ここまで言ってだめならもうシラネ。
2009/12/08/Tue
嘘だから美しいのであり、美しいから嘘なのだよ。
死ね。
「美しい」というシニフィエを、いや意味を、お前ら正常人に譲ってあげてるんだ。ありがたく受け取れよ。
お前らに侵略されてあげてるんだ。征服されてあげてるんだ。領土化されてあげてるんだ。「脱領土化」とか言って亡命してくる奴らに土地を譲ってあげてるんだ。
死ね。
本気で言ってるよ。死ね。お前ら全員。全員殺してもお前らゴキブリみたいに生まれてくるだろうからな、神ってなウイルスみたいなもんだから。だから八割でいい。その場しのぎで。お前らの八割は死ね。
死ね。
前記事から。
=====
男性的享楽の上に乗せられた非男性的享楽。「井」の上に乗った「丼」のヽ(すまん中坊さんパクった。この言い方気に入ったらしい。ラカンが言った「男性的享楽に取り込まれた交接」(だっけか)を説明するのにとってもわかりやすい)。
その点だと思ってるものは、いわば「象徴界の穴」は、男性的享楽を取り囲んでいるって意味でのトーラス。
お前らは「穴」を取り囲んでいると思い込んでいるが、現実では「穴」に取り囲まれている。この「取り囲んでいると思い込」んでいることが、このブログで述べる「「物とは支配可能だ」という固定観念」に相当する。
=====
わたしが言いたいのってこれにつきるかもな、と思った。ラカン用語でお化粧したらこうなっただけで。
ラカン用語じゃない言い方してみようか?
そうだね、たとえば狼少年の話あるじゃん。野生児とかじゃなくて「嘘はついちゃいけないよ」って教訓話(笑)の方の。あれさ、実際狼はきたんだから狼少年って嘘つきじゃないよね。まあそれはそれでいいんだけど、わたしはこうも思うんだ。嘘つき少年を喰い殺した狼の群れは、その直後、喰われて死んだ嘘つき少年を嘲笑っている村人たちをも喰い殺したんじゃないかって。狼にしてみればそいつが嘘つきかどうかなんて関係ないだろ? じゃあ嘘つき少年は村人に警告を与えていたことになる。嘘つき少年は自然からの使者だったのかもしれない。むしろ裏切り者だったのかもしれない。自然を裏切って人間を救おうとしたのかもしれない。狼にしてみればそうだろ? もし村人が警告を受け入れて対策を講じてたりしていたら、その日狼たちはおまんま喰い上げだったんだから。
これと同じことをラカン用語で言っているだけよ。
要するに、「穴」として存在する(「穴」だから「存在していない」ことになるよな。まさしく「(ファルスがない人間という意味での)女は存在しない」)人間のうめき声だと思ってくれ。
うめき声だから本気だよ、ってこと。わたしは狼少年みたく人間を救おうなんて思ってないから、嘘は言わない。
死ね。
あ、今思い出したけど、この記事から。
=====
中沢新一が「ピカチューとは対象aである」って言うのとおんなじ誤謬をしている、とか書いているけど、こいつの言う「顔」より確かにピカチューの方が部分対象的だw ゲットされちゃうと違うけど。それこそ野性のピカチューなら部分対象チックな気がする。絵的にもそんなカンジ。
=====
補足でこの記事からもちょこっと。
=====
あ、だから「顔は対象aだ」なんて言うバカの論にいらっときたんだろうな。まあそう言えなくもないんだけどね。しかし対象aは部分対象でなければならない。定義として。対象aとは「まなざし」「声」「糞便」「乳房」のごときものである。そいつの言う「顔」は全く部分対象ではない。むしろわたしの認識の仕方の方が部分対象的である。
=====
これさ、わたし中沢がどんな文脈で言ったのか正確には知らないんだよね。まあ、現実界を生の根源だとか何か美しいものとしてしか語れてないのは知ってたから、それを根拠に「こんな感じで言ってるんだろうな」とは予測してたけど。
