警告
2010/01/08/Fri
こう、定期的に足跡つけてるまともそうな人が結構いるんだが、あれだ、狂犬に肉のありかを教えてるようなもんだぞ。中坊さんの二の舞になるかもしれんぞ(がんばって抑えてたんだけどな)。
一応警告しといたからな。
見るなっつってんじゃないよ? fc2は足跡つけない設定もできるみたいだし、とはいえ他のところに足跡つけたい人はいちいち設定いじらなくちゃなんなくなってめんどくさいことになりそうだけど、こっちも好きで反応してるわけじゃないんだよな。被害妄想じみたぞわぞわ感。頭ではわかってんだよ、たまたま覗いただけでこの記事はわたしのこと言ってるんじゃないって。わたしのこと言ってるんじゃなくてもおかしくなるんだよな。精神病的被害妄想は自己のみに対する被害の妄想じゃない。被害を受けている(と妄想させられている)のは自他混淆的だ。
統合失調症の症例に、個人的に「狼少年ケース」と脳内で呼んでいるものがある。現代ならたとえば、環境破壊によって地球が滅亡することを本気でおそれている、などというようなケース。要するに被害妄想。
余談になるが、統合失調症など持ち出さなくても、災害パニック映画ではこの要素が顕著になっている。大体、主人公がほんのかすかな異変から災害を予知し、周囲に警告を発するのだが、相手にされない、ってところから始まる。この時「いたずらに危機感を煽るな」というのが主人公を黙らせる定型句であるが、そういうことである。
話を戻そう。寓話の狼少年は、確かに、一般的な解釈のごとく、村人の気を引きたくてそうしたのかもしれない。その可能性が高いだろう。だがもし狼少年が精神病的主観世界を生きていたとしたら。彼は、まともな人間がする思考回路で、他人の気を引きたくて「狼が来た」と騒いでいたのではなく、精神病的な被害妄想として、狼に襲われることをおそれていたのだとしたら。
この時の被害妄想は、自分が襲われるか自分以外が襲われるか関係ない。自分が襲われる被害のみを妄想させられていたのなら、自分で自分の身を守ればよい。そうではない。自分が襲われるか自分以外が襲われるかという差異など関係ないのだ。β要素とはそういうものなのだ。だから狼少年は村人に警告を発する。被害妄想に他人を巻き込もうとする。
これは、人として他人を思い遣ってそうしているのではない。物として同じ物だからそうしているのである。自分ではなく村人が襲われたとしても、彼はまともな人間がするように悲しんだりしないだろう。村人という物が破壊された。自分も破壊されかねない。悲しみではなく、そういう感覚が彼を襲うだろう。
この時の被害妄想は、よく言えば「野生の勘」「動物的勘」などと表現してもよいものだ。
この時の狼少年は、人ではなく動物として、「狼が来たぞ」と騒いでいたのかもしれない。
自然の一部として。
寓話では実際に狼はやって来ている。彼の「野生の勘」は当たっている。
あ、わたしは当たらないことが多いよ。先に言っとくけど。
この勘が当たるってことは、わたしがネットイナゴどもにふるぼっこにされるってことだから、むしろ当たって欲しくない。
死ね。
さあ、わたしのかわいい獣たちよ、だらしない顔でのほほんと暮らしている馬鹿どものβ要素を、死の恐怖を煽ってやりなさい。パニック映画の主人公のごとく。
わたしと同じ魔女たちにも被害が出るだろうね。むしろ魔女はβ要素に敏感なんだから。
だから魔女は群れられない。軍勢にならない。
ゲリラ戦しかできない。
魔女の攻撃がもっとも効くのは魔女に対してである。当然自分に対しても。谷山浩子『魔法使いの恋人が逃げた』ならば、逃げた恋人に向かって何かしらの魔法をかけたとしたら、恋人が受けるより大きいダメージを、魔法使い本人も「みんな」も受けてしまうのである。
従って魔女の攻撃は自爆テロ的になる。
ゲリラ的で自爆テロ的。
魔女よりまともな人間の方が、この攻撃に対する防御力は高い。
じゃあなんでそんなことするのか。
それが自然の理だからだ。
ヤプーズ動画あんまないのな。今日のBGM『急告』な。
あ、そうそう。被害妄想って症状も快楽原則が破綻してるよな。いや独り言だけど。今日の記事もここのコメント欄で述べている「新宮一成『ラカンの精神分析』P206の図は誤っている」ってのに繋がるな。こういうことだよ。狼少年の症状を「他人の気を引きたいからだ」などという解釈によって劣化させるのと同じように、新宮はナマのエスたる精神病患者が相関しているβ要素を大文字の他者に劣化している、ってことだ。
