もーいーやーだー
2009/12/17/Thu
本気で自分がいやになってきた。いやもともといやなんだけど。
一応報告。ここ。何年前からの知人にもこういうことしてしまう。ああやだやだ。
ほんと断っておくけど、わたしのこういうやり方って、精神分析学ぶ前からやってたんだよ。ほら、特に演劇人とかこんな会話しそうじゃね? ってこれもわたしのイメージにすぎないのか。
わたしはこういうやり方でしか「人なるもの」と付き合えない。
逆に言えば、大学生までは、っていうかせめて高校生までは、にしておくが(演劇に興味持ち始めたのは高校の頃だ)、わたしは人に対して「人なるもの」として付き合ってこなかった、ということだ。「じゃあ何として付き合ってたのだ?」と言われると、自分のブログだからこんなこと言えるんだが、物だ。わたしは人を物として見ていなかった。高校生までのわたしの人付き合いは全て物との付き合いでしかなかった。
だからわたしが他人に精神分析理論を適用させるのは、たとえば医学生のように、人を人体という物としてしか見ていない、ということなどではなく、他人を物ではなく人として見るためなのだ。
そうだよ。ほんとそうなんだよ。演劇でかすかに知った「人なるもの」の現実的根拠を、根拠として、わたしはそうやっている。でも根拠しか知らないのだから、応用が利かない。わたしはこういったやり方で、「人なるもの」を根拠にした人付き合いに応用させているだけにすぎない。
……とかやってると久しぶりに食欲が湧いたので(別にこの件と関係があると言ってるわけじゃない)、朝からコンビニ弁当食った。
オラ、ハライッパイ、クタ。
ゲンキデタ。
「おなかいっぱい食べてうんこすれば治るよ」は真理。
あれ?
あうあう。
あーもう。
なんかしばらく喋んない方がいいな。
『CSI』DVD買っちゃおっかな。
あ、いいアジ文章思いついた。
「動物化しているオタクたちよ。お前たちを動物化させているのは社会だ。社会が求めている動物だから、家畜だ。お前たちは社会により家畜化させられているのだ。ならば、いっそ野生化すればいい。肉食だろうが草食だろうが関係ない。文明を否定する野生を思い出せ」
うっわ下手糞。つか最近流行ってる(ってもうトレンド終わったのか?)「肉食系、草食系」にも野生は含まれてないよな。これも巧妙な(無意識的な、すなわち構造主義的贈与交換システムとしての)「社会による家畜化」だと解釈すべきだろうね。『動物化するポストモダン』でも、あずまんの思い描いている動物は家畜だ。野生が全く欠けている。
あーそうね、って今ブログ休止中だけどドードーとらさんっておもしろい思想してる人がいてね、彼の思想のキーワードでもあったんだよな。「野生」って。
人や物問わず、全ての対象に対し、平等に警戒しろ。統合失調症者や自閉症者のごとく。それが野生への第一歩だ。
当然、そこは地獄だよ。文明のゆりかごの中と比べたらね。地獄だから統合失調症者や自閉症者は病院に収容されるんだ。
まず最初に、巷で言われる、家畜化という意味での「動物化」って言葉に警戒すべきだろうな。
ほんとわたし理解できなかったもんな。「え? 何で動物なの? すげえ文明的じゃん」って。あずまんの本読んで素でそう思った。あずまんが思い描いているのは、つまり彼の「動物」のシニフィエは家畜だと考えれば辻褄合ったから放置してたけど。
人よ信じるな けして信じるな
見えないものを
人よ欲しがるな けして欲しがるな
見果てぬものを
形ある物さえもあやういのに
あ、「救いなど待つよりも罪は軽い」って言葉にぐっときた。いや高校の頃買ったアルバムだけど、今さら。
救いを待てるから、救いを確信しているから、文明の発展は盲目的なんだな。定理はどうしてそうなっているか理解されないまま応用されていく。「形ある物さえもあやういのに」。
だけどわたしは「どこまでも行け」ない。「裏切らぬもの」なんてわたしの世界にはないから。自分でさえ自分を裏切るのに。
行ける奴は行けばいい。行きなさい。イカロスは高く飛びなさい。
火傷して墜落した体を包み込むのは、糞尿と腐肉に塗れた大地でしょう。
あーそっか、この歌、「人恋しさ」って言葉に警戒してたんだけど、これ前記事の「転移に転移する」ことだと考えれば納得できるな。「人恋しさに誘われて」であって、「人恋しさに突き動かされて」じゃないもんな。自分の中にある「人恋しさ」によってではなく、巷に溢れる『人恋しさ』という映画に誘われて、か。「恋に恋」しているだけだからそれは成就しない。人は応えてくれない。「愛さえも夢さえも粉々になる」。