でもふと思ったけどさ、「てんかん事件を引き起こした主犯格としてのピカチュー」って意味なら、ああそれは部分対象だよなあ、比喩的に、と思った。そういう意味なら「ピカチューとは対象aである」って言葉は正しいとわたしは思う。
気分的には揶揄みたいな感じで書いてるよこの部分は、と断っておこう。
そういや先の「お前らは「穴」を取り囲んでいると思い込んでいるが、現実では「穴」に取り囲まれている。」っての、新宮一成『ラカンの精神分析』で同じこと言っている(とわたしが解釈した)文章あったよなあ、と思って探したんだが、こういう場合って大体見つからないのでいつもは書かないんだけど(忘れた頃に見つかることはある)、今回は見つかったので引用しとく。なんつーかネトゲでレアアイテムゲットしたような気分。そういう記念追記だと思って。
=====
「大学の語らい」の式では、自然は知の作用を受けている。だが、もしも、その自然そのものを超えるような知はなく、自然そのものの中に知が含まれていると考えるならどうだろうか。
=====
そうそう、背後を振り返ってごらん、「穴」が自分たちを取り囲んでいることに気づくかもしれないね、ってこと。
この後の文章も引っかかったので続けて引用するね。
=====
それはあながち非科学的な態度であるとは言えない。自然は法則を内在させており、その法則を外部から敷いた神はないとする一般的科学観にそれは近い。そこで、自然aを知S2の方向へ押し進めてみよう。そして、主体/Sを、その自然から作用を受ける者の位置へ押し上げたなら、分析家の語らいになる。ラカンはこうした科学の語らいから分析家の語らいへの動きを、一つの「前進」であると受け止めていた。
=====
つか「前進」とは言いきれないとわたしなんかは思うけどな。文明の発達方向を「前進」とするなら、「科学の語らいから分析家の語らいへの動き」は「後退」だ。文明の発達方向とは逆ってこと。
狼少年の話なら狼視点でわたしは思考しているよね。これは「自然aを知S2の方向(能動者の位置)へ押し進めてみよう。」に相当するんだが、狼は対象aとは言えないよな(笑)。いや対象aではあるんだけどね。対象aの裏面っつか。ライナスの毛布などではなく、どけてもどけても自分に纏わりついて皮膚をかゆくする気色悪い何か。狼少年はそれを「狼」だと表現していたのではないか。でたまたま実際に狼がきたんだから、わたしなんかから言えば「おー君のうんこ社会の役に立ってるじゃん」ってなるんだけどね。彼の予言は当たった。わたしの予言は社会の役に立たないことが多い。
あっそうだ、一応注記しとくけど、新宮は当該著作で「大学の語らい」を「科学の語らい」って読み替えてるんだよね。わたしはこれには同意する。ってか日本の大学の臨床実体は明らかに「大学の語らい」になってないし、むしろその方がいいと思う。
日本の大学は「大学の語らい」になっていない。じゃあなんになっているのかって考えたらどっかでちらっと書いたな、フィーリングで。って思って探したらあった(自分のブログは検索機能があるからすぐ見つかる)。この記事から。
=====
「大学のディスクール」について、「科学のディスクール」と読み替えた新宮一成の論には同意する。特に日本の大学は「大学のディスクール」にゃなっていないと思えるから。普通に「主人のディスクール」。
=====
この「特に日本の大学は「大学のディスクール」にゃなっていないと思えるから。」を具体的に言うと、たとえばこの記事などで触れている、
=====
つか巷でよく言われる「我々には知る権利がある」って言葉が「我々に媚びるのが当たり前だ」ってなってる気がする。大学教授がよく「最近の学生は教えられることが当たり前になって、自分から学ぼうとする姿勢がない」ってぼやいているのも、同じ無意識からくる症状なんじゃねえの? 「知る権利」はあるのかもしれんが(すまんね、「権利」自体幻想だと思ってる人だからこんな言い方になる)「知ろうとする努力」は必要ないって意味じゃないぜ?
