『リアルげんしけん』と技術営業
2009/12/14/Mon

『なかのひと』によるとこのブログ読者の八割が女性らしい。実はこれわたしにとって意外だった。一般女性は「ウキー」ってなる内容ばっかだと思ってたから(実際「ウキー」ってなった人もいた。何言ってるのかイミフだったので放置してたけど)。年齢的には二十代前半と四十歳前後が多いみたい。この二つの山は記事傾向によってどっちが高くなるか変わるけど、フタコブなのはいつもそうだ。性別推計はあんまり変わらないけど年齢推計の方は結構コロコロ変わるのよ。
ま、そんなわけで腐女子関係の読者も多そうだから一応報告しとく。また中坊さんのとこ。
ここでわたしがフィーリングで言った「転移に転移する」こと、俗的に言えば「恋に恋する」ことってBL好き腐女子分析に重要なキーワードだと思うんだな。自身が混乱しながら書いた(ほんと申し訳ないんだけど今自分で読み返して何言っているのかよくわからない部分がある)BL好き腐女子分析記事の「BL好き腐女子は少女だ」って論旨とも合致する。
まあそう思った、ってだけ。今はそっち方面にあんま興味ない。そもそもBLとかあんま好きってわけじゃないし。
まー『リアルげんしけん』の「うんそうだね、君達の方が全然イイね!! 客観的に見て間違っててねじ曲がってるのは、このアタシの人生の方だわさ!!」って笑う先輩みたいなオタク女子が多いんだろう、と妄想して納得しておく。「必死なカンジ」とかまさにこの記事だな。
あ、わたし大学時代は演劇方向行ったからその当時のオタク文化はよくわかんない。その時代がすっぽり抜けてる。それ以前は「気が付いたら変なのとかエグいのとかダメなのばっか見てるマイナー嗜好になってて」って状態ではあったと思う。つかその流れだったから演劇もアングラや小劇場だったわけだけど。んで大学卒業して社会人になってちょっと余裕ができてオタク文化に戻ったら「え、何これ」って浦島状態になったのはある。そういうことなんだろうな、この『リアルげんしけん』って。うん、「昔のオタクは虐げられてたんだよ」ってのはこのブログでも何度か言ってる。ほんと「病気か呪いか」って感じ。この二つの言葉もここでは多用されてるよな(笑)。
そうだよな。今のオタク文化は自己肯定感が強い。「君達の方が全然イイ」。そういった後輩オタクたちのものとしての、虐げられていた時代のそれとは別物のオタク文化を象徴するのが、このブログで触れた作品なら『ミミズクと夜の王』とかになるんだろうな。
そうだよ、「オタク文化は女が流入してダメになった」んじゃなくて、自己肯定が上手な一般人が流入したからダメになったんだよ。まあ確かに「流入してきた自己肯定が上手な一般人」ってのに女性の割合が高いのはそうかもしれんが。元の「虐げられていたオタク文化」の男女比と比べたら、流入組の女性比率は圧倒的に高いだろうな、とは感覚的に思う。
飲まなきゃやってらんねえよったく。
技術営業をやっていた。技術営業とは、あくまで営業のサポートで、営業が説明しきれない技術的な事柄を客先に説明したりする仕事だ。あくまでもサポートなのでそういう部署はない。技術部署所属で、技術営業担当という肩書きがあるだけ。いやもちろん普通の設計もしてたけどね。むしろ技術営業の方がおまけ。
どこの会社でもそうだと思うけど、技術部署と営業部署は仲が悪いもの。そりゃそうだよね。生粋の理系と生粋の文系みたいなもんで、まず性格的に合わなさそうだろ? そんな状態なわけだから、わたしは技術部署から差し出された生贄みたいなもんだった。構造主義の「女性の交換システム」みたいじゃね。今思っただけだけど。
実際営業とはよくぶつかった。今でも覚えているのが、親とタメぐらいの営業のオヤジに、「客先がいいっつってんだからいいんだよ!」と街中で怒鳴られたことだ。
まー技術営業なんて微妙な仕事やらされてたのは女だったからってのはあると思う。女だからウケはいいだろ、的な。実際営業に限らず現場でも見下されてたしな。見下せる方は気持ちいいだろう。見下されることが能力として利用できるならそれに越したことはない。
でもねー。わたし負けず嫌いなんだよな。