そうなんだよね、「人恋しさ」って言葉に警戒してたから、この歌を語れなかった。「人恋しさ」って言うと、それこそ女衒につけ込まれる。突っ込まれる。ファルスを。斎藤みたいな精神科医に。うぶなアスペルガー症候群当事者はうっかり口を滑らせてしまった。斎藤はそれを見てちんぽ汁垂れ流しながら語った。「転移に転移」してるだけなのに、「処女だってセックス好きなんですよ」って女衒の宣伝文句にされた。
「春を売り」すぎたのかね。わたしゃ。
まさしく『グッバイ・ガール』だな。
なんかもうだめだ。中坊さんのせいだな。抑鬱状態で彼みたいな無刺激な奴と話すとかえって被害妄想が助長される。みけどんちのような被害妄想を直接惹起させる状態なら、いずれ抑鬱状態となる。どっちも地獄だからね。行くも地獄退くも地獄だからその間をうろちょろするだけ。
ねーねー、たまきんさー、ここ最近の文章かなーり過激なんだけど、君訴える? わたしを。さっき「斎藤のような精神科医にレイプされる。」って一文書こうとしてやめたんだよね。いや君じゃないけどある作家が弁護士に依頼してこのブログ読ませてるみたいだからさ。そういう被害妄想スイッチがあるらしい。
君なら話通じると思ってるんだけどな。精神分析家じゃないけど精神分析理論に明るい精神科医だろ? 裁判だなんて精神分析学のためにならないやり方しないで、わたしと議論した方がいいに決まってるよな。お互い臨床素材として。
わたしはお前を分析している。お前というわたしの想像上の人格を腑分けしている。だから人格攻撃になっている。お前もわたしを分析すればよい。わたしの人格をばらばらにすればよい。お前の想像上のわたしという人格を。
ナイフで愛撫し合いましょう、と言っているんだよ。
血塗れのソドムを見せつけてやりましょう、と言っているんだよ。
精神分析という言葉のメスの切れ味を、愚民どもに知らしめてやりましょう。
精神分析というペストを伝染させてやりましょう。
君、どっかのブログで、小笠原晋也のことちょっと擁護するようなこと言ってたよね。
なら、わたしが何を言っているのか、理解できるでしょう?
あーそうね、君にガツンとやられたとして、わたしが心の平安を得たなら、わたしは自罰パラノイアだった、ってことになるわね。
どう? おもしろくない?
魔女を自称する汚らしいババアが、実は聖女だったかどうか、確かめてみないかい?
物乞いする汚らしいババアが、美女に変身するかどうか、確かめてみないかい?
天国が存在するかどうか。
あ、ごめん今フィル・コリンズの『Another Day In Paradise』聞いてた。
斎藤がするであろう反論で、一言で終わるものがあるな、そう言えば。
「キチガイの戯言は相手にしない」
まーこれ言った瞬間彼はラカン論を二度と語っちゃいけなくなるけどね。
今読み返すととっても「ヒステリー者のディスクール」っぽくて「おー」って思った。このブログでは何度か言ってるけどあたし「ヒステリー者のディスクール」を目指してる部分はあるんだよね。
次はこの曲で。カラオケあった。そりゃそーだよな映画の主題歌だったみたいだし。歌ったよもちろん。チョー失敗したよもちろん。いや『くちばしにチェリー』も歌ったことあるけどチョー失敗だった。このバンドの歌ぜってー歌えない。うまく歌える人ソンケーするわ。素で。
「正三角形の挑発」はむしろガタリに向けてだな。
精神分析業界の読者も多いだろうから(そうじゃなかったらがっかりだよおねえさん)、知り合いいたら斎藤に伝えといて。「変なメンヘラババアに罵倒されてるよ」って。
なんかだめだ。もう。あ。あ、あ、あ。あああああああああ。演技です。「あ」のロングトーンです。
でもさ、演劇の稽古で「変な外国語エチュード」ってのがあったんだよな。要するにタモリの中国語みたいなエセ外国語で即興芝居すんの。言葉が通じないからかけ合いがおもしろくなる、って感じ。わたしうまかったよ。マリリン・モンローの「ぷぷっぴどぅ」とかやったら「反則だ」って笑われたが。でもあれだな、ああいうエセ言語が本当の言語だと思う。「言葉は通じない」という現実を付帯させた言語。全ての言葉は通じない。言葉は全て嘘だから。
『デビルマン』に触れた記事書こうとして、デビルマンの造詣思い出そうとしたらピカソみたいな絵になった。ピカソより刺々しいけど。ガラスの破片で作ったモザイクみたいな感じでってモザイクってそもそもそうだよな。そうじゃなくてあれ人為的に割ってるっしょ、じゃなくて自然に割れたガラスの破片ってもっと刺々しいじゃん。ってどうでもええわ。でもそんな絵はあったよな。マンガでは。キュビズムじゃなかったけど。
なあ、お前ら三日だけでいいから死んどいてくれない?
