物とは爆発だ。
2009/12/24/Thu
前記事の老魔女の言葉、「物とは爆発だ」。書いている時はなんつかノリっていうかその時している思考をそのまま実況してただけなんだが、読み返してみると、これわたし子供の頃考えてたよな、と思いあたった。
というのは、わたしは他の多くの人とシニフィエが違う、と書いたが、子供の頃は「物」のシニフィエの違いが気になっていたのだと思う。もちろんその頃はそんなの自覚していない。ただ、周りの人の言う「物」とわたしの感覚での「物」が違うのだから、単に、それこそ(社会に対する、ではない)「世界に対する違和感」を感じていたのだろう。
ちょっと成長して知恵をつけると、他の人の「物」とは大体固体になってしまうが、自分はそうじゃない、わたしにとっては水も空気も物だ、ということにまず気づいた。
この記事のコメント欄でも書いてあるように、子供の頃、わたしには物をすり抜けられる感覚があった。だから「物はすり抜けられない」と言う言説に違和感を覚えていた。水ならすり抜けられるじゃないか、「プラスチックの水槽だとすり抜けられないだろ」、じゃあ、そうだ、昨日習った電気。電気は相手が金属ならすり抜けられる、「お前は電気じゃないだろ」、以下そこに記したネタへと発展する。
まーそんなんで物理に興味を持った、というかわたしが実際に持っていた感覚のアリバイみたいなものとして有効活用できる理屈が大量にあった物理学に成り行きで目が行ったわけだ。
んで大学まで進んで、ふと昔の、言い訳で四苦八苦してた頃を思い出すとな、「なんだ自分の感覚の方が正しかったじゃないか、お前らの常識が間違っていたんじゃないか」と思ってしまうんだ。本当、多くの人間ってバカだ、と思った。逆に言えば、子供の頃のわたしは感覚的に量子力学の世界を知っていた、ということでもある。もしわたしが量子力学が誕生する前に生まれていて、その頃の感覚をお前らバカたちにウケるように述べていれば、わたしは量子力学を予言できていたんじゃないか、とすら思う。
本当、わたしが子供の頃からしてきた苦労は、どうしようもない違和感は、それは今でもあるのだが、お前らがバカだから生じていたんじゃないか? と思う。それは大多数の人間たちが持っている常識だ。ではなぜ大多数の人間たちはそんな物理学的に間違った常識を持ってしまうのか? を考えるのが筋ってものだろう。まあこの思考経路をなぞると話があさって方向に飛んでしまいそうなのでやめておくが。
あ? 物理学は過去の多くの学者の研究が積み重なって今の理論になったのだ、だ? だーから、わたしはお前らがそうやって辿り着いたその量子力学的世界観を、子供の頃から素で感じていたんだ、つってるんだよ。バカ。ほんと一から説明しないと理解しないのな、お前らバカは。お前らのせいでわたしがどんなに苦労してきたかわかんねえだろ? 「合意の快楽」(この記事のコメント欄参照)を知っているから簡単に認知認識体系を他人と同じものにできるお前らバカ。お前ら死ね。ほんと八割くらいいなくなってくれ。ああうらやましいんだよ。「うらやましい」って言ったら死んでくれるのかい?
そうだよ、だからいっそ魔女になって、「こいつの言ってることはトンデモだ」とか言われた方がいいんだ。そうなれば言い訳なんて必要ないからな。自分の興味を持ったことだけを研究できる。自分の苦痛の原因を探ることができる。
とはいえさすがに人間一人で生きてくのは困難があることもわたしは知っている。だから、わたしの研究の一部を、お前らが勝手に社会のために役立てればいい。それでわたしにお恵みをくれればいい。『Another Day In Paradise』の物乞いババアに一ドル札を放り投げてくれればいい。それだけでいい。それ以外は何もいらない。むしろそれ以外のものを付着させてくるのがうざい。お前らの一ドル札は汚らしい。
『Another Day In Paradise』の主人公はまだましだ。自分が放り投げようとした一ドル札に汚らしい何かがこびりついているのを知っている。自分が投げようとした「愛」や「慈悲」の裏にある汚らしさを感じて彼は立ち止まる。
それを打ち消すために、わたしがジコマンでしている研究を、お前らの社会に役立てればいい、と言ってるんだ。お前らが忘れてしまった真理を、お前らが思っているのとは別の真理を、神がもたらしたのとは別の物乞いの真理を、バイタの真理を、彼女は知っているかもしれない。
ババアが代わりに差し出すのは汚らしいただの小石だ。一ドルの価値もない。それを社会に役立つものへと磨き上げるのは、お前らだ。その物乞いババアを、自分の気に入らないところまでも映し出す真実の鏡と見るかは、お前ら次第だ。