=====
ということだ。教授と学生が主人と奴隷になっている。奴隷は奴隷になることで主人を支配する。
で、「大学のディスクールから主人のディスクールへ」って動きは、先に書いた「大学のディスクールから分析家のディスクールへ」って動きと逆方向だよね。四つのディスクールの時計盤においては。となると、「大学のディスクールから主人のディスクールへ」って動きは、文明の発達方向を「前進」とするなら「前進」であると言える。
これはどういうことか。
よく考えてみなよ。最近の学生の「最近の学生は教えられることが当たり前になって、自分から学ぼうとする姿勢がない」って症状は、これまでの研究者たちがそうしようとしていたことなんだよ。昔の研究者、つまり今の教授たちが目指してきた状態なんだ。そうだろ? 後進の研究者たちのために、知識をより有効に活用してもらうために、データをまとめたり論文に記したりしているわけだろ。そうすることで科学が発展するから。後進の研究者たちは素直にそれを享受しているだけなんだよな。かつての研究者たちが大量に残していった遺産をただ享受するのみ。科学が発展したからこそできること。
そう、「最近の学生は教えられることが当たり前になって、自分から学ぼうとする姿勢がない」状態は、かつてのお前たちが望んだことなんだよ。
あはは。人間どもってほんと滑稽よね。この笑いはニヒリストの笑みじゃなくて魔女の笑み。世間知らずなクソガキが「大人ってほんとバカだよな」って言いながらする笑み。
何度も言ってるじゃない。わたしは魔女だって。お前たちに焼き殺されてきた魔女の末裔。
お前ら人間に価値なんてないんだよ。価値なんてないのにえらそうにわたしを征服してこようとする。だから死ねって言っている。お前らは無価値だから。
あれね、新宮の文体って稲垣潤一みたいな感じだね(笑)。甘い声ならぬ甘い文体。時々聞きたくなる。
甘けりゃいいってもんじゃないのよ。いくら甘いささやきでも耳元でささやかれたら口臭が気になる。精液臭が気になる。新宮も稲垣もこっちから近づかない限り距離を取ってくれそう。だからいいのか。
遠くにいるから現実を見なくて済む。嘘で済む。そういうこと。嘘だから美しくて、美しいから嘘なんだよ。
おわかり? ボクチャンたち。
それと一個だけ関係のなくはないけどない話。
「自閉症者は傾向的に自己評価が低い」って言説があるらしいけれど、これ逆だよ。「正常という精神疾患の一つの症状として、正常人たちは傾向的に自己評価が高い」と考えるべきなんだ。逆っつか『逆立ちすれば答えがわかる』って奴?
そりゃそうだよ、正常人たちはトーラスって「嘘」の中だけで生きているんだから、自分は「美し」くなるに決まってる。斎藤のこの文章なんかまさにそう。逆立ちして見ればただのキャバのスカウトや女衒の態度なのに、いかにも「自分は美しいことを言っています」って顔してるだろ? これは彼が逆立ちできてないから。トーラスの外側の視点を持てていないから。あ、いやまあ「正常であることとは鈍感であることだ」ってな前半は一瞬だけ逆立ちしたから言えたことだろうけどね。腐っても精神科医。
単にそれだけのこと。
「その時俺はブタガミ家に復讐してやると誓ったのだ」
「キャー」
死ね。
「美しい」というシニフィエを、いや意味を、お前ら正常人に譲ってあげてるんだ。ありがたく受け取れよ。
お前らに侵略されてあげてるんだ。征服されてあげてるんだ。領土化されてあげてるんだ。「脱領土化」とか言って亡命してくる奴らに土地を譲ってあげてるんだ。
死ね。
本気で言ってるよ。死ね。お前ら全員。全員殺してもお前らゴキブリみたいに生まれてくるだろうからな、神ってなウイルスみたいなもんだから。だから八割でいい。その場しのぎで。お前らの八割は死ね。
死ね。
前記事から。
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男性的享楽の上に乗せられた非男性的享楽。「井」の上に乗った「丼」のヽ(すまん中坊さんパクった。この言い方気に入ったらしい。ラカンが言った「男性的享楽に取り込まれた交接」(だっけか)を説明するのにとってもわかりやすい)。
その点だと思ってるものは、いわば「象徴界の穴」は、男性的享楽を取り囲んでいるって意味でのトーラス。
お前らは「穴」を取り囲んでいると思い込んでいるが、現実では「穴」に取り囲まれている。この「取り囲んでいると思い込」んでいることが、このブログで述べる「「物とは支配可能だ」という固定観念」に相当する。
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わたしが言いたいのってこれにつきるかもな、と思った。ラカン用語でお化粧したらこうなっただけで。
ラカン用語じゃない言い方してみようか?
