ほんともういや
2009/12/19/Sat
前記事のコメント欄参照。
つっことでお休みさせてくれ。
なんか母校からあほみたいなアクセス数があったんだが(某笙野ファンの基準だと楽勝で「お目々らんらんでアクセスしてくるご病気の人」になるくらい)、駒小関連で来たのかね。わたしゃお前ら嫌いだよ。素で。
ってアク解調べたら「小笠原晋也」で検索して来たらしい。
ほうほう、そういう読み方なら許してやろう。たとえお前が小笠原みたいな医者を攻撃するために検索して辿り着いたとしてもな。わたしゃ小笠原じゃないし。小笠原という人間を擁護しているのではなく、彼のした行為を擁護しているんだし。
「天才と狂人は紙一重。京大は天才だけど東大は紙一重の人が多い」
そんな風に言われてた時代もあったんだよ、って先輩からの嫌味。
だからマッドサイエンティストみたいな人が多いのかと思ってたら全然普通だった。ってノイローゼっつか神経症者は多かった、となるだろうな、今の言葉なら。狂人つーより「人としてちょっと弱い」程度なんだろうな。確かに元いじめられっ子は多そうだった。
本当の狂人はいなかった。むしろ演劇界に多かった。
演劇人なんてほんと利己主義だもんな。芸能界も。
あー前記事のコメント欄読み返して思った。わたしが最近がつんときている「(わたしは他の多くの人と)シニフィエが違う」っていうのが、まあ「見ている世界が違う」って言っているからだろうけど、「認知認識体系が違う」と読み替えられている。いや全然間違いじゃないからいいんだけどね。つかアスペ関係って認知心理学系が強いからそういう言い方になるだけだろうけど。
でもわたしなんかは、「うん、それで?」になるんだな。人は一人一人認知が違う。うん、それで?
まあいわば認知心理学なんてのは(つか行動主義になるのか。そらパパさんに「あんたみたいな認知系の人は~」つったら「私は行動主義派だ」って言われた気がする。違いよくわかんねえ)、人間はロボットだ、認知も機械だ、って考え方なんだよね。機械ならわたしに任せろ。一人一人認知は違う? 当然じゃないか。どんな同部品でもミクロに見れば微妙に違う。機械工学のジャーゴン「公差」でそれが許容されるかどうか。だからどんな製品でも一個一個違う。どんな大量生産品でもな。だから「不良品だったらお取り替えします」ってメーカーは言うんだ。不良品を減らす努力はもちろんやるが、ゼロになんてできるわきゃねーだろ。
だけどだな、それだと大体の人間の大体の認知が同じ、ってのの説明にならんだろ。神が生産技術をやってるのかい? 遺伝子のおかげかい? それだけじゃ説明つかないだろ。自閉症は遺伝子の異常が原因です、で終了だ。そうはなっていないよな。
大体だな、認知系とか行動主義派なんて機械の極意がわかってねえよ。まず油塗れになってこい。まず機械ってのがどんなに言うことを聞かないか体感してこい。
だからだなー、わたしどうも認知系の言葉は胡散臭く聞こえちゃうんだ。わたしはここで「正常ということは精神疾患である」って力説しているけど、それが全く問題にならないんだ。認知系の土俵では。認知系の奴らの言葉は正常である自分自身の心理を棚上げにしているようにしか聞こえないんだ。これは『自閉症の謎を解き明かす』のウタにも感じたこと。シニフィアン連鎖を分析するのがラカン派精神分析だ。よってその「語る主体」であるウタの話になっちゃうなっちゃう。
支配者であってしまう正常という精神疾患が、認知心理学では語れない。
認知心理学でいくら語っても、正常人が自分の心理を、無意識を振り返ることはないだろう。
「物とは支配不可能だ」あるいは「自然を超える知などなく、自然は知を内包している」って現実を気づかせることは、認知心理学の言葉では難しいだろう。
