野生の復讐
2009/12/18/Fri
「ブリコラージュ/エンジニアリング」って二項対立を考えてたら、すげー簡単な言い換えが手元にあった。これ要するに「アンテ・フェストゥム/ポスト・フェストゥム」じゃん。たーんじゅーん。
ブリコラージュってなんやかや小難しい言い方してるけど要するに行き当たりばったりってことっしょ。でエンジニアリングは未来を予測して作るわけじゃん。設計ってそういうものっしょ。もろアンテとポスト。
んなことじゃなくて、あること思い出して、「あーあれもブリコラージュだよなー」って思ったんだわ。
それはね、スナックのお料理。わたしがよく行く店がそうなだけかもしれんが、スナックの調理設備なんてほんと大したことないじゃん。よく行ってるカラオケスナックなんかは調理場広そうだけどね。こないだ新メニューとか言って食わされた豚鍋の作り方聞いたら、ダシはホンダシだったりする。いや別にいいんだけど。カラオケスナックにそんな料理は期待していない。うまかったし。普通に。「おふくろの味は化学調味料の味」。
んで、わたしがバイトしてたスナックなんて、調理場なんて一畳あるかないかくらいだったのね。電子レンジが大活躍してました。
でもだな、こう、流れ者系っつか、店を渡り歩いている四十うん歳のホステスさんがいてな。見た目三十前後。役者の世界にいたわたしでもびびったくらい。普通にきれい。で、その人料理が上手で、料理隊長みたいなことしてたんだわ。
設備が整ってないのにすげーなー、と感心した。
たとえば、下ごしらえした材料があるわけじゃん? んでオーダーがあったら普通に作るんだけど、あまりそうになったら、それチンしただけでお通しで出したり。いや充分通用するんだけど。
わたしなんかは、近くに深夜スーパーがあったから(つっても自転車で往復十分ちょいかかるな)、足りなくなったら乾き物でいいじゃん、とか思うわけだけど、お客さんはそれだと物足りないでしょ。食欲の問題じゃなくて、手作りじゃない既製品を出されることに、気持ち的に物足りなさを感じる。だから、あまりものをチンするだけでも、そっちを出した方が、気持ち的にお客さんは満足する。
たとえばこういった「スナックの料理」なんてのも、行き当たりばったりなわけで、ブリコラージュだよな、と思うんだ。
っていうか、よく「あり合わせだけど」つって料理作ったりするじゃん、それってすっごくブリコラージュじゃない? むしろ「あり合わせ」って一言がブリコラージュがどんなものか表わしてなくない? って話にすぎないんだな。
……あ、終わっちゃった。なんか短いしもうちょっと思考実況してみよう。思考は続いてるから。
でも、行き当たりばったり度で言えば「足りなくなったら乾き物買ってくればいい」って発想のわたしの方がそうとは言えるんだけど、既製品を使っているってことでそうじゃない、となる。
あと、気持ちの問題を考慮しているのは、ブリコラージュとは言いがたいとは思う。とはいえ、売り上げに影響が出るから、という理由なら、ブリコラージュでOKだと思う。その彼女が、それこそ水商売女のすれた感覚で、「そっちの方が最終的に売り上げがよくなるから」って考えでやってたら、ブリコラージュだけど、彼女が、たとえばうぶい新婚奥様みたいにそのこと自体に何らかの喜びみたいなもんを感じてたら、ブリコラージュじゃないよな、と思う。
でも、すげーテキパキしてたからか、ほんと「料理製造機」ってイメージだったのね。いや自分の母親でさえそう思っちゃう人のイメージだけど。だから、「ブリコラージュとは自分が物自体的な物として物と接する作業そのものである」とするわたしの論とも合致する。
んで、わたしが彼女の調理作業をブリコラージュだと思う一番の理由は、彼女自身がその作業を好んでやっていたわけじゃなかった、というところ。さっきの話なら、彼女は新婚奥様みたいにお客さんが喜んでくれるのが嬉しいと思ってやってるわけではない、ということ。
ってのはね、店開ける前に食事するんだけど、彼女いつも「てんや」とか「吉野家」のお持ち帰り弁当食べてたのさ。あんだけ料理上手なら自分で作ればいいじゃん、とか思うのだよね。わたしが「てんや」とかそんなに好きじゃなかったからそう思っただけかもしれないけど。でも「めんどくさい」って。
でわたし思ったんだ。彼女は、わたしが大道具で物たちに振り回されていたように、調理作業をしていたんじゃないか、って。大道具の作業は、もちろん演出家の要望に沿うことを目的としているが、別に喜びを分かち合うためにやっているわけじゃない。単なる機械的な作業。自分が機械となっている。物自体的な物になっている。
「自分が物自体的な物として物と作業する」状態とは、物を支配しているわけではない。というより、自分が物と同列になって、物を振り回したり物に振り回されたりすることだ。「支配し支配されている」などという言い方も可能だが、「支配」という言葉を当てはめること自体が間違っているような状態。
それは決して気持ちのいいことではない。結果生じる事柄がその作業の報酬となっても報われるわけではない。それだけで独立している作業。
彼女は自分の調理作業を、そういう風に感じていたからこそ、いかにも「支配可能化された物」としての量産品を好んで食べていたのではないか、と思ったわけだ。今。
いわば、開店前のカウンターで「てんや」の弁当をもそもそ食べる彼女は、これまで自分を振り回してきた、そして今日も自分を振り回すであろう、支配不可能な物自体的な物に対して、人として、文明人としての復讐をしていたわけだ。支配可能な物としての弁当を食べることによって。