そうだね、たとえば狼少年の話あるじゃん。野生児とかじゃなくて「嘘はついちゃいけないよ」って教訓話(笑)の方の。あれさ、実際狼はきたんだから狼少年って嘘つきじゃないよね。まあそれはそれでいいんだけど、わたしはこうも思うんだ。嘘つき少年を喰い殺した狼の群れは、その直後、喰われて死んだ嘘つき少年を嘲笑っている村人たちをも喰い殺したんじゃないかって。狼にしてみればそいつが嘘つきかどうかなんて関係ないだろ? じゃあ嘘つき少年は村人に警告を与えていたことになる。嘘つき少年は自然からの使者だったのかもしれない。むしろ裏切り者だったのかもしれない。自然を裏切って人間を救おうとしたのかもしれない。狼にしてみればそうだろ? もし村人が警告を受け入れて対策を講じてたりしていたら、その日狼たちはおまんま喰い上げだったんだから。
これと同じことをラカン用語で言っているだけよ。
要するに、「穴」として存在する(「穴」だから「存在していない」ことになるよな。まさしく「(ファルスがない人間という意味での)女は存在しない」)人間のうめき声だと思ってくれ。
うめき声だから本気だよ、ってこと。わたしは狼少年みたく人間を救おうなんて思ってないから、嘘は言わない。
死ね。
あ、今思い出したけど、この記事から。
=====
中沢新一が「ピカチューとは対象aである」って言うのとおんなじ誤謬をしている、とか書いているけど、こいつの言う「顔」より確かにピカチューの方が部分対象的だw ゲットされちゃうと違うけど。それこそ野性のピカチューなら部分対象チックな気がする。絵的にもそんなカンジ。
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補足でこの記事からもちょこっと。
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あ、だから「顔は対象aだ」なんて言うバカの論にいらっときたんだろうな。まあそう言えなくもないんだけどね。しかし対象aは部分対象でなければならない。定義として。対象aとは「まなざし」「声」「糞便」「乳房」のごときものである。そいつの言う「顔」は全く部分対象ではない。むしろわたしの認識の仕方の方が部分対象的である。
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これさ、わたし中沢がどんな文脈で言ったのか正確には知らないんだよね。まあ、現実界を生の根源だとか何か美しいものとしてしか語れてないのは知ってたから、それを根拠に「こんな感じで言ってるんだろうな」とは予測してたけど。
でもふと思ったけどさ、「てんかん事件を引き起こした主犯格としてのピカチュー」って意味なら、ああそれは部分対象だよなあ、比喩的に、と思った。そういう意味なら「ピカチューとは対象aである」って言葉は正しいとわたしは思う。
気分的には揶揄みたいな感じで書いてるよこの部分は、と断っておこう。
そういや先の「お前らは「穴」を取り囲んでいると思い込んでいるが、現実では「穴」に取り囲まれている。」っての、新宮一成『ラカンの精神分析』で同じこと言っている(とわたしが解釈した)文章あったよなあ、と思って探したんだが、こういう場合って大体見つからないのでいつもは書かないんだけど(忘れた頃に見つかることはある)、今回は見つかったので引用しとく。なんつーかネトゲでレアアイテムゲットしたような気分。そういう記念追記だと思って。
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「大学の語らい」の式では、自然は知の作用を受けている。だが、もしも、その自然そのものを超えるような知はなく、自然そのものの中に知が含まれていると考えるならどうだろうか。
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そうそう、背後を振り返ってごらん、「穴」が自分たちを取り囲んでいることに気づくかもしれないね、ってこと。
この後の文章も引っかかったので続けて引用するね。
=====
それはあながち非科学的な態度であるとは言えない。自然は法則を内在させており、その法則を外部から敷いた神はないとする一般的科学観にそれは近い。そこで、自然aを知S2の方向へ押し進めてみよう。そして、主体/Sを、その自然から作用を受ける者の位置へ押し上げたなら、分析家の語らいになる。ラカンはこうした科学の語らいから分析家の語らいへの動きを、一つの「前進」であると受け止めていた。
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つか「前進」とは言いきれないとわたしなんかは思うけどな。文明の発達方向を「前進」とするなら、「科学の語らいから分析家の語らいへの動き」は「後退」だ。文明の発達方向とは逆ってこと。
狼少年の話なら狼視点でわたしは思考しているよね。これは「自然aを知S2の方向(能動者の位置)へ押し進めてみよう。」に相当するんだが、狼は対象aとは言えないよな(笑)。いや対象aではあるんだけどね。対象aの裏面っつか。ライナスの毛布などではなく、どけてもどけても自分に纏わりついて皮膚をかゆくする気色悪い何か。狼少年はそれを「狼」だと表現していたのではないか。でたまたま実際に狼がきたんだから、わたしなんかから言えば「おー君のうんこ社会の役に立ってるじゃん」ってなるんだけどね。彼の予言は当たった。わたしの予言は社会の役に立たないことが多い。
あっそうだ、一応注記しとくけど、新宮は当該著作で「大学の語らい」を「科学の語らい」って読み替えてるんだよね。わたしはこれには同意する。ってか日本の大学の臨床実体は明らかに「大学の語らい」になってないし、むしろその方がいいと思う。
日本の大学は「大学の語らい」になっていない。じゃあなんになっているのかって考えたらどっかでちらっと書いたな、フィーリングで。って思って探したらあった(自分のブログは検索機能があるからすぐ見つかる)。この記事から。
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「大学のディスクール」について、「科学のディスクール」と読み替えた新宮一成の論には同意する。特に日本の大学は「大学のディスクール」にゃなっていないと思えるから。普通に「主人のディスクール」。
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この「特に日本の大学は「大学のディスクール」にゃなっていないと思えるから。」を具体的に言うと、たとえばこの記事などで触れている、
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つか巷でよく言われる「我々には知る権利がある」って言葉が「我々に媚びるのが当たり前だ」ってなってる気がする。大学教授がよく「最近の学生は教えられることが当たり前になって、自分から学ぼうとする姿勢がない」ってぼやいているのも、同じ無意識からくる症状なんじゃねえの? 「知る権利」はあるのかもしれんが(すまんね、「権利」自体幻想だと思ってる人だからこんな言い方になる)「知ろうとする努力」は必要ないって意味じゃないぜ?
