそもブログなんかしなけりゃいい。
何が変わるんだ。
どうすれば正常人になれるのか。わたしの離見の見が間違っていることになるのか。
満員電車に押し出されているようなものだ。乗り込もうとして肉が喰われる。「脱領土」は世界中に満員電車を作ろうとしていることだ。ノマドの居場所を奪うことだ。
バカだ。お前ら本当にバカだ。なんでそんなに自己正当化だけが発達しているんだ。
このブログにおける「正常であることとは精神疾患である」って精神分析的文言は、わたしは頭だけで、つまり理屈を敷衍しただけでそう言っているんじゃなく、こういったシニフィエがちゃんとあるんだよ、って記事なわけか。中学生、高校生の頃なんて心理学の「し」の字も知らなかったしな。ばりばり理系だったからそんなのバカにすらしてた。「お前ら理屈に弱いからってそういうのやってるだけだろ」って。実際数学できない奴の方が心理学とかに興味持つ傾向はあるしね。この傾向は文系にもある。だから工学系はともかく基礎科学分野の人たちが文系学問や心理学をバカにするのってわかるんだよね。心理学なんて全然「理」じゃねえじゃん、ってわたしは今でも思っている。って物理学なんてのも全然「理」じゃねえんだけどな。人間関係で自分のロジックを変えたりすることが普通にある。それは現場に行くとよくわかる。人間はどうあがいても完全に「理」に染まれない。物理学も人間が作っている限り完全に「理」にならない。これもわたしはちゃんとしたシニフィエをもって言える。んで、なんで人間は「理」に染まれないのか、を考える際、心理学なんかじゃなく精神分析学が道具として有効だったわけだな。もちろんわたし個人にとってってことで別にお前らに薦めているのではない。
それはともかく、要するにわたしの主観世界において子供の頃からあったシニフィエに、たまたま精神分析的文言たる「正常であることとは精神疾患である」って言葉が当てはまっただけなんだよな。そこいらの精神分析厨とはそこが違うってこった。このことって「わたしは精神分析論を道具として利用しているだけ」って表現にもなるんだよな。笙野がわたしのことを「自分(わたし)の論に利用するために自分(笙野な)の作品を道具として利用している」みたいなこと言ってたけど、それは当たってるんだよね。だからこれについては反論していない。読んでないってのは事実じゃないけど。わたしの心的事実とは反するという意味で。ごめん、客観的事実なんてあほらしいと思ってる人間だからこういう言い方になる。理系学問なんて客観的事実を神様にした宗教にいればそうもなるさ。理系学問もわたしにとっては等しくカルト宗教だ。いや別に三大宗教と等しくしてあげてもいいんだけど。ま、だからインテルの分解くんみたいなアッピールになるんだろうな。理系学問教、客観的事実教へ対するやんわりとしたカウンターとも解釈できなくはない。
っていうか、客観的事実って理系学問以外にも世間的に結構いい位置にいる神様だから、いい道具ではあると思うよ。魔術的思考の。
あー笙野の「道具として利用しているから読んでないんだろう」って思考回路も「物は支配可能だ」って固定観念があるからか。道具として利用するならそれを知らなきゃいけないに決まってるじゃん。物なんて原則として支配不可能なんだから。剣道だって竹刀は道具だけど、きちんと分解できるし組み立てられるよ、わたし。剣道部の人なら知ってると思うけど、四つの竹材で竹刀はできてるんだけど、一本の材が割れたからって全部交換するのって非合理的だろ? だから部室には竹材を入れる箱があったり(うちは男子部室にしかなくてよくそれ口実にして覗いた)、竹刀の部品がそこらに転がってた。文字通り。床にツカとかナカユイとか落ちてたもん。すみません先生。そういった落ちている部品だけで竹刀作れるかってやって実際に作ったことあるんだけど、やっぱ使えないんだよな。軽すぎたり(ささくれを削るので中古部品を組み立てるとどうしても軽くなってしまう)ツカの長さがしっくりこなかったり。ナカユイとかケンサキは新品使った方がいいよ。安いし。やっぱすぐ破れる。あ、そういえばナグリも作ったことあるわ。さすがに頭の部分は買ったけど、柄は自分で削った。ほら一般女子と比べても体力テストで級外になる人間だから、既製品だと逆に振り回されちゃうんだよ。こちとら握力や腕力のなさはハンパじゃないんだ(っていばることじゃない)。「このナグリカワイー」とか言われたよ。ナグリすらカワイーってなるスタッフの世界。普通に渋谷ハンズで売ってるよ。完成品じゃなくて部品が。あーなんか分解くんの記事でPC組み立てをバカにしてるような箇所あったけど、こういう意味でバカにしてないよ、と断っておく。びくびくしすぎだわたし。
既製品じゃなくてこういった部品を組み立てるのがブリコラージュなんだよな。ご冥福は祈りません。要するにブリコラージュで作った道具は決して設計図通りに作った道具より性能がいいわけではない、ということを言いたかったのね。ここんとこ勘違いしているバカ構造主義者が多いので釘刺しとく。だからレヴィの理論だって(正常人にとっての)「道具」としては使えないんだ。使えない物(つまり「支配不可能な物」だよな)と対峙してなんやかやする作業の方を意味しているんだよ、これは。語義通りに。使える物ができるか使えない物ができるかはただの結果だ。そんなの時と場合による。そんな判断人による。部族による。そんなんじゃないところを言いたかったんじゃないか。その時自分も等しく物になっている。茂みの中で迷っている自分はただの物になっている。正常人というキチガイが考えるような「物」ではなく、本当の、ただそうであるだけの物に。そういった状態の自分をレヴィは「小道」と表現したと思うんだが、どうよ?