そうだよ。これは取引だ。お前らの神から見れば裏切りになるかもしれないがね。神を十信仰するために、一の裏切りが必要だとしたら、お前はどうする? って話だ。ああ別にどうしろとは言わないよ。お前がだめなら別の神の奴隷に声をかけるさ。
物乞いババアにとっては、軽蔑のまなざしを投げて立ち去る奴も、一ドル札を放り投げてくれた奴も、お前みたいに立ち止まった奴も、等しくただの物だ。
もちろん、その老魔女の言葉にある全てを、子供のわたしが思考していたわけではない。子供のわたしが物について持っていた感覚を説明するのに、非常に適合する理屈として量子力学という道具はあるのだが、老魔女の言葉は幾分道具に影響されている部分もある。「光はそれ自体で爆発しない」や「爆発の結果光が生ずる」や「光が爆発を誘う」は、わたしの記憶では子供の頃考えていたとは思えない。光関係はほとんどそうっぽいな。具体例として示した「雷」なんかは、多分「電気としての物」のつもりだったんだろうが、子供の頃のわたしはおそらく光として認知するだろう。なので思考の対象外になっていた気がする。また「砂や小麦粉なんかより、さらにもっともっと小さい」あたりは、それこそ量子力学的世界観に誘導するためのあざとい隠喩だ、という印象がある。
ビオンの言う「思考する者なき思考」、この記事ではある自己愛型ひきこもりラカニアンが言った言葉「考える物」と表現しているが(こっちの方がわたしはしっくりくる)、それはそういうものだと思う。たとえば、要は老魔女の言葉は子供の頃の感覚と大学で習った量子力学の知識が混淆したものだ、とわたし自身が言っているのだが、そういった混淆している思考が、そういうものだと思う。正常人の感覚で矛盾している事柄、言葉、イメージ、意味も、ただ混淆する。浸透し合っているだけ。だからこの記事などで「こちらの世界には矛盾はない」などという、わたし自身がわたしらしくないと思えるようなことを述べてしまったのだろう。「思考する者なき思考」が。「考える物」が。
あ、だめだ。「思考実況」なんて言っているが、実はそうでもない。実況される「思考する者なき思考」に近づけば近づくほど言葉を忘れてしまう。これは歩き方を忘れてしまうのと似ている。「思考する物」の思考を「思考する者」は劣化させてしまうが、妥協的に「実況」すればよい、というその場しのぎ的な発想(もちろんこれを言い始めた時はそんなこと考えていたわけではない)。でもそれに近づくと実況さえできなくなる。
だめだもう。死にたい。実況できなくなるから、なのだが、それは、そう望んでいたのだが、それにより「思考する物」を表現したいのだが、それになることとは、死にたくなることだ。もちろん、「思考する者」にレイプされるのも死にたくなる。汚く死ぬかきれいに死ぬか、の違いにすぎない。
それすら関係ないのが、本当の無意味の世界。
だめ。終わり。死ぬって意味じゃないぜ? 「思考する物」に近づくのをやめるってことだから、生きる、って意味での「終わり」だ。
んでわりと普通の頭で、前記事の「ゴミにICタグつける管理システム」とかどうなってんのかなーと思ってぐぐったら、最近では結構導入されてるらしい。これとかこれ。東京都えらいな。民間だと一社がやっても無駄っぽいとは思ったけど、公的機関がやる分には意味あるだろうな。積水ハウスはー、ま、建築系の処理業者とかそれこそ(げほげほ)みたいなの多そうだから、意味あるのかもね。住宅系は全く知らんけど。
休憩終わり。
とりあえず老魔女の言葉関係で今言いたいことだけ言っておこう。最低限の体裁は整えよう。
あれ、「物とは爆発だ」なんだが、「爆発」って表現ではなかったと思う。子供の頃の感覚は。どっちかってと「エネルギー」みたいな。だけど量子力学っつか物理学の「エネルギー」の定義とは違うので、老魔女はそう言ったんだろうな。どっちかってと「質量」に近いんだが、うむ、フォトンは質量はゼロだ。電子はゼロじゃない。いや「電荷」か? あー「質量」が象徴界の種で「電荷」が想像界の種(当然現実界にある種)って言うなら、まあ納得できなくない、ってむりくりだけどな。あーやっぱ「爆発」がしっくりくるなー。さすが魔女。つか「粒子性」だわな。全然「痛み」が伝わらないけど。
んで、ちっちゃな「爆発」の密度が高いのが固体で、希薄なのが流体ってことなんだが、こう、壁に手をつけてもすり抜けられないのは、壁も手も「爆発」の密度が高いからなんだよね。水は希薄だから、水の中に手を入れられる。水は地面に染み込む。気体然り、ってわけだ。子供の頃の感覚を説明すると。