もちろん、これは主婦にもあてはまろう。旦那が「おいしい」と言って食べる姿に喜びを感じなくなった主婦は、ブリコラージュに近いやり方で食事を作っているのかもしれない。この時の主婦は、お客さんが喜ぶからじゃなくて最終的に売り上げに繋がるから手料理を作るホステスと同じだ。この時の主婦たちは自分が物となって物と対峙し作業をしている、のかもしれない。
いわば、彼女たちは機械的に、機能主義的に作業をしているのだ。
わたしは、巷に溢れるブリコラージュについての言説などより、よっぽど彼女ら、というかその四十代ホステス(今もう五十越えてるな。何やってんだろ)の調理作業の方が、野生的に感じる、という話。
っていうか、ちゃんとしたレストランなんかを考えるのもおもしろいかもね。そういった調理場は整っているだろう。「この道具はこういった目的のためにある」という道具が揃っているだろう。そういった意味ではエンジニアリング的である。しかし、市場でたまたまよい魚が手に入ったとする。その時シェフはメニューにない一品を作るだろう。これは行き当たりばったり的で、ブリコラージュ的と言える。いわばグルメというアートの作業場は、エンジニアリングではあるが一部にブリコラージュ的な作業をあえて残している、などという言い方になる。
……ま、今日のはほんと垂れ流しだな。巷の構造主義的言説からはいろんな「間違い」を指摘される文章になるだろう。
お前らの方が間違ってるんだよ、と言いたいわ。そもそもレヴィ自身も間違っていたかもしれない。
言ってるだろわたしゃ。わたしは他人とシニフィエが違う。見ている世界が違う。そんな人間が語る言葉は、「世界は同じ」だと思い込めているパラノイアどもとは異なるものになるだろう。異なるのであって、別に間違いではない。間違いとしているのは、単にお前らのパラノイアックな正常という精神疾患による症状だ。お前が勝手に採決した脳内多数決で妄想的に自分の言っていることが正しいと思っているだけだ。
だからわたしは別に自分の言うことが「正しい」とは言わない。ただ「間違っていない」と言う。
見ている世界を正直に言っているだけなのに「嘘だ」とされ続けてきたキチガイの復讐だ。これは。お前たちの言う「嘘を言うな」は「自分たちの主観世界にとって都合のいいことだけを言え」ということだと告発しているのだ。
そんな奴らは根こそぎ死ね。
わたしというパニック障害者にとっての「パニック」のシニフィエも違うのかもしれない。周りの人と。わたしにとってのパニック(発作とはまた違う常態的なもの)とは、論理的、合理的思考がフル回転している状態だ。合理的思考がフル回転するからパニックになる。このパニックはまさしく人工知能の問題における「フレーム問題」に相当する。人工知能がする思考は合理的思考に決まってるだろ。わたしは「フレーム問題」を起こしているロボットこそがブリコラージュしていると考える。それこそが野生の思考だと。
だから、むしろブリコラージュがなぜ「混乱」や「パニック」といったシニフィアンと連鎖しないのかが、理解できない。
間違っているのはお前らなのかもしれないよ。
きちんと考えてみろよ。合理的に。その「構造」を外してさ。「設計図」から抜け出してさ。「超自我」を破壊してさ。すなわち、精神異常者になってさ。
「ブリコラージュに混乱はない」とするのは、それこそお前らの頭の中にある「構造」のせいじゃないか? 贈与交換的な営業トークになっているだけじゃないか?
そういうことを言ってるんだあたしゃ。
……そっか。そうだよ。お前らってもしかして、「パニック」や「混乱」とは非合理的なものだ、っていう固定観念があるだけなのか? そうじゃないのか?
じゃあ、その単なる固定観念を押しつけるのって、いやそのこと自体が、お前らの傲慢さの表れではないか? 正常という精神疾患の症状なのではないか?
死ね。ほんと死ね。いますぐ死ね。死ねないなら殺してやる。お前ら(自分に都合のいいように改竄しているという意味で)エセ構造主義者どもはみんな死ね。
死ね。
何が「野生の思考」だ。
実際に「野生」じゃない奴が思い描く「野生」のシニフィエの方が間違っているに決まってるだろうが。
死ね。
あ、でもそうだね。「混乱」じゃなくて「矛盾」ならそうかも、と思う。こっちの世界にゃ矛盾はないよ。混乱するけど。つまり調和なんかしてないけど。調和なんかしていない。ただそうであるだけ。ただそうであるだけだから矛盾はない(とは言えなくない)。
そっか。矛盾がないのがイコール調和している、ってのも固定観念じゃないか?
つーか、「構造」の中だけで生きているお前ら存在そのものが矛盾なんだ。
お前らという「人なるもの」が、正常という精神疾患そのものが矛盾なんだ。
本当のブリコラージュを眼前化させたいなら、お前ら全員死ねばいい。そしたら自然という矛盾のない、だけど調和はしていない現実が、立ち表れるだろう。
ほら、自殺しろよ早く。合理的に考えてそうなんだから。
別に「脂というブロガーに殺された」って遺書に書いていいよ。本当最近実際にそんなことされても何にも感じなさそうで困る。
人なんてただの一種の動物にすぎないのが、本当の「野生の思考」だ。だから野生動物は人間を襲う。
この記事から。
=====
どなどなどーなーどーなー♪
荷馬車が倒れて子牛が脱走する。
道端に立つ、目に涙を浮かべ見ていた子供を、角でなぎ払う。
一緒に揺られていた何匹かの子牛が、銃で撃たれる。
しかし知ったこっちゃない。
血に濡れた黒毛を艶かしく躍らせながら、子牛はリアルを顕現させる。
って今wikipedia見たらスペイン闘牛禁止になってるのね。
うぜーな動物愛護団体。奴らのやっていることこそ精液ぶっかけまくりだ。
多少抑圧隠蔽劣化しているとはいえ立派な残酷演劇の一つとして考えてあげなくもないのに。
こうやってキチガイは棄却されていく。精液で窒息死していく。
Q.子牛は何故自分に同情してくれる子供を襲ったのか?