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ということだ。教授と学生が主人と奴隷になっている。奴隷は奴隷になることで主人を支配する。
で、「大学のディスクールから主人のディスクールへ」って動きは、先に書いた「大学のディスクールから分析家のディスクールへ」って動きと逆方向だよね。四つのディスクールの時計盤においては。となると、「大学のディスクールから主人のディスクールへ」って動きは、文明の発達方向を「前進」とするなら「前進」であると言える。
これはどういうことか。
よく考えてみなよ。最近の学生の「最近の学生は教えられることが当たり前になって、自分から学ぼうとする姿勢がない」って症状は、これまでの研究者たちがそうしようとしていたことなんだよ。昔の研究者、つまり今の教授たちが目指してきた状態なんだ。そうだろ? 後進の研究者たちのために、知識をより有効に活用してもらうために、データをまとめたり論文に記したりしているわけだろ。そうすることで科学が発展するから。後進の研究者たちは素直にそれを享受しているだけなんだよな。かつての研究者たちが大量に残していった遺産をただ享受するのみ。科学が発展したからこそできること。
そう、「最近の学生は教えられることが当たり前になって、自分から学ぼうとする姿勢がない」状態は、かつてのお前たちが望んだことなんだよ。
あはは。人間どもってほんと滑稽よね。この笑いはニヒリストの笑みじゃなくて魔女の笑み。世間知らずなクソガキが「大人ってほんとバカだよな」って言いながらする笑み。
何度も言ってるじゃない。わたしは魔女だって。お前たちに焼き殺されてきた魔女の末裔。
お前ら人間に価値なんてないんだよ。価値なんてないのにえらそうにわたしを征服してこようとする。だから死ねって言っている。お前らは無価値だから。
あれね、新宮の文体って稲垣潤一みたいな感じだね(笑)。甘い声ならぬ甘い文体。時々聞きたくなる。
甘けりゃいいってもんじゃないのよ。いくら甘いささやきでも耳元でささやかれたら口臭が気になる。精液臭が気になる。新宮も稲垣もこっちから近づかない限り距離を取ってくれそう。だからいいのか。
遠くにいるから現実を見なくて済む。嘘で済む。そういうこと。嘘だから美しくて、美しいから嘘なんだよ。
おわかり? ボクチャンたち。
それと一個だけ関係のなくはないけどない話。
「自閉症者は傾向的に自己評価が低い」って言説があるらしいけれど、これ逆だよ。「正常という精神疾患の一つの症状として、正常人たちは傾向的に自己評価が高い」と考えるべきなんだ。逆っつか『逆立ちすれば答えがわかる』って奴?
そりゃそうだよ、正常人たちはトーラスって「嘘」の中だけで生きているんだから、自分は「美し」くなるに決まってる。斎藤のこの文章なんかまさにそう。逆立ちして見ればただのキャバのスカウトや女衒の態度なのに、いかにも「自分は美しいことを言っています」って顔してるだろ? これは彼が逆立ちできてないから。トーラスの外側の視点を持てていないから。あ、いやまあ「正常であることとは鈍感であることだ」ってな前半は一瞬だけ逆立ちしたから言えたことだろうけどね。腐っても精神科医。
単にそれだけのこと。
「その時俺はブタガミ家に復讐してやると誓ったのだ」
「キャー」