資本家よりタンス預金している人間の方が吝嗇である。
2010/01/10/Sun
ブログも長く続けてると、これ言ったことあるっけ? って思う事柄が増えてくる。検索するのもめんどい。なので書こう。
お前らが考える「資本家」ってさ、お前らの妄想じゃね? ルサンチマン丸出しの。
あのさー、株とかやってたらすぐわかると思うんだけどさー、資本家ってお金を流動させてんのよね。お金をストックなんてしてない。だから「株なんてしょせんギャンブルだ」とか言われてんだろ? ストックしてるならギャンブルになんねえだろ?
なのになんで「資本家はお金を貯め込んでいる」ってことになんの? お前らのイメージ矛盾してないか?
株板にこんな笑い話があった。「平均の十倍以上の資産があるのに、飯はカップヌードル」とかってな。実際そうなんだよ。株板発の有名人B・N・Fなんかもそうらしいな。すっげー質素な生活してるって雑誌に取り上げられてなかったか? そういうの全然不思議じゃない。実際に株やってる人間から言わせてもらえば。株に興味を持ってやってるんだから、他のことまで手が回らない。それ以外への興味が薄くなるんだよな。物欲自体が希薄になる。「そんなにお金あるなら土地とか買いなさい」なんて周りにぎゃーぎゃー言われて買ったりすることはあるんだろうけど。あ、わたしの話じゃなくて有名トレーダーの話でそんなんあった気がする。
別に億の金持ってるからって毎日高級イタリアンとか食ってるわけじゃねえんだ。むしろ自由になる金がねえ。
そりゃまそうなんだよ。「株なんてギャンブルだ」ってことなら、ギャンブルに金をつぎ込んで食うにも困るようになるのがデフォだろ? あれとおんなじ。まー競馬で破滅するオヤジとかと比べたら動かす金が文字通り桁違いに大きいから、そのあまりカスみたいな金でカップヌードルくらいは食えるけどさ。
資本家はまったく吝嗇などではない。むしろ資本家が多額の資金を流動させているから、経済は生きていられるのだ。資本家が投入する資金が、経済という生き物の血液となっている。デフレってなんで起こるか知ってるかい? お前らが財布の口を固く閉ざしているからなるんだよ。お前らが吝嗇だから起こるんだ。自業自得だね(笑)。
むしろ「吝嗇さ」を精神疾患的な症状だとして考えれば、タンス預金をしている老人の方が吝嗇だと言える。銀行に預ければ銀行が勝手に運用してくれるのに、それさえもしない。手元にあった方が安心できるからだ。なぜ安心できるのか。彼がお金に執着しているからである。すなわち吝嗇だからである。
なのになぜ、タンス預金する老人は吝嗇だと言われず、資本家が吝嗇だとされるのか。
そいつが持っている資産額を判断基準にして考えているからである。資産額が大きいから、吝嗇して貯め込んだのだろう、という自身の金に対する執着を、吝嗇さを根拠にした浅薄な推測がなされている。
あほか。お前がお金を流動させないから貧乏になってるだけだ。商売一つ取ってもそうだろうが。まず商品を、原料を仕入れないと金は稼げない。お前はそれを抑制しているだけだ。
貧乏人たちが資本家のことを「吝嗇だ」と言ってわめくのは、自身がそうであるが抑圧している部分を、ユングの元型で言う「影」たる資本家に投影しているのである。資本家を「金に執着している」「吝嗇だ」と言ってしまうのは、己の症状の自白なのである。
「資本家とは吝嗇だ」という固定観念は、お前らのルサンチマンを根拠にした妄想にすぎない。お前らは妄想狂である。
精神分析の学徒が臨床した結果としてはっきり言う。
資本家よりタンス預金をする一般人の方が金に執着している、吝嗇である、と。
……あ、いやまあ、ここで述べているような「投資家」って意味じゃない、単に「お金を持ってるだけの人」って意味での「資本家」なら吝嗇かもしれんがね。政治家とかそうかもしれんねーって思ったけど、最近話題になっている小沢一郎なんか、結構貯め込んでいるらしいが、あれ実弾用でしょ。流動させることを目的として持っているとわたしは思う。それくらいの額が必要だから持ってんだろってな。なら吝嗇とは言えない。
使うあてもない小額の金をただタンスに貯め込んでいるような人間こそが、吝嗇なのだ。
資産額は、まったく関係ないとは言わないが、それだけで「吝嗇さ」を測るのが間違っている、と言いたいのだ。
周りの人間がそう言っているからそう思ってただけだって? じゃあこれから改めような。
おわかり? 愚民ども。
ま、大体の資本家はお前らのルサンチマンを「カスどもの戯言」としか思ってないんだろうがな。愚民どもの妄想になんか付き合ってらんねえよ。