これ数年前から言ってるんだけどな。某チャットでも話したことがある。「巷の構造主義者はバカばっかだよ。ブリコラージュがどういうものか(つまりシニフィエだよな)わかってない」って。
ほんと正常人って煩悩そのものだよな。
わたしの肉を返せ。返さなくていい。もっと喰え。たらふく喰え。わたしの肉はお前の体内で異物を産むだろう。癌細胞だ。
さあ、どんどんお食べ。
異物に翻弄されろ。
母乳でさえ異物であった生まれたばかりの頃を思い出せ。「始原の暴力」を思い出せ。
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「赤ちゃんはそれまでへその緒で栄養をもらっていたわけだから、初めのうちはうまく摂取できないのも当然だと思いません?」
=====
なぜお前らはこの言葉を笑いながら言えるのだ?
あ、ブリコラージュのwikipedia読んでたらおもしろいのがあったので。カルチュラル・スタディーズんとこ。
=====
例えばパンク・ロックやパンク・ファッションなどのパンク・ムーブメントでは、主流文化では単一の意味しか持たない(あるいは意味を持たない)対象物が、新しい意味、あるいは通常の意味を転覆させる意味を獲得している。安全ピンやチェーンは、パンク文化ではアクセサリーであり反逆的な意味を付与されている。
=====
なんで安全ピンが「反逆」のシンボルになるのか考えてたら、わたしもやってたことに気づいた。いやパンクファッションなんてだせえって思ってた人だけど。なんせ小劇場人ですから。パンク=ギャグだったハイレグジーザスとかは好きだった。
んで安全ピンなんだけどね。これやってたんだわ。いや小劇場とかって、昔の駒場小劇場とか特にそうなんだけど、幕をどうこうするのに安全ピンは必要不可欠なのね。駒小はすごく遮光が悪いから、常に安全ピンを携帯して、幕の隙間が開いてるのを見つけたら縫ったりしてたんだよ。おっきな劇場の幕だとバトンに結びつけるひもがついているんだけど、小劇場でもついているのはあるんだけど、駒小の照明バトンなんか学生が自分で組んだりするもんだから、ひもとかつけてらんないんだよね。当然そんなだから幕は早く痛む。ふちとかぼろぼろ。
これだと、「幕はここに結びつけるもんだ」っていう風にひもがついている幕と、そんなのない駒小の幕なら、駒小の幕の方が、それをなんやかやする方がブリコラージュなんだよ。駒小(野田が作った昔の奴ね。蓮實が作った今の奴は知らない。行ったことすらない)はまさしくブリコラージュの作業場だったんだ。それに全く理解を示さなかった蓮實は本当にレヴィ読んでるの? って思ったくらいだ。
まあ確かに危険な場所ではあったんだがね。よくナグリとかラチェットが落ちてきたよ。わたしの知り合い頭にナグリが落ちてきたことがある。でも救急車呼べないんだよね。そんなことがあったとか言ったらそれこそ蓮實の格好の攻撃材料になるから。観客が怪我してもおんなじ。劇団員が車で病院に送ってった。メットかぶればいいって話でもないんだよな。これは大劇場もおんなじだけど、ああいうところでメットかぶっても今度はメットが落ちるんだよ。建築現場の鉄骨とはスケールが違う。スケールが小さいからよく物にぶつかる。だからメットは落ちる。でも大劇場なんかはメットかぶった方がいいとは思うし、最近はそういう風になってるらしいけどね。ライトブリッジも安全帯用のパイプがついている。今では。まあスタッフにしてみれば煩わしさが増えただけなんだよね。死ぬのが当たり前の現場だと自覚してやってるわけだから、そういうのって単なる煩わしさになる。
なんだろうな、こういう「真の3K職場」とでも言うのかな、そういうのって人類に必要だと思うんだけどなあ。必要悪みたいなんで。こういうのがなくなったらブリコラージュは絶滅するだろうね。
まあそんなところだからシモネタにもこと欠かず、楽屋なんて連れ込み宿状態で(げほげほ)。
ほんと「駒小関係者なんてみんな動物だ」と思ったもん。『動物化するポストモダン』の「動物」とシニフィエが全く違う。レヴィの「野生」の方がしっくりくる。だからちょっとでもましなプロの世界にってあんまり変わらなかったけど。
ま、あれぶっ壊そうとした蓮實の気持ちもわかんなくない、ってことだ。ほんと死人出ても不思議じゃなかったし。デカ台の下には遊眠社の人の死体があるって笑い話になってたわ。
