「純粋に現実的なものとしての小文字のaの主体化」(エコラリア風に)
2010/01/11/Mon
『精神分析事典』より。
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セミネールⅩ巻において、ラカンは鏡像関係の組み入れの失敗の症例について語った。それは、お腹にいる赤ん坊が母親にとって単にさまざまな程度に具合がいいとか悪いとかいう物体にすぎないという症例であった。そして、それをラカンは「純粋に現実的なものとしての小文字のaの主体化」と名づけた。
=====
これあたしのことかと思ったわ。つか、「からっぽの身体」論で言うなら、わたしはどうやら他の多くの人間(鏡像関係の組み入れの成功例、すなわち去勢済み主体)と違って、身体がからっぽになっていない。しかし、馬車馬のごとく働いている時などは、それを忘れている。まあ部屋に帰ってから思い出すんだけど。
こう考えると、忘れている状態が持続している人ってのを想定することができる。鏡像段階を生後一年半以内に通過したか否か問わず、すなわち去勢済みか未去勢か問わず。そういった「からっぽの身体」たる人たちが、妊娠することにより、鏡像関係が関与しない、他者が関与しない、体内に生じる身体反応を思い出す場合だってあろう。自体愛が回帰する場合だってあろう。
つまり、この「お腹にいる赤ん坊が」「単にさまざまな程度に具合がいいとか悪いとかいう物体にすぎないという」母親は、赤ん坊に回帰しているのだ。鏡像段階以前の。原初的なエス、すなわち「自分が降っているということを知らずに降っている」「雨」のような存在になっている。自分が一般的な意味における「妊娠」をしているとわかっていないまま、彼女は妊娠している。頭では「妊娠」とわかっていても、そうとして認知できていない。「妊娠」のシニフィエが一般的なそれと合致していない。
しかし、就労中はともかくプライベートになると「からっぽの身体」ではなくなるわたしにとってそれは、就労によってせっかく忘れかけていた「現実的なものとしての」身体反応を、より生々しく眼前化させることになる。
わたしは頭はよい方だ。なのでわたしが妊娠するとそうなるであろうことは、物質的な摂理として予測できていたのだと思う。言語化できなかっただけで。だからわたしは「子供なんて産まない派」だった。社会人になってからは公言するようになってたな。代替物としての言語化か。不倫相手に最適、みたいな。いやしなかったけど。なんか他人の食べかけの料理を食べるみたいな感じがしてヤだったな。不倫してた友人に「やめといた方がいいよ」なんてとっても常識的なアドヴァイスをしたくらいだ。
あれだな。勇気を出して、ほんと死ぬくらいの勇気になるんだけど、育てるかどうかは別として、妊娠さえしていたら、わたしは「純粋に現実的なものとしての小文字のaの主体」になれてたのかもしれない。
自然流産っぽいことはあったけどなー。自分で勝手にそう思ってるだけだけど。「体内に生じる身体反応に敏感だ」とか言ってるけど全然わからんかったわ。まあ演劇人時代だったしな。演技の方に忙殺されてた時代だな。
おいーラカニアンたちさー、こんないい「鏡像関係の組み入れの失敗の症例」が目の前に転がってんだぜ? しかもラカン論を勉強してるっつう。いちいち脳内のジャーゴンを一般用語に翻訳する必要ないんだぜ?
いやま、別に自閉症と診断されてるわけじゃないがね。ただでいいっつうんなら診断受けてやってもよいよ、くらい。単にめんどくさい。
そりゃさ、確かにラカン論は哲学とか他の分野に流用されてるし、精神分析業界内でも臨床から少し距離を置いている学派のように思われてるのかもしれんけどさ。クライン派を臨床重視派として対比させてこんなことも言われてるらしいしね。引用する。
=====
「一面土に覆われた庭からやってきたばかりの女性」と「図書館であくせく本を読む男性」のあいだの対話だということで、評者はそれに賛意を示している。おわかりだろうが、前者はクライン派で後者はラカン派の人間を表している。
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こういった意味だとわたしはクラインよりにはなるんだけど、クライン用語って使いづらいのだよね。「クラインはイメージ重視」とか言われているけど、わたしはラカンの方がイメージしやすい。イメージしやすいってかイメージと繋げるのがやりやすい。多分、クラインのイメージ回路とわたしのそれは大きく違うんだと思う。だからといってラカンと似ているとは言わないが。あ、でもわたし「ラカンはパラノイアコンプレックスだ」って思ってるんだけど、そうならその部分は似てると思う。
それにさ、これはちょっと被害妄想じみてんだけど、クライン論で語ると何語っても最終的に「愛」で片付けられちゃう気がしてキモイんだよね。まさに「愛は全てを救う」。クリステヴァも「初めに愛があった」とか言ってる部分はキモくてヤだ。ちげえだろ、って素で思う。そうね、「愛」に対する態度は、ラカンの方が科学的で、わたしにとってはわかりやすい、ってことだ。
あれだよ、ラカン派がわたしを研究したら、クライン派をぼこるヒントを得られるかもしんないよ?
ほれ、わたしを切り刻めよ。わたしはお前らにとって実験用のモルモットだ。わたしもあなたを切り刻んであげる。あなたもわたしにとってモルモット。
内臓を見せあいましょ。糞尿の混じった血液を塗りたくりあいましょ。
ケツん穴かっぽじって待ってるぜ。だいじょぶ、アナルは開発済み。
ごめん最近挑発も飽きてきたらしくいつもよりおざなりに聞こえる常連読者もいるかと思うが、わたしってそんなようなもんだ。魔女キルケは男に飽きたら動物に変身させる。変身させられなかったオデュッセウスとかの類は「じゃあばいばい」、ってなる。
それだけのことなんだよね。
「いつもより適当に回しております」
でもさー、「図書館派」を擁護し(ようとし)ている向井雅明ですら「土いじり」も必要だって述べてるんだよ。精神分析にとっては、理屈構築も臨床も、理論も実践も、両方大事なんだ。それらが常に最後は乖離しちゃうだけで。乖離しちゃうから、そこに纏わる議論になると、「じゃあお前は理論派、お前は実践派」って分けられちゃうだけ。あ、わたしはどっちに割りあてられてもよいよ? 理論も実践も必要だと思ってるから。素で。そういう意味で向井のこの文章は「ふんふん」くらいなんだわ。ここのコメント欄でも言ってるけど「そんなことわざわざ言う必要あんの?」ってレベル。
だからね、この木田原なんとかってエディプスコンプレックスくんが言ってる「ですから、「あくまで思想の類」ということであれば、患者には関係ありませんから、他の哲学と同様にその解釈を各々が楽しめばいいのではありませんか。私はそう思います。」って言葉って、精神分析をやってるのに精神分析から逃れようとしているとしか見えないんだよね。だからエディプスコンプレックスっつったんだけど。別にカインでも劣等でもいいが。精神分析理論あるいはその研究者が彼にとっての父になるんだろうな。ごめんこの言葉はフロイト派的な文脈で読んでね。ガタリがヒステリックに「精神分析はなんでもかんでもエディプスコンプレックスで片付けようとしている」って反論したあれみたいな。わたしクリステヴァ論者だって何度も言ってるけどクリステヴァって一応フロイト派だしね。中身はクラインよりでラカンのゼミ生だったんだけど。
でも実際征服者の本性・無意識丸出しなんだもんな。オイディプス王(『アンチ・オイディプス』の文脈で)じゃん、彼ってどう見ても。
まああれか、「思い通りにできない父をお人形化したいんだい」ってことだわな。でも彼のやっている精神分析理論の矛盾を洗い直す作業は、わたしはその作業自体は否定しないしむしろがんばれって思ってるんだが、父のお人形に内臓を詰め込む作業になるんだけど、だからコンプレックスなのよねえ、とどうでもいい視線を向けてみました。
