受取手も表現者も神様です。
2009/12/27/Sun
神田森莉って絵柄だけなんとなく覚えがあったけど知らなかった。サイトにタダマンガあったのでちらほら読んでた。
これさー、何がおもしろいってまじで少女漫画雑誌に投稿したことだよな。
でもあれだ。書いてる内容って今や既に飽きられてしまった「大きな物語」とかあの辺のオタク論とおんなじだよな。ラカン論でオタクを語るのとか大体こういうの。1986年か。渦中だな。10年早かったか。いや10年だと二番煎じになってそうだが大体漫画ってそういうものだし10年でいいや。『エヴァ』が1995年か。こういうの見るとほんと「早い者勝ち」って嘘だよなーって思う。結局は世に見出されるかどうかで、しょせん運なんだよな。
ファルスが萎えた悩める少年少女たちのためのこういう「見えない敵」を描いているのって今逆にないよな。「大きな物語ですね! わかりました!」つって「大きな物語」にまた嬉々として飲み込まれていく。
以前正常人は何やっても正常人だってつぶやいたことあるが、そういうことだと思うよ。
いいんじゃないの、幸せならそれで。
だからって幸せを破壊しようとする人間が「破壊するのをやめろ」なんて言われる理屈もないけど。
結局臨床しないとだめなんだよ。解剖してあげないと。
一度ウインナーにしてあげるくらいしなきゃ。
この人の漫画おもれえな。全然知らなかったわ。最初見た時魔夜峰央コピーかと思ったけど全然違った。
やっぱ少女漫画来る野郎って変態ばっかだな。
これもおもろい。つかこっちのが好きだな。なんていうかこう、少女漫画とかってコードとかあった方がこの人おもしろい気がするけどな。今もホラー漫画のコードみたいなんあるんだろうけれどそれともズレてる。だけど今のズレは確信犯的に見えてあんまりおもしろくない。ホラー漫画界ってそういうのがいいんだろうか。ホラー漫画ってくくりでは好きと思ったことないなあ。そこそこ読んでたけど。
自分ではズレてるのがわからないのにズレてるのがおもしろいんであって。自分が一瞬売れてた頃を振り返って描いた漫画あったけどそういうことかと。「下手」というか感性のズレに自分では気づいてないのがおもしろかった(おそらく唐沢俊一はそういうのがおもしろいと思ったんだと思う)のに、気づいてしまったらおもしろくない。漫画の読者って残酷だと思うよ(西原理恵子もそんなことゆってた)。演劇の観客も残酷だけど。舞台演劇ってなべて「供犠」だと思うんだけど舞台に立った人しかわかんめえ。西原なんかのギャンブル日記漫画は本人本当に必死だったんだと思うよ。漫画を描くことじゃなくてギャンブルの方に。だから漫画がズレていようが関係ない。これが自分じゃズレてるのがわからないってなる。読者視点。供犠の生贄は自体愛的。他人の目なんか気にしてられない。ところで西原といい坂東眞砂子といい広末涼子といい高知県出身なんだなってことで最近高知に興味を覚えている。土地自体は行ったことあるけれどあんまり覚えてない。ただの田舎だった。
要するに「自分はズレてるところがウケたんだ、じゃあズレよう」っていうのがつまらなくなった原因じゃないかと予想。読者側にしてみれば自分の意地汚いところを見せつけられるようなもんじゃん。作家が勝手にズレてるなら「あなたを救ってあげよう、救ってあげてる、(私だけが)わかってあげてる」みたいな優越感を感じられる。青田買いみたいなもんか。
作家側から言えば、読者をつかもうとしていることなわけじゃん。握力がある。パラノイアックな力。
まあこういう「行間のやり取り」みたいなのが生じると、読者(受取手)も作家(表現者)もお互い神でお互い下僕になっちゃうのよね。そんな作品は巷に転がっている。っていうか一般の人たちの日常会話が大体全部この構図。主人のディスクール。
ちょっと興味持ったけど一瞬でした。まあ時々日本語変だからやっぱどっかおかしい人なのかもしれないけれど。
キチガイ見るの好きな人みたいだからうちに来てるキチガイたちこいつに群がってみてよ。もっと壊れた漫画読みたい。
それから出版社の人、この人に仕事あげないでください。もっと生きていけない状況にした方がおもしろい漫画描くと思いますよ。精神分析の理屈でも説明できるけどしない。典型的な「売れるとダメになる」系と予想。つかこの人のウケている(以前ウケた)ところを伸ばすとしたらの話だけどね。受取手は生贄の苦しむさまを見たがっているものです。「救ってあげよう」とすら思えないほどの苦悶の表情を。まさに残酷演劇ならぬ残酷漫画。