「負けず嫌い」って言うと、なんか「欲が強い」ってイメージに連鎖するみたいだけど、欲はないんだよな。小学生の頃とかは「この子は欲がなさすぎる」などとよく言われたって母は言ってる。そうだね、たとえば、塾に通ってたんだが、毎回トップから五位以内には入っているのに、一番を取ったことがなかったのだよね。逆にトップクラスを維持してたのはわたしぐらいだったけど。んで「一回でいいからトップ取りなさいよ」みたいなことを先生に言われて、「えーめんどくさい」みたいに返したと思う。この記事でも書いたけど、わたしが勉強できたのって、周りのみんなが勝手に勉強を嫌ってただけで、勉強というものに普通に接していたわたしが相対的によかっただけだと、今でも本気で思っている。わたしが特殊なんじゃなくてお前らが変なんだよ、ってこと。これ今の「正常であることこそが精神疾患だ」ってのと繋がるよな。だからわたしが一番になるのって、他の子たちがたまたま点取れなかったことを期待するしかないわけで、そりゃあ「めんどくさい」となるだろう。
なんだろうな。なんでもかんでも刺激がだめだったんだろうな。勝っていれば周囲の人間はほっといてくれる。負けるとやいのやいの言われる。うん、わたしの負けず嫌いって欲とかじゃなくて単なる自己防衛なんだよ。『リアルげんしけん』で巨乳先輩が言う「理論武装」もそういうもんだと思う。
っていうか「復讐」に近いかも、と今思った。復讐って、ドラマなどでよく「そんなことしても何も得るものはないぞ」とか言われるんだけど、復讐しようとしている人たちはそんなことわかってやってると思うんだよな。いやわかってなくても、「何かを得られるかどうか」なんてどうでもいいことだと思ってるんじゃないだろうか。復讐は何かを得るためにするものじゃない。憎悪や怨恨などと言った、自分自身が不快に感じる、自分のうちにある情動から脱出するために、それから防衛するために、復讐という手段を取るってだけ。復讐に欲など関係ない。
ま、そんなんだから、客先にも厳しいこと言ったりするわけだ。横にいる営業はいつもひやひやもんだったと思うよ。なんせ技術畑なんだから知識だけは大量にあるわけで、相手が技術畑じゃなかったらちんぷんかんぷんに決まってる。それをわかりやすく説明しようとして勝手に自分で混乱する。ここが負けず嫌いなところ。わかりやすく説明しようとしてさらに話は混乱する。そりゃそうだ。わたし自身が混乱してるんだから。
だから今でも「わかりやすく説明しろ」なんて言ってくる奴にはすっげえ腹が立つ。「お前にとっちゃーわかりにくい言い方かもしれないけどこっちの方がわたしはわかりやすいんだよ。お前個人の「わかりやすい」って主観を押しつけてくんな。「個人じゃない、みんなにわかりやすい言い方をしろ」だって? 目に見えない他人を勝手に味方にすんなドアホ。その「みんな」はお前の妄想にすぎないだろうが」って。「わかりやすい言い方」なんてお前にとってそうってだけ。お前はわたしのご主人様か? 王様か? わかりやすく説明することだってすげえ難しいんだよ。難しいこと知ってたらわかりやすく説明できるはずだって? ほんとお前ら自分に都合のいい考え方しかしねえな。わかりやすく説明するってのは要するに応用だろ? この記事でも書いているが、基礎がわかったからと言って全てに応用可能なわけじゃない。基礎を理解する難しさと同様に応用する難しさもあるんだ。
お前らの言ってることは英語喋ってる奴に日本語喋れっつってるようなもんだ。
難しい専門用語もただの言葉なんだよ。数式だってただの言葉だ。
お前らが勝手に「難しい専門用語」に何かしら変な妄想をこびりつかせてるだけじゃないのか? ほんと「周りが勝手に勉強を嫌ってただけで、周りの人間が変なんだよ」だ。
お前らみたいなのが愚民って奴なんだよ。
……話がそれすぎた。営業の話に戻ろう。
あー、もちろん客先からやり込められる時もあったよ。設計事務所とか苦手だったなー。考え方が違う。ユーザー様のことはこっちがよくわかってるはずなのに、同じユーザー様の言葉を全く違う風に解釈している。ああ、今の言葉で言うなら、わたしはユーザー様ってのは一種の動物みたいに考えてたけど、設計事務所はユーザー様を人間として考えていた、となるのか。設計事務所の解釈の方が正しいに決まってるわな。ユーザー様という人間の人間だからこそある言葉の裏を読んでいた、ってことか。だからやり込められたのか。『Dr.HOUSE』っぽくなるけど、人間は嘘をつく動物だ、って要件がすっぽり抜け落ちていたわけだ。まあ、わたしの方も「あれ、これおかしいな」と思うことあったし。つか工場で使う製品をメインに作っていた会社だったから、客先の多くはそういった人たちなのだよね。工場という機械の部品としての人間が客先である場合が多かったから、「人間は嘘をつく動物だ」という要件が抜け落ちてしまいがちな社風だったのかもしれない。バカ正直な社風っつか。
