独裁スイッチ
2009/12/02/Wed
わかってるふりをすれば、ちょっとした揚げ足を取ったりして、人を見下してくる。見下されるのはよくもないけどまあいい。それがどういう意味かわかれば。重要度としてそっちのが先。わたしの予測では、要するに「わかってないじゃんwww」ってことだろ?
「わかってない」と言えば、「嘘つけお前はわかっているはず」と言われる。お前も正常人じゃないかと。
どうすればいいんだよ。
お前ら一人残らず死ねよ。
お前らがいるからわたしは病んだんだよ。
お前らなんか一人残らずいなくなればいい。
ドラえもんの「独裁スイッチ」だと? そりゃあそれまでいた周囲の人間が急にいなくなるんだから、環境が急変するという意味で拒否反応は出るだろうな。しかし数日過ごしてみて、「なんだこっちの方が生きやすいじゃないか」と思うかもしれないだろ。確かあっちの世界って衣食住の心配はないんだよな。そういう設定だったよな。のび太は少なくとも一週間はあそこで過ごさせるべきだった。そうしないと、「ほらやっぱり君は他者を必要としているんだよ」という実験結果にならない。その拒否反応は環境の急変によるものだったかもしれない。
あ、いや、わたしの予測ではのび太は一週間とかさみしさで死んじゃいそうだけどな。依存症のケはある。ジャイアンとの関係などDVの構図が当てはまらなくない。連載当初はそういう「依存が過剰なキモイ子供」って風な描写をしていたように思う。それが段々と正常になっていく様なんかを描きたかったのかもしれない。だからのび太という個体に対するその結論はまあそれでいい。
だけどそれが全人類に適用するはずもないよな。キチガイも人類に含めれば。わたしがキチガイに含まれるかどうかなど関係なく。
お前らどこまで自分に都合よく物事を考えれば気が済むんだ。どれだけ世界を自分に都合よく改竄すれば気が済むんだ。
お前らなんか死ね。一人残らず死ね。
その罪を暴き出してやる。
お前らの正常さそのものが罪であることを暴き出してやる。
一生かかっても。
わたしが死んでも。
怨霊としてこの世に残ってやる。
そしてお前らの「美」や「愛」や「正義」そのものが罪であることを証明してやる。
わたしは恨みそのものだ。人なるものへの恨みがわたしの存在だ。
お前らを殺してやる。
お前らの薄汚い表皮を剥ぎ取ってやる。
「依存が過剰なキモイ子供」で、依存が過剰じゃない場合ののび太っての考えたら、なんだ魔太郎じゃんって気づいた。あーAはFと比べたら確かにこっち側の臭いはする。もしかしたらAはのび太の共依存的性質を理解できなくて、「自分ののび太はこうなんだけどなあ」的なところがあったのかもしれない、なんて妄想して連載開始時期調べたら『ドラえもん』の二年後なのな。いや別にだからわたしの仮説が正しいなんてアホなことは言わんが。
魔太郎なら独裁スイッチのあの世界に、ほっといたらいつまでもいそうじゃない? そうでもないか。
独裁スイッチを押した後の一人きりの世界で、人は拒否反応を起こす。しかしその拒否反応は、当該ストーリーで謳い上げている「ほらやっぱり君は他者を求めているんだよ」なんて結論と直接に結びつかない。これを実験だと考えれば、方法として不充分なものであり、その結論は捏造と言わざるを得ない。
これも最近わたしが引っかかっている「「キチガイの行動学」を考えると結果的に正常人と同様の言動となる」という印象(この記事やこの記事)と符号する。魔太郎を仮にキチガイ(すなわちこのブログにおいては未去勢者)だとし、のび太を正常人(すなわちこのブログにおいては去勢済み主体)だとすれば、魔太郎ものび太も、最初は等しく誰もいない一人きりの世界に拒否反応を示すだろう。
しかし、その内容は全く別物である。
それなのに正常人たちは「ほーら、魔太郎くんも拒否反応を示したじゃない。彼も「恨み」だとかなんだかんだ言ってもやっぱり他者を求めているのね」などという風に考えてしまう。「私と同じように」といやらしい笑みを浮かべながら。傲慢な笑み。征服者の笑み。
なるほど。ガタリが生きていた頃の精神分析も同様だったかもしれない。言動が同じだからと言って全てにエディプスコンプレックスを当てはめていたのかもしれない。だから『アンチ・オイディプス』のような論が形成されたと。
それならば、ガタリは分裂症者(当該著作においては自閉症も含まれることになっている)をダシにしなければならなかったのだ。むしろ。
ならばなぜあのような未去勢者の主観世界を誤読させるような言い方をしたのだろう。
簡単である。ガタリは去勢済み主体であるため、未去勢者の主観世界を絶対的に理解できないからだ。
とはいえ確かに彼の論は、クラインと同レベルに未去勢者の主観世界に肉薄してるとは言える。
「そこまできといてなんでこんな簡単な間違い犯すんだよ」というのがわたしの率直な感想だ。このこともクラインと同様である。
分裂分析は社会にしか適用しないことを言明している。これは、彼の未去勢な主観世界に対する恐れの症状化だと、わたしは解釈している。いわばガタリは最後の最後でのび太になってしまっている。ってそもそものび太顔だよな。いやらしい顔。