要するに、素質は異色なんだけど、自分の異色さがウケてたって自覚したせいで、それをウリにしているわけじゃん。ってことは読者のご機嫌伺いしているわけで、それって王道方向の思考なのだよね。だから異色になりきれずにいる。中途半端だからあんまりピンとこない、ってことかね。
頭はいいんだろうな、この人。
この人『ねこまんが』にも描いてるんだな。時々買うけど知らなかった。あの雑誌いろいろ実力のない漫画家が描いているからおもしろい。「わたしが救ってあげよう」という優越感。いやうちの近くのコンビニになぜかいつも置いてあるからってだけなんだけど。比喩だが対人恐怖症者みたいな人が多いイメージ。主人のディスクールが過剰な人々。それってパラノイアであってその防衛としてフェティシスムはあるわけだから、要は猫フェチってことか。「人だと愛せないから猫を愛します」って宮崎勤が言われてたことと同じ構図だな(笑)。自分たちの性質の自白だったわけだ。「言述は自分を表象=代理するものであり、それどころか、言述は自己の表象=代理そのものであるのだ。」ってか。つまんね。あ、一応断っとくが宮崎を擁護しているわけじゃないぜ? なんでそう敵か味方かって思考しかできないんだろうなバカどもは。「自分たちを攻撃することは犯罪者を擁護することだ」とかそういう単純な主観世界だけで生きてけるお前らがうらやましいよ。他人は他人だ。誰であろうと平等に。平等に異物。人も物も。
今ってほとんどこういうパラノイア方向ばっかだからマンガも映画もドラマもつまんない。神田さんは逆だな。スキゾフレニー方向の防衛でフェチじゃないけどナンセンスの形式を取ってみました、って感じ。まー多分彼にとってそこが居心地として一番まし、ってだけなんだろうな。いいんじゃない。
っていうか漫画に限らず出版系の底辺の奴ら(編集者も含む)ってなんでこう同じ臭いがするんだろう。他の底辺な人たちってもっと前向きだと思うんだけどな。馬鹿っつうか。もともと前向きになれない奴が出版関係に群がるのか。他人にほめられたくてがんばってるけどなかなかほめてもらえない奴ら。
そういうさー、落ちかけて藁にすがっている人より、落ちて重傷を負って死にかけながらも助かろうと手を伸ばしている方が、わたしは好き、って話にすぎんよ。まあ死にかけなわけだからすぐに死んじゃうんだけどね。一瞬だけになるだろうなそういうの。
いや、でも好きな方だよ。有象無象のマンガ家の中ではましな方って意味で。これとかいい感じに落ちられてるキガス。
一応報告。また中坊さんとこ。
これさー、何がおもしろいってまじで少女漫画雑誌に投稿したことだよな。
でもあれだ。書いてる内容って今や既に飽きられてしまった「大きな物語」とかあの辺のオタク論とおんなじだよな。ラカン論でオタクを語るのとか大体こういうの。1986年か。渦中だな。10年早かったか。いや10年だと二番煎じになってそうだが大体漫画ってそういうものだし10年でいいや。『エヴァ』が1995年か。こういうの見るとほんと「早い者勝ち」って嘘だよなーって思う。結局は世に見出されるかどうかで、しょせん運なんだよな。
ファルスが萎えた悩める少年少女たちのためのこういう「見えない敵」を描いているのって今逆にないよな。「大きな物語ですね! わかりました!」つって「大きな物語」にまた嬉々として飲み込まれていく。
以前正常人は何やっても正常人だってつぶやいたことあるが、そういうことだと思うよ。
いいんじゃないの、幸せならそれで。
だからって幸せを破壊しようとする人間が「破壊するのをやめろ」なんて言われる理屈もないけど。
結局臨床しないとだめなんだよ。解剖してあげないと。
一度ウインナーにしてあげるくらいしなきゃ。
この人の漫画おもれえな。全然知らなかったわ。最初見た時魔夜峰央コピーかと思ったけど全然違った。
やっぱ少女漫画来る野郎って変態ばっかだな。
これもおもろい。つかこっちのが好きだな。なんていうかこう、少女漫画とかってコードとかあった方がこの人おもしろい気がするけどな。今もホラー漫画のコードみたいなんあるんだろうけれどそれともズレてる。だけど今のズレは確信犯的に見えてあんまりおもしろくない。ホラー漫画界ってそういうのがいいんだろうか。ホラー漫画ってくくりでは好きと思ったことないなあ。そこそこ読んでたけど。