カスだから死んでいいよ、君たち。
ラカンが示した「四つの語らい」の例外、「資本家の語らい」は、未去勢者にとっては一つの居場所となりえるだろう。この時の彼はサバルタンではなくなるだろう。
「資本家の語らい」は、未去勢者にとって主体化の場になりうる。それは「二重の疎外」によって成り立つ語らいだが、わたしの言う「嘘が嘘として自然に成立している」や「共有できない前提を共有する」という言葉に繋がるだろう。そう考えるとデリダなんか資本主義者であるべきだと思ったんだが、まあヒステリー者の言うことだからスルー。
ってぐぐってたらこんなの見っけた。
=====
〈主人のディスクール〉は資本家のディスクールとして把握することができ、そこでは主人なき主人、つまりはシステムが支配するディスクールとしての資本主義というテーゼが導き出される。
=====
おいおい、「資本家のディスクール」はどこ行ったんだよ(笑)。もしかしてこのおっさん「資本家のディスクール」の存在知らなかったりする? まあ確かに「主人のディスクール」の形式的な変換が「資本家のディスクール」なんだが。つか「主人のディスクール」って多くの人間が日常的にしているディスクールなんだがな。それと「資本家のディスクール」をごっちゃにしちゃーいかんだろう。
未去勢者は「主人のディスクール」ができないから「資本家のディスクール」によるしかない、ってことだ。
一応書いとくね。「資本家のディスクール」。
/S → S2
―― ――
S1 a
それとあれだ、「一重の疎外」たる「ヒステリーのディスクール」んとこ。
=====
〈ヒステリーのディスクール〉においては、実存の疎外が身体の徴候として現れるヒステリーという存在が、治癒と解放をもたらす主人を求めることになる。
=====
これなんかもろ「白馬の王子様」幻想だな。「女はみんなそう思っている」とそいつが思うことでそいつ自身が白馬の王子様になりたがっている、すなわち主人になりたがっていることを自白するディスクール。ここのコメント欄なんかも参照できるかも。
そういう意味でここは正確(笑)。
つか「治癒と解放をもたらす主人を求めることになる。」ってのに「白馬の王子様になりたい願望」がよく表れているよな。これこそが「主人のディスクール」だよ。この文章自体が。ここでも読んどけ。
この小林康夫って名前かすかに覚えがあるな、授業受けたか本買ったかしたかなって思ってうきぺったら駒場の人だった。焦った。あー『知の技法』の人か。船曳系か、とか思っちゃったごめん。ネームバリューはやっぱそっちのが上っしょ。『知の技法』とか当の東大生たちは笑ってたんだけどな。なんであんなパンピーにウケたんだろ?
養老孟司の言葉でも聞いておけ。
=====
私が東大出版会の理事長をしていた頃、「知の技法」という本が東大出版会始まって以来というぐらい売れました。その時はなぜ売れているのか分かりませんでしたが、今は分かります「知は技法になってしまった」のです。技法というのは、ノウハウということです。
知のノウハウということ、つまりマニュアルであります。こうしたい時はどうしたらいいのかがマニュアルを見れば、理も非も無くわかるのです。
私が育ってきたときの「知」というのは、そうではなかった。私たちの世代にとって「知識」とは、論語に「あしたに道を聞かば、夕べに死すとも可なり」と書いてあることに表されるように、自分が変わるということは、それまでの自分が死ぬということなのです。
=====
あー、一つだけ養老に言っておく。知がノウハウ化したのは、若者だけのせいじゃない。生きた「知」を育むブリコラージュの現場をぶっ壊してきた蓮實一派のような大人たちのせいでもある。あんたのお仲間のせいでもある。まあ多分蓮實一派は「最近の若者がマニュアルを求めたからだ」とか言うんだろうけどな。
駒小が撤廃されるのは仕方のないことだと思っていたが(危険さはやってた学生たちが一番よく知っていた)、ブリコラージュの作業場としてのその価値を誰一人として論じなかったよな。
マニュアルから外れた「知」を実践する学生に単位を与えなかったどころか(与えなくて当然だよ(笑)、あんなのに。つか駒小関係者って大体留年してたし、ってあたしはストレートに卒業したお)、その場がなくなることになんの異議も唱えなかったよな。
お前が危機感を覚えている現象の原因は、若者にも大人にもある。
養老、お前がそんなことを言う資格はない。言うならまず己の罪を述べてから言え。
また、お前の考える「知」は生きていない。お前の「知」もマニュアルと大差ない。お前が言っていることはマニュアルを大事にするかどうかの問題であって、「知」そのものの問題ではない。