あーうん、意匠系の建築設計の人って社会学者と似た臭いがする。つか建築界におけるそれじゃなくて思想界でのポストモダンって言葉を考慮すれば、究極のポストモダン建築って、建築途中の施工現場という作品になると思うんだが、どうよ? ちなみに演劇界では普通にやってるよ。最終的に装置全部取っ払って裸舞台見せるとか、メタシアター的感覚で仕込み途中を見せるとか。東京サンシャインボーイズの『ショウ・マスト・ゴー・オン』とかもそういう系だよな。メタ建築。いいじゃない。どっかの演劇評論家が「演劇は自己解体しつくした。現代の演劇はなべて残滓のようなものだ」みたいなこと言ってたけど、それ読んだ当時はピンとこなかったが、今思い出してそういうことかと思った。「残滓」ってラカン的には対象aになるね。(アートとしての)建築ってほんと自己解体下手だよな。
ともかく、営業と技術営業たるわたしのスタンスの違いは、ある一点に象徴されると思う。それこそある営業さんが怒鳴った「客先がいいっつってんだからいいんだよ!」って言葉。
わたしのスタンスは、売り込みをかける自社製品についてのデメリットを、メリットとともにきちんと説明して、客先に選択してもらう、というものだった。ところが営業にしてみればわざわざデメリットを説明することなんか自傷行為のようなものだ。デメリットを隠しメリットだけを声高に説明するのが営業の仕事だ。技術部署内ではわたしのスタンスを支持してくれる人が多かったのだが、営業部署はそうでもない。製造業に限らずどこの業界でもそうだと思うが、営業なんて(言葉は悪いが)一種の詐欺みたいなものだと自覚してないとやってられないんじゃないだろうか。別の営業さんに「詐欺」という言葉をぶつけたこともあるが、彼は笑ってごにょごにょ言った。なんて言ったかは忘れたが、営業とは詐欺のようなことだと彼は自覚してやっている、と思った。
もちろんわたしのスタンスにも限界がある。矛盾が見えてくる。たとえば、その客先の要望について、他社製品の方が相性がいい、という場合だってある。この時、デメリットとメリットを事実として全て表明するならば、「当社製品より他社の○○という製品の方が御社の要望に沿っていると思われます」などと言うべきなのだが、そんなのは社畜としてギリギリアウトだ。
でも言ったけどね。実際そうなんだもん。工場内で自社製品を使え、なんて本社命令(いやわたし本社所属だったこともあるけど)があって、現実問題として自社製品より他社製品の方が性能がいいんだからそっち使うに決まってんだろ、とかって本社とケンカしてた工場長がいた。のちに最年少社長となる男である。わざわざ研究所に依頼して自社製品が劣っているってデータを取って本社に突きつけたりとかほんと「ヤクザだなー」って思った。実力行使に躊躇しないってとこが。そんな人の子飼いだったわたしも反抗的になるわさ。
反抗的っていうか、個人的にわたしが気持ち悪いからそうしてただけなんだよね。客先のためとか正義感とかじゃない。それこそ自己防衛。自分からの自己防衛。
なんだろうな。本当に「機械は故障するのが自然だ」と思い込んでいるのはわたしの方なのかもしれない。故障するのが自然だから、先にデメリットを言明しておくことで、自己防衛となる。故障するのが自然だという現実を一番恐れているのはわたしなのかもしれない。
……と長い前フリになってしまったが(前フリなんです、ええ)、たとえば仏教の概念「空観」を、何か世界平和の象徴のごとく語ってるサイトがあったりするのだが、そういうのはそれこそ仏教という会社の「空観」って製品を売り込もうとする営業トークにしかわたしには見えないのだよね。要するに詐欺にしか見えないわけ。