こういう文章って「人格批判」って受け取られるのかもしれないけど、その「人格」を分析するのが精神分析の実践なんだよね。「人格」を腑分けする作業はそりゃー「批判」にも受け取られよう。腑分けされる方は痛いに決まっている。
多分このボクちゃんはそういう痛いのがイヤだから精神分析から「患者」を「関係」なくさせようとしているんだろうな。
でもこの(おそらく彼にとっては無意識だろうが)思考回路こそが、精神分析を「実学」じゃなくならせてるんだよ。
逆なんだ。このボクちゃんみたいな考え方の研究者ばっかだから、「精神分析は実際の治療には役立たない」って状況に、つまり「実学」から遠ざかっているんだと思う。ここで書いてる通り。だからわたしは「んじゃ悪化させてみれば?」と言っているだけ。実際の精神分析治療だって悪化と呼べる過程があるんだし。デプレッションって奴な。
人体を治療するにはまず人体を解剖して調べなきゃならない。外科なら死体解剖でなんとかなるけど、精神科の相手は心なわけだから、死体だとだめ。生体解剖になる。生きている「人格」を解剖しなくちゃいけない。そりゃー臨床素材にしてみればんなのイヤに決まってるわな。
あ、ま、死体解剖もしてるか。すでにこの世にゃいないシュレーバーとか研究してるのは死体解剖にあたるか。
でもさー、死体と生体はやっぱ違うわけじゃん。死体解剖だけじゃ分かんないことだってあるわけじゃん。薬物臨床とかそういうもんっしょ。
要するに、このボクちゃんの「精神分析は「実学」足りえない、だから実践抜きにしましょう」って論法は、本末転倒なんだよな。
精神分析の実践てなさっきも述べたように生体解剖みたいなことなわけで、従って普通にやってるだけで実践抜きになりがち。だから「精神分析は実際の治療には役立たない」って風に「実学」から遠ざかってる、ってことなんだ。
となると、こういった状況において、「普通にやってれば「実学」から遠ざかるんだから、「実学」じゃないってすればいいじゃん」ってのが、このボクちゃんの論旨になる。まーそれはそれでいいと思う。そういう主張の人がいても別に構わん。「図書館」で仲間うちでわいわいやってればいいと思う。
わたしは「図書館」にも行くし「土いじり」もやるよ、って話にすぎん。
ラカン派だって時々は「土いじり」してるんだよね。向井のコラムは「ラカン派はクライン派と比べて「土いじり」が足りないって言われている」ことについて述べているんであって、あくまで「足りない」って話なんだ。わたしの管見でいいなら、「臨床重視なラカニアンって誰?」って言われて最初に思い浮かぶのって、藤田博史とかだな。斎藤環(彼は「ラカン萌え派」らしいが)も一応臨床派ではあろうな。まー二人とも精神科医だし、普通に仕事してたら目の前に畑が広がっちゃうわけから自然にそうなるんだろうね。ってこの言い方だと患者であるわたしは「畑」「土」そのものになるな(笑)。
あれだ、人類学ならアームチェア派もフィールド派もあり、ってこと。TPOによって使い分ければよい、って話さ。そりゃそうだろ? 図書館に行く用事もあれば畑に行かなきゃいけない時もある。それだけの話じゃん、って言ってるの。まあそりゃ人間だからどっちかに偏ることはあろうけどさ。どんな人類学者でも、いっさいフィールドワークしない、あるいはデスクワークしないって人はいないと思うよ。
「患者には関係」ない精神分析をなぜ自分は求めているのか、を考えた方がよいと思うよ。自問自答。おわかり? 潔癖症のボクちゃん。
このボクちゃんも2ちゃん哲学板で時々名前出てるらしいが、pikarrrたんもそうだったな。わたしがメンヘラだとカミングアウトしたら(つかブログでは前から言ってたんだけど。こことか)すたこら逃げてった。ここのコメント欄参照。全く同じ症状だな(笑)。pikarrrたんとこに書き込んで削除された言葉を思い出した。「君はなぜ自分が精神分析やってるかを考えた方がよいよ」って。いやわたしがわかんないだけなんだが。「患者」なり「実践」なり「臨床」なりを除外した精神分析を学ぶ意味が。
「患者には関係」ないなら他の学問でいいじゃん、って「患者」なわたしは思うんだな。素の顔で。それこそいろんな学問があるんだし。つかわたし病む前は心理学(今は違うけど当時の頭では精神分析も含む)とか馬鹿にしてたし。
いや別に精神分析学が精神疾患者と関係ない他学問と相関するのを否定するわけじゃないんだよ。ってか大体の学者はちゃんとわきまえてるように思えるけどな。精神分析ってそういう学問だって。中野昌宏とかね。
要するに、君ら二人って学者というより単なる思想・哲学ヲタなんじゃね? ってことか。そうだよな、自己愛的に「図書館にひきこもりたいんだい」つってるわけだから自己愛型ひきこもりになるな。自体愛的にβ要素に翻弄されていることからの忌避としてのひきこもりとは言えなさそう。君の場合、他者の承認への執着が強い、つまり自己肯定が無意識的に上手だ。『アンチ・オイディプス』的に言えばモル的な人格をしている。スキゾイド型じゃなく自己愛型の証拠。わたしの見立てではね。
あーこういう奴ばっかだから哲学業界とかでよく「ポモなんてただの言葉遊びじゃないか」とか言われてんだな。納得。
哲学とか本読まないわけじゃないけど哲学板常駐したりするほどじゃないんだよなー。大学時代はちらほら構造主義の本読んでたけど、あくまで人類学(つか文化論みたいな)だと思ってたし。でも哲学でも中村雄二郎とかはよいと思ったな。中村と渡邊守章はわたしの思想において重要な影響を……ってそれほどでもなさそうだとこれまでの言説振り返って思った。そんなこと言ったら逆に彼らに迷惑になろうな(笑)。
一応もいっかいトラバ打っとこ。
つか向井もいいこと言ってるな。
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一般的に言えば、理論は実践を行うにおいて実践に当てはめるためにあると考えられている。理論とは個々のものから抽象して取り出し、普遍的なものとして構築 し、より一般的な状況に当てはめるものだと考えるわけだ。ところがこの論理は精神分析には当てはまらない。なぜなら、精神分析はそれぞれのケースの持つ特異的な性質を持つものに興味を持ち、その特異性を捉えようとするからだ。普遍的な理論を持ってケースに当たるとその特異性を見失ってしまうおそれがある。だから、実践においてはすべての理論を忘れることが必要なのだ。
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とかここのコメント欄でわたしが(暴論気味に聞こえるかもしれないが)言っている「臨床の際、混乱(この言葉はわたし独自の意味があることに注意。ここ参照)するのが分析家としては正しいのだ」ってことだ。あ、わたしもいいこと言ってるじゃん。
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混乱してなかったらそいつは分析家じゃない。なぜならそいつは道具としての精神分析をS1としている可能性が高いからだ。彼にとっての精神分析はファルスに裏打ちされたものだから、彼の分析行為には余裕が生じる。
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まあ君は別に分析家目指してるわけじゃなさそうだし(哲学畑だろ)いいんだけど、君はエディプスコンプレックスの構造で精神分析理論をS1としているように、わたしには思えるんだ。
向井の文章に戻る。
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つまり精神分析理論の紆余曲折はその対象の紆余曲折と同一なのだということである。