A.襲いやすかったからです。
酒鬼薔薇とかこう言いそうだもんな、確かに。
=====
子供を襲った野生的な子牛の思考を、構造主義で説明してみろよ(大爆笑)。
あ、野生の人間たちの思考にブリコラージュという概念を当てはめたこと自体は評価するよ。わたしゃ基本構造主義者だ。巷の構造主義者の言説が詐欺トークにしか聞こえないだけで。
なぜわたしは構造主義者だと思う? 「構造」が壊れているからこそ、お前らが自覚していない「構造」を、社会からもお前ら個人個人からも感知できるんだ。
「構造」から排除され続けた人間だからこそ「構造」の存在を一番よく知っているんだ。
だけどな。野生の人間たちには「構造」もあり、ブリコラージュもある、これは事実だと思う。先ほど述べたように現代人にも両方あるから。人間は子牛じゃないことくらいわたしにだってわかる。
だけどな。
本当のブリコラージュとは、「構造」がない生物がする作業なんだよ。「フレーム」がないからロボットはパニックを起こすんだよ。
お前らそこを勘違いしてないか?
その勘違いが、本当のブリコラージュを劣化させていないか?
「構造」が壊れた野生の人間、つまり精神疾患者の作業こそが本当のブリコラージュなのに、『アンチ・オイディプス』なら「自己増殖する机」がそうなのに、それを取り上げていることにならないか? もっと言えば、動物の作業や思考を取り上げてることにならないか?
「構造」を土台としてブリコラージュや野生の思考があるのではなく、ブリコラージュや野生の思考が土台となって「構造」が生じているんだ。
ラカンの言葉を思い出す。「構造主義的贈与交換システム、すなわち男性的享楽に取り込まれた交接」。動物にしてみれば交接だってブリコラージュであり野生の思考によるものだ。人間たちが勝手にセックスに幻想を付加させているだけで。そういう意味では、人間たち全てが二次元イラストでオナニーするオタクたちだ、と言える。どの幻想が、その社会、文化にとって有効か、あるいは好まれるか、の問題にすぎない。ホステスに「どんな体位が好き?」とか聞いてくるオヤジと同じだな。いやスケベオヤジ同士で「どの体位がいいか」と話し合ってるようなもんか。その時オヤジたちの頭に浮かんでいるのは、肉体としての女性だろう。そうだよ。その時のシンボルは肉体になる。未開文明の人たちは現代人と比べて肉体を露出させてるよな。レヴィの文章でも肉感的に描かれてるよな。少なくともレヴィは彼らを肉体的に感じていたと思うよ、あたしゃ。
これがお前らが崇め奉ってる「構造」だよ。ラカン派ではそういうことになってる。構造主義が「構造」を神とする宗教だとしたら裏切り者だね。背徳者だね。攻撃しちゃいなよ、ラカニアンたちを。「神聖な「構造」を汚すな」とか言って。で、そんなこと言ってくる構造主義者に対しラカニアンたちは「ファルスを傷つけられたことで怒ってる」とか陰口を叩くだろう。
お前らってほんと征服者なんだな。生まれながらの。
人間とは征服する動物だ。
自覚できたなら、自殺しなさい。
自殺はなにも悪いことじゃない。自殺を悪いこととするのはそれこそその「構造」のせい。
わたしはお前たちに自殺を許してあげてるんだよ? 自殺という事象を自然に返してあげているんだ。
慈悲深いテリブルマザーがこう言っているんだよ。
「さあ、死になさい」
この文章が何を意味しているのかわかる? この文章に同意する人間は自殺しなさいって言ってるの。
この点ですでにわたしは「構造」からこぼれ落ちていることがわかるでしょ?
ここはそういうブログなの。お前たち征服者が地球上の大地ほとんどを征服してしまったから、こんなところでしか言えないの。
この文章はね、「野生の復讐」よ。「野生の思考」の結果、紡ぎ出された復讐。
新宮一成『ラカンの精神分析』から。
=====
「大学の語らい」の式では、自然は知の作用を受けている。だが、もしも、その自然そのものを超えるような知はなく、自然そのものの中に知が含まれていると考えるならどうだろうか。それはあながち非科学的な態度であるとは言えない。自然は法則を内在させており、その法則を外部から敷いた神はないとする一般的科学観にそれは近い。そこで、自然aを知S2の方向へ押し進めてみよう。そして、主体/Sを、その自然から作用を受ける者の位置へ押し上げたなら、分析家の語らいになる。ラカンはこうした科学の語らいから分析家の語らいへの動きを、一つの「前進」であると受け止めていた。
=====
わたし構造主義の本結構読んだけど(今はごぶさた)、九割方「その自然そのものを超えるような知」はあるとしてると思える奴らだったなあ。
「その自然そのものを超えるような知」があるとする態度って、自然である未開文明を征服する態度になるよな。
え? どうだい?
まずお前ら自身の心をフィールドワークしてみろよ。「構造」ってな無意識的なもんなんだろ?
口先だけで「自然そのものの中に知が含まれていると考える」って言っても無駄よ。無意識は、「構造」は、お前らの自覚なしに表れるものだから。
こういう奴が「神はいない」なんて言っても嘘だよな。そういう奴に限って自己肯定がうまい。
「お前の自覚のない自己肯定のうまさは、お前の心の奥底に、神がいるからだよ」
まるでむしろ宗教者の言い分のようじゃないか。
だからわたしは自分は構造主義者だと言っている。
自然は知を内包している。わたしは自然の中の、知の外側から知を見ているだけ。
メタ視点? 全然メタじゃねえよ(笑)。むしろ村八分視点だ。
村八分にされてるわけだから、復讐。
おわかり?