「爆発」ってか電子の「衝突」とかになんのか。ちょっとちげえな。「衝突」は粒子と粒子が激突することで、粒子性そのものとしての「爆発」なわけだから。
ま、言い訳としてはすげー便利な道具だけど、完全に道具と一体化しているわけじゃない、ってことだな。
つか「思考する物」が弱くなってきた。休憩なんか挟んだからだな。いや、「最低限の体裁」がまずかったな。
もういいよ。ほんともう。ギブ。勘弁。
つかさ、ひさぶりに自己愛型ひきこもりラカニアンくんの文章読んだんだけどさ、文中の「グアヤキ族」な、わたしそんなん見たこともないからなんとも言えないんだが、なんでこいつ「ボクチンお前らの精神構造全部わかってるんだよー」って顔で語れるんだろう? いや、そんなこと語るなって言ってるわけじゃないぞ? 見たこともないのになんで語れるの? って話。彼が本物を見たことあるかどうかなんてわからないけれど、彼も見たことがないなら、多分彼自身の記憶の中のイメージを、シニフィエを、大雑把にあてはめてるのだろう。
んで、周りの多くの他人とシニフィエが違ってしまうわたしなんかだとそういうことは難しいので、考えないようにしてたんだけど、この記事で「グアヤキ族はお前と違う」なんか言っちゃったもんだから(ちゃんと「見たこともないけどね」とは言っている)、「グアヤキ族」っつーより、彼がそういった固有名詞を用いて示したかった状態とはどんなものだ? とかちらほら考えてたのだよね。自分勝手に。んでヒントになるのが「男たちは群れては居ても互いに無関心を保ち」ってところだと思ったんだ。ヒントっつかポイントとして。それ以外の文章だけなら普通に社会にありそうだろ? たとえば「「私、私、私」とひたすら繰り返し歌」っているのは現代社会そのものだとすらわたしは思う。自我が肥大しすぎ。なので、現代社会っぽくないところ(もちろんわたしにとって、だ)を挙げるなら、つまりわたしの主観世界で特徴的だな、と思えるところを挙げるなら、そこだ、ってなる。
んで考えたのだよね。「男たちは群れては居ても互いに無関心を保ち」ながらする怪しいお祭りみたいな状態ってどんなんかなって。そしたらあった。わたしの記憶の中に。それはクラブ。ひっぷほっぱー(笑)とかが群れてるあれね。あたし何回かしか行ったことないんだよね。病んで休暇取った途端職場変えられたんだけど(全然左遷ではない)、その頃なんつーか自暴自棄みたいになっててさ、んで行きつけってほどじゃないけど、飲み仲間にあるお店教えてもらってさ、うん、ひっぷほっぱー系(笑)。で、店の人と話すようになってさ、その人たちクラブイベントとかでドリンクを出したりしてるのね。それで連れてってもらうようになったんだわ。っていうかこういう裏方からのアクセスじゃないとあたし劇場とかに入れないのかもしれない(笑)。
んで、クラブとかさ、グループで行っても、中入ったら大概みんな自由行動っしょ。休憩でカウンター行ってたまたまいたら「どうよ?」って話すくらいで。踊ってる人たちってそうじゃん、「群れては居ても互いに無関心を保」っている。いやもちろんナンパしたりすることはあるんだろうけど、基本が、っていうか土台がそうじゃん、隣で踊っている奴には無関心。みんな自分の世界に入っている。
そっか、グアヤキ族のこのお祭りはクラブみたいなもんだ、って思うと、その文章がよく見えるようになったのね。わたしが。わたし個人が「グアヤキ族」を「クラブで踊る若者たち」に置き換えたら納得できる、って話にすぎん。
なーなー、自己愛型ひきこもりラカニアンくんさー、君が「他人とは思えない」っつってたのは、クラブに通う若者たちかい? 違うよな(笑)。お前はただ未開文明人という、構造主義的贈与交換システムつまり男性的享楽に取り込まれた交接のシンボルたるシニフィエ的な「肉体」に惹かれていただけだ。舞台の上で獣のようにあえぐストリッパーに勃起してただけだ。あー確かにクラブダンサーってそんな感じっつか野生的(笑)だよな。ケツをまるでてんかん発作時の痙攣のごとく振ったりしてるの見たんだが、よく腰痛めないなーって思ったわ。素で感心した。
お前は、列強国がよだれを垂らしながら「お前たちのためだ、俺たちのように文明化したいんだろ?」などと言いながら未開文明を植民地化したのと、同じ精神構造をしている。お互いに無関心であるグアヤキ族の男たちに対し、「他人とは思えない」などという同一化的関心を持ったお前の精神構造は、そういうものだ。
『Another Day In Paradise』の主人公は躊躇したのにな(笑)。