だからガタリも死ね。もう死んでるけど。
「わかってない」と言えば、「嘘つけお前はわかっているはず」と言われる。お前も正常人じゃないかと。
どうすればいいんだよ。
お前ら一人残らず死ねよ。
お前らがいるからわたしは病んだんだよ。
お前らなんか一人残らずいなくなればいい。
ドラえもんの「独裁スイッチ」だと? そりゃあそれまでいた周囲の人間が急にいなくなるんだから、環境が急変するという意味で拒否反応は出るだろうな。しかし数日過ごしてみて、「なんだこっちの方が生きやすいじゃないか」と思うかもしれないだろ。確かあっちの世界って衣食住の心配はないんだよな。そういう設定だったよな。のび太は少なくとも一週間はあそこで過ごさせるべきだった。そうしないと、「ほらやっぱり君は他者を必要としているんだよ」という実験結果にならない。その拒否反応は環境の急変によるものだったかもしれない。
あ、いや、わたしの予測ではのび太は一週間とかさみしさで死んじゃいそうだけどな。依存症のケはある。ジャイアンとの関係などDVの構図が当てはまらなくない。連載当初はそういう「依存が過剰なキモイ子供」って風な描写をしていたように思う。それが段々と正常になっていく様なんかを描きたかったのかもしれない。だからのび太という個体に対するその結論はまあそれでいい。
だけどそれが全人類に適用するはずもないよな。キチガイも人類に含めれば。わたしがキチガイに含まれるかどうかなど関係なく。
お前らどこまで自分に都合よく物事を考えれば気が済むんだ。どれだけ世界を自分に都合よく改竄すれば気が済むんだ。
お前らなんか死ね。一人残らず死ね。
その罪を暴き出してやる。
お前らの正常さそのものが罪であることを暴き出してやる。
一生かかっても。
わたしが死んでも。
怨霊としてこの世に残ってやる。
そしてお前らの「美」や「愛」や「正義」そのものが罪であることを証明してやる。
わたしは恨みそのものだ。人なるものへの恨みがわたしの存在だ。
お前らを殺してやる。
お前らの薄汚い表皮を剥ぎ取ってやる。
「依存が過剰なキモイ子供」で、依存が過剰じゃない場合ののび太っての考えたら、なんだ魔太郎じゃんって気づいた。あーAはFと比べたら確かにこっち側の臭いはする。もしかしたらAはのび太の共依存的性質を理解できなくて、「自分ののび太はこうなんだけどなあ」的なところがあったのかもしれない、なんて妄想して連載開始時期調べたら『ドラえもん』の二年後なのな。いや別にだからわたしの仮説が正しいなんてアホなことは言わんが。
魔太郎なら独裁スイッチのあの世界に、ほっといたらいつまでもいそうじゃない? そうでもないか。
独裁スイッチを押した後の一人きりの世界で、人は拒否反応を起こす。しかしその拒否反応は、当該ストーリーで謳い上げている「ほらやっぱり君は他者を求めているんだよ」なんて結論と直接に結びつかない。これを実験だと考えれば、方法として不充分なものであり、その結論は捏造と言わざるを得ない。
これも最近わたしが引っかかっている「「キチガイの行動学」を考えると結果的に正常人と同様の言動となる」という印象(この記事やこの記事)と符号する。魔太郎を仮にキチガイ(すなわちこのブログにおいては未去勢者)だとし、のび太を正常人(すなわちこのブログにおいては去勢済み主体)だとすれば、魔太郎ものび太も、最初は等しく誰もいない一人きりの世界に拒否反応を示すだろう。
しかし、その内容は全く別物である。
それなのに正常人たちは「ほーら、魔太郎くんも拒否反応を示したじゃない。彼も「恨み」だとかなんだかんだ言ってもやっぱり他者を求めているのね」などという風に考えてしまう。「私と同じように」といやらしい笑みを浮かべながら。傲慢な笑み。征服者の笑み。
なるほど。ガタリが生きていた頃の精神分析も同様だったかもしれない。言動が同じだからと言って全てにエディプスコンプレックスを当てはめていたのかもしれない。だから『アンチ・オイディプス』のような論が形成されたと。
それならば、ガタリは分裂症者(当該著作においては自閉症も含まれることになっている)をダシにしなければならなかったのだ。むしろ。
ならばなぜあのような未去勢者の主観世界を誤読させるような言い方をしたのだろう。
簡単である。ガタリは去勢済み主体であるため、未去勢者の主観世界を絶対的に理解できないからだ。
とはいえ確かに彼の論は、クラインと同レベルに未去勢者の主観世界に肉薄してるとは言える。
「そこまできといてなんでこんな簡単な間違い犯すんだよ」というのがわたしの率直な感想だ。このこともクラインと同様である。
分裂分析は社会にしか適用しないことを言明している。これは、彼の未去勢な主観世界に対する恐れの症状化だと、わたしは解釈している。いわばガタリは最後の最後でのび太になってしまっている。ってそもそものび太顔だよな。いやらしい顔。
だからガタリも死ね。もう死んでるけど。