要するに機能主義と構造主義の差異なんてさー、そいつが未開文明をどう見るかの違いだろ?
わたしは、どっちでもいいけどそういう風に見ているお前ら自身を考慮しろ、つってるだけなんだが。まずお前ら自身をフィールドワークしてからフィールドワークしろ、と。測定機械の検査をしてから測定しろ、と。観察者を観察してから観察しろ、と。
そうすれば矛盾は減少するさ。調和はしないだろうがな。ってしつこいねごめんね。
ま、自分自身の観察を究極まで推し進めたらニーチェの言う「深淵」に行き着くだろうな。
いや大丈夫だよ。一歩手前で人は元の世界に戻る。「深淵」に落ちていってもまるでトランポリンのようなものが手前にある。跳ね返る。そういう傾向がある。それを臨床により実証したのが精神分析だ。
トランポリンで跳ね返った瞬間が、「構造」の外延に触れた瞬間だよ。
あ、だからもちろん、「構造」が壊れているキチガイたちはトランポリンで跳ね返らない、ってことになるがね。キチガイに自問自答させたら狂気は悪化する、ってだけの話さ。
ほんとお前ら自分に都合の悪いことをないことにするのがうまいな。
死ね。
まあ妥協的にまずラカン派と大喧嘩しろ。わたしは多分おもしろく見れる。
馴れ合っちゃだめよ? 人間同士だとそうなっちゃうことが「構造」の罠なんだから。お前らは一生「構造」の外に抜け出せられない。
とはいえあれだ、ヒステリックにぎゃーぎゃー言い合ううだけだとさすがのわたしもイミフになってつまらなく思うだろうから、こんな感じっていい具体例があるので教えとくね。
2ちゃんねるの「殺伐」。
あ、ここで「警戒」って言葉使ってるけど、「殺伐」も「警戒」よね。うん、あずまんの言う「動物」ってのは、オタクたちには当てはまるかもしんないけど、2ちゃんねらじゃないよな。あずまんの思い描く「動物」には「殺伐」さが足りない。「殺伐」さが足りない「動物」たちに当てはまるオタクって『リアルげんしけん』の後輩オタクたちの方になるね。巨乳篠房先輩の人生なんて「殺伐」としてそうだろ。
あ、なんかそれ系でおもろい記事あったのでリンクしとくね。
あと、なんか「構造」について悪い言い方ばかりしちゃったので、自分勝手にフォローしとくと、精神分析的に言えば、それって、っていうかそれの本当はないけど愚民どもがあると信じて疑わない根拠は、聖女テレジアを貫いた主のちんちんよ。あれ? フォローになってない?
わたしが死んでも、わたしは怨霊となってやる。
お前らという傲慢な動物の個体数を少しでも減らしてやる。
あれ? ファルスって「現実の二乗」じゃなくね? ってそうか、「現実の二乗じゃなくて現実を煮しめたもの」って言おうとしたけどそれは父の名になるのか。それが折り返されるから「現実の二乗」か。
ういうい、納得。って納得できねー、なんで「支配不可能さ」が折り返されたら「支配可能」になんの? ってそうか、折り返し先の自分の身体(「寸断された身体」との対比で「統合された身体」と呼んでもいいか)はエポケーみたいになるのか。エポケーとエアポケットって似てるよね。支配不可能ってことは把握不可能ってことだから、「これより先はないんだよ」ってことになって、折り返された「絶対的支配不可能さ」が棄却されるわけか。棄却できるわけか。本当の「絶対的支配不可能さ」って、正真正銘把握できないことって、存在しないってことだもんな。「支配不可能さ」を折り返して二重にして絶対化させて、「存在していない」というやり方で支配することになる、ってことか。
去勢済み主体たちの体の中はからっぽだ。去勢済み主体たちに臓器は存在していない。「いやそんなことはない、自分の体内には臓器がある」だって? うん、他者にそう教えられたからそう思ってるだけ。お前らが考える自分の体内の臓器は、後付の想像上のものだ。
わたしは違うよ。わたしはこのブログでよく「身体反応」とか書いてるじゃん。あ、これ条件反射とかそういった意味じゃなくて、体内の反応って意味ね。このブログで使われている「身体反応」って全部そうだと思ってくれて構わない。うん、そうじゃない意味で使った記憶は今んところない。わたしは、臓器はよく知らんが体内に何かがあることは知っている。つかそもそもてんかんを疑われてた人だぜ? 体内(脳内ももちろん含む)の反応に翻弄された経験がわたしにはある。こういった、自分の体内の反応を直接的に感受しそれに興味を向けることとは、要するに自体愛である。お前らは自体愛を卒業できている。自体愛がどういうものか忘れてしまっている。つーかそうだったからこそしゃっくりを自力で止められたりしたのかもね。お前らより体内の反応に敏感だから。
あーなんか今でこそ人体解剖とか検死とか普通だけど、それをその地域で最初にやり始めた人って、よっぽどだったんだろうね。その人以降の人たちは「医学・学問の発展のため、世のため人のため」って本気で思ってたかもしんないけど、最初にやった人はほんと自分の享楽のためにやってたんだろうな。口では「世のため人のため」とか言っててもそれこそスキゾイド型サイコパスのごとく嘘として言ってたってなるのか。そういった人たちはなべてファルスが壊れてそうだ。つまり精神病者って言いすぎだけどわたしの言葉なら未去勢的な精神疾患者と範囲が広がるから楽。
そっかそっか、この記事とか、理屈的にトランポリン=皮膚ってことになるんだが、説明できなかったから言わなかったんだよな。この文章によって、からっぽな体の表面としての皮膚とは先述のトランポリンである、と言えるようになったわけだ。
おーけいおーけい。