違うって? 「私はグアヤキ族を文明化したいわけではない、グアヤキ族になりたいのだ」って? それ「合意の快楽」が行動基準になっているって意味で同じことなんだが、まあ一応説明しておくと、お前のこういった思考はポンコツ受信装置である「考える者」の仕業だ。お互いが他人に無関心を保ってする思考が「考える物」の思考だ。「考える物」に喋らせるには「考える者」を殺害しなければならない。お前はその記事で自白しているように、「考える者」そのものとして語っているよな? ということはだ、お前がグアヤキ族になりたいのなら、自殺するしかないんだよ。
ほんと自己愛型ひきこもり系の奴らって一皮むくだけでファルスがもろ出しになるよな。あ、「自己愛型ひきこもり」の別の言い方思いついた。「仮性包茎」。
つかさー、お前らさー、こういう「この言葉のシニフィエはどういうものだろう?」って思考が足りなさすぎる。そりゃーそうだよ、無意識的にシニフィエを、世界の見え方を同調させる機能がお前らには備わってるんだから。「合意の快楽」を根拠にした行動様式。動物行動学的なヒトの行動様式。未去勢者にはそれが備わっていない。だからたとえばアスペルガー症候群者は具体例がないと話の理解が困難だったり、語義にこだわったりする。つーか逆に言えば、なぜアスペルガー症候群者たちは具体例がないと話の理解が困難になるのか、語義にこだわるのか、ってのの説明がすっきりとつくだろ? お前らの精神疾患的な異常さを机上に載せれば。「正常という精神疾患」を考慮に入れれば。
ほれ、これがわたしの差し出す汚らしい小石だよ。「正常という精神疾患」という考慮を入れれば、お前らの理屈は発展するだろう。その原石を、わたしは差し出してるんだよ。
一ドルくれよ。
イヴなんだしさ。
つかなんの考えもなしにリンク貼ったけど、この記事いいな。「体は歌っている」。んだ。「思考する者なき思考」とは歌だ。屁理屈的な歌。アルトーがしていた思考の奔流とは歌だ。
うん、昔の中島みゆきの歌詞とか今で言う中二病者がするような屁理屈が散見されるだろ?
そういうことだと思う。
ビオンは「思考する者なき思考」を認めた。わたしはそこに情動を認める。ボロメオの輪が綻んだ状態での現実界には、象徴的な動向も想像的な動向もあることになる。
そうだよ、構造主義者が探求している構造は、自然の理を人間社会において投影したものだ。自然科学が探求している理と比べたら、二次的なものだ。
それとおんなじことだ。
つまり、正常人たちの象徴界も想像界も、本物ではない。それらは二次的な思考であり、二次的な歌だ。劣化された思考であり、劣化された歌だ。
お前らという正常人の存在がどれだけ価値のないものか、これでわかってくれるかい?
彼の言う「他人とは思えない」には自分がある。ただの興味には自分はない。むしろ興味に自分は翻弄されている。
異物を本当の異物として認知できないことが、正常という精神疾患だ。
お前らという征服者の本性だ。
普通の思考したい。と思ってどうしたらいいかと思ったら直感でネトゲやればいいと思った。
飲み屋は年だ。体がもたない。
というわけでやめよう。ほんとに。ハウスッ!
あ、そうそう、この記事の、
=====
麻原の本で坂本龍馬等の歴史上の偉人を憑依させて語っている奴
=====
だけど、著作調べてもそんなんなくて、いろいろ調べてたら多分大川興業じゃなくて隆法だったっぽい。歴史上の偉人を憑依させて語るのって。
『仏陀再誕』テレビでやんねえかな。深夜でいいから。
あれだよ、いくら全ての人間に警戒心を持っている野良犬でも、生肉持って歩いている奴がいたら、そうすればお恵みしてくれるって学習してたら、フリだけでも愛想よくするだろ。それはそれでいい。あなたがわたしに向けた興味はそういうものでいい。
で、自分の頭をなでてきたりしたら、噛みついてやればいい。自分のうちの警戒心に従って。
わたしもいつなでてしまうかわからないよ。
別の未去勢者に対してわたしは人になってしまった。
自分が汚らしいと思うそれを付着させた手で彼に触れてしまった。
正常人の情動は干渉縞で、情性欠如者のそれはフーリエ展開された各項だ、って言ったけど、サイン波って基準があるからできるわけで、サイン波だって別の基準波を設定すれば展開できなくはない。だけど、それを語るために、精神分析学における欲動という概念が基準波として使えそうだとは思っている。もちろん仮設の基準波。
だから、それが汚らしいか汚らしくないかの明確な境界線は、ないんだ。
だから、質量がゼロの光(という波動)だって、全く汚らしくないという意味での美しいものたりえない。