いやまー、世の中には他人の気を引こうとして狼少年になった人も大勢いるだろうし、その可能性を否定するわけじゃないよ? ものすごく低い可能性だけど、そうじゃない場合も考えられる、って言ってるだけ。そこのコメント欄でわたしが一番おもしろいと思ってる「龍樹の死に際」議論もそうだ。中坊さんの解釈は、一般的なそれよりひねくれてはいようが、まだ神経症の理論で説明できる症状だ。わたしはその可能性を否定していない。
あたし基本はクライン派よりなんだよな。ラカン用語の方が便利(鋭利)だからそっち使ってるだけで。つかおもちゃとしてすっげーおもろいのは認める。ラカン論。数独みたい。
なんかもうブログそのものがうざくなってきた。
ブログ続けるか、お前らの八割死んでくれるか、だな。
追記。
「新宮一成『ラカンの精神分析』P206の図は誤っている」ってところなんだが、要はA→Sって図なんだが、これA→/Sなら何も問題ないわな、と思ったので一応書き留めておく。ただのSって表記だから誤っている、ってなるだけで。
あと新宮の書き方は別に批判しないよ。馬鹿どもにわかりやすく説明するならそうした方がいいのかもね、って感じに思っている。
ただ、この図でわたしの主観世界を語られると、齟齬が起きる、って話にすぎない。
つか新宮もいい文章書いてるんだよな。その図の説明で。引用する。
=====
なぜなら他者の語らいは彼の外側にあり、彼がそこから自分のために引き入れようとした言葉は自己言及を起こして、彼に不決定の苦しみを味わわせるだけである。
=====
この「不決定の苦しみ」がここで言う精神病者の被害妄想に相当する。いや、真の「不決定の苦しみ」、などと表現すべきか。過剰な自己言及による自己の不決定の苦しみは、統合失調症の「自己の流出」に行きつく、……ってちと暴論すぎた。反省しない。つかそも図の説明なんかもろ「心の理論」が理解できない自閉症者そのまんまじゃん。
=====
人間主体も、自分が在るということを知らずに在り、生きているということを知らずに生きている。大人になった我々はそうでないこともあるが、起源においてはそうだっただろうと想像することができる。そういった原初的な段階の人間主体をSと書こう。
=====
また、「他者の語らいは彼の外側にあり」という言葉は(外側にあるから大文字の他者ではないのだが)、この記事で引用したアスペルガー症候群者の文章、
=====
しかし「ヒトの集団」には決してつながれない,というあきらめも抱いている。だからせめて,「楽しそうな笑顔の群れを見て,つながっている気分のおすそわけをいただく」にとどめている。
=====
に繋がる。
さて、これを読んで自分との「敷居が下がる」と思った斎藤環は、ナマのエスがどのようなものかわかって述べているのだろうかね? 「他者は地獄」であることをその身をもって知って言ってるのだろうかね? あたしゃとてもそうは思えない。本当に地獄だと思ってたらそんな風によだれ垂らしながら「敷居が下がるよね、ね?」なんて言えるわけないだろ。
いやたまきんもその文章の前半ではいいこと言ってるんだけどね、確かに。新宮はよだれ垂らしてるようには見えない、ってだけ。あー、だから稲垣潤一か。甘い声だけど硬質な感じすんじゃん。いえただの主観論です。
あれだ、その本で「大学の語らい」を「科学の語らい」に読み替えてるのって、すっごく象徴的な新宮の症状だと考えれば、彼はよくも悪くも科学者なんだろうな、って思う。「四つの語らい」のうちここだけやけに文章量多いし。
斎藤はやっぱユンギニアンなんだよな。もうちょい年取って性欲枯れたら故河合センセーみたいなかわいい老人にはなれそうだ。
大文字の他者は、エスに斜線が引かれているすなわち去勢されているからこそ、それが大文字の他者となるわけで、去勢されていないエスにとってそれは大文字の他者ではない。中坊さんとこから。
=====
>てかラカニアンたちこれ(図は誤っているって指摘)否定したら鏡像段階すら否定することになるぞ。
だってそうじゃん。鏡像段階は去勢であり、去勢によって象徴界に参入するわけだろ?