ブリコラージュってなんやかや小難しい言い方してるけど要するに行き当たりばったりってことっしょ。でエンジニアリングは未来を予測して作るわけじゃん。設計ってそういうものっしょ。もろアンテとポスト。
んなことじゃなくて、あること思い出して、「あーあれもブリコラージュだよなー」って思ったんだわ。
それはね、スナックのお料理。わたしがよく行く店がそうなだけかもしれんが、スナックの調理設備なんてほんと大したことないじゃん。よく行ってるカラオケスナックなんかは調理場広そうだけどね。こないだ新メニューとか言って食わされた豚鍋の作り方聞いたら、ダシはホンダシだったりする。いや別にいいんだけど。カラオケスナックにそんな料理は期待していない。うまかったし。普通に。「おふくろの味は化学調味料の味」。
んで、わたしがバイトしてたスナックなんて、調理場なんて一畳あるかないかくらいだったのね。電子レンジが大活躍してました。
でもだな、こう、流れ者系っつか、店を渡り歩いている四十うん歳のホステスさんがいてな。見た目三十前後。役者の世界にいたわたしでもびびったくらい。普通にきれい。で、その人料理が上手で、料理隊長みたいなことしてたんだわ。
設備が整ってないのにすげーなー、と感心した。
たとえば、下ごしらえした材料があるわけじゃん? んでオーダーがあったら普通に作るんだけど、あまりそうになったら、それチンしただけでお通しで出したり。いや充分通用するんだけど。
わたしなんかは、近くに深夜スーパーがあったから(つっても自転車で往復十分ちょいかかるな)、足りなくなったら乾き物でいいじゃん、とか思うわけだけど、お客さんはそれだと物足りないでしょ。食欲の問題じゃなくて、手作りじゃない既製品を出されることに、気持ち的に物足りなさを感じる。だから、あまりものをチンするだけでも、そっちを出した方が、気持ち的にお客さんは満足する。
たとえばこういった「スナックの料理」なんてのも、行き当たりばったりなわけで、ブリコラージュだよな、と思うんだ。
っていうか、よく「あり合わせだけど」つって料理作ったりするじゃん、それってすっごくブリコラージュじゃない? むしろ「あり合わせ」って一言がブリコラージュがどんなものか表わしてなくない? って話にすぎないんだな。
……あ、終わっちゃった。なんか短いしもうちょっと思考実況してみよう。思考は続いてるから。
でも、行き当たりばったり度で言えば「足りなくなったら乾き物買ってくればいい」って発想のわたしの方がそうとは言えるんだけど、既製品を使っているってことでそうじゃない、となる。
あと、気持ちの問題を考慮しているのは、ブリコラージュとは言いがたいとは思う。とはいえ、売り上げに影響が出るから、という理由なら、ブリコラージュでOKだと思う。その彼女が、それこそ水商売女のすれた感覚で、「そっちの方が最終的に売り上げがよくなるから」って考えでやってたら、ブリコラージュだけど、彼女が、たとえばうぶい新婚奥様みたいにそのこと自体に何らかの喜びみたいなもんを感じてたら、ブリコラージュじゃないよな、と思う。
でも、すげーテキパキしてたからか、ほんと「料理製造機」ってイメージだったのね。いや自分の母親でさえそう思っちゃう人のイメージだけど。だから、「ブリコラージュとは自分が物自体的な物として物と接する作業そのものである」とするわたしの論とも合致する。
んで、わたしが彼女の調理作業をブリコラージュだと思う一番の理由は、彼女自身がその作業を好んでやっていたわけじゃなかった、というところ。さっきの話なら、彼女は新婚奥様みたいにお客さんが喜んでくれるのが嬉しいと思ってやってるわけではない、ということ。
ってのはね、店開ける前に食事するんだけど、彼女いつも「てんや」とか「吉野家」のお持ち帰り弁当食べてたのさ。あんだけ料理上手なら自分で作ればいいじゃん、とか思うのだよね。わたしが「てんや」とかそんなに好きじゃなかったからそう思っただけかもしれないけど。でも「めんどくさい」って。
でわたし思ったんだ。彼女は、わたしが大道具で物たちに振り回されていたように、調理作業をしていたんじゃないか、って。大道具の作業は、もちろん演出家の要望に沿うことを目的としているが、別に喜びを分かち合うためにやっているわけじゃない。単なる機械的な作業。自分が機械となっている。物自体的な物になっている。
「自分が物自体的な物として物と作業する」状態とは、物を支配しているわけではない。というより、自分が物と同列になって、物を振り回したり物に振り回されたりすることだ。「支配し支配されている」などという言い方も可能だが、「支配」という言葉を当てはめること自体が間違っているような状態。
それは決して気持ちのいいことではない。結果生じる事柄がその作業の報酬となっても報われるわけではない。それだけで独立している作業。
彼女は自分の調理作業を、そういう風に感じていたからこそ、いかにも「支配可能化された物」としての量産品を好んで食べていたのではないか、と思ったわけだ。今。
いわば、開店前のカウンターで「てんや」の弁当をもそもそ食べる彼女は、これまで自分を振り回してきた、そして今日も自分を振り回すであろう、支配不可能な物自体的な物に対して、人として、文明人としての復讐をしていたわけだ。支配可能な物としての弁当を食べることによって。
もちろん、これは主婦にもあてはまろう。旦那が「おいしい」と言って食べる姿に喜びを感じなくなった主婦は、ブリコラージュに近いやり方で食事を作っているのかもしれない。この時の主婦は、お客さんが喜ぶからじゃなくて最終的に売り上げに繋がるから手料理を作るホステスと同じだ。この時の主婦たちは自分が物となって物と対峙し作業をしている、のかもしれない。