大体そんなようなことをわからせるのって呪術みたいなことになるしな。
そういう罠があるよ、って話。
あ、でもアプローチ自体は悪くないと思うよ。「心の機械論」って。
まー学者の言う「機械」って信用しない方がいいぜ。あ、当然工学の学者は除外ね。物理系なんかも実験器具を自作したりするからまだまし。
ほんともういや。何もかも。
死ね。
もういい。だめだ。もう終わり。
他人の手を煩わせずに自分の死体画像うpする方法を思案中。
全ての言葉が自分を責めてるように聞こえる。自分の言葉でさえも。戦いやすいだけ。
そうだよ、わたしは全ての言葉と戦っている。勝ち負けのない戦い。
象徴界って短絡しないでね。あ、ごめんわたしの言い方が悪いのか。訂正する。
わたしは全ての意味と戦っている。
意味だから象徴界も想像界もあり。
まあ意味の住人からすればわたしは常に負け続けてるんだろうけどさ。それが腹立つからまた戦う。でもこれは二次戦線だから弾幕は薄い。
お前らの「わたしは負けている」ってのも意味だろうが。ただの意味にすぎない。勝ち負けなど意味にすぎない。だからわたしは「勝ち負けのない戦い」と言った。
「戦い」も意味だよ。だけどこの意味のない世界をどう表現するかで人質にしているようなもん。
現代のナンセンスとか脱力系になってるけど全然違うよ。本当の無意味はむしろ戦いの世界だ。
意味が全くなければ戦いもなくなるって? どうだろ? そんな世界わたしはしらん。
意味のない世界が現に存在するように、意味のある世界も現に存在する。
現実と幻想両方ある。幻想は幻想として現実にある。
だめだだめだ、もうだめ、ああんってなぜあえぐ。
もうやだ、ほんとやだ、死ね、死ね。
お前らとわたしが戦争にならない理由がわかったよ。お前らがわたしと戦おうとしても、わたしのところまで来れないんだ。だから戦線は別々になる。
あ、いやそもそも個人個人がするもんだけどね、この戦争は。
ああもう当たり前のことをなんでこんないちいち。
戦わないと死ぬ。戦って死ぬ。戦わなくても死ぬ。
あー『伝染るんです』も最初は好きだったけどすぐだめになったんだよな。最初の方は無意味であることの緊張感があったっしょ。でも連載を重ねるにつれ脱力系になってった。あーだめだと思った。
同じナンセンス系ならしりあがりの方がいいかもね。まだ緊張感がある。わたしそれほど好きじゃないけど。
緊張感のある無意味つって一番真っ先に思い浮かべるのはやまだ紫の『しんきらり』だ。『ねじ式』は、あれうまいなって感じ。うまいから安心感が出てしまう。緊張感はなくはないけど嘘の緊張感。『しんきらり』はうまくなくて緊張感がある。
緊張感のある無意味とは、全てある世界で、全てあるから戦いになる。緊張感がないとそれが裏にあると思えない。
脱力系の無意味の行き着く先はただの喪だ。抑鬱だ。全てが無ですらない。
そゆこと。
あ、わかった。行動主義って『CSI』だな。かっこえーやん。あいやもちろん、『CSI』の脚本スタッフが行動主義の影響を受けてそう、って言い方が正しいんだろうが。
前記事コメント欄から。
=====
個々人が「認知認識体系」が違うって言うならそれでもいいんだけど、先に述べたように正常人たちはほぼ自覚なしに努力なしにむしろ快楽を根拠にして「認知認識体系」を他者と同様のものにできるんだから、「結果の修正」を行わされるのは未去勢者ばかりになるに決まってるだろうが。
=====
この文章で示している事象は、サバルタンについてのはてなキーワードの説明、
=====
「自らを語ることができない者」であり,たとえ語っても,それを解釈する他者の視点と言葉によって覆い隠されてしまうような者のことをいう。一方でサバルタンを語る人々の側には、無機質な透明性がつくり出され、語る側の権力と欲望は見えなくされているのだとか。