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はこの記事で言っている「心なんてなデータ化できないもの。研究対象が「蒙昧」なんだよ。だから逆にきっちり定義された診断基準だと現場は混乱する。」ってことだ。
要するに、君はそこで言われている
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ラカンはクリスを批判してこう言っていた――「あなたの意図はまっすぐでも――なぜならあなたの判断も間違いなくまっすぐなのだから――、物事のほうは、曲折している」。
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「クリス」なんだよね。
まー多分、君のラカン論に対する接し方は、「大学のディスクール」になってるんだろうな。「それを説明する用語自体の意味が」全ての人に理解されるような、君の「理想の精神分析理論」がS1にきているわけか。あれ、エディプスコンプレックスの定式もそうだよな。分母にファルスがきて分子にAがくる。ってーことは、エディプスコンプレックス者がする語らいは「大学のディスクール」である、ってことじゃん。あーだから『アンチ・オイディプス』のガタリもエディプスコンプレックスに見えたのか。
君はいつ去勢を承認するのだろうね。つまりディスクールから/Sを産出するのだろうね。
あーそだねー、君の「精神分析は「実学」足りえない」ってのの論拠にしている、
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「精神分析」は精神医学と臨床心理療法の狭間で、患者の治療に関わる「実学」です。ですから、最低限、自分の考える精神分析学の用語については、意味を定義できなければ、それは「精神分析」としてはまるっきり意味をなさないということになります。あくまでも「患者の治療」が第一ですから、それを説明する用語自体の意味が誰にも理解できないようなことは、絶対にあってはならないのです。
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って文章なんか、向井の
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そもそもラカン理論は実践には役に立たないと考えている人は、そこから何か技法のようなものを取り出そうと考えているのではないだろうか。
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って文章をあてはめれば、なんとなーく納得する。だから君はそういう論拠で「精神分析は「実学」足りえない」って言ってるのかって。君がラカン論から「技法のようなもの」を取り出せないから、「「実学」じゃない」って言っているわけか。君の思う「実学」とはそういうものだと考えれば、なるほどなと思う。つか「実践のための技法」って考えたら、君の主張は「実践の場を縮小させよう」ってことで、「実践の場」が少なくなったらそのための「技法」も「技法」じゃなくなる場合が多くなるわけで、そりゃー「技法」は取り出しにくくなるよなー、って思った。
すげーな向井。つかギョーカイにはこの木田原くんみたいな子がほんと多いんだろうな。あたしギョーカイ人じゃないから知らんけど。「お前ら馬鹿だな」って向井の気持ちが透けて見えてくるようだ。
「ちぃ、ギョーカイの空気ちょっとだけ覚えた」
あ、もちろんこれはわたしが勝手に立てた仮説よ。わたしがそう考えれば君がそう言ったのも理屈的に納得できる、ってこと。それだけじゃなく、向井の文章も、わたしは「なんでそんな当たり前のことをわざわざ言う必要あるの?」って思ってたんだけど、この仮説を採用すれば、納得できちゃうのよ。
ねえね、なんで木田原くんは精神分析から「患者」を「関係」なくさせたいの? 君のその主張は、君の心でどのような経緯を辿って、そうなったの?
あーうん、わたしなんかより、一応「図書館派」を擁護している向井の言葉の方がいいだろうね。木田原くんにとって。エディプスコンプレックスってのが正しいなら権威ある人の言葉の方が効くだろうし。
あ、変な誤解されると困るから言っとくけど、わたしは君の心を傷つけようとしてこんな文章書いているのだよ。向井や藤田や斎藤や中野の名前を出せば、君の心はより傷つくんじゃないか、と思ってやってるんだ。ただの道具なのだよね。彼らと仲よくしたいと思っているわけじゃない。実際向井にも藤田にも斎藤にも(中野は興味の対象が違うからスルーしてる)「お前のここが生理的にキモイ」つってる。この「生理的にキモイ」を「あー仲よくしたがっているんだな」と思われるとわたしの不確定性トラウマが起き上がるからやめてね。ここで書いていること。要するに「わたしの心を傷つけたいなら弱点はここよ」っつってるわけだ(笑)。
あーゆーおけ? 木田原くん。あ、万が一わたしに返答するなら、前の記事の質問にまず答えてからにしてね。
つか自分で貼っといてなんだけどこの記事とか確かに「あざとい口調してんなー」とは思うがぐっとくる。わたしの自己分析にとっては重要な記事なのだよね。わたしがあとで見返してそう思える記事に限って拍手が少ない。傾向的に論文風記事の方が拍手多いんだけど、この記事でも書いている通りわたしにとって、論理的思考がフル回転している=パニック状態、なわけだから、読み返して自分で何言ってるのかわからない部分が多かったりする。論文風記事って。
だから昔の論文風記事に突っ込まれても返事返せないことがあるよ、って言い訳。
仕方ないじゃーん。自分で書いてて意味わかんないんだもん。
つか「薬物臨床」でぐぐったらAVのタイトルがずらーって出てきてワロタ。
向井を批判したこの記事とかあれだな、まだ猫かぶってた時期だったからか伏字にしてるのにニヤニヤしてしまう。この時代のわたしにほんと申し訳なく思う。今のわたしでごめんねって。この記事もそうなんだよね。キルケなら、自分自身の一部であるオデュッセウスが、自分から離れていったことに泣いている、ってことか。自身の一部だから泣ける。他人だったら泣かないと思う。でもこれはパニック発作の涙じゃない。とっても人間らしい涙。だから、オデュッセウスが去ったあと、キルケが泣いていたとしても、他の人は「オデュッセウスが去って泣いているんだな」と解釈するのだろうが、わたしはそう解釈しない。オデュッセウスの出現によって惹起されたわずかな自身のうちの人間性が、また彼女の体からすり抜けていっていることについて泣いているのだ、と解釈する。「鏡像関係の組み入れ」が「失敗」しているとは言え、彼女に「鏡像関係」的な精神状態がまったくない、というわけではないのだ。
あ、精神分析業界の人なら言わなくてもわかると思うが、その記事の伏字、向井と藤田よ。いやほーんと2ちゃんレベルの、いや2ちゃんだったら「お前らよそでやれ」って言われるレベルのやり取りだったんだよ。わたしはそういうのがおもしろい人だからいいんだけど、向井派の掲示板で行われてたから(今は削除されている)、向井派の外野がうるさかったのを覚えている。お前ら黙っとけ、って思ったわ。お前らの「身内を守るために外敵を排除する」心理はお腹いっぱいだから、向井と藤田の一騎打ちを見させてくれ、って思った。ほんと「雑魚は黙ってろ」だわ。
そこでコメントしてるぬりかべくん(彼にはわたしがチャットで「ラカニアンの大御所二人がおもろいことやってるお」って教えてあげた)も言ってるけど、ほんと「知的水準の高い人達が小学生並みの脊髄反射でぐだぐだしている」状態だったんだよね。つまり彼ら二人は退行していた、ってことなんだが、わたしはその方が会話の意味を理解しやすいんだ。話がわかるからおもしろくなる、ってだけ。
「その澄ました仮面取ってくんない? 何言ってるかわかんない」ってこと。