物事には全てよい面と悪い面がある。なぜなら「よい/悪い」という判断こそが人間が物事になすりつけている幻想だからだ。物自体には「よい/悪い」もない。だがお前ら正常という精神疾患は、「よい/悪い」を区別し「悪い」ものを棄却する快楽原則に縛られている。快楽原則がない場合、物自体は全て「よい/悪い」のないただの刺激として認知されるであろう。生まれたばかりの赤ん坊にとっては母乳でさえ異物だ。この世のものは全て最初は異物だったのだ。こういった異物としての悪意。物自体の最初の認知は悪意となる。こういったややこしいところは置いておいても、快楽原則が完成されて久しいお前らに対しては、ことさら悪い面を強調しなければならない。正常人という精神疾患者に対するレトリックだ。この記事から。
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「空観とは悪意の総体論である」
この指摘を否定する馬鹿にはこう言ってやればいい。
「それを説いた龍樹の死に様はどんなんだった?」
と。
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わたしの「空観とは悪意の総体論である」って言葉は、お前ら正常人に向けてのものだ、と解釈してほしい。
詐欺みたいな営業トークだけだと信用できないっしょ? デメリットもきちんと説明する技術営業がいないと。
まあわたしが仏教って会社に就職しても似たようなことするんだろうけどね。
「あなたの場合、仏教よりキリスト教の方が合ってると思いますよ」
とか。
あ、あとwikipediaのブリコラージュの項も詐欺臭い。ブリコラージュとは語義通りそういう作業を示しているのであり、それによってできあがった何かが既存の物より優れているとは限らない。つかこの概念はできあがった物が使えるかどうかなんて関係ないとすらわたしは考えている。この記事から。
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既製品じゃなくてこういった部品を組み立てるのがブリコラージュなんだよな。ご冥福は祈りません。要するにブリコラージュで作った道具は決して設計図通りに作った道具より性能がいいわけではない、ということを言いたかったのね。ここんとこ勘違いしているバカ構造主義者が多いので釘刺しとく。だからレヴィの理論だって(正常人にとっての)「道具」としては使えないんだ。使えない物(つまり「支配不可能な物」だよな)と対峙してなんやかやする作業の方を意味しているんだよ、これは。語義通りに。使える物ができるか使えない物ができるかはただの結果だ。そんなの時と場合による。そんな判断人による。部族による。そんなんじゃないところを言いたかったんじゃないか。その時自分も等しく物になっている。茂みの中で迷っている自分はただの物になっている。正常人というキチガイが考えるような「物」ではなく、本当の、ただそうであるだけの物に。そういった状態の自分をレヴィは「小道」と表現したと思うんだが、どうよ?
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できあがった物に目を向けて考えるなら、むしろエンジニアリングで作った方が製品としての性能は高くなる場合が多い。ただ、エンジニアリングは設計図に従って製作するので、いくら性能がよくても設計即ち想定以上の数値はまず示さない。そんな時、ブリコラージュで作った製品の、たとえば一万個に一個が、驚くほどの性能を示すことがあるかもしれない。しかし残りの九千九百九十九個は、製品としては不良品となる。wikipediaの説明は、一万個に一個の場合だけを声高に謳い上げているって感じで営業トークにしか見えない。わたしには。一万個のうち九千九百九十個を使える物としたいなら、エンジニアリングの方が有効なのだ。
たとえば「ぐぐる」って言葉は2ちゃんねらなどがブリコラージュで作ったものだとわたしなんかは思うが、グーグルって会社にとってそれは一万個のうちの想定以上に(つか想定すらしていなかったろうが)役に立つ一個となった、ってだけ。
これもあれよ、構造主義って会社(創業者が死去して大変だね)の「ブリコラージュ」って製品の技術営業として言ってると思ってね。これに限っては言い訳じゃないな。このブログでは「わたしは構造主義者だ」と何度も宣言してるわけだし。
この世は営業トークばかり。渡る世間は詐欺ばかり。
こんな言い方できるようになったのは技術営業やってたおかげかもね。わかりやすく説明しようとして自分勝手に混乱してたのも無駄じゃなかった。
……お前らにとって、だけど。