=====
によって示されている事象と同一だ。当然、未去勢者=サバルタンな。
一方的に「結果の修正」を施されるから、サバルタンは語れない。
つかわたしというサバルタン(実際にそうかどうかは議論の余地があるだろう)から見れば全然「無機質な透明性」には見えないんだが。このブログで言ってる「テレパシー」みたいなものか? つかそれ要するにホモソーシャルだろ。それこそ飲み屋でオヤジ同士が「どの体位がいいか」と語り合ってるような。まあ構造主義者が語る「構造」も「無機質な透明性」っぽくはあるがね。
なぜそれが「無機質な透明性」になるのか。それはお前らが「サバルタンを語る人々の側」にいるからだよ。ってその文章もそういう意味だよな。サバルタンを語る人々の側から見れば、無機質な透明性が作り出され、透明だから、語る側すなわち自分自身の、自分たちの権力と欲望が見えなくなっている、って意味だよな。
それが無機質で透明に見えるのは、お前らが「構造」の中の住人だからだ。
お前らが「からっぽな身体」だからだ。
覆い隠されてしまう方から見たら透明なわきゃないだろうが。
わたしには、お前ら大多数の人間が、正常という精神疾患のせいで、見えなくなったそれが見えているだけ。見えているから語っているだけ。知でお化粧して。
わたしのそういった行為は、お前らの社会のみすぼらしい実態を、お前らという社会的人間のアイデンティティの不自然さを、人間だけを特別視するという征服者の側面を持った「愛」を、お前ら人間の世界では美しいと言われるが自然から見れば全く美しくもないただの異常なシステムを、赤裸々に指摘することになる。
そりゃーお前らは否認するだろうな。ヒステリックに怒るだろうな。心が痛むだろうな。
それが精神分析だよ。この道具はそういったことをする目的で作られた鋭利なメスだ。無機質で透明なカーテンを切り裂くのにもっとも有効なナイフだ。
サバルタンが語れば、それは魔女の言葉になるだろう。キリスト教が魔女を焼き殺したのは正しかった。その無機質で透明なカーテンを守るために。
この文章は、いわば魔女の精神分析だ。
つっことでお休みさせてくれ。
なんか母校からあほみたいなアクセス数があったんだが(某笙野ファンの基準だと楽勝で「お目々らんらんでアクセスしてくるご病気の人」になるくらい)、駒小関連で来たのかね。わたしゃお前ら嫌いだよ。素で。
ってアク解調べたら「小笠原晋也」で検索して来たらしい。
ほうほう、そういう読み方なら許してやろう。たとえお前が小笠原みたいな医者を攻撃するために検索して辿り着いたとしてもな。わたしゃ小笠原じゃないし。小笠原という人間を擁護しているのではなく、彼のした行為を擁護しているんだし。
「天才と狂人は紙一重。京大は天才だけど東大は紙一重の人が多い」
そんな風に言われてた時代もあったんだよ、って先輩からの嫌味。
だからマッドサイエンティストみたいな人が多いのかと思ってたら全然普通だった。ってノイローゼっつか神経症者は多かった、となるだろうな、今の言葉なら。狂人つーより「人としてちょっと弱い」程度なんだろうな。確かに元いじめられっ子は多そうだった。
本当の狂人はいなかった。むしろ演劇界に多かった。
演劇人なんてほんと利己主義だもんな。芸能界も。
あー前記事のコメント欄読み返して思った。わたしが最近がつんときている「(わたしは他の多くの人と)シニフィエが違う」っていうのが、まあ「見ている世界が違う」って言っているからだろうけど、「認知認識体系が違う」と読み替えられている。いや全然間違いじゃないからいいんだけどね。つかアスペ関係って認知心理学系が強いからそういう言い方になるだけだろうけど。
でもわたしなんかは、「うん、それで?」になるんだな。人は一人一人認知が違う。うん、それで?
