「絵の世界」
2009/12/20/Sun
その村娘は、自分をかんしゃく持ちだと思っていた。彼女は、ときどき世界が二重に見えた。二重にずれた二つの世界の間から、かんしゃくはやってきた。では二つの世界を重ねればよい、とはならない。確かに出口はなくなる。だけど、それは二枚の板の間に泥を挟んでいるようなことだ。二枚の板を重ね合わせようとしたらどうなるだろう。泥ははみ出る。彼女のかんしゃくはひどいものになる。だから、彼女は、その二つの世界の間を調整しようと努めた。多少はみ出てくるのは仕方がない。だけど、まるで生き物のように増減する間の泥を、少しでも出ないようにはできるはず、と思っていた。実際、片方の世界は、どうにかこうにか動かすことができた。彼女は頭の中でそちらの世界を「絵の世界」と呼んだ。もう片方はただの「世界」。彼女は不器用に「絵の世界」をちょっとずつ動かして、泥が出てこないようにしていた。
というより、自分から遠い方が「絵の世界」なのだが、それに触れようとすると、遠いはずのそれが自分の体内に潜り込んでくる感覚を覚えた。いやな感覚だった。だけどかんしゃくにまみれるよりは、泥だらけになるよりはましなので、我慢した。
「絵の世界」だなんて言ってはいるが、そんなんだから、絵などあまり好きではなかった。
この作業は、心の中で行われる作業である。傍目からは、彼女はただじっとしているだけになる。なので村人たちは、彼女を「とても大人しい女の子」と評していた。
また彼女は、自分を正直者だと思っていた。しかしそう教えられたから、ではなかった。嘘をつくと、「絵の世界」が動いてしまうのである。いつもしている作業のじゃまになる。だから嘘をつかないだけだった。もちろん、「絵の世界」が動くということは体内に潜り込んでくることなので、そのこともいやだった。だから、嘘をつかないことは、むしろ彼女にとってごく自然なことだった。
しかし、当然村人たちは彼女の言う「絵の世界」の意味が理解できない。彼女の方もうすうす気づいていた。なので彼女はこのことについてあまり喋らなくなった。「二つの世界」について喋らなくなる、ということは、それについての作業が一番大事なことであった彼女にとって、喋ることがなくなる、ということだった。なので村人たちは、彼女を「とても無口な女の子」と評した。
とはいえ、作業は続けていれば慣れるものである。むしろ「絵の世界」を動かすために嘘をつくことを、彼女は覚えた。目的は作業の効率化なので、嘘の内容については特にこだわりがなかった。ただ、人に声をかけられたりすると(他の人に声をかけられたり、雷が鳴ったりすると、「絵の世界」だけじゃなくただの「世界」の方も動いた)、結果的に作業のじゃまになるので、人を遠ざけるために嘘をつくようになった。
そうしていると、彼女の評判に「素直な子」というのが加わった。
他の同い年の女の子が恋愛のまねごとをし始める頃には、「素直で控えめな女の子、ただし控えめすぎる」というような評判になっていた。
娘の方も、いつもの作業についてはさすがに熟練の域に達しており、昔と比べたら余裕はあったので、他の女の子からの助言を受け、「大人しすぎるとよくないんだ」と思うほどになっていた。
娘の母は幼い頃に亡くなっていた。父は商人で、家を空けている時が多かった。そういう時は伯父夫婦のお世話になった。ただ、他の家にいるのは、たとえ行き慣れた伯父の家でも、どうも心地がよくなかった。食事などの世話は受けたが、隣同士なので、寝起きは自分の家でずっと通した。
彼女が十歳の頃、伯父の一番上の娘(当然彼女のいとこである)が結婚した。近所に家を建てることになった。彼女はその建築現場に足しげく通い、職人たちの作業をじっと見ていた。飽きなかった。夕方になるのも気づかないほどだった。
そんなことしていると、やはり職人たちと話すようにもなる。
ある時若い職人が、いたずら心を出して、木材の削りくずを、これはベーコンだ、と彼女に教えた。さすがに彼女もベーコンはお肉で作るものだと知っていたので、嘘だと答えた。職人は笑いながらほんとだよと言い、ぱくりとそれを食べた。彼女はその後五年間、ベーコンは木から作られるものだと思っていた。
それが嘘だったと知っても、彼女は職人に腹が立たなかった。時間が経っていたから、というのもある。しかし、「ベーコンは木から作られる」という、あたかもその職人との二人きりの秘密の言葉のようなそれは、彼女の「絵の世界」の一部を、動かしやすいものにしてくれたからだ。「絵の世界」とは、水面に色とりどりの細かい砂を浮かべたようなもので、手に取って動かせるものではなかった。だけど、「ベーコンは木から作られる」ということは、その部分だけが板きれになっているようなことだった。だから、多少ではあるけれども、動かしやすくなる。このことは彼女にとって重要な発見だった。嘘をつかれたという事実よりも。
もしかしたら他の人たちの「絵の世界」は、この板きれが全部になっていて、だから他の人たちは、それを動かして調整しなくても、かんしゃくが起こらないようなちょうどいい位置で固定できるのではないか、などと考えるようになるのは、彼女が大人になってからである。彼女のこの推測は半分正しい。本当は、他の人たちは「絵の世界」が板になっているだけではなく、その板が自分自身になっているのだが、そこまでは、彼女は死ぬまで気づかなかった。
伯父の家には、その下に二人の娘と一人の息子がいた。息子が一番下で、その上の娘は、彼女と一つしか違わなかった。結婚した彼女や二番目の姉は、自分に興味を示さないのできらいじゃなかったが、その子はいつも自分に話しかけてくる。だからあまり好きじゃなかった。いなくなればいいのに、といつも思っていた。まるでゴミを掃除するような感覚で。