自分ではズレてるのがわからないのにズレてるのがおもしろいんであって。自分が一瞬売れてた頃を振り返って描いた漫画あったけどそういうことかと。「下手」というか感性のズレに自分では気づいてないのがおもしろかった(おそらく唐沢俊一はそういうのがおもしろいと思ったんだと思う)のに、気づいてしまったらおもしろくない。漫画の読者って残酷だと思うよ(西原理恵子もそんなことゆってた)。演劇の観客も残酷だけど。舞台演劇ってなべて「供犠」だと思うんだけど舞台に立った人しかわかんめえ。西原なんかのギャンブル日記漫画は本人本当に必死だったんだと思うよ。漫画を描くことじゃなくてギャンブルの方に。だから漫画がズレていようが関係ない。これが自分じゃズレてるのがわからないってなる。読者視点。供犠の生贄は自体愛的。他人の目なんか気にしてられない。ところで西原といい坂東眞砂子といい広末涼子といい高知県出身なんだなってことで最近高知に興味を覚えている。土地自体は行ったことあるけれどあんまり覚えてない。ただの田舎だった。
要するに「自分はズレてるところがウケたんだ、じゃあズレよう」っていうのがつまらなくなった原因じゃないかと予想。読者側にしてみれば自分の意地汚いところを見せつけられるようなもんじゃん。作家が勝手にズレてるなら「あなたを救ってあげよう、救ってあげてる、(私だけが)わかってあげてる」みたいな優越感を感じられる。青田買いみたいなもんか。
作家側から言えば、読者をつかもうとしていることなわけじゃん。握力がある。パラノイアックな力。
まあこういう「行間のやり取り」みたいなのが生じると、読者(受取手)も作家(表現者)もお互い神でお互い下僕になっちゃうのよね。そんな作品は巷に転がっている。っていうか一般の人たちの日常会話が大体全部この構図。主人のディスクール。
ちょっと興味持ったけど一瞬でした。まあ時々日本語変だからやっぱどっかおかしい人なのかもしれないけれど。
キチガイ見るの好きな人みたいだからうちに来てるキチガイたちこいつに群がってみてよ。もっと壊れた漫画読みたい。
それから出版社の人、この人に仕事あげないでください。もっと生きていけない状況にした方がおもしろい漫画描くと思いますよ。精神分析の理屈でも説明できるけどしない。典型的な「売れるとダメになる」系と予想。つかこの人のウケている(以前ウケた)ところを伸ばすとしたらの話だけどね。受取手は生贄の苦しむさまを見たがっているものです。「救ってあげよう」とすら思えないほどの苦悶の表情を。まさに残酷演劇ならぬ残酷漫画。
要するに、素質は異色なんだけど、自分の異色さがウケてたって自覚したせいで、それをウリにしているわけじゃん。ってことは読者のご機嫌伺いしているわけで、それって王道方向の思考なのだよね。だから異色になりきれずにいる。中途半端だからあんまりピンとこない、ってことかね。
頭はいいんだろうな、この人。
この人『ねこまんが』にも描いてるんだな。時々買うけど知らなかった。あの雑誌いろいろ実力のない漫画家が描いているからおもしろい。「わたしが救ってあげよう」という優越感。いやうちの近くのコンビニになぜかいつも置いてあるからってだけなんだけど。比喩だが対人恐怖症者みたいな人が多いイメージ。主人のディスクールが過剰な人々。それってパラノイアであってその防衛としてフェティシスムはあるわけだから、要は猫フェチってことか。「人だと愛せないから猫を愛します」って宮崎勤が言われてたことと同じ構図だな(笑)。自分たちの性質の自白だったわけだ。「言述は自分を表象=代理するものであり、それどころか、言述は自己の表象=代理そのものであるのだ。」ってか。つまんね。あ、一応断っとくが宮崎を擁護しているわけじゃないぜ? なんでそう敵か味方かって思考しかできないんだろうなバカどもは。「自分たちを攻撃することは犯罪者を擁護することだ」とかそういう単純な主観世界だけで生きてけるお前らがうらやましいよ。他人は他人だ。誰であろうと平等に。平等に異物。人も物も。
今ってほとんどこういうパラノイア方向ばっかだからマンガも映画もドラマもつまんない。神田さんは逆だな。スキゾフレニー方向の防衛でフェチじゃないけどナンセンスの形式を取ってみました、って感じ。まー多分彼にとってそこが居心地として一番まし、ってだけなんだろうな。いいんじゃない。
っていうか漫画に限らず出版系の底辺の奴ら(編集者も含む)ってなんでこう同じ臭いがするんだろう。他の底辺な人たちってもっと前向きだと思うんだけどな。馬鹿っつうか。もともと前向きになれない奴が出版関係に群がるのか。他人にほめられたくてがんばってるけどなかなかほめてもらえない奴ら。
そういうさー、落ちかけて藁にすがっている人より、落ちて重傷を負って死にかけながらも助かろうと手を伸ばしている方が、わたしは好き、って話にすぎんよ。まあ死にかけなわけだからすぐに死んじゃうんだけどね。一瞬だけになるだろうなそういうの。
いや、でも好きな方だよ。有象無象のマンガ家の中ではましな方って意味で。これとかいい感じに落ちられてるキガス。
一応報告。また中坊さんとこ。