つか向井のこの言葉、
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一般的に言えば、理論は実践を行うにおいて実践に当てはめるためにあると考えられている。理論とは個々のものから抽象して取り出し、普遍的なものとして構築 し、より一般的な状況に当てはめるものだと考えるわけだ。ところがこの論理は精神分析には当てはまらない。なぜなら、精神分析はそれぞれのケースの持つ特異的な性質を持つものに興味を持ち、その特異性を捉えようとするからだ。普遍的な理論を持ってケースに当たるとその特異性を見失ってしまうおそれがある。だから、実践においてはすべての理論を忘れることが必要なのだ。
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これ精神分析だけに限らず、科学全般で言えることだと思うんだよな。わたし物性物理専攻だったんだけど、確かに実験するまでの工程、たとえば実験器具を自作したり、実験環境を整えたりする段階は、「普遍的な理論」に頼らなきゃいけないけど、それらを終えて、実験を観察するその瞬間は、「すべての理論を忘れることが必要」になる。じゃないと、理屈にあわない現象を見落としてしまう。人間の目ってそういう風にできている。すみません某せんせーの受け売りです。
でもさ、ある物理学者が「事実は小説より奇なりなんだよ」って言った時、「あれ?」って思ったんだよな。いや普通に言われている定型句だけど、まあ普通に物性物理の文脈で出てきた言葉なんだが、わたしもその時は「そうかー」くらいにしか思わなかったんだが、これ一般的な意味とずれてない? とあとで思ったんだ。
っていうのは、一般的に「事実は小説より奇なり」って言われてるのって、人間関係についてそう、って意味で使われることが多いじゃん。シチュエーションが人間関係に限定されている。だけどこのせんせーは物理現象にもその定型句をあてはめている。まー確かに物理学業界だと、不確定性原理に纏わるごたごたとかほんと「事実は小説より奇なり」だったんだと思う。
そういうことだと思うよ。「事実は小説より奇なり」ってのは、人間関係にだけ、いわば社会の中だけで成立する定理じゃなく、物理にも適用可能な定理だ、ってこと。
でもま、うちの自然科学系なんてほんと幼稚なすなわち退行的な人が多いから、、うちが特殊だっただけで、一般的な自然科学業界については、向井が言っているような「普遍的な理論」に目をきらきらさせている人が多いのかもしれない。
つか科学者じゃないパンピーどもの科学に対する態度は大体そうなっているな、と思った。そういった奴らのことを言っていると考えたなら向井のこの文章も納得できる。科学教の信者状態。科学的な「普遍的な理論」が教義。科学の言説を「普遍的な理論」だと妄想でしている(ニーチェ的な意味での)愚民ども。ほんとお前ら馬鹿だよな。「普遍的な理論」って教義を忘れることも大事なのが科学なんだよ。
あれだ、ぬりかべくんもうちの自然科学系にきていれば、もっと早い時期に「偉人幻想」をぶっ壊せてたかもしれんね。
学者と人格者は等値じゃないんだよ。愚民どもが勝手に妄想でそれらをイコールにしてるだけで。
この記事なんかは、人格者としてのレベルがかなーり低い、つまり退行的な性質が強い学者を「魔女」としていることになるわけだが(もちろんわたしの個人的な言い回しにすぎん)、まー確かにキリスト教的文化っつか「人格ばんじゃーい」な社会とっちゃー魔女は脅威なんだろうな。
現代において「学者=人格者」という妄想はむしろエスカレートしているんじゃないだろうか。頭がよい人間は人格者でなければならない、という暗黙のルールが強化されているんじゃないか。
だからわたしはこう言っているんだ。
「現代でも魔女狩りは続いている」ってね。
あ、なるへそな。フロイトが「精神分析は科学である」と言い張り続け、「哲学はパラノイアだ」と批判していたのは、こういうことかもしれんな。
わたしはまだ精神分析を科学だと認めていないけどね。科学者とは人間であってはならない、観測機械でなくてはならない、ってのがわたしのイメージなんだが、わたしの見る限り、科学も精神分析も人間ばっかだ。人格者になりたがり屋が多い。今のわたしの言語体系なら「パラノイアックなBPD」が多い。有馬朗人とかそんな性質が顕著。あ、ちなみに言っておくと、ラカン論を参照すればわかるように、「パラノイアックなBPD」ってすなわち精神医学における正常であることだからね。人格者であろうとしすぎて逆に社会生活が困難になった人をBPDってしてるだけで、社会が変われば診断基準も変わるさ。ごめんわたし社会がよくわかってない人だからそんな診断はできない。
そんなに人格者になりたければ学問なんかやらず政治家になっとけよ、最初っから、って思う。政治家なんてなべて「パラノイアックなBPD」だかんね。有馬みたいなルートは稀だぜ? むしろ学問の本当の魅力にはまったら蓮實重彦みたいなタイプの学者にいいようにもてあそばれるだけだろうな。
あ、まあ学問村も村なわけで政治がまったくないってわけじゃないよ、ってことか。
理系学者の五割、文系学者の八割くらいが死ねば、学問村も学問に立ち返ることができるんじゃね?
あれだ、昨日スマップの特番見てたんだが、ゴローちゃんのカラオケで百点取るって奴。カラオケの採点機械は演歌界の大御所が歌おうが素人が歌おうが関係ない。科学者はああじゃなくちゃいけないと思うんだよな。それに、ゴロちゃんも言ってたけど、人を感動させるような抑揚があっちゃだめなんだよね。カラオケ採点ゲームよくやってたんだけど、わたしも点低い。でも下手って言われたことがない。うまい方だと思うよ。よくリクエストされるし。知らない客からも。わたしはそういったテク演劇で学んだんだろうけど(大学以前はそもカラオケなんて行きたくなかった)、そういったテク、つまり「人間が自己規定する人間らしさ」みたいなんまで考慮し始めると、コンピューターはパニックを起こすんだよな。「フレーム問題」が生じる。
未去勢者たちは常にパニック状態なんだよ。素がそうなんだ。
カラオケ採点機なんざ音程とテンポと音量くらいしか感知してなくて、楽譜化されたモデルデータとの整合性を計算しているだけだろうけど、そういう風にフレームを作ってくれたらなんとかなるんだよ。仕事や芝居っていうフレームがあれば、それに忙殺されていれば、わたしは「純粋に現実的なものとしての小文字のaの主体」じゃなくていられる。
しっかし石川さゆり声変わんないなあ。都はるみはやっぱ衰えたかなーって思ったけど。でも衰えたなりのよさもあるしな。演歌なら特に。石川さゆりってロボットなんじゃね? 歌う機械。
『天城越え』めちゃくちゃ歌いたくなった。
だけどさ、機械になったらなったで、とってもつらいんだよ。β要素に翻弄されるってことだから。精神病の主観世界をそのまま生きるってことだから。向井の言う「特異性」が常時あちこちに出現する状態だから。森の中を迷子になっているような状態だから。
なので、平気な顔で、余裕しゃくしゃくの顔で、「機械になろうぜ」「機械になりたいですー」「機械になってます」とか言っている奴は、わたしは信用できない。
あ、たまたま見つけたけど「合意の快楽」(ここのコメント欄参照)ってあたし結構前から指摘してたのね。この記事。
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ちなみに、この気遣いの契約成立時、正常人たちは性的快楽を覚えているように見える。
社会が売春宿なのではなく、正常人たちのコミュニケーションそのものが売春宿なのだ。
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おーやっぱ初期の言葉の方が強度あるなー。
