統合失調症とスキゾイド
2007/03/17/Sat
メモがわり。
<統合失調症=分裂病=スキゾフレニー>と<スキゾイド=分裂病質>は別物だ。
統計的にも両者の症状に因果関係は認められない。
何当たり前のことを、と思われるかもしれないが、ブログだしいーじゃんよー。
じゃーなんでそんなややこしい名前になってんのさ? と思うわけだ。普通は。思わない? このブログの人とかそう思っているみたいなので、そういうものとしておこう。
っていうのは、この両者の症状の雰囲気、イメージが似ているからだ。だから、分裂病質→分裂病、みたいな「感じ」じゃね? と思われていたらしい。もちろんそれは医学的に研究され、分裂病の発症前の状態は全くスキゾイドのそれと違うことがわかったけど。
んで、その器質的なものを排除して、私なりにその違いを(ラカン的精神分析の文脈で)考えてみたのです。それが自分でおお、と思えたので、メモしとこうかな、という記事です。
まず、人間の主体(エス)というものは、言葉を覚えることにより言葉の世界、象徴的な世界(象徴界)から失われます。言葉を覚えた子供から先の人間の、主体は「欠如」しているのですね。その欠如を斜線で表して、/S(斜線/はSの上にのっかっているものとして読んでください)などと表現します。欠如しているといっても、人間はなんとなくその存在を感じています。生まれた時から言葉を覚えているわけではないですからね。そのあるのは感じているけどない、という「感じ」を記号で表したのが、Φ=象徴的ファルスです。これは人間の思考の大元になります。全ての「知」や「言葉」はこのΦの暗喩作用を受けているのです。そういった側面を記号で表現したのが、知の中心、みたいな感じを意味するS1で、暗喩の連鎖として二番目以降にある「知」「言葉」がS2になります。う、話がそれそうだ。
まあ、人間の主体、精神世界の中心にあるものは、「穴」みたいなものなわけです。穴ですから穴の中身は「無」になります。「死」(という概念)なわけですね。
統合失調症の精神分析では、この「無」的な無意識が主役に踊りでます。とは言っても、今の精神分析論ではこれをきれいに説明できているわけではありません。
まあメモなので簡単に言うと、統合失調症は何らかの原因で、その精神世界の「穴」に片足突っ込んでいる状態ではなかろうか、と思うわけです。なので、穴の縁から「無」じゃない場所、生の場所に向かおうとしているのだと思います。
生の欲動=構造化=確かなもの化、ですから、その穴=「無」=「究極の曖昧さ」から逃れようとする方向は、生の欲動のベクトルだと言えます。
一方、スキゾイド。
先に、言葉の世界を象徴界といいましたが、そうじゃない、視覚や聴覚や体感的な世界を、想像界といいます。これに、実際的には到達不可能(死の瞬間以外では)な、器官のない身体がある世界を現実界と呼び、これらをラカンの三界と呼んだりします。まあ人の精神世界を三つに分けて考えようぜ、的なものです。それはおいといて。
言葉は生まれた後で覚えるものですから、発達する順番は、想像界(を形成する器質)が先になるわけですね。なので、人は体感的な刺激の方が、心の奥底に染みやすい、主体/Sを震わせやすいわけですが(セックスなんかまさにそうですよね)、何らかの原因で、象徴界(の内的動力)が人より発達してしまう人だっています。そうなると、その人の言動の印象が、比較的想像界(の内的動力)が弱い、という「感じ」になります。アスペルガーなどは、私はそういった性質のものだと思います。まあ簡単にアスペルガー=スキゾイドだと言うわけではないですが。
というわけで、スキゾイドとは、その内的動力が想像界<象徴界といった傾向を持つ方々ではないかな、と私は考えるのです。まあこれは(私自身に)わかりやすくするために、ごく単純化した