いわば、彼女たちは機械的に、機能主義的に作業をしているのだ。
わたしは、巷に溢れるブリコラージュについての言説などより、よっぽど彼女ら、というかその四十代ホステス(今もう五十越えてるな。何やってんだろ)の調理作業の方が、野生的に感じる、という話。
っていうか、ちゃんとしたレストランなんかを考えるのもおもしろいかもね。そういった調理場は整っているだろう。「この道具はこういった目的のためにある」という道具が揃っているだろう。そういった意味ではエンジニアリング的である。しかし、市場でたまたまよい魚が手に入ったとする。その時シェフはメニューにない一品を作るだろう。これは行き当たりばったり的で、ブリコラージュ的と言える。いわばグルメというアートの作業場は、エンジニアリングではあるが一部にブリコラージュ的な作業をあえて残している、などという言い方になる。
……ま、今日のはほんと垂れ流しだな。巷の構造主義的言説からはいろんな「間違い」を指摘される文章になるだろう。
お前らの方が間違ってるんだよ、と言いたいわ。そもそもレヴィ自身も間違っていたかもしれない。
言ってるだろわたしゃ。わたしは他人とシニフィエが違う。見ている世界が違う。そんな人間が語る言葉は、「世界は同じ」だと思い込めているパラノイアどもとは異なるものになるだろう。異なるのであって、別に間違いではない。間違いとしているのは、単にお前らのパラノイアックな正常という精神疾患による症状だ。お前が勝手に採決した脳内多数決で妄想的に自分の言っていることが正しいと思っているだけだ。
だからわたしは別に自分の言うことが「正しい」とは言わない。ただ「間違っていない」と言う。
見ている世界を正直に言っているだけなのに「嘘だ」とされ続けてきたキチガイの復讐だ。これは。お前たちの言う「嘘を言うな」は「自分たちの主観世界にとって都合のいいことだけを言え」ということだと告発しているのだ。
そんな奴らは根こそぎ死ね。
わたしというパニック障害者にとっての「パニック」のシニフィエも違うのかもしれない。周りの人と。わたしにとってのパニック(発作とはまた違う常態的なもの)とは、論理的、合理的思考がフル回転している状態だ。合理的思考がフル回転するからパニックになる。このパニックはまさしく人工知能の問題における「フレーム問題」に相当する。人工知能がする思考は合理的思考に決まってるだろ。わたしは「フレーム問題」を起こしているロボットこそがブリコラージュしていると考える。それこそが野生の思考だと。
だから、むしろブリコラージュがなぜ「混乱」や「パニック」といったシニフィアンと連鎖しないのかが、理解できない。
間違っているのはお前らなのかもしれないよ。
きちんと考えてみろよ。合理的に。その「構造」を外してさ。「設計図」から抜け出してさ。「超自我」を破壊してさ。すなわち、精神異常者になってさ。
「ブリコラージュに混乱はない」とするのは、それこそお前らの頭の中にある「構造」のせいじゃないか? 贈与交換的な営業トークになっているだけじゃないか?
そういうことを言ってるんだあたしゃ。
……そっか。そうだよ。お前らってもしかして、「パニック」や「混乱」とは非合理的なものだ、っていう固定観念があるだけなのか? そうじゃないのか?
じゃあ、その単なる固定観念を押しつけるのって、いやそのこと自体が、お前らの傲慢さの表れではないか? 正常という精神疾患の症状なのではないか?
死ね。ほんと死ね。いますぐ死ね。死ねないなら殺してやる。お前ら(自分に都合のいいように改竄しているという意味で)エセ構造主義者どもはみんな死ね。
死ね。
何が「野生の思考」だ。
実際に「野生」じゃない奴が思い描く「野生」のシニフィエの方が間違っているに決まってるだろうが。
死ね。
あ、でもそうだね。「混乱」じゃなくて「矛盾」ならそうかも、と思う。こっちの世界にゃ矛盾はないよ。混乱するけど。つまり調和なんかしてないけど。調和なんかしていない。ただそうであるだけ。ただそうであるだけだから矛盾はない(とは言えなくない)。
そっか。矛盾がないのがイコール調和している、ってのも固定観念じゃないか?
つーか、「構造」の中だけで生きているお前ら存在そのものが矛盾なんだ。
お前らという「人なるもの」が、正常という精神疾患そのものが矛盾なんだ。
本当のブリコラージュを眼前化させたいなら、お前ら全員死ねばいい。そしたら自然という矛盾のない、だけど調和はしていない現実が、立ち表れるだろう。
ほら、自殺しろよ早く。合理的に考えてそうなんだから。
別に「脂というブロガーに殺された」って遺書に書いていいよ。本当最近実際にそんなことされても何にも感じなさそうで困る。
人なんてただの一種の動物にすぎないのが、本当の「野生の思考」だ。だから野生動物は人間を襲う。
この記事から。
=====
どなどなどーなーどーなー♪
荷馬車が倒れて子牛が脱走する。
道端に立つ、目に涙を浮かべ見ていた子供を、角でなぎ払う。
一緒に揺られていた何匹かの子牛が、銃で撃たれる。
しかし知ったこっちゃない。
血に濡れた黒毛を艶かしく躍らせながら、子牛はリアルを顕現させる。
って今wikipedia見たらスペイン闘牛禁止になってるのね。
うぜーな動物愛護団体。奴らのやっていることこそ精液ぶっかけまくりだ。
多少抑圧隠蔽劣化しているとはいえ立派な残酷演劇の一つとして考えてあげなくもないのに。
こうやってキチガイは棄却されていく。精液で窒息死していく。
Q.子牛は何故自分に同情してくれる子供を襲ったのか?