そんなオチで。
あ、一応言っておくけど、「負けず嫌い」のせいでわかりやすく説明することだってあるよ。っていうか多い。某チャットでは「脂さんは精神分析論をわかりやすく説明するのがうまい」と言われたほどだ。たとえば一番人気のこの記事の「断片の世界」なんて要するにラカン用語の「寸断された身体」なわけだが、このあたりの文章とか実際に部分対象を認知しているわたしだから言えるんだと思う。
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どういうことかというと、例えば手なら「指」と「手首から先のモノ」と「肘から先のモノ」が全て別物として幼児は考えている。手首から先にあるモノの一部が指、と考えられないのだ。注意が向いたのが「指」ならそれは「指」であり、「手首から先のモノ」なら「手首から先のモノ」で、それらは別々の刺激(視覚情報)として幼児は捉えている。
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単にこういう風に具体例っつか臨床例を挙げて説明しているだけなんだけどね。そうしないとわたしも混乱するから。シニフィエがずれている、つまり見ている世界が違うんだから、シニフィエを列挙しないと話が通じないってだけ。
なんかどっかのバカフォークシンガーがラカニアンに「「寸断された身体」ってどのくらい寸断されてるんですか?」とか聞いたらしいが、こう説明してやればよかったんだよ。こういうバカなフリして学者をバカにする愚民も生理的に嫌いだ。蓮實重彦みたいだ。まあ奴は自分が学者なんだがね。
お前らは全然バカじゃねえよ。本当のバカじゃない。シニフィエが多くの人とずれている、見ている世界が違うわたしの方がバカなんだ。バカじゃないのにバカのフリをする奴が一番最低な人間だ。
とか言いながら中坊さんとか蓮實タイプなんだけど平気なんだよな。不思議。子供いないんだっけか。子供できたら嫌いになるかもね。子供がいるから嫌いってことじゃなくて、中坊さん自身がわたしが嫌いな人種に変質しそうってこと。
ま、普通に精神分析論で説明できるわな。子供=ファルスってのは一種の定理みたいなもんだし。
あ、中村雄二郎の「臨床の知」ってそういうことか。「見ている世界が違う」ってことをまずわからなきゃいけないよな。「世界は同じ」なんてのはパラノイアがするのと同じ機制で生じる幻想にすぎないってところから始めないと。自閉症研究なんかいいヒントぽろぽろ落ちてると思うぞ。たとえばこの記事とか。同じテレビドラマでも見ているところが違うんだから、シニフィエは異なるに決まってるだろ。
ほれ、具体例。
もういいよ。
もうやめて。
ほんと「シニフィエが違う」という言葉は強力だ。遠赤外線なんかじゃなくて、冷凍庫だ。
もうやめて。
そんなにわたしを殺したいのか。狂わせたいのか。
これはお前らに言ってるんじゃない。言葉に言ってる。シニフィアンでもシニフィエでもなく、意味に言ってる。
もうやめて。
言葉や人や物に何かしらの妄想をこびりつかせるから、人は傷つく。
では、妄想をこびりつかせなかったら、傷つかないのか。
妄想をこびりつかせなかった言葉や人や物は、ただそうであるものとして、物自体として、量子力学的に、人体に影響を与えるだろう。
妄想をこびりつかせなかった言葉や人や物は、生の刺激となるだけである。
ゆえに、傷つく。
妄想を消し去ったからといって、存在が消えるわけではない。
……あれ? わたし唯物論者だっけか? 巷の唯物論には批判的なんだが。っていうか全否定してた。理系のくせに。だって唯物論を声高に唱える奴に限って心がばりばりなんだもん。それこそ営業トークばりばり。だからといって唯心論の立場は取らない。物自体は存在する。心のせいで見えなくなっただけで。
物も心も存在する。幻想は幻想として現実にある。
だけど、それらは共存不可能だ。唯物論と唯心論に分かれていることがよい証拠だ。なぜなら、そもそも心そのものが物自体を忌避するために生じたものだからだ。従って、物と心が接すれば、必ず戦争が起きる。空観は世界平和に繋がる思想などでは決してない。あーまあ「戦争だって自然の理によるものだ」って言い方をすれば、戦争が起きてても「世の中平和だねえ」ってなるのかもしれないが。
なんかほんと華厳だな。中沢新一に嘲笑されそうだ。