未去勢者にとってもっとも美しいのは消滅だ。死ですらない。
なんとなく、な。もう、な。
イズミール「次くる子超性格悪い子だったらいいな!」
感動した。
というのは、わたしは他の多くの人とシニフィエが違う、と書いたが、子供の頃は「物」のシニフィエの違いが気になっていたのだと思う。もちろんその頃はそんなの自覚していない。ただ、周りの人の言う「物」とわたしの感覚での「物」が違うのだから、単に、それこそ(社会に対する、ではない)「世界に対する違和感」を感じていたのだろう。
ちょっと成長して知恵をつけると、他の人の「物」とは大体固体になってしまうが、自分はそうじゃない、わたしにとっては水も空気も物だ、ということにまず気づいた。
この記事のコメント欄でも書いてあるように、子供の頃、わたしには物をすり抜けられる感覚があった。だから「物はすり抜けられない」と言う言説に違和感を覚えていた。水ならすり抜けられるじゃないか、「プラスチックの水槽だとすり抜けられないだろ」、じゃあ、そうだ、昨日習った電気。電気は相手が金属ならすり抜けられる、「お前は電気じゃないだろ」、以下そこに記したネタへと発展する。
まーそんなんで物理に興味を持った、というかわたしが実際に持っていた感覚のアリバイみたいなものとして有効活用できる理屈が大量にあった物理学に成り行きで目が行ったわけだ。
んで大学まで進んで、ふと昔の、言い訳で四苦八苦してた頃を思い出すとな、「なんだ自分の感覚の方が正しかったじゃないか、お前らの常識が間違っていたんじゃないか」と思ってしまうんだ。本当、多くの人間ってバカだ、と思った。逆に言えば、子供の頃のわたしは感覚的に量子力学の世界を知っていた、ということでもある。もしわたしが量子力学が誕生する前に生まれていて、その頃の感覚をお前らバカたちにウケるように述べていれば、わたしは量子力学を予言できていたんじゃないか、とすら思う。
本当、わたしが子供の頃からしてきた苦労は、どうしようもない違和感は、それは今でもあるのだが、お前らがバカだから生じていたんじゃないか? と思う。それは大多数の人間たちが持っている常識だ。ではなぜ大多数の人間たちはそんな物理学的に間違った常識を持ってしまうのか? を考えるのが筋ってものだろう。まあこの思考経路をなぞると話があさって方向に飛んでしまいそうなのでやめておくが。
あ? 物理学は過去の多くの学者の研究が積み重なって今の理論になったのだ、だ? だーから、わたしはお前らがそうやって辿り着いたその量子力学的世界観を、子供の頃から素で感じていたんだ、つってるんだよ。バカ。ほんと一から説明しないと理解しないのな、お前らバカは。お前らのせいでわたしがどんなに苦労してきたかわかんねえだろ? 「合意の快楽」(この記事のコメント欄参照)を知っているから簡単に認知認識体系を他人と同じものにできるお前らバカ。お前ら死ね。ほんと八割くらいいなくなってくれ。ああうらやましいんだよ。「うらやましい」って言ったら死んでくれるのかい?
そうだよ、だからいっそ魔女になって、「こいつの言ってることはトンデモだ」とか言われた方がいいんだ。そうなれば言い訳なんて必要ないからな。自分の興味を持ったことだけを研究できる。自分の苦痛の原因を探ることができる。
とはいえさすがに人間一人で生きてくのは困難があることもわたしは知っている。だから、わたしの研究の一部を、お前らが勝手に社会のために役立てればいい。それでわたしにお恵みをくれればいい。『Another Day In Paradise』の物乞いババアに一ドル札を放り投げてくれればいい。それだけでいい。それ以外は何もいらない。むしろそれ以外のものを付着させてくるのがうざい。お前らの一ドル札は汚らしい。
『Another Day In Paradise』の主人公はまだましだ。自分が放り投げようとした一ドル札に汚らしい何かがこびりついているのを知っている。自分が投げようとした「愛」や「慈悲」の裏にある汚らしさを感じて彼は立ち止まる。
それを打ち消すために、わたしがジコマンでしている研究を、お前らの社会に役立てればいい、と言ってるんだ。お前らが忘れてしまった真理を、お前らが思っているのとは別の真理を、神がもたらしたのとは別の物乞いの真理を、バイタの真理を、彼女は知っているかもしれない。
ババアが代わりに差し出すのは汚らしいただの小石だ。一ドルの価値もない。それを社会に役立つものへと磨き上げるのは、お前らだ。その物乞いババアを、自分の気に入らないところまでも映し出す真実の鏡と見るかは、お前ら次第だ。