A.襲いやすかったからです。
酒鬼薔薇とかこう言いそうだもんな、確かに。
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子供を襲った野生的な子牛の思考を、構造主義で説明してみろよ(大爆笑)。
あ、野生の人間たちの思考にブリコラージュという概念を当てはめたこと自体は評価するよ。わたしゃ基本構造主義者だ。巷の構造主義者の言説が詐欺トークにしか聞こえないだけで。
なぜわたしは構造主義者だと思う? 「構造」が壊れているからこそ、お前らが自覚していない「構造」を、社会からもお前ら個人個人からも感知できるんだ。
「構造」から排除され続けた人間だからこそ「構造」の存在を一番よく知っているんだ。
だけどな。野生の人間たちには「構造」もあり、ブリコラージュもある、これは事実だと思う。先ほど述べたように現代人にも両方あるから。人間は子牛じゃないことくらいわたしにだってわかる。
だけどな。
本当のブリコラージュとは、「構造」がない生物がする作業なんだよ。「フレーム」がないからロボットはパニックを起こすんだよ。
お前らそこを勘違いしてないか?
その勘違いが、本当のブリコラージュを劣化させていないか?
「構造」が壊れた野生の人間、つまり精神疾患者の作業こそが本当のブリコラージュなのに、『アンチ・オイディプス』なら「自己増殖する机」がそうなのに、それを取り上げていることにならないか? もっと言えば、動物の作業や思考を取り上げてることにならないか?
「構造」を土台としてブリコラージュや野生の思考があるのではなく、ブリコラージュや野生の思考が土台となって「構造」が生じているんだ。
ラカンの言葉を思い出す。「構造主義的贈与交換システム、すなわち男性的享楽に取り込まれた交接」。動物にしてみれば交接だってブリコラージュであり野生の思考によるものだ。人間たちが勝手にセックスに幻想を付加させているだけで。そういう意味では、人間たち全てが二次元イラストでオナニーするオタクたちだ、と言える。どの幻想が、その社会、文化にとって有効か、あるいは好まれるか、の問題にすぎない。ホステスに「どんな体位が好き?」とか聞いてくるオヤジと同じだな。いやスケベオヤジ同士で「どの体位がいいか」と話し合ってるようなもんか。その時オヤジたちの頭に浮かんでいるのは、肉体としての女性だろう。そうだよ。その時のシンボルは肉体になる。未開文明の人たちは現代人と比べて肉体を露出させてるよな。レヴィの文章でも肉感的に描かれてるよな。少なくともレヴィは彼らを肉体的に感じていたと思うよ、あたしゃ。
これがお前らが崇め奉ってる「構造」だよ。ラカン派ではそういうことになってる。構造主義が「構造」を神とする宗教だとしたら裏切り者だね。背徳者だね。攻撃しちゃいなよ、ラカニアンたちを。「神聖な「構造」を汚すな」とか言って。で、そんなこと言ってくる構造主義者に対しラカニアンたちは「ファルスを傷つけられたことで怒ってる」とか陰口を叩くだろう。
お前らってほんと征服者なんだな。生まれながらの。
人間とは征服する動物だ。
自覚できたなら、自殺しなさい。
自殺はなにも悪いことじゃない。自殺を悪いこととするのはそれこそその「構造」のせい。
わたしはお前たちに自殺を許してあげてるんだよ? 自殺という事象を自然に返してあげているんだ。
慈悲深いテリブルマザーがこう言っているんだよ。
「さあ、死になさい」
この文章が何を意味しているのかわかる? この文章に同意する人間は自殺しなさいって言ってるの。
この点ですでにわたしは「構造」からこぼれ落ちていることがわかるでしょ?
ここはそういうブログなの。お前たち征服者が地球上の大地ほとんどを征服してしまったから、こんなところでしか言えないの。
この文章はね、「野生の復讐」よ。「野生の思考」の結果、紡ぎ出された復讐。
新宮一成『ラカンの精神分析』から。
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「大学の語らい」の式では、自然は知の作用を受けている。だが、もしも、その自然そのものを超えるような知はなく、自然そのものの中に知が含まれていると考えるならどうだろうか。それはあながち非科学的な態度であるとは言えない。自然は法則を内在させており、その法則を外部から敷いた神はないとする一般的科学観にそれは近い。そこで、自然aを知S2の方向へ押し進めてみよう。そして、主体/Sを、その自然から作用を受ける者の位置へ押し上げたなら、分析家の語らいになる。ラカンはこうした科学の語らいから分析家の語らいへの動きを、一つの「前進」であると受け止めていた。
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わたし構造主義の本結構読んだけど(今はごぶさた)、九割方「その自然そのものを超えるような知」はあるとしてると思える奴らだったなあ。
「その自然そのものを超えるような知」があるとする態度って、自然である未開文明を征服する態度になるよな。
え? どうだい?
まずお前ら自身の心をフィールドワークしてみろよ。「構造」ってな無意識的なもんなんだろ?
口先だけで「自然そのものの中に知が含まれていると考える」って言っても無駄よ。無意識は、「構造」は、お前らの自覚なしに表れるものだから。
こういう奴が「神はいない」なんて言っても嘘だよな。そういう奴に限って自己肯定がうまい。
「お前の自覚のない自己肯定のうまさは、お前の心の奥底に、神がいるからだよ」
まるでむしろ宗教者の言い分のようじゃないか。
だからわたしは自分は構造主義者だと言っている。
自然は知を内包している。わたしは自然の中の、知の外側から知を見ているだけ。
メタ視点? 全然メタじゃねえよ(笑)。むしろ村八分視点だ。
村八分にされてるわけだから、復讐。
おわかり?