年頃になると彼女は、人の不幸話が好きになっていた。ただし、自分から噂話をするのではなく、大体聞く方だった。不幸話を聞いていると、「二つの世界」の間がちょうどよい加減になる気がした。不幸話を聞いていると、「絵の世界」が粗くなって、網みたいになって、間の泥が向こう側に滲み出るようだった。なので、彼女は好んで不幸話を聞いた。
彼女の友人たちは、彼女を「優しい子」と評するようになった。
というより、自分から遠い方が「絵の世界」なのだが、それに触れようとすると、遠いはずのそれが自分の体内に潜り込んでくる感覚を覚えた。いやな感覚だった。だけどかんしゃくにまみれるよりは、泥だらけになるよりはましなので、我慢した。
「絵の世界」だなんて言ってはいるが、そんなんだから、絵などあまり好きではなかった。
この作業は、心の中で行われる作業である。傍目からは、彼女はただじっとしているだけになる。なので村人たちは、彼女を「とても大人しい女の子」と評していた。
また彼女は、自分を正直者だと思っていた。しかしそう教えられたから、ではなかった。嘘をつくと、「絵の世界」が動いてしまうのである。いつもしている作業のじゃまになる。だから嘘をつかないだけだった。もちろん、「絵の世界」が動くということは体内に潜り込んでくることなので、そのこともいやだった。だから、嘘をつかないことは、むしろ彼女にとってごく自然なことだった。
しかし、当然村人たちは彼女の言う「絵の世界」の意味が理解できない。彼女の方もうすうす気づいていた。なので彼女はこのことについてあまり喋らなくなった。「二つの世界」について喋らなくなる、ということは、それについての作業が一番大事なことであった彼女にとって、喋ることがなくなる、ということだった。なので村人たちは、彼女を「とても無口な女の子」と評した。
とはいえ、作業は続けていれば慣れるものである。むしろ「絵の世界」を動かすために嘘をつくことを、彼女は覚えた。目的は作業の効率化なので、嘘の内容については特にこだわりがなかった。ただ、人に声をかけられたりすると(他の人に声をかけられたり、雷が鳴ったりすると、「絵の世界」だけじゃなくただの「世界」の方も動いた)、結果的に作業のじゃまになるので、人を遠ざけるために嘘をつくようになった。
そうしていると、彼女の評判に「素直な子」というのが加わった。
他の同い年の女の子が恋愛のまねごとをし始める頃には、「素直で控えめな女の子、ただし控えめすぎる」というような評判になっていた。
娘の方も、いつもの作業についてはさすがに熟練の域に達しており、昔と比べたら余裕はあったので、他の女の子からの助言を受け、「大人しすぎるとよくないんだ」と思うほどになっていた。
娘の母は幼い頃に亡くなっていた。父は商人で、家を空けている時が多かった。そういう時は伯父夫婦のお世話になった。ただ、他の家にいるのは、たとえ行き慣れた伯父の家でも、どうも心地がよくなかった。食事などの世話は受けたが、隣同士なので、寝起きは自分の家でずっと通した。
彼女が十歳の頃、伯父の一番上の娘(当然彼女のいとこである)が結婚した。近所に家を建てることになった。彼女はその建築現場に足しげく通い、職人たちの作業をじっと見ていた。飽きなかった。夕方になるのも気づかないほどだった。
そんなことしていると、やはり職人たちと話すようにもなる。
ある時若い職人が、いたずら心を出して、木材の削りくずを、これはベーコンだ、と彼女に教えた。さすがに彼女もベーコンはお肉で作るものだと知っていたので、嘘だと答えた。職人は笑いながらほんとだよと言い、ぱくりとそれを食べた。彼女はその後五年間、ベーコンは木から作られるものだと思っていた。
それが嘘だったと知っても、彼女は職人に腹が立たなかった。時間が経っていたから、というのもある。しかし、「ベーコンは木から作られる」という、あたかもその職人との二人きりの秘密の言葉のようなそれは、彼女の「絵の世界」の一部を、動かしやすいものにしてくれたからだ。「絵の世界」とは、水面に色とりどりの細かい砂を浮かべたようなもので、手に取って動かせるものではなかった。だけど、「ベーコンは木から作られる」ということは、その部分だけが板きれになっているようなことだった。だから、多少ではあるけれども、動かしやすくなる。このことは彼女にとって重要な発見だった。嘘をつかれたという事実よりも。
もしかしたら他の人たちの「絵の世界」は、この板きれが全部になっていて、だから他の人たちは、それを動かして調整しなくても、かんしゃくが起こらないようなちょうどいい位置で固定できるのではないか、などと考えるようになるのは、彼女が大人になってからである。彼女のこの推測は半分正しい。本当は、他の人たちは「絵の世界」が板になっているだけではなく、その板が自分自身になっているのだが、そこまでは、彼女は死ぬまで気づかなかった。
伯父の家には、その下に二人の娘と一人の息子がいた。息子が一番下で、その上の娘は、彼女と一つしか違わなかった。結婚した彼女や二番目の姉は、自分に興味を示さないのできらいじゃなかったが、その子はいつも自分に話しかけてくる。だからあまり好きじゃなかった。いなくなればいいのに、といつも思っていた。まるでゴミを掃除するような感覚で。
年頃になると彼女は、人の不幸話が好きになっていた。ただし、自分から噂話をするのではなく、大体聞く方だった。不幸話を聞いていると、「二つの世界」の間がちょうどよい加減になる気がした。不幸話を聞いていると、「絵の世界」が粗くなって、網みたいになって、間の泥が向こう側に滲み出るようだった。なので、彼女は好んで不幸話を聞いた。
彼女の友人たちは、彼女を「優しい子」と評するようになった。