そうだよ。これは取引だ。お前らの神から見れば裏切りになるかもしれないがね。神を十信仰するために、一の裏切りが必要だとしたら、お前はどうする? って話だ。ああ別にどうしろとは言わないよ。お前がだめなら別の神の奴隷に声をかけるさ。
物乞いババアにとっては、軽蔑のまなざしを投げて立ち去る奴も、一ドル札を放り投げてくれた奴も、お前みたいに立ち止まった奴も、等しくただの物だ。
もちろん、その老魔女の言葉にある全てを、子供のわたしが思考していたわけではない。子供のわたしが物について持っていた感覚を説明するのに、非常に適合する理屈として量子力学という道具はあるのだが、老魔女の言葉は幾分道具に影響されている部分もある。「光はそれ自体で爆発しない」や「爆発の結果光が生ずる」や「光が爆発を誘う」は、わたしの記憶では子供の頃考えていたとは思えない。光関係はほとんどそうっぽいな。具体例として示した「雷」なんかは、多分「電気としての物」のつもりだったんだろうが、子供の頃のわたしはおそらく光として認知するだろう。なので思考の対象外になっていた気がする。また「砂や小麦粉なんかより、さらにもっともっと小さい」あたりは、それこそ量子力学的世界観に誘導するためのあざとい隠喩だ、という印象がある。
ビオンの言う「思考する者なき思考」、この記事ではある自己愛型ひきこもりラカニアンが言った言葉「考える物」と表現しているが(こっちの方がわたしはしっくりくる)、それはそういうものだと思う。たとえば、要は老魔女の言葉は子供の頃の感覚と大学で習った量子力学の知識が混淆したものだ、とわたし自身が言っているのだが、そういった混淆している思考が、そういうものだと思う。正常人の感覚で矛盾している事柄、言葉、イメージ、意味も、ただ混淆する。浸透し合っているだけ。だからこの記事などで「こちらの世界には矛盾はない」などという、わたし自身がわたしらしくないと思えるようなことを述べてしまったのだろう。「思考する者なき思考」が。「考える物」が。
あ、だめだ。「思考実況」なんて言っているが、実はそうでもない。実況される「思考する者なき思考」に近づけば近づくほど言葉を忘れてしまう。これは歩き方を忘れてしまうのと似ている。「思考する物」の思考を「思考する者」は劣化させてしまうが、妥協的に「実況」すればよい、というその場しのぎ的な発想(もちろんこれを言い始めた時はそんなこと考えていたわけではない)。でもそれに近づくと実況さえできなくなる。
だめだもう。死にたい。実況できなくなるから、なのだが、それは、そう望んでいたのだが、それにより「思考する物」を表現したいのだが、それになることとは、死にたくなることだ。もちろん、「思考する者」にレイプされるのも死にたくなる。汚く死ぬかきれいに死ぬか、の違いにすぎない。
それすら関係ないのが、本当の無意味の世界。
だめ。終わり。死ぬって意味じゃないぜ? 「思考する物」に近づくのをやめるってことだから、生きる、って意味での「終わり」だ。
んでわりと普通の頭で、前記事の「ゴミにICタグつける管理システム」とかどうなってんのかなーと思ってぐぐったら、最近では結構導入されてるらしい。これとかこれ。東京都えらいな。民間だと一社がやっても無駄っぽいとは思ったけど、公的機関がやる分には意味あるだろうな。積水ハウスはー、ま、建築系の処理業者とかそれこそ(げほげほ)みたいなの多そうだから、意味あるのかもね。住宅系は全く知らんけど。
休憩終わり。
とりあえず老魔女の言葉関係で今言いたいことだけ言っておこう。最低限の体裁は整えよう。
あれ、「物とは爆発だ」なんだが、「爆発」って表現ではなかったと思う。子供の頃の感覚は。どっちかってと「エネルギー」みたいな。だけど量子力学っつか物理学の「エネルギー」の定義とは違うので、老魔女はそう言ったんだろうな。どっちかってと「質量」に近いんだが、うむ、フォトンは質量はゼロだ。電子はゼロじゃない。いや「電荷」か? あー「質量」が象徴界の種で「電荷」が想像界の種(当然現実界にある種)って言うなら、まあ納得できなくない、ってむりくりだけどな。あーやっぱ「爆発」がしっくりくるなー。さすが魔女。つか「粒子性」だわな。全然「痛み」が伝わらないけど。
んで、ちっちゃな「爆発」の密度が高いのが固体で、希薄なのが流体ってことなんだが、こう、壁に手をつけてもすり抜けられないのは、壁も手も「爆発」の密度が高いからなんだよね。水は希薄だから、水の中に手を入れられる。水は地面に染み込む。気体然り、ってわけだ。子供の頃の感覚を説明すると。
「爆発」ってか電子の「衝突」とかになんのか。ちょっとちげえな。「衝突」は粒子と粒子が激突することで、粒子性そのものとしての「爆発」なわけだから。