要するに機能主義と構造主義の差異なんてさー、そいつが未開文明をどう見るかの違いだろ?
わたしは、どっちでもいいけどそういう風に見ているお前ら自身を考慮しろ、つってるだけなんだが。まずお前ら自身をフィールドワークしてからフィールドワークしろ、と。測定機械の検査をしてから測定しろ、と。観察者を観察してから観察しろ、と。
そうすれば矛盾は減少するさ。調和はしないだろうがな。ってしつこいねごめんね。
ま、自分自身の観察を究極まで推し進めたらニーチェの言う「深淵」に行き着くだろうな。
いや大丈夫だよ。一歩手前で人は元の世界に戻る。「深淵」に落ちていってもまるでトランポリンのようなものが手前にある。跳ね返る。そういう傾向がある。それを臨床により実証したのが精神分析だ。
トランポリンで跳ね返った瞬間が、「構造」の外延に触れた瞬間だよ。
あ、だからもちろん、「構造」が壊れているキチガイたちはトランポリンで跳ね返らない、ってことになるがね。キチガイに自問自答させたら狂気は悪化する、ってだけの話さ。
ほんとお前ら自分に都合の悪いことをないことにするのがうまいな。
死ね。
まあ妥協的にまずラカン派と大喧嘩しろ。わたしは多分おもしろく見れる。
馴れ合っちゃだめよ? 人間同士だとそうなっちゃうことが「構造」の罠なんだから。お前らは一生「構造」の外に抜け出せられない。
とはいえあれだ、ヒステリックにぎゃーぎゃー言い合ううだけだとさすがのわたしもイミフになってつまらなく思うだろうから、こんな感じっていい具体例があるので教えとくね。
2ちゃんねるの「殺伐」。
あ、ここで「警戒」って言葉使ってるけど、「殺伐」も「警戒」よね。うん、あずまんの言う「動物」ってのは、オタクたちには当てはまるかもしんないけど、2ちゃんねらじゃないよな。あずまんの思い描く「動物」には「殺伐」さが足りない。「殺伐」さが足りない「動物」たちに当てはまるオタクって『リアルげんしけん』の後輩オタクたちの方になるね。巨乳篠房先輩の人生なんて「殺伐」としてそうだろ。
あ、なんかそれ系でおもろい記事あったのでリンクしとくね。
あと、なんか「構造」について悪い言い方ばかりしちゃったので、自分勝手にフォローしとくと、精神分析的に言えば、それって、っていうかそれの本当はないけど愚民どもがあると信じて疑わない根拠は、聖女テレジアを貫いた主のちんちんよ。あれ? フォローになってない?
わたしが死んでも、わたしは怨霊となってやる。
お前らという傲慢な動物の個体数を少しでも減らしてやる。
あれ? ファルスって「現実の二乗」じゃなくね? ってそうか、「現実の二乗じゃなくて現実を煮しめたもの」って言おうとしたけどそれは父の名になるのか。それが折り返されるから「現実の二乗」か。
ういうい、納得。って納得できねー、なんで「支配不可能さ」が折り返されたら「支配可能」になんの? ってそうか、折り返し先の自分の身体(「寸断された身体」との対比で「統合された身体」と呼んでもいいか)はエポケーみたいになるのか。エポケーとエアポケットって似てるよね。支配不可能ってことは把握不可能ってことだから、「これより先はないんだよ」ってことになって、折り返された「絶対的支配不可能さ」が棄却されるわけか。棄却できるわけか。本当の「絶対的支配不可能さ」って、正真正銘把握できないことって、存在しないってことだもんな。「支配不可能さ」を折り返して二重にして絶対化させて、「存在していない」というやり方で支配することになる、ってことか。
去勢済み主体たちの体の中はからっぽだ。去勢済み主体たちに臓器は存在していない。「いやそんなことはない、自分の体内には臓器がある」だって? うん、他者にそう教えられたからそう思ってるだけ。お前らが考える自分の体内の臓器は、後付の想像上のものだ。
わたしは違うよ。わたしはこのブログでよく「身体反応」とか書いてるじゃん。あ、これ条件反射とかそういった意味じゃなくて、体内の反応って意味ね。このブログで使われている「身体反応」って全部そうだと思ってくれて構わない。うん、そうじゃない意味で使った記憶は今んところない。わたしは、臓器はよく知らんが体内に何かがあることは知っている。つかそもそもてんかんを疑われてた人だぜ? 体内(脳内ももちろん含む)の反応に翻弄された経験がわたしにはある。こういった、自分の体内の反応を直接的に感受しそれに興味を向けることとは、要するに自体愛である。お前らは自体愛を卒業できている。自体愛がどういうものか忘れてしまっている。つーかそうだったからこそしゃっくりを自力で止められたりしたのかもね。お前らより体内の反応に敏感だから。
あーなんか今でこそ人体解剖とか検死とか普通だけど、それをその地域で最初にやり始めた人って、よっぽどだったんだろうね。その人以降の人たちは「医学・学問の発展のため、世のため人のため」って本気で思ってたかもしんないけど、最初にやった人はほんと自分の享楽のためにやってたんだろうな。口では「世のため人のため」とか言っててもそれこそスキゾイド型サイコパスのごとく嘘として言ってたってなるのか。そういった人たちはなべてファルスが壊れてそうだ。つまり精神病者って言いすぎだけどわたしの言葉なら未去勢的な精神疾患者と範囲が広がるから楽。
そっかそっか、この記事とか、理屈的にトランポリン=皮膚ってことになるんだが、説明できなかったから言わなかったんだよな。この文章によって、からっぽな体の表面としての皮膚とは先述のトランポリンである、と言えるようになったわけだ。
おーけいおーけい。