「それまでの自分が死ぬ」だあ? 本当の「知」はその「自分」を作るために最初はあるんだよ。原初のエスたる「自分のない人間」が「知」を道具にして「自分」をこさえるんだよ。「初めにロゴスありき」だ。
「若者が「知は与えられるものだ」と思っているのではないか? 「自分で考えるものではない」と思っているのではないか? ということです。」とかこの記事で触れたが(つか耳タコだわ)、お前ら大人の罪もわたしはこの記事で告発している。
どっちもどっちなんだよ(大爆笑)。
まあ好きなように責任のなすりあいしてなさい。
馬鹿ばっかりだろ? 東大教授っつってもこの程度だ。わたしの臨床では人間として幼稚なのが多い。一般社会の奴らと比べたら。大道具とかほんと怖かったぜ。くりからもんもんの世界だしな。つか普通に死ぬし。
「知」にびびってんじゃねーよ、愚民どもも。『知の技法』なんかマニュアルですらない。ただのテーブルマナー本だ。
本当の「知」はお前らが忌避する場所にある。
あ、こんなこと言ってるわたしが一番幼稚なんだけどね(笑)。
本当に幼稚な人間だから、本当に退行している(精神的な発達をしなかった)人間だから、本当の「知」がどういうものか知っている。
そんな簡単なこと。
前記事の木田原さんwww アク解で管理画面から飛んできてるのはわかったので彼も確認済みと推測できるわけだけど、トラバ反映されてないwww 相手にされてないwww
ちょっとほっとしたよむしろ。ありがとね木田原さん。あなたの対応は正しい。「患者には関係」ない精神分析学をやろうってのがあなたの論旨なわけだからね。こんなキチガイの言葉相手にしちゃいけない。
うんうん、確かにラカン論ってただのおもちゃとしてもおもしろいよな。
つか実体を伴わないおもちゃとしての理屈体系がほしいなら他にいっぱいあるだろうに。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
何もかもが気持ち悪い。存在そのものが気持ち悪い。
消滅あとかたもない消滅。
存在が気持ち悪い。
お前らが考える「資本家」ってさ、お前らの妄想じゃね? ルサンチマン丸出しの。
あのさー、株とかやってたらすぐわかると思うんだけどさー、資本家ってお金を流動させてんのよね。お金をストックなんてしてない。だから「株なんてしょせんギャンブルだ」とか言われてんだろ? ストックしてるならギャンブルになんねえだろ?
なのになんで「資本家はお金を貯め込んでいる」ってことになんの? お前らのイメージ矛盾してないか?
株板にこんな笑い話があった。「平均の十倍以上の資産があるのに、飯はカップヌードル」とかってな。実際そうなんだよ。株板発の有名人B・N・Fなんかもそうらしいな。すっげー質素な生活してるって雑誌に取り上げられてなかったか? そういうの全然不思議じゃない。実際に株やってる人間から言わせてもらえば。株に興味を持ってやってるんだから、他のことまで手が回らない。それ以外への興味が薄くなるんだよな。物欲自体が希薄になる。「そんなにお金あるなら土地とか買いなさい」なんて周りにぎゃーぎゃー言われて買ったりすることはあるんだろうけど。あ、わたしの話じゃなくて有名トレーダーの話でそんなんあった気がする。
別に億の金持ってるからって毎日高級イタリアンとか食ってるわけじゃねえんだ。むしろ自由になる金がねえ。
そりゃまそうなんだよ。「株なんてギャンブルだ」ってことなら、ギャンブルに金をつぎ込んで食うにも困るようになるのがデフォだろ? あれとおんなじ。まー競馬で破滅するオヤジとかと比べたら動かす金が文字通り桁違いに大きいから、そのあまりカスみたいな金でカップヌードルくらいは食えるけどさ。
資本家はまったく吝嗇などではない。むしろ資本家が多額の資金を流動させているから、経済は生きていられるのだ。資本家が投入する資金が、経済という生き物の血液となっている。デフレってなんで起こるか知ってるかい? お前らが財布の口を固く閉ざしているからなるんだよ。お前らが吝嗇だから起こるんだ。自業自得だね(笑)。
むしろ「吝嗇さ」を精神疾患的な症状だとして考えれば、タンス預金をしている老人の方が吝嗇だと言える。銀行に預ければ銀行が勝手に運用してくれるのに、それさえもしない。手元にあった方が安心できるからだ。なぜ安心できるのか。彼がお金に執着しているからである。すなわち吝嗇だからである。
なのになぜ、タンス預金する老人は吝嗇だと言われず、資本家が吝嗇だとされるのか。