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セミネールⅩ巻において、ラカンは鏡像関係の組み入れの失敗の症例について語った。それは、お腹にいる赤ん坊が母親にとって単にさまざまな程度に具合がいいとか悪いとかいう物体にすぎないという症例であった。そして、それをラカンは「純粋に現実的なものとしての小文字のaの主体化」と名づけた。
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これあたしのことかと思ったわ。つか、「からっぽの身体」論で言うなら、わたしはどうやら他の多くの人間(鏡像関係の組み入れの成功例、すなわち去勢済み主体)と違って、身体がからっぽになっていない。しかし、馬車馬のごとく働いている時などは、それを忘れている。まあ部屋に帰ってから思い出すんだけど。
こう考えると、忘れている状態が持続している人ってのを想定することができる。鏡像段階を生後一年半以内に通過したか否か問わず、すなわち去勢済みか未去勢か問わず。そういった「からっぽの身体」たる人たちが、妊娠することにより、鏡像関係が関与しない、他者が関与しない、体内に生じる身体反応を思い出す場合だってあろう。自体愛が回帰する場合だってあろう。
つまり、この「お腹にいる赤ん坊が」「単にさまざまな程度に具合がいいとか悪いとかいう物体にすぎないという」母親は、赤ん坊に回帰しているのだ。鏡像段階以前の。原初的なエス、すなわち「自分が降っているということを知らずに降っている」「雨」のような存在になっている。自分が一般的な意味における「妊娠」をしているとわかっていないまま、彼女は妊娠している。頭では「妊娠」とわかっていても、そうとして認知できていない。「妊娠」のシニフィエが一般的なそれと合致していない。
しかし、就労中はともかくプライベートになると「からっぽの身体」ではなくなるわたしにとってそれは、就労によってせっかく忘れかけていた「現実的なものとしての」身体反応を、より生々しく眼前化させることになる。
わたしは頭はよい方だ。なのでわたしが妊娠するとそうなるであろうことは、物質的な摂理として予測できていたのだと思う。言語化できなかっただけで。だからわたしは「子供なんて産まない派」だった。社会人になってからは公言するようになってたな。代替物としての言語化か。不倫相手に最適、みたいな。いやしなかったけど。なんか他人の食べかけの料理を食べるみたいな感じがしてヤだったな。不倫してた友人に「やめといた方がいいよ」なんてとっても常識的なアドヴァイスをしたくらいだ。
あれだな。勇気を出して、ほんと死ぬくらいの勇気になるんだけど、育てるかどうかは別として、妊娠さえしていたら、わたしは「純粋に現実的なものとしての小文字のaの主体」になれてたのかもしれない。
自然流産っぽいことはあったけどなー。自分で勝手にそう思ってるだけだけど。「体内に生じる身体反応に敏感だ」とか言ってるけど全然わからんかったわ。まあ演劇人時代だったしな。演技の方に忙殺されてた時代だな。
おいーラカニアンたちさー、こんないい「鏡像関係の組み入れの失敗の症例」が目の前に転がってんだぜ? しかもラカン論を勉強してるっつう。いちいち脳内のジャーゴンを一般用語に翻訳する必要ないんだぜ?
いやま、別に自閉症と診断されてるわけじゃないがね。ただでいいっつうんなら診断受けてやってもよいよ、くらい。単にめんどくさい。
そりゃさ、確かにラカン論は哲学とか他の分野に流用されてるし、精神分析業界内でも臨床から少し距離を置いている学派のように思われてるのかもしれんけどさ。クライン派を臨床重視派として対比させてこんなことも言われてるらしいしね。引用する。
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「一面土に覆われた庭からやってきたばかりの女性」と「図書館であくせく本を読む男性」のあいだの対話だということで、評者はそれに賛意を示している。おわかりだろうが、前者はクライン派で後者はラカン派の人間を表している。
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こういった意味だとわたしはクラインよりにはなるんだけど、クライン用語って使いづらいのだよね。「クラインはイメージ重視」とか言われているけど、わたしはラカンの方がイメージしやすい。イメージしやすいってかイメージと繋げるのがやりやすい。多分、クラインのイメージ回路とわたしのそれは大きく違うんだと思う。だからといってラカンと似ているとは言わないが。あ、でもわたし「ラカンはパラノイアコンプレックスだ」って思ってるんだけど、そうならその部分は似てると思う。
それにさ、これはちょっと被害妄想じみてんだけど、クライン論で語ると何語っても最終的に「愛」で片付けられちゃう気がしてキモイんだよね。まさに「愛は全てを救う」。クリステヴァも「初めに愛があった」とか言ってる部分はキモくてヤだ。ちげえだろ、って素で思う。そうね、「愛」に対する態度は、ラカンの方が科学的で、わたしにとってはわかりやすい、ってことだ。
あれだよ、ラカン派がわたしを研究したら、クライン派をぼこるヒントを得られるかもしんないよ?
ほれ、わたしを切り刻めよ。わたしはお前らにとって実験用のモルモットだ。わたしもあなたを切り刻んであげる。あなたもわたしにとってモルモット。
内臓を見せあいましょ。糞尿の混じった血液を塗りたくりあいましょ。
ケツん穴かっぽじって待ってるぜ。だいじょぶ、アナルは開発済み。
ごめん最近挑発も飽きてきたらしくいつもよりおざなりに聞こえる常連読者もいるかと思うが、わたしってそんなようなもんだ。魔女キルケは男に飽きたら動物に変身させる。変身させられなかったオデュッセウスとかの類は「じゃあばいばい」、ってなる。
それだけのことなんだよね。
「いつもより適当に回しております」
でもさー、「図書館派」を擁護し(ようとし)ている向井雅明ですら「土いじり」も必要だって述べてるんだよ。精神分析にとっては、理屈構築も臨床も、理論も実践も、両方大事なんだ。それらが常に最後は乖離しちゃうだけで。乖離しちゃうから、そこに纏わる議論になると、「じゃあお前は理論派、お前は実践派」って分けられちゃうだけ。あ、わたしはどっちに割りあてられてもよいよ? 理論も実践も必要だと思ってるから。素で。そういう意味で向井のこの文章は「ふんふん」くらいなんだわ。ここのコメント欄でも言ってるけど「そんなことわざわざ言う必要あんの?」ってレベル。
だからね、この木田原なんとかってエディプスコンプレックスくんが言ってる「ですから、「あくまで思想の類」ということであれば、患者には関係ありませんから、他の哲学と同様にその解釈を各々が楽しめばいいのではありませんか。私はそう思います。」って言葉って、精神分析をやってるのに精神分析から逃れようとしているとしか見えないんだよね。だからエディプスコンプレックスっつったんだけど。別にカインでも劣等でもいいが。精神分析理論あるいはその研究者が彼にとっての父になるんだろうな。ごめんこの言葉はフロイト派的な文脈で読んでね。ガタリがヒステリックに「精神分析はなんでもかんでもエディプスコンプレックスで片付けようとしている」って反論したあれみたいな。わたしクリステヴァ論者だって何度も言ってるけどクリステヴァって一応フロイト派だしね。中身はクラインよりでラカンのゼミ生だったんだけど。
でも実際征服者の本性・無意識丸出しなんだもんな。オイディプス王(『アンチ・オイディプス』の文脈で)じゃん、彼ってどう見ても。
まああれか、「思い通りにできない父をお人形化したいんだい」ってことだわな。でも彼のやっている精神分析理論の矛盾を洗い直す作業は、わたしはその作業自体は否定しないしむしろがんばれって思ってるんだが、父のお人形に内臓を詰め込む作業になるんだけど、だからコンプレックスなのよねえ、とどうでもいい視線を向けてみました。