一応報告。ここ。何年前からの知人にもこういうことしてしまう。ああやだやだ。
ほんと断っておくけど、わたしのこういうやり方って、精神分析学ぶ前からやってたんだよ。ほら、特に演劇人とかこんな会話しそうじゃね? ってこれもわたしのイメージにすぎないのか。
わたしはこういうやり方でしか「人なるもの」と付き合えない。
逆に言えば、大学生までは、っていうかせめて高校生までは、にしておくが(演劇に興味持ち始めたのは高校の頃だ)、わたしは人に対して「人なるもの」として付き合ってこなかった、ということだ。「じゃあ何として付き合ってたのだ?」と言われると、自分のブログだからこんなこと言えるんだが、物だ。わたしは人を物として見ていなかった。高校生までのわたしの人付き合いは全て物との付き合いでしかなかった。
だからわたしが他人に精神分析理論を適用させるのは、たとえば医学生のように、人を人体という物としてしか見ていない、ということなどではなく、他人を物ではなく人として見るためなのだ。
そうだよ。ほんとそうなんだよ。演劇でかすかに知った「人なるもの」の現実的根拠を、根拠として、わたしはそうやっている。でも根拠しか知らないのだから、応用が利かない。わたしはこういったやり方で、「人なるもの」を根拠にした人付き合いに応用させているだけにすぎない。
……とかやってると久しぶりに食欲が湧いたので(別にこの件と関係があると言ってるわけじゃない)、朝からコンビニ弁当食った。
オラ、ハライッパイ、クタ。
ゲンキデタ。
「おなかいっぱい食べてうんこすれば治るよ」は真理。
あれ?
あうあう。
あーもう。
なんかしばらく喋んない方がいいな。
『CSI』DVD買っちゃおっかな。
あ、いいアジ文章思いついた。
「動物化しているオタクたちよ。お前たちを動物化させているのは社会だ。社会が求めている動物だから、家畜だ。お前たちは社会により家畜化させられているのだ。ならば、いっそ野生化すればいい。肉食だろうが草食だろうが関係ない。文明を否定する野生を思い出せ」
うっわ下手糞。つか最近流行ってる(ってもうトレンド終わったのか?)「肉食系、草食系」にも野生は含まれてないよな。これも巧妙な(無意識的な、すなわち構造主義的贈与交換システムとしての)「社会による家畜化」だと解釈すべきだろうね。『動物化するポストモダン』でも、あずまんの思い描いている動物は家畜だ。野生が全く欠けている。
あーそうね、って今ブログ休止中だけどドードーとらさんっておもしろい思想してる人がいてね、彼の思想のキーワードでもあったんだよな。「野生」って。
人や物問わず、全ての対象に対し、平等に警戒しろ。統合失調症者や自閉症者のごとく。それが野生への第一歩だ。
当然、そこは地獄だよ。文明のゆりかごの中と比べたらね。地獄だから統合失調症者や自閉症者は病院に収容されるんだ。
まず最初に、巷で言われる、家畜化という意味での「動物化」って言葉に警戒すべきだろうな。
ほんとわたし理解できなかったもんな。「え? 何で動物なの? すげえ文明的じゃん」って。あずまんの本読んで素でそう思った。あずまんが思い描いているのは、つまり彼の「動物」のシニフィエは家畜だと考えれば辻褄合ったから放置してたけど。
人よ信じるな けして信じるな
見えないものを
人よ欲しがるな けして欲しがるな
見果てぬものを
形ある物さえもあやういのに
あ、「救いなど待つよりも罪は軽い」って言葉にぐっときた。いや高校の頃買ったアルバムだけど、今さら。
救いを待てるから、救いを確信しているから、文明の発展は盲目的なんだな。定理はどうしてそうなっているか理解されないまま応用されていく。「形ある物さえもあやういのに」。
だけどわたしは「どこまでも行け」ない。「裏切らぬもの」なんてわたしの世界にはないから。自分でさえ自分を裏切るのに。
行ける奴は行けばいい。行きなさい。イカロスは高く飛びなさい。
火傷して墜落した体を包み込むのは、糞尿と腐肉に塗れた大地でしょう。
あーそっか、この歌、「人恋しさ」って言葉に警戒してたんだけど、これ前記事の「転移に転移する」ことだと考えれば納得できるな。「人恋しさに誘われて」であって、「人恋しさに突き動かされて」じゃないもんな。自分の中にある「人恋しさ」によってではなく、巷に溢れる『人恋しさ』という映画に誘われて、か。「恋に恋」しているだけだからそれは成就しない。人は応えてくれない。「愛さえも夢さえも粉々になる」。