そいつが持っている資産額を判断基準にして考えているからである。資産額が大きいから、吝嗇して貯め込んだのだろう、という自身の金に対する執着を、吝嗇さを根拠にした浅薄な推測がなされている。
あほか。お前がお金を流動させないから貧乏になってるだけだ。商売一つ取ってもそうだろうが。まず商品を、原料を仕入れないと金は稼げない。お前はそれを抑制しているだけだ。
貧乏人たちが資本家のことを「吝嗇だ」と言ってわめくのは、自身がそうであるが抑圧している部分を、ユングの元型で言う「影」たる資本家に投影しているのである。資本家を「金に執着している」「吝嗇だ」と言ってしまうのは、己の症状の自白なのである。
「資本家とは吝嗇だ」という固定観念は、お前らのルサンチマンを根拠にした妄想にすぎない。お前らは妄想狂である。
精神分析の学徒が臨床した結果としてはっきり言う。
資本家よりタンス預金をする一般人の方が金に執着している、吝嗇である、と。
……あ、いやまあ、ここで述べているような「投資家」って意味じゃない、単に「お金を持ってるだけの人」って意味での「資本家」なら吝嗇かもしれんがね。政治家とかそうかもしれんねーって思ったけど、最近話題になっている小沢一郎なんか、結構貯め込んでいるらしいが、あれ実弾用でしょ。流動させることを目的として持っているとわたしは思う。それくらいの額が必要だから持ってんだろってな。なら吝嗇とは言えない。
使うあてもない小額の金をただタンスに貯め込んでいるような人間こそが、吝嗇なのだ。
資産額は、まったく関係ないとは言わないが、それだけで「吝嗇さ」を測るのが間違っている、と言いたいのだ。
周りの人間がそう言っているからそう思ってただけだって? じゃあこれから改めような。
おわかり? 愚民ども。
ま、大体の資本家はお前らのルサンチマンを「カスどもの戯言」としか思ってないんだろうがな。愚民どもの妄想になんか付き合ってらんねえよ。
カスだから死んでいいよ、君たち。
ラカンが示した「四つの語らい」の例外、「資本家の語らい」は、未去勢者にとっては一つの居場所となりえるだろう。この時の彼はサバルタンではなくなるだろう。
「資本家の語らい」は、未去勢者にとって主体化の場になりうる。それは「二重の疎外」によって成り立つ語らいだが、わたしの言う「嘘が嘘として自然に成立している」や「共有できない前提を共有する」という言葉に繋がるだろう。そう考えるとデリダなんか資本主義者であるべきだと思ったんだが、まあヒステリー者の言うことだからスルー。
ってぐぐってたらこんなの見っけた。
=====
〈主人のディスクール〉は資本家のディスクールとして把握することができ、そこでは主人なき主人、つまりはシステムが支配するディスクールとしての資本主義というテーゼが導き出される。
=====
おいおい、「資本家のディスクール」はどこ行ったんだよ(笑)。もしかしてこのおっさん「資本家のディスクール」の存在知らなかったりする? まあ確かに「主人のディスクール」の形式的な変換が「資本家のディスクール」なんだが。つか「主人のディスクール」って多くの人間が日常的にしているディスクールなんだがな。それと「資本家のディスクール」をごっちゃにしちゃーいかんだろう。
未去勢者は「主人のディスクール」ができないから「資本家のディスクール」によるしかない、ってことだ。
一応書いとくね。「資本家のディスクール」。
/S → S2
―― ――
S1 a
それとあれだ、「一重の疎外」たる「ヒステリーのディスクール」んとこ。
=====
〈ヒステリーのディスクール〉においては、実存の疎外が身体の徴候として現れるヒステリーという存在が、治癒と解放をもたらす主人を求めることになる。
=====
これなんかもろ「白馬の王子様」幻想だな。「女はみんなそう思っている」とそいつが思うことでそいつ自身が白馬の王子様になりたがっている、すなわち主人になりたがっていることを自白するディスクール。ここのコメント欄なんかも参照できるかも。
そういう意味でここは正確(笑)。
つか「治癒と解放をもたらす主人を求めることになる。」ってのに「白馬の王子様になりたい願望」がよく表れているよな。これこそが「主人のディスクール」だよ。この文章自体が。ここでも読んどけ。
この小林康夫って名前かすかに覚えがあるな、授業受けたか本買ったかしたかなって思ってうきぺったら駒場の人だった。焦った。あー『知の技法』の人か。船曳系か、とか思っちゃったごめん。ネームバリューはやっぱそっちのが上っしょ。『知の技法』とか当の東大生たちは笑ってたんだけどな。なんであんなパンピーにウケたんだろ?