こういう文章って「人格批判」って受け取られるのかもしれないけど、その「人格」を分析するのが精神分析の実践なんだよね。「人格」を腑分けする作業はそりゃー「批判」にも受け取られよう。腑分けされる方は痛いに決まっている。
多分このボクちゃんはそういう痛いのがイヤだから精神分析から「患者」を「関係」なくさせようとしているんだろうな。
でもこの(おそらく彼にとっては無意識だろうが)思考回路こそが、精神分析を「実学」じゃなくならせてるんだよ。
逆なんだ。このボクちゃんみたいな考え方の研究者ばっかだから、「精神分析は実際の治療には役立たない」って状況に、つまり「実学」から遠ざかっているんだと思う。ここで書いてる通り。だからわたしは「んじゃ悪化させてみれば?」と言っているだけ。実際の精神分析治療だって悪化と呼べる過程があるんだし。デプレッションって奴な。
人体を治療するにはまず人体を解剖して調べなきゃならない。外科なら死体解剖でなんとかなるけど、精神科の相手は心なわけだから、死体だとだめ。生体解剖になる。生きている「人格」を解剖しなくちゃいけない。そりゃー臨床素材にしてみればんなのイヤに決まってるわな。
あ、ま、死体解剖もしてるか。すでにこの世にゃいないシュレーバーとか研究してるのは死体解剖にあたるか。
でもさー、死体と生体はやっぱ違うわけじゃん。死体解剖だけじゃ分かんないことだってあるわけじゃん。薬物臨床とかそういうもんっしょ。
要するに、このボクちゃんの「精神分析は「実学」足りえない、だから実践抜きにしましょう」って論法は、本末転倒なんだよな。
精神分析の実践てなさっきも述べたように生体解剖みたいなことなわけで、従って普通にやってるだけで実践抜きになりがち。だから「精神分析は実際の治療には役立たない」って風に「実学」から遠ざかってる、ってことなんだ。
となると、こういった状況において、「普通にやってれば「実学」から遠ざかるんだから、「実学」じゃないってすればいいじゃん」ってのが、このボクちゃんの論旨になる。まーそれはそれでいいと思う。そういう主張の人がいても別に構わん。「図書館」で仲間うちでわいわいやってればいいと思う。
わたしは「図書館」にも行くし「土いじり」もやるよ、って話にすぎん。
ラカン派だって時々は「土いじり」してるんだよね。向井のコラムは「ラカン派はクライン派と比べて「土いじり」が足りないって言われている」ことについて述べているんであって、あくまで「足りない」って話なんだ。わたしの管見でいいなら、「臨床重視なラカニアンって誰?」って言われて最初に思い浮かぶのって、藤田博史とかだな。斎藤環(彼は「ラカン萌え派」らしいが)も一応臨床派ではあろうな。まー二人とも精神科医だし、普通に仕事してたら目の前に畑が広がっちゃうわけから自然にそうなるんだろうね。ってこの言い方だと患者であるわたしは「畑」「土」そのものになるな(笑)。
あれだ、人類学ならアームチェア派もフィールド派もあり、ってこと。TPOによって使い分ければよい、って話さ。そりゃそうだろ? 図書館に行く用事もあれば畑に行かなきゃいけない時もある。それだけの話じゃん、って言ってるの。まあそりゃ人間だからどっちかに偏ることはあろうけどさ。どんな人類学者でも、いっさいフィールドワークしない、あるいはデスクワークしないって人はいないと思うよ。
「患者には関係」ない精神分析をなぜ自分は求めているのか、を考えた方がよいと思うよ。自問自答。おわかり? 潔癖症のボクちゃん。
このボクちゃんも2ちゃん哲学板で時々名前出てるらしいが、pikarrrたんもそうだったな。わたしがメンヘラだとカミングアウトしたら(つかブログでは前から言ってたんだけど。こことか)すたこら逃げてった。ここのコメント欄参照。全く同じ症状だな(笑)。pikarrrたんとこに書き込んで削除された言葉を思い出した。「君はなぜ自分が精神分析やってるかを考えた方がよいよ」って。いやわたしがわかんないだけなんだが。「患者」なり「実践」なり「臨床」なりを除外した精神分析を学ぶ意味が。
「患者には関係」ないなら他の学問でいいじゃん、って「患者」なわたしは思うんだな。素の顔で。それこそいろんな学問があるんだし。つかわたし病む前は心理学(今は違うけど当時の頭では精神分析も含む)とか馬鹿にしてたし。
いや別に精神分析学が精神疾患者と関係ない他学問と相関するのを否定するわけじゃないんだよ。ってか大体の学者はちゃんとわきまえてるように思えるけどな。精神分析ってそういう学問だって。中野昌宏とかね。
要するに、君ら二人って学者というより単なる思想・哲学ヲタなんじゃね? ってことか。そうだよな、自己愛的に「図書館にひきこもりたいんだい」つってるわけだから自己愛型ひきこもりになるな。自体愛的にβ要素に翻弄されていることからの忌避としてのひきこもりとは言えなさそう。君の場合、他者の承認への執着が強い、つまり自己肯定が無意識的に上手だ。『アンチ・オイディプス』的に言えばモル的な人格をしている。スキゾイド型じゃなく自己愛型の証拠。わたしの見立てではね。
あーこういう奴ばっかだから哲学業界とかでよく「ポモなんてただの言葉遊びじゃないか」とか言われてんだな。納得。
哲学とか本読まないわけじゃないけど哲学板常駐したりするほどじゃないんだよなー。大学時代はちらほら構造主義の本読んでたけど、あくまで人類学(つか文化論みたいな)だと思ってたし。でも哲学でも中村雄二郎とかはよいと思ったな。中村と渡邊守章はわたしの思想において重要な影響を……ってそれほどでもなさそうだとこれまでの言説振り返って思った。そんなこと言ったら逆に彼らに迷惑になろうな(笑)。
一応もいっかいトラバ打っとこ。
つか向井もいいこと言ってるな。
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一般的に言えば、理論は実践を行うにおいて実践に当てはめるためにあると考えられている。理論とは個々のものから抽象して取り出し、普遍的なものとして構築 し、より一般的な状況に当てはめるものだと考えるわけだ。ところがこの論理は精神分析には当てはまらない。なぜなら、精神分析はそれぞれのケースの持つ特異的な性質を持つものに興味を持ち、その特異性を捉えようとするからだ。普遍的な理論を持ってケースに当たるとその特異性を見失ってしまうおそれがある。だから、実践においてはすべての理論を忘れることが必要なのだ。
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とかここのコメント欄でわたしが(暴論気味に聞こえるかもしれないが)言っている「臨床の際、混乱(この言葉はわたし独自の意味があることに注意。ここ参照)するのが分析家としては正しいのだ」ってことだ。あ、わたしもいいこと言ってるじゃん。
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混乱してなかったらそいつは分析家じゃない。なぜならそいつは道具としての精神分析をS1としている可能性が高いからだ。彼にとっての精神分析はファルスに裏打ちされたものだから、彼の分析行為には余裕が生じる。
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まあ君は別に分析家目指してるわけじゃなさそうだし(哲学畑だろ)いいんだけど、君はエディプスコンプレックスの構造で精神分析理論をS1としているように、わたしには思えるんだ。
向井の文章に戻る。
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つまり精神分析理論の紆余曲折はその対象の紆余曲折と同一なのだということである。