ま、言い訳としてはすげー便利な道具だけど、完全に道具と一体化しているわけじゃない、ってことだな。
つか「思考する物」が弱くなってきた。休憩なんか挟んだからだな。いや、「最低限の体裁」がまずかったな。
もういいよ。ほんともう。ギブ。勘弁。
つかさ、ひさぶりに自己愛型ひきこもりラカニアンくんの文章読んだんだけどさ、文中の「グアヤキ族」な、わたしそんなん見たこともないからなんとも言えないんだが、なんでこいつ「ボクチンお前らの精神構造全部わかってるんだよー」って顔で語れるんだろう? いや、そんなこと語るなって言ってるわけじゃないぞ? 見たこともないのになんで語れるの? って話。彼が本物を見たことあるかどうかなんてわからないけれど、彼も見たことがないなら、多分彼自身の記憶の中のイメージを、シニフィエを、大雑把にあてはめてるのだろう。
んで、周りの多くの他人とシニフィエが違ってしまうわたしなんかだとそういうことは難しいので、考えないようにしてたんだけど、この記事で「グアヤキ族はお前と違う」なんか言っちゃったもんだから(ちゃんと「見たこともないけどね」とは言っている)、「グアヤキ族」っつーより、彼がそういった固有名詞を用いて示したかった状態とはどんなものだ? とかちらほら考えてたのだよね。自分勝手に。んでヒントになるのが「男たちは群れては居ても互いに無関心を保ち」ってところだと思ったんだ。ヒントっつかポイントとして。それ以外の文章だけなら普通に社会にありそうだろ? たとえば「「私、私、私」とひたすら繰り返し歌」っているのは現代社会そのものだとすらわたしは思う。自我が肥大しすぎ。なので、現代社会っぽくないところ(もちろんわたしにとって、だ)を挙げるなら、つまりわたしの主観世界で特徴的だな、と思えるところを挙げるなら、そこだ、ってなる。
んで考えたのだよね。「男たちは群れては居ても互いに無関心を保ち」ながらする怪しいお祭りみたいな状態ってどんなんかなって。そしたらあった。わたしの記憶の中に。それはクラブ。ひっぷほっぱー(笑)とかが群れてるあれね。あたし何回かしか行ったことないんだよね。病んで休暇取った途端職場変えられたんだけど(全然左遷ではない)、その頃なんつーか自暴自棄みたいになっててさ、んで行きつけってほどじゃないけど、飲み仲間にあるお店教えてもらってさ、うん、ひっぷほっぱー系(笑)。で、店の人と話すようになってさ、その人たちクラブイベントとかでドリンクを出したりしてるのね。それで連れてってもらうようになったんだわ。っていうかこういう裏方からのアクセスじゃないとあたし劇場とかに入れないのかもしれない(笑)。
んで、クラブとかさ、グループで行っても、中入ったら大概みんな自由行動っしょ。休憩でカウンター行ってたまたまいたら「どうよ?」って話すくらいで。踊ってる人たちってそうじゃん、「群れては居ても互いに無関心を保」っている。いやもちろんナンパしたりすることはあるんだろうけど、基本が、っていうか土台がそうじゃん、隣で踊っている奴には無関心。みんな自分の世界に入っている。
そっか、グアヤキ族のこのお祭りはクラブみたいなもんだ、って思うと、その文章がよく見えるようになったのね。わたしが。わたし個人が「グアヤキ族」を「クラブで踊る若者たち」に置き換えたら納得できる、って話にすぎん。
なーなー、自己愛型ひきこもりラカニアンくんさー、君が「他人とは思えない」っつってたのは、クラブに通う若者たちかい? 違うよな(笑)。お前はただ未開文明人という、構造主義的贈与交換システムつまり男性的享楽に取り込まれた交接のシンボルたるシニフィエ的な「肉体」に惹かれていただけだ。舞台の上で獣のようにあえぐストリッパーに勃起してただけだ。あー確かにクラブダンサーってそんな感じっつか野生的(笑)だよな。ケツをまるでてんかん発作時の痙攣のごとく振ったりしてるの見たんだが、よく腰痛めないなーって思ったわ。素で感心した。
お前は、列強国がよだれを垂らしながら「お前たちのためだ、俺たちのように文明化したいんだろ?」などと言いながら未開文明を植民地化したのと、同じ精神構造をしている。お互いに無関心であるグアヤキ族の男たちに対し、「他人とは思えない」などという同一化的関心を持ったお前の精神構造は、そういうものだ。
『Another Day In Paradise』の主人公は躊躇したのにな(笑)。