養老孟司の言葉でも聞いておけ。
=====
私が東大出版会の理事長をしていた頃、「知の技法」という本が東大出版会始まって以来というぐらい売れました。その時はなぜ売れているのか分かりませんでしたが、今は分かります「知は技法になってしまった」のです。技法というのは、ノウハウということです。
知のノウハウということ、つまりマニュアルであります。こうしたい時はどうしたらいいのかがマニュアルを見れば、理も非も無くわかるのです。
私が育ってきたときの「知」というのは、そうではなかった。私たちの世代にとって「知識」とは、論語に「あしたに道を聞かば、夕べに死すとも可なり」と書いてあることに表されるように、自分が変わるということは、それまでの自分が死ぬということなのです。
=====
あー、一つだけ養老に言っておく。知がノウハウ化したのは、若者だけのせいじゃない。生きた「知」を育むブリコラージュの現場をぶっ壊してきた蓮實一派のような大人たちのせいでもある。あんたのお仲間のせいでもある。まあ多分蓮實一派は「最近の若者がマニュアルを求めたからだ」とか言うんだろうけどな。
駒小が撤廃されるのは仕方のないことだと思っていたが(危険さはやってた学生たちが一番よく知っていた)、ブリコラージュの作業場としてのその価値を誰一人として論じなかったよな。
マニュアルから外れた「知」を実践する学生に単位を与えなかったどころか(与えなくて当然だよ(笑)、あんなのに。つか駒小関係者って大体留年してたし、ってあたしはストレートに卒業したお)、その場がなくなることになんの異議も唱えなかったよな。
お前が危機感を覚えている現象の原因は、若者にも大人にもある。
養老、お前がそんなことを言う資格はない。言うならまず己の罪を述べてから言え。
また、お前の考える「知」は生きていない。お前の「知」もマニュアルと大差ない。お前が言っていることはマニュアルを大事にするかどうかの問題であって、「知」そのものの問題ではない。
「それまでの自分が死ぬ」だあ? 本当の「知」はその「自分」を作るために最初はあるんだよ。原初のエスたる「自分のない人間」が「知」を道具にして「自分」をこさえるんだよ。「初めにロゴスありき」だ。
「若者が「知は与えられるものだ」と思っているのではないか? 「自分で考えるものではない」と思っているのではないか? ということです。」とかこの記事で触れたが(つか耳タコだわ)、お前ら大人の罪もわたしはこの記事で告発している。
どっちもどっちなんだよ(大爆笑)。
まあ好きなように責任のなすりあいしてなさい。
馬鹿ばっかりだろ? 東大教授っつってもこの程度だ。わたしの臨床では人間として幼稚なのが多い。一般社会の奴らと比べたら。大道具とかほんと怖かったぜ。くりからもんもんの世界だしな。つか普通に死ぬし。
「知」にびびってんじゃねーよ、愚民どもも。『知の技法』なんかマニュアルですらない。ただのテーブルマナー本だ。
本当の「知」はお前らが忌避する場所にある。
あ、こんなこと言ってるわたしが一番幼稚なんだけどね(笑)。
本当に幼稚な人間だから、本当に退行している(精神的な発達をしなかった)人間だから、本当の「知」がどういうものか知っている。
そんな簡単なこと。
前記事の木田原さんwww アク解で管理画面から飛んできてるのはわかったので彼も確認済みと推測できるわけだけど、トラバ反映されてないwww 相手にされてないwww
ちょっとほっとしたよむしろ。ありがとね木田原さん。あなたの対応は正しい。「患者には関係」ない精神分析学をやろうってのがあなたの論旨なわけだからね。こんなキチガイの言葉相手にしちゃいけない。
うんうん、確かにラカン論ってただのおもちゃとしてもおもしろいよな。
つか実体を伴わないおもちゃとしての理屈体系がほしいなら他にいっぱいあるだろうに。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
何もかもが気持ち悪い。存在そのものが気持ち悪い。
消滅あとかたもない消滅。
存在が気持ち悪い。