「A→S」を認めたら、鏡像段階以前に主体は象徴界に参入していることになる。
=====
去勢以前の主観世界としてあえて表現するなら、
β要素→S
物自体的な言葉→S
などとなろうか。
こういった「物自体的な言葉」を目指していたのが、アルトーが好きだった詩たちじゃないだろうか。
隠喩などではない、実体としての言葉。
一応警告しといたからな。
見るなっつってんじゃないよ? fc2は足跡つけない設定もできるみたいだし、とはいえ他のところに足跡つけたい人はいちいち設定いじらなくちゃなんなくなってめんどくさいことになりそうだけど、こっちも好きで反応してるわけじゃないんだよな。被害妄想じみたぞわぞわ感。頭ではわかってんだよ、たまたま覗いただけでこの記事はわたしのこと言ってるんじゃないって。わたしのこと言ってるんじゃなくてもおかしくなるんだよな。精神病的被害妄想は自己のみに対する被害の妄想じゃない。被害を受けている(と妄想させられている)のは自他混淆的だ。
統合失調症の症例に、個人的に「狼少年ケース」と脳内で呼んでいるものがある。現代ならたとえば、環境破壊によって地球が滅亡することを本気でおそれている、などというようなケース。要するに被害妄想。
余談になるが、統合失調症など持ち出さなくても、災害パニック映画ではこの要素が顕著になっている。大体、主人公がほんのかすかな異変から災害を予知し、周囲に警告を発するのだが、相手にされない、ってところから始まる。この時「いたずらに危機感を煽るな」というのが主人公を黙らせる定型句であるが、そういうことである。
話を戻そう。寓話の狼少年は、確かに、一般的な解釈のごとく、村人の気を引きたくてそうしたのかもしれない。その可能性が高いだろう。だがもし狼少年が精神病的主観世界を生きていたとしたら。彼は、まともな人間がする思考回路で、他人の気を引きたくて「狼が来た」と騒いでいたのではなく、精神病的な被害妄想として、狼に襲われることをおそれていたのだとしたら。
この時の被害妄想は、自分が襲われるか自分以外が襲われるか関係ない。自分が襲われる被害のみを妄想させられていたのなら、自分で自分の身を守ればよい。そうではない。自分が襲われるか自分以外が襲われるかという差異など関係ないのだ。β要素とはそういうものなのだ。だから狼少年は村人に警告を発する。被害妄想に他人を巻き込もうとする。
これは、人として他人を思い遣ってそうしているのではない。物として同じ物だからそうしているのである。自分ではなく村人が襲われたとしても、彼はまともな人間がするように悲しんだりしないだろう。村人という物が破壊された。自分も破壊されかねない。悲しみではなく、そういう感覚が彼を襲うだろう。
この時の被害妄想は、よく言えば「野生の勘」「動物的勘」などと表現してもよいものだ。
この時の狼少年は、人ではなく動物として、「狼が来たぞ」と騒いでいたのかもしれない。
自然の一部として。
寓話では実際に狼はやって来ている。彼の「野生の勘」は当たっている。
あ、わたしは当たらないことが多いよ。先に言っとくけど。
この勘が当たるってことは、わたしがネットイナゴどもにふるぼっこにされるってことだから、むしろ当たって欲しくない。
死ね。
さあ、わたしのかわいい獣たちよ、だらしない顔でのほほんと暮らしている馬鹿どものβ要素を、死の恐怖を煽ってやりなさい。パニック映画の主人公のごとく。
わたしと同じ魔女たちにも被害が出るだろうね。むしろ魔女はβ要素に敏感なんだから。
だから魔女は群れられない。軍勢にならない。
ゲリラ戦しかできない。
魔女の攻撃がもっとも効くのは魔女に対してである。当然自分に対しても。谷山浩子『魔法使いの恋人が逃げた』ならば、逃げた恋人に向かって何かしらの魔法をかけたとしたら、恋人が受けるより大きいダメージを、魔法使い本人も「みんな」も受けてしまうのである。
従って魔女の攻撃は自爆テロ的になる。
ゲリラ的で自爆テロ的。
魔女よりまともな人間の方が、この攻撃に対する防御力は高い。
じゃあなんでそんなことするのか。
それが自然の理だからだ。
ヤプーズ動画あんまないのな。今日のBGM『急告』な。
あ、そうそう。被害妄想って症状も快楽原則が破綻してるよな。いや独り言だけど。今日の記事もここのコメント欄で述べている「新宮一成『ラカンの精神分析』P206の図は誤っている」ってのに繋がるな。こういうことだよ。狼少年の症状を「他人の気を引きたいからだ」などという解釈によって劣化させるのと同じように、新宮はナマのエスたる精神病患者が相関しているβ要素を大文字の他者に劣化している、ってことだ。