違うって? 「私はグアヤキ族を文明化したいわけではない、グアヤキ族になりたいのだ」って? それ「合意の快楽」が行動基準になっているって意味で同じことなんだが、まあ一応説明しておくと、お前のこういった思考はポンコツ受信装置である「考える者」の仕業だ。お互いが他人に無関心を保ってする思考が「考える物」の思考だ。「考える物」に喋らせるには「考える者」を殺害しなければならない。お前はその記事で自白しているように、「考える者」そのものとして語っているよな? ということはだ、お前がグアヤキ族になりたいのなら、自殺するしかないんだよ。
ほんと自己愛型ひきこもり系の奴らって一皮むくだけでファルスがもろ出しになるよな。あ、「自己愛型ひきこもり」の別の言い方思いついた。「仮性包茎」。
つかさー、お前らさー、こういう「この言葉のシニフィエはどういうものだろう?」って思考が足りなさすぎる。そりゃーそうだよ、無意識的にシニフィエを、世界の見え方を同調させる機能がお前らには備わってるんだから。「合意の快楽」を根拠にした行動様式。動物行動学的なヒトの行動様式。未去勢者にはそれが備わっていない。だからたとえばアスペルガー症候群者は具体例がないと話の理解が困難だったり、語義にこだわったりする。つーか逆に言えば、なぜアスペルガー症候群者たちは具体例がないと話の理解が困難になるのか、語義にこだわるのか、ってのの説明がすっきりとつくだろ? お前らの精神疾患的な異常さを机上に載せれば。「正常という精神疾患」を考慮に入れれば。
ほれ、これがわたしの差し出す汚らしい小石だよ。「正常という精神疾患」という考慮を入れれば、お前らの理屈は発展するだろう。その原石を、わたしは差し出してるんだよ。
一ドルくれよ。
イヴなんだしさ。
つかなんの考えもなしにリンク貼ったけど、この記事いいな。「体は歌っている」。んだ。「思考する者なき思考」とは歌だ。屁理屈的な歌。アルトーがしていた思考の奔流とは歌だ。
うん、昔の中島みゆきの歌詞とか今で言う中二病者がするような屁理屈が散見されるだろ?
そういうことだと思う。
ビオンは「思考する者なき思考」を認めた。わたしはそこに情動を認める。ボロメオの輪が綻んだ状態での現実界には、象徴的な動向も想像的な動向もあることになる。
そうだよ、構造主義者が探求している構造は、自然の理を人間社会において投影したものだ。自然科学が探求している理と比べたら、二次的なものだ。
それとおんなじことだ。
つまり、正常人たちの象徴界も想像界も、本物ではない。それらは二次的な思考であり、二次的な歌だ。劣化された思考であり、劣化された歌だ。
お前らという正常人の存在がどれだけ価値のないものか、これでわかってくれるかい?
彼の言う「他人とは思えない」には自分がある。ただの興味には自分はない。むしろ興味に自分は翻弄されている。
異物を本当の異物として認知できないことが、正常という精神疾患だ。
お前らという征服者の本性だ。
普通の思考したい。と思ってどうしたらいいかと思ったら直感でネトゲやればいいと思った。
飲み屋は年だ。体がもたない。
というわけでやめよう。ほんとに。ハウスッ!
あ、そうそう、この記事の、
=====
麻原の本で坂本龍馬等の歴史上の偉人を憑依させて語っている奴
=====
だけど、著作調べてもそんなんなくて、いろいろ調べてたら多分大川興業じゃなくて隆法だったっぽい。歴史上の偉人を憑依させて語るのって。
『仏陀再誕』テレビでやんねえかな。深夜でいいから。
あれだよ、いくら全ての人間に警戒心を持っている野良犬でも、生肉持って歩いている奴がいたら、そうすればお恵みしてくれるって学習してたら、フリだけでも愛想よくするだろ。それはそれでいい。あなたがわたしに向けた興味はそういうものでいい。
で、自分の頭をなでてきたりしたら、噛みついてやればいい。自分のうちの警戒心に従って。
わたしもいつなでてしまうかわからないよ。
別の未去勢者に対してわたしは人になってしまった。
自分が汚らしいと思うそれを付着させた手で彼に触れてしまった。
正常人の情動は干渉縞で、情性欠如者のそれはフーリエ展開された各項だ、って言ったけど、サイン波って基準があるからできるわけで、サイン波だって別の基準波を設定すれば展開できなくはない。だけど、それを語るために、精神分析学における欲動という概念が基準波として使えそうだとは思っている。もちろん仮設の基準波。
だから、それが汚らしいか汚らしくないかの明確な境界線は、ないんだ。
だから、質量がゼロの光(という波動)だって、全く汚らしくないという意味での美しいものたりえない。
未去勢者にとってもっとも美しいのは消滅だ。死ですらない。
なんとなく、な。もう、な。
イズミール「次くる子超性格悪い子だったらいいな!」
感動した。