まあいわば認知心理学なんてのは(つか行動主義になるのか。そらパパさんに「あんたみたいな認知系の人は~」つったら「私は行動主義派だ」って言われた気がする。違いよくわかんねえ)、人間はロボットだ、認知も機械だ、って考え方なんだよね。機械ならわたしに任せろ。一人一人認知は違う? 当然じゃないか。どんな同部品でもミクロに見れば微妙に違う。機械工学のジャーゴン「公差」でそれが許容されるかどうか。だからどんな製品でも一個一個違う。どんな大量生産品でもな。だから「不良品だったらお取り替えします」ってメーカーは言うんだ。不良品を減らす努力はもちろんやるが、ゼロになんてできるわきゃねーだろ。
だけどだな、それだと大体の人間の大体の認知が同じ、ってのの説明にならんだろ。神が生産技術をやってるのかい? 遺伝子のおかげかい? それだけじゃ説明つかないだろ。自閉症は遺伝子の異常が原因です、で終了だ。そうはなっていないよな。
大体だな、認知系とか行動主義派なんて機械の極意がわかってねえよ。まず油塗れになってこい。まず機械ってのがどんなに言うことを聞かないか体感してこい。
だからだなー、わたしどうも認知系の言葉は胡散臭く聞こえちゃうんだ。わたしはここで「正常ということは精神疾患である」って力説しているけど、それが全く問題にならないんだ。認知系の土俵では。認知系の奴らの言葉は正常である自分自身の心理を棚上げにしているようにしか聞こえないんだ。これは『自閉症の謎を解き明かす』のウタにも感じたこと。シニフィアン連鎖を分析するのがラカン派精神分析だ。よってその「語る主体」であるウタの話になっちゃうなっちゃう。
支配者であってしまう正常という精神疾患が、認知心理学では語れない。
認知心理学でいくら語っても、正常人が自分の心理を、無意識を振り返ることはないだろう。
「物とは支配不可能だ」あるいは「自然を超える知などなく、自然は知を内包している」って現実を気づかせることは、認知心理学の言葉では難しいだろう。
大体そんなようなことをわからせるのって呪術みたいなことになるしな。
そういう罠があるよ、って話。
あ、でもアプローチ自体は悪くないと思うよ。「心の機械論」って。
まー学者の言う「機械」って信用しない方がいいぜ。あ、当然工学の学者は除外ね。物理系なんかも実験器具を自作したりするからまだまし。
ほんともういや。何もかも。
死ね。
もういい。だめだ。もう終わり。
他人の手を煩わせずに自分の死体画像うpする方法を思案中。
全ての言葉が自分を責めてるように聞こえる。自分の言葉でさえも。戦いやすいだけ。
そうだよ、わたしは全ての言葉と戦っている。勝ち負けのない戦い。
象徴界って短絡しないでね。あ、ごめんわたしの言い方が悪いのか。訂正する。
わたしは全ての意味と戦っている。
意味だから象徴界も想像界もあり。
まあ意味の住人からすればわたしは常に負け続けてるんだろうけどさ。それが腹立つからまた戦う。でもこれは二次戦線だから弾幕は薄い。
お前らの「わたしは負けている」ってのも意味だろうが。ただの意味にすぎない。勝ち負けなど意味にすぎない。だからわたしは「勝ち負けのない戦い」と言った。
「戦い」も意味だよ。だけどこの意味のない世界をどう表現するかで人質にしているようなもん。
現代のナンセンスとか脱力系になってるけど全然違うよ。本当の無意味はむしろ戦いの世界だ。
意味が全くなければ戦いもなくなるって? どうだろ? そんな世界わたしはしらん。
意味のない世界が現に存在するように、意味のある世界も現に存在する。
現実と幻想両方ある。幻想は幻想として現実にある。
だめだだめだ、もうだめ、ああんってなぜあえぐ。
もうやだ、ほんとやだ、死ね、死ね。
お前らとわたしが戦争にならない理由がわかったよ。お前らがわたしと戦おうとしても、わたしのところまで来れないんだ。だから戦線は別々になる。
あ、いやそもそも個人個人がするもんだけどね、この戦争は。