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はこの記事で言っている「心なんてなデータ化できないもの。研究対象が「蒙昧」なんだよ。だから逆にきっちり定義された診断基準だと現場は混乱する。」ってことだ。
要するに、君はそこで言われている
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ラカンはクリスを批判してこう言っていた――「あなたの意図はまっすぐでも――なぜならあなたの判断も間違いなくまっすぐなのだから――、物事のほうは、曲折している」。
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「クリス」なんだよね。
まー多分、君のラカン論に対する接し方は、「大学のディスクール」になってるんだろうな。「それを説明する用語自体の意味が」全ての人に理解されるような、君の「理想の精神分析理論」がS1にきているわけか。あれ、エディプスコンプレックスの定式もそうだよな。分母にファルスがきて分子にAがくる。ってーことは、エディプスコンプレックス者がする語らいは「大学のディスクール」である、ってことじゃん。あーだから『アンチ・オイディプス』のガタリもエディプスコンプレックスに見えたのか。
君はいつ去勢を承認するのだろうね。つまりディスクールから/Sを産出するのだろうね。
あーそだねー、君の「精神分析は「実学」足りえない」ってのの論拠にしている、
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「精神分析」は精神医学と臨床心理療法の狭間で、患者の治療に関わる「実学」です。ですから、最低限、自分の考える精神分析学の用語については、意味を定義できなければ、それは「精神分析」としてはまるっきり意味をなさないということになります。あくまでも「患者の治療」が第一ですから、それを説明する用語自体の意味が誰にも理解できないようなことは、絶対にあってはならないのです。
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って文章なんか、向井の
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そもそもラカン理論は実践には役に立たないと考えている人は、そこから何か技法のようなものを取り出そうと考えているのではないだろうか。
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って文章をあてはめれば、なんとなーく納得する。だから君はそういう論拠で「精神分析は「実学」足りえない」って言ってるのかって。君がラカン論から「技法のようなもの」を取り出せないから、「「実学」じゃない」って言っているわけか。君の思う「実学」とはそういうものだと考えれば、なるほどなと思う。つか「実践のための技法」って考えたら、君の主張は「実践の場を縮小させよう」ってことで、「実践の場」が少なくなったらそのための「技法」も「技法」じゃなくなる場合が多くなるわけで、そりゃー「技法」は取り出しにくくなるよなー、って思った。
すげーな向井。つかギョーカイにはこの木田原くんみたいな子がほんと多いんだろうな。あたしギョーカイ人じゃないから知らんけど。「お前ら馬鹿だな」って向井の気持ちが透けて見えてくるようだ。
「ちぃ、ギョーカイの空気ちょっとだけ覚えた」
あ、もちろんこれはわたしが勝手に立てた仮説よ。わたしがそう考えれば君がそう言ったのも理屈的に納得できる、ってこと。それだけじゃなく、向井の文章も、わたしは「なんでそんな当たり前のことをわざわざ言う必要あるの?」って思ってたんだけど、この仮説を採用すれば、納得できちゃうのよ。
ねえね、なんで木田原くんは精神分析から「患者」を「関係」なくさせたいの? 君のその主張は、君の心でどのような経緯を辿って、そうなったの?
あーうん、わたしなんかより、一応「図書館派」を擁護している向井の言葉の方がいいだろうね。木田原くんにとって。エディプスコンプレックスってのが正しいなら権威ある人の言葉の方が効くだろうし。
あ、変な誤解されると困るから言っとくけど、わたしは君の心を傷つけようとしてこんな文章書いているのだよ。向井や藤田や斎藤や中野の名前を出せば、君の心はより傷つくんじゃないか、と思ってやってるんだ。ただの道具なのだよね。彼らと仲よくしたいと思っているわけじゃない。実際向井にも藤田にも斎藤にも(中野は興味の対象が違うからスルーしてる)「お前のここが生理的にキモイ」つってる。この「生理的にキモイ」を「あー仲よくしたがっているんだな」と思われるとわたしの不確定性トラウマが起き上がるからやめてね。ここで書いていること。要するに「わたしの心を傷つけたいなら弱点はここよ」っつってるわけだ(笑)。
あーゆーおけ? 木田原くん。あ、万が一わたしに返答するなら、前の記事の質問にまず答えてからにしてね。
つか自分で貼っといてなんだけどこの記事とか確かに「あざとい口調してんなー」とは思うがぐっとくる。わたしの自己分析にとっては重要な記事なのだよね。わたしがあとで見返してそう思える記事に限って拍手が少ない。傾向的に論文風記事の方が拍手多いんだけど、この記事でも書いている通りわたしにとって、論理的思考がフル回転している=パニック状態、なわけだから、読み返して自分で何言ってるのかわからない部分が多かったりする。論文風記事って。
だから昔の論文風記事に突っ込まれても返事返せないことがあるよ、って言い訳。
仕方ないじゃーん。自分で書いてて意味わかんないんだもん。
つか「薬物臨床」でぐぐったらAVのタイトルがずらーって出てきてワロタ。
向井を批判したこの記事とかあれだな、まだ猫かぶってた時期だったからか伏字にしてるのにニヤニヤしてしまう。この時代のわたしにほんと申し訳なく思う。今のわたしでごめんねって。この記事もそうなんだよね。キルケなら、自分自身の一部であるオデュッセウスが、自分から離れていったことに泣いている、ってことか。自身の一部だから泣ける。他人だったら泣かないと思う。でもこれはパニック発作の涙じゃない。とっても人間らしい涙。だから、オデュッセウスが去ったあと、キルケが泣いていたとしても、他の人は「オデュッセウスが去って泣いているんだな」と解釈するのだろうが、わたしはそう解釈しない。オデュッセウスの出現によって惹起されたわずかな自身のうちの人間性が、また彼女の体からすり抜けていっていることについて泣いているのだ、と解釈する。「鏡像関係の組み入れ」が「失敗」しているとは言え、彼女に「鏡像関係」的な精神状態がまったくない、というわけではないのだ。
あ、精神分析業界の人なら言わなくてもわかると思うが、その記事の伏字、向井と藤田よ。いやほーんと2ちゃんレベルの、いや2ちゃんだったら「お前らよそでやれ」って言われるレベルのやり取りだったんだよ。わたしはそういうのがおもしろい人だからいいんだけど、向井派の掲示板で行われてたから(今は削除されている)、向井派の外野がうるさかったのを覚えている。お前ら黙っとけ、って思ったわ。お前らの「身内を守るために外敵を排除する」心理はお腹いっぱいだから、向井と藤田の一騎打ちを見させてくれ、って思った。ほんと「雑魚は黙ってろ」だわ。
そこでコメントしてるぬりかべくん(彼にはわたしがチャットで「ラカニアンの大御所二人がおもろいことやってるお」って教えてあげた)も言ってるけど、ほんと「知的水準の高い人達が小学生並みの脊髄反射でぐだぐだしている」状態だったんだよね。つまり彼ら二人は退行していた、ってことなんだが、わたしはその方が会話の意味を理解しやすいんだ。話がわかるからおもしろくなる、ってだけ。