いやまー、世の中には他人の気を引こうとして狼少年になった人も大勢いるだろうし、その可能性を否定するわけじゃないよ? ものすごく低い可能性だけど、そうじゃない場合も考えられる、って言ってるだけ。そこのコメント欄でわたしが一番おもしろいと思ってる「龍樹の死に際」議論もそうだ。中坊さんの解釈は、一般的なそれよりひねくれてはいようが、まだ神経症の理論で説明できる症状だ。わたしはその可能性を否定していない。
あたし基本はクライン派よりなんだよな。ラカン用語の方が便利(鋭利)だからそっち使ってるだけで。つかおもちゃとしてすっげーおもろいのは認める。ラカン論。数独みたい。
なんかもうブログそのものがうざくなってきた。
ブログ続けるか、お前らの八割死んでくれるか、だな。
追記。
「新宮一成『ラカンの精神分析』P206の図は誤っている」ってところなんだが、要はA→Sって図なんだが、これA→/Sなら何も問題ないわな、と思ったので一応書き留めておく。ただのSって表記だから誤っている、ってなるだけで。
あと新宮の書き方は別に批判しないよ。馬鹿どもにわかりやすく説明するならそうした方がいいのかもね、って感じに思っている。
ただ、この図でわたしの主観世界を語られると、齟齬が起きる、って話にすぎない。
つか新宮もいい文章書いてるんだよな。その図の説明で。引用する。
=====
なぜなら他者の語らいは彼の外側にあり、彼がそこから自分のために引き入れようとした言葉は自己言及を起こして、彼に不決定の苦しみを味わわせるだけである。
=====
この「不決定の苦しみ」がここで言う精神病者の被害妄想に相当する。いや、真の「不決定の苦しみ」、などと表現すべきか。過剰な自己言及による自己の不決定の苦しみは、統合失調症の「自己の流出」に行きつく、……ってちと暴論すぎた。反省しない。つかそも図の説明なんかもろ「心の理論」が理解できない自閉症者そのまんまじゃん。
=====
人間主体も、自分が在るということを知らずに在り、生きているということを知らずに生きている。大人になった我々はそうでないこともあるが、起源においてはそうだっただろうと想像することができる。そういった原初的な段階の人間主体をSと書こう。
=====
また、「他者の語らいは彼の外側にあり」という言葉は(外側にあるから大文字の他者ではないのだが)、この記事で引用したアスペルガー症候群者の文章、
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しかし「ヒトの集団」には決してつながれない,というあきらめも抱いている。だからせめて,「楽しそうな笑顔の群れを見て,つながっている気分のおすそわけをいただく」にとどめている。
=====
に繋がる。
さて、これを読んで自分との「敷居が下がる」と思った斎藤環は、ナマのエスがどのようなものかわかって述べているのだろうかね? 「他者は地獄」であることをその身をもって知って言ってるのだろうかね? あたしゃとてもそうは思えない。本当に地獄だと思ってたらそんな風によだれ垂らしながら「敷居が下がるよね、ね?」なんて言えるわけないだろ。
いやたまきんもその文章の前半ではいいこと言ってるんだけどね、確かに。新宮はよだれ垂らしてるようには見えない、ってだけ。あー、だから稲垣潤一か。甘い声だけど硬質な感じすんじゃん。いえただの主観論です。
あれだ、その本で「大学の語らい」を「科学の語らい」に読み替えてるのって、すっごく象徴的な新宮の症状だと考えれば、彼はよくも悪くも科学者なんだろうな、って思う。「四つの語らい」のうちここだけやけに文章量多いし。
斎藤はやっぱユンギニアンなんだよな。もうちょい年取って性欲枯れたら故河合センセーみたいなかわいい老人にはなれそうだ。
大文字の他者は、エスに斜線が引かれているすなわち去勢されているからこそ、それが大文字の他者となるわけで、去勢されていないエスにとってそれは大文字の他者ではない。中坊さんとこから。
=====
>てかラカニアンたちこれ(図は誤っているって指摘)否定したら鏡像段階すら否定することになるぞ。
だってそうじゃん。鏡像段階は去勢であり、去勢によって象徴界に参入するわけだろ?
「A→S」を認めたら、鏡像段階以前に主体は象徴界に参入していることになる。
=====
去勢以前の主観世界としてあえて表現するなら、
β要素→S
物自体的な言葉→S
などとなろうか。
こういった「物自体的な言葉」を目指していたのが、アルトーが好きだった詩たちじゃないだろうか。
隠喩などではない、実体としての言葉。