ああもう当たり前のことをなんでこんないちいち。
戦わないと死ぬ。戦って死ぬ。戦わなくても死ぬ。
あー『伝染るんです』も最初は好きだったけどすぐだめになったんだよな。最初の方は無意味であることの緊張感があったっしょ。でも連載を重ねるにつれ脱力系になってった。あーだめだと思った。
同じナンセンス系ならしりあがりの方がいいかもね。まだ緊張感がある。わたしそれほど好きじゃないけど。
緊張感のある無意味つって一番真っ先に思い浮かべるのはやまだ紫の『しんきらり』だ。『ねじ式』は、あれうまいなって感じ。うまいから安心感が出てしまう。緊張感はなくはないけど嘘の緊張感。『しんきらり』はうまくなくて緊張感がある。
緊張感のある無意味とは、全てある世界で、全てあるから戦いになる。緊張感がないとそれが裏にあると思えない。
脱力系の無意味の行き着く先はただの喪だ。抑鬱だ。全てが無ですらない。
そゆこと。
あ、わかった。行動主義って『CSI』だな。かっこえーやん。あいやもちろん、『CSI』の脚本スタッフが行動主義の影響を受けてそう、って言い方が正しいんだろうが。
前記事コメント欄から。
=====
個々人が「認知認識体系」が違うって言うならそれでもいいんだけど、先に述べたように正常人たちはほぼ自覚なしに努力なしにむしろ快楽を根拠にして「認知認識体系」を他者と同様のものにできるんだから、「結果の修正」を行わされるのは未去勢者ばかりになるに決まってるだろうが。
=====
この文章で示している事象は、サバルタンについてのはてなキーワードの説明、
=====
「自らを語ることができない者」であり,たとえ語っても,それを解釈する他者の視点と言葉によって覆い隠されてしまうような者のことをいう。一方でサバルタンを語る人々の側には、無機質な透明性がつくり出され、語る側の権力と欲望は見えなくされているのだとか。
=====
によって示されている事象と同一だ。当然、未去勢者=サバルタンな。
一方的に「結果の修正」を施されるから、サバルタンは語れない。
つかわたしというサバルタン(実際にそうかどうかは議論の余地があるだろう)から見れば全然「無機質な透明性」には見えないんだが。このブログで言ってる「テレパシー」みたいなものか? つかそれ要するにホモソーシャルだろ。それこそ飲み屋でオヤジ同士が「どの体位がいいか」と語り合ってるような。まあ構造主義者が語る「構造」も「無機質な透明性」っぽくはあるがね。
なぜそれが「無機質な透明性」になるのか。それはお前らが「サバルタンを語る人々の側」にいるからだよ。ってその文章もそういう意味だよな。サバルタンを語る人々の側から見れば、無機質な透明性が作り出され、透明だから、語る側すなわち自分自身の、自分たちの権力と欲望が見えなくなっている、って意味だよな。
それが無機質で透明に見えるのは、お前らが「構造」の中の住人だからだ。
お前らが「からっぽな身体」だからだ。
覆い隠されてしまう方から見たら透明なわきゃないだろうが。
わたしには、お前ら大多数の人間が、正常という精神疾患のせいで、見えなくなったそれが見えているだけ。見えているから語っているだけ。知でお化粧して。
わたしのそういった行為は、お前らの社会のみすぼらしい実態を、お前らという社会的人間のアイデンティティの不自然さを、人間だけを特別視するという征服者の側面を持った「愛」を、お前ら人間の世界では美しいと言われるが自然から見れば全く美しくもないただの異常なシステムを、赤裸々に指摘することになる。
そりゃーお前らは否認するだろうな。ヒステリックに怒るだろうな。心が痛むだろうな。
それが精神分析だよ。この道具はそういったことをする目的で作られた鋭利なメスだ。無機質で透明なカーテンを切り裂くのにもっとも有効なナイフだ。
サバルタンが語れば、それは魔女の言葉になるだろう。キリスト教が魔女を焼き殺したのは正しかった。その無機質で透明なカーテンを守るために。
この文章は、いわば魔女の精神分析だ。