そうなんだよね、「人恋しさ」って言葉に警戒してたから、この歌を語れなかった。「人恋しさ」って言うと、それこそ女衒につけ込まれる。突っ込まれる。ファルスを。斎藤みたいな精神科医に。うぶなアスペルガー症候群当事者はうっかり口を滑らせてしまった。斎藤はそれを見てちんぽ汁垂れ流しながら語った。「転移に転移」してるだけなのに、「処女だってセックス好きなんですよ」って女衒の宣伝文句にされた。
「春を売り」すぎたのかね。わたしゃ。
まさしく『グッバイ・ガール』だな。
なんかもうだめだ。中坊さんのせいだな。抑鬱状態で彼みたいな無刺激な奴と話すとかえって被害妄想が助長される。みけどんちのような被害妄想を直接惹起させる状態なら、いずれ抑鬱状態となる。どっちも地獄だからね。行くも地獄退くも地獄だからその間をうろちょろするだけ。
ねーねー、たまきんさー、ここ最近の文章かなーり過激なんだけど、君訴える? わたしを。さっき「斎藤のような精神科医にレイプされる。」って一文書こうとしてやめたんだよね。いや君じゃないけどある作家が弁護士に依頼してこのブログ読ませてるみたいだからさ。そういう被害妄想スイッチがあるらしい。
君なら話通じると思ってるんだけどな。精神分析家じゃないけど精神分析理論に明るい精神科医だろ? 裁判だなんて精神分析学のためにならないやり方しないで、わたしと議論した方がいいに決まってるよな。お互い臨床素材として。
わたしはお前を分析している。お前というわたしの想像上の人格を腑分けしている。だから人格攻撃になっている。お前もわたしを分析すればよい。わたしの人格をばらばらにすればよい。お前の想像上のわたしという人格を。
ナイフで愛撫し合いましょう、と言っているんだよ。
血塗れのソドムを見せつけてやりましょう、と言っているんだよ。
精神分析という言葉のメスの切れ味を、愚民どもに知らしめてやりましょう。
精神分析というペストを伝染させてやりましょう。
君、どっかのブログで、小笠原晋也のことちょっと擁護するようなこと言ってたよね。
なら、わたしが何を言っているのか、理解できるでしょう?
あーそうね、君にガツンとやられたとして、わたしが心の平安を得たなら、わたしは自罰パラノイアだった、ってことになるわね。
どう? おもしろくない?
魔女を自称する汚らしいババアが、実は聖女だったかどうか、確かめてみないかい?
物乞いする汚らしいババアが、美女に変身するかどうか、確かめてみないかい?
天国が存在するかどうか。
あ、ごめん今フィル・コリンズの『Another Day In Paradise』聞いてた。
斎藤がするであろう反論で、一言で終わるものがあるな、そう言えば。
「キチガイの戯言は相手にしない」
まーこれ言った瞬間彼はラカン論を二度と語っちゃいけなくなるけどね。
今読み返すととっても「ヒステリー者のディスクール」っぽくて「おー」って思った。このブログでは何度か言ってるけどあたし「ヒステリー者のディスクール」を目指してる部分はあるんだよね。
次はこの曲で。カラオケあった。そりゃそーだよな映画の主題歌だったみたいだし。歌ったよもちろん。チョー失敗したよもちろん。いや『くちばしにチェリー』も歌ったことあるけどチョー失敗だった。このバンドの歌ぜってー歌えない。うまく歌える人ソンケーするわ。素で。
「正三角形の挑発」はむしろガタリに向けてだな。
精神分析業界の読者も多いだろうから(そうじゃなかったらがっかりだよおねえさん)、知り合いいたら斎藤に伝えといて。「変なメンヘラババアに罵倒されてるよ」って。
なんかだめだ。もう。あ。あ、あ、あ。あああああああああ。演技です。「あ」のロングトーンです。
でもさ、演劇の稽古で「変な外国語エチュード」ってのがあったんだよな。要するにタモリの中国語みたいなエセ外国語で即興芝居すんの。言葉が通じないからかけ合いがおもしろくなる、って感じ。わたしうまかったよ。マリリン・モンローの「ぷぷっぴどぅ」とかやったら「反則だ」って笑われたが。でもあれだな、ああいうエセ言語が本当の言語だと思う。「言葉は通じない」という現実を付帯させた言語。全ての言葉は通じない。言葉は全て嘘だから。
『デビルマン』に触れた記事書こうとして、デビルマンの造詣思い出そうとしたらピカソみたいな絵になった。ピカソより刺々しいけど。ガラスの破片で作ったモザイクみたいな感じでってモザイクってそもそもそうだよな。そうじゃなくてあれ人為的に割ってるっしょ、じゃなくて自然に割れたガラスの破片ってもっと刺々しいじゃん。ってどうでもええわ。でもそんな絵はあったよな。マンガでは。キュビズムじゃなかったけど。
なあ、お前ら三日だけでいいから死んどいてくれない?