でも蓮實のポストモダン論も一切信用できなくなったけどね。わたしは奴は詐欺師だと思ってるよ。中身を知らないでうわべだけで物を語る学者バカ。学者バカを芸にしているのはまあ評価してやってもよい、くらい。中沢新一なんかはこの芸人魂を確実に受け継いでるよな。
んでなんだ、安全ピンか。あー単にそれギャグでアクセサリーにしてたことがあるってだけ。安全ピンをチェーンみたいにして「ネックレスー」とかやってたもん。「反逆」というより揶揄だな。
根っこがそういう揶揄っていうか(まさしく動物が人間の真似をするという意味で)猿真似だって気づかずにパンクファッションやってる奴らはバカだよ。だからだせえと思ったんだろうな。少なくとも猿真似は「反逆」などではない。
安全ピンよく口にくわえてたな。金属の味が好きだった。まさにおしゃぶり状態。釘は油がついてるので体に悪いって聞いたからあんましなかったけど。
そういえばあずまんも駒場で芝居やったことあるらしいが、文三劇場だろwww お前らの小学生レベルの箱庭乗っけるために駒小関係者がどれだけ苦労してるか知っててやってたのかい? あ、実行委員の人とかは手伝いにきてたな。お前が実行委員やってたらすまなんだ。
今思い出したけど、安全ピンをネックレスにするっての、実用面からだったんだよな。ポケットに入れてると、取り出す時他のがこぼれてしまう。なもんでTシャツの裾とかにつけて、さらにそこにいくつかぶら下げてたりしたんだよね。これだと必要な時に一個だけ外せばいい。でもこれでもだめなんだよ。舞台ができあがって、袖とか狭いもんだから、幕とか衣装とかに引っかかる。だからネックレス状にして、その一つ一つにぶら下げておけば、袖で動く時はすぐ外せるっしょ? よく髪が引っかかったけど。
駒小は安全ピン使用率高いからそうなんだけど、普通の小劇場はそうでもない。でもガムテとかは同じようによく使う。で、どうしてたかっていうと、ひも(いくらでもあったからね)で通して、肩からかけてたりしたんだよね。さすがにそれをおしゃれだなんて思わない。でも、中劇場とかになると色とりどりのガムテを使うから、おしゃれっちゃーおしゃれだよなーとうっすら思ったことはある。
んだな。ガチ袋ぶら下げて街歩いている人とかかっこいいと思ったよ。一瞬だけ。どっかでも書いたけど、徹夜で作業して、朝きったねーかっこのままおしゃれなカフェで普通の社会人たちに混じってご飯食べてるのとか、「あ、今わたしあれだ、ガチ袋下げて歩いている人だ」と思ったんだよな。
「反逆」するならここまでやれよ、って話か。ってこれも「反逆」じゃないよな。すまなんだ。
「反逆」じゃないから、ガチ袋はきちんとバッグに入れて運ぼうね、って話か。プロになって怒られたわ。「汚いかっこで帰るな」って。だからプロではちゃんと着替えを持ってった。
そうなんだよな。隠すことまでなしにしたらパンクになるんだよな。そうじゃないんだよなー。
別にラカン文脈の「ヴェール」は否定しないよ、って話。劇場論ならプロセニアムアーチの存在すら否定するわけじゃない、ってことか。
うん、ファルスそのものが幻想だと言ってるわけじゃないんだ。ファルスは器質因でもあると思っている。ただ、統合失調症や鬱病などと同様に、内因だと思ってくれ、と言っているのか。
統合失調症も病気なら、正常であること(ファルスによって人は正常になるわけだからね)も病気だと考えてくれ、ということか。
幻想は幻想として現実にある。
ファルスを根拠にしていないファロセントリスム。サントーム、軸のない柵。
あーこの言い方でもだめなんだろうなー。
そっか、劇場の舞台裏はみんながみんな常時テンパってる状態で、舞台裏じゃなくてもテンパってるわたしがそこにいても目立たなかった、ってことか。
そのテンパることが、ブリコラージュだと。
そりゃそうだよな、使えない物つまり支配不可能な物に囲まれているわけだから、いわば迷子状態であり、テンパるに決まっている。
理屈的にそうなのに、なんでそうならないの? ブリコルール=テンパってる人ってなってないじゃん。
ねえ、なんで? なんでお前らはテンパらないの?
「心の底では物は支配可能だと確信してるからだよお」(森のクマさんみたいな声で)。