「その澄ました仮面取ってくんない? 何言ってるかわかんない」ってこと。
つか向井のこの言葉、
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一般的に言えば、理論は実践を行うにおいて実践に当てはめるためにあると考えられている。理論とは個々のものから抽象して取り出し、普遍的なものとして構築 し、より一般的な状況に当てはめるものだと考えるわけだ。ところがこの論理は精神分析には当てはまらない。なぜなら、精神分析はそれぞれのケースの持つ特異的な性質を持つものに興味を持ち、その特異性を捉えようとするからだ。普遍的な理論を持ってケースに当たるとその特異性を見失ってしまうおそれがある。だから、実践においてはすべての理論を忘れることが必要なのだ。
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これ精神分析だけに限らず、科学全般で言えることだと思うんだよな。わたし物性物理専攻だったんだけど、確かに実験するまでの工程、たとえば実験器具を自作したり、実験環境を整えたりする段階は、「普遍的な理論」に頼らなきゃいけないけど、それらを終えて、実験を観察するその瞬間は、「すべての理論を忘れることが必要」になる。じゃないと、理屈にあわない現象を見落としてしまう。人間の目ってそういう風にできている。すみません某せんせーの受け売りです。
でもさ、ある物理学者が「事実は小説より奇なりなんだよ」って言った時、「あれ?」って思ったんだよな。いや普通に言われている定型句だけど、まあ普通に物性物理の文脈で出てきた言葉なんだが、わたしもその時は「そうかー」くらいにしか思わなかったんだが、これ一般的な意味とずれてない? とあとで思ったんだ。
っていうのは、一般的に「事実は小説より奇なり」って言われてるのって、人間関係についてそう、って意味で使われることが多いじゃん。シチュエーションが人間関係に限定されている。だけどこのせんせーは物理現象にもその定型句をあてはめている。まー確かに物理学業界だと、不確定性原理に纏わるごたごたとかほんと「事実は小説より奇なり」だったんだと思う。
そういうことだと思うよ。「事実は小説より奇なり」ってのは、人間関係にだけ、いわば社会の中だけで成立する定理じゃなく、物理にも適用可能な定理だ、ってこと。
でもま、うちの自然科学系なんてほんと幼稚なすなわち退行的な人が多いから、、うちが特殊だっただけで、一般的な自然科学業界については、向井が言っているような「普遍的な理論」に目をきらきらさせている人が多いのかもしれない。
つか科学者じゃないパンピーどもの科学に対する態度は大体そうなっているな、と思った。そういった奴らのことを言っていると考えたなら向井のこの文章も納得できる。科学教の信者状態。科学的な「普遍的な理論」が教義。科学の言説を「普遍的な理論」だと妄想でしている(ニーチェ的な意味での)愚民ども。ほんとお前ら馬鹿だよな。「普遍的な理論」って教義を忘れることも大事なのが科学なんだよ。
あれだ、ぬりかべくんもうちの自然科学系にきていれば、もっと早い時期に「偉人幻想」をぶっ壊せてたかもしれんね。
学者と人格者は等値じゃないんだよ。愚民どもが勝手に妄想でそれらをイコールにしてるだけで。
この記事なんかは、人格者としてのレベルがかなーり低い、つまり退行的な性質が強い学者を「魔女」としていることになるわけだが(もちろんわたしの個人的な言い回しにすぎん)、まー確かにキリスト教的文化っつか「人格ばんじゃーい」な社会とっちゃー魔女は脅威なんだろうな。
現代において「学者=人格者」という妄想はむしろエスカレートしているんじゃないだろうか。頭がよい人間は人格者でなければならない、という暗黙のルールが強化されているんじゃないか。
だからわたしはこう言っているんだ。
「現代でも魔女狩りは続いている」ってね。
あ、なるへそな。フロイトが「精神分析は科学である」と言い張り続け、「哲学はパラノイアだ」と批判していたのは、こういうことかもしれんな。
わたしはまだ精神分析を科学だと認めていないけどね。科学者とは人間であってはならない、観測機械でなくてはならない、ってのがわたしのイメージなんだが、わたしの見る限り、科学も精神分析も人間ばっかだ。人格者になりたがり屋が多い。今のわたしの言語体系なら「パラノイアックなBPD」が多い。有馬朗人とかそんな性質が顕著。あ、ちなみに言っておくと、ラカン論を参照すればわかるように、「パラノイアックなBPD」ってすなわち精神医学における正常であることだからね。人格者であろうとしすぎて逆に社会生活が困難になった人をBPDってしてるだけで、社会が変われば診断基準も変わるさ。ごめんわたし社会がよくわかってない人だからそんな診断はできない。
そんなに人格者になりたければ学問なんかやらず政治家になっとけよ、最初っから、って思う。政治家なんてなべて「パラノイアックなBPD」だかんね。有馬みたいなルートは稀だぜ? むしろ学問の本当の魅力にはまったら蓮實重彦みたいなタイプの学者にいいようにもてあそばれるだけだろうな。
あ、まあ学問村も村なわけで政治がまったくないってわけじゃないよ、ってことか。
理系学者の五割、文系学者の八割くらいが死ねば、学問村も学問に立ち返ることができるんじゃね?
あれだ、昨日スマップの特番見てたんだが、ゴローちゃんのカラオケで百点取るって奴。カラオケの採点機械は演歌界の大御所が歌おうが素人が歌おうが関係ない。科学者はああじゃなくちゃいけないと思うんだよな。それに、ゴロちゃんも言ってたけど、人を感動させるような抑揚があっちゃだめなんだよね。カラオケ採点ゲームよくやってたんだけど、わたしも点低い。でも下手って言われたことがない。うまい方だと思うよ。よくリクエストされるし。知らない客からも。わたしはそういったテク演劇で学んだんだろうけど(大学以前はそもカラオケなんて行きたくなかった)、そういったテク、つまり「人間が自己規定する人間らしさ」みたいなんまで考慮し始めると、コンピューターはパニックを起こすんだよな。「フレーム問題」が生じる。
未去勢者たちは常にパニック状態なんだよ。素がそうなんだ。
カラオケ採点機なんざ音程とテンポと音量くらいしか感知してなくて、楽譜化されたモデルデータとの整合性を計算しているだけだろうけど、そういう風にフレームを作ってくれたらなんとかなるんだよ。仕事や芝居っていうフレームがあれば、それに忙殺されていれば、わたしは「純粋に現実的なものとしての小文字のaの主体」じゃなくていられる。
しっかし石川さゆり声変わんないなあ。都はるみはやっぱ衰えたかなーって思ったけど。でも衰えたなりのよさもあるしな。演歌なら特に。石川さゆりってロボットなんじゃね? 歌う機械。
『天城越え』めちゃくちゃ歌いたくなった。
だけどさ、機械になったらなったで、とってもつらいんだよ。β要素に翻弄されるってことだから。精神病の主観世界をそのまま生きるってことだから。向井の言う「特異性」が常時あちこちに出現する状態だから。森の中を迷子になっているような状態だから。
なので、平気な顔で、余裕しゃくしゃくの顔で、「機械になろうぜ」「機械になりたいですー」「機械になってます」とか言っている奴は、わたしは信用できない。
あ、たまたま見つけたけど「合意の快楽」(ここのコメント欄参照)ってあたし結構前から指摘してたのね。この記事。
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ちなみに、この気遣いの契約成立時、正常人たちは性的快楽を覚えているように見える。
社会が売春宿なのではなく、正常人たちのコミュニケーションそのものが売春宿なのだ。
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おーやっぱ初期の言葉の方が強度あるなー。