芸術至上主義
2006/11/08/Wed
19世紀フランス。1814年ナポレオン失脚からの王政復古、七月革命、二月革命で帝政に逆戻りし、ナポレオンの甥は1870年に失脚する。
そんな時代の芸術はどうだったであろうか。
当時のフランスは「芸術」ブームだった。「芸術」「芸術家」という「名詞」が一般市民に浸透し、自称「芸術家」が巷に沸きかえり、国家もその思想を容認した。
そんな中、1835年ある文芸雑誌で、テオフィール・ゴーティエが「芸術のための芸術」という思想を宣言する。これが「芸術至上主義」と呼ばれる、時代性の強い一つのトレンドである。
「芸術至上主義」と銘は打ってはいるが、文芸がメインなのだ。文芸としては、ロマン主義からレアリスムへの移行時期とも言えるかもしれない。
しかし、逆説的にこの時期から1860年ぐらいまでは、フランスは普遍的な文芸作品を、一部を除いて生み出せなかった。つまりこの世代はその前後と比して不作の時期とも言えるのだ。
これは、現代のオタク文化と非常に似通っている点があるように私には思える。
オタキング岡田斗司夫氏の区分によれば、ヤマト・ガンダム世代の第一世代、エヴァンゲリオン時代の第二世代、そして現代の「萌え」時代の第三世代とあるらしい。
ここ数年、電車男やメイド喫茶やアキバがマスコミに取り上げられることにより、第一、第二世代の時代と比べ、「オタク」という「名詞」は急速に一般に浸透している。
そんな中、ライトノベルという文芸ジャンルでは、オタク文化のための小説、「オタク文化のためのオタク的作品」を量産している。
このことと、19世紀フランスの時流を鑑み、現状そして今後はオタク文化として不作の時期になるのではなかろうか、という暴論的な推論を仮定してみよう。
まず私は、ライトノベルレーベルガガガ文庫HPでの東氏の対談が思い浮かんだ。ここで東氏の発言ではないが、「マトリョーシカ状態」「縮小再生産」という言葉に注目したい。これはまさに「オタク文化のためのオタク的作品」を乱造することで、時流としての不作の時期になってしまうという流れを見事に一語で表現できている言葉だと思う。
また、オタク文化の主要メディアであるアニメを考えれば、エヴァンゲリオン以降、オタク文化全体を左右するような、社会が目を留めるほどの大きなムーブメントを起こす作品が生まれていないことも事実である。
要約しよう。マスコミ的な、ある「言葉」のみが拡がる形で、表現におけるムーブメントがあったとする。そのムーブメントに呼応して、「表現者の卵」とも言うべきピラミッド構造の最下層を支える人間が急激に増える。しかしその結果は、その表現ジャンルにおいて必ずしも幸福な結果をもたらすとは限らないのだ。
もちろん19世紀フランスと単純比較すれば、社会情勢、情報技術の進歩などといった特筆すべき相違点はあると思う。オタク文化についてはこの情報化社会のせいで「オタク」という名詞が一人歩きしているとも思える。また情報技術の発達のお陰で、不作の時代というものは、19世紀フランスと比して、年数的にそんなに長く続かないものとも予測できる。
私なんかはオタク傾向はあると思っているが、最近のオタク文化は一般化しているようで排他傾向にあるように思えてしまう。それを読み解くために19世紀フランスの「芸術至上主義」を挙げてみたのだが、どうでしたでしょうか……。
そんな時代の芸術はどうだったであろうか。
当時のフランスは「芸術」ブームだった。「芸術」「芸術家」という「名詞」が一般市民に浸透し、自称「芸術家」が巷に沸きかえり、国家もその思想を容認した。
そんな中、1835年ある文芸雑誌で、テオフィール・ゴーティエが「芸術のための芸術」という思想を宣言する。これが「芸術至上主義」と呼ばれる、時代性の強い一つのトレンドである。
「芸術至上主義」と銘は打ってはいるが、文芸がメインなのだ。文芸としては、ロマン主義からレアリスムへの移行時期とも言えるかもしれない。
しかし、逆説的にこの時期から1860年ぐらいまでは、フランスは普遍的な文芸作品を、一部を除いて生み出せなかった。つまりこの世代はその前後と比して不作の時期とも言えるのだ。
これは、現代のオタク文化と非常に似通っている点があるように私には思える。
オタキング岡田斗司夫氏の区分によれば、ヤマト・ガンダム世代の第一世代、エヴァンゲリオン時代の第二世代、そして現代の「萌え」時代の第三世代とあるらしい。
ここ数年、電車男やメイド喫茶やアキバがマスコミに取り上げられることにより、第一、第二世代の時代と比べ、「オタク」という「名詞」は急速に一般に浸透している。
そんな中、ライトノベルという文芸ジャンルでは、オタク文化のための小説、「オタク文化のためのオタク的作品」を量産している。
このことと、19世紀フランスの時流を鑑み、現状そして今後はオタク文化として不作の時期になるのではなかろうか、という暴論的な推論を仮定してみよう。
まず私は、ライトノベルレーベルガガガ文庫HPでの東氏の対談が思い浮かんだ。ここで東氏の発言ではないが、「マトリョーシカ状態」「縮小再生産」という言葉に注目したい。これはまさに「オタク文化のためのオタク的作品」を乱造することで、時流としての不作の時期になってしまうという流れを見事に一語で表現できている言葉だと思う。
また、オタク文化の主要メディアであるアニメを考えれば、エヴァンゲリオン以降、オタク文化全体を左右するような、社会が目を留めるほどの大きなムーブメントを起こす作品が生まれていないことも事実である。
要約しよう。マスコミ的な、ある「言葉」のみが拡がる形で、表現におけるムーブメントがあったとする。そのムーブメントに呼応して、「表現者の卵」とも言うべきピラミッド構造の最下層を支える人間が急激に増える。しかしその結果は、その表現ジャンルにおいて必ずしも幸福な結果をもたらすとは限らないのだ。
もちろん19世紀フランスと単純比較すれば、社会情勢、情報技術の進歩などといった特筆すべき相違点はあると思う。オタク文化についてはこの情報化社会のせいで「オタク」という名詞が一人歩きしているとも思える。また情報技術の発達のお陰で、不作の時代というものは、19世紀フランスと比して、年数的にそんなに長く続かないものとも予測できる。
私なんかはオタク傾向はあると思っているが、最近のオタク文化は一般化しているようで排他傾向にあるように思えてしまう。それを読み解くために19世紀フランスの「芸術至上主義」を挙げてみたのだが、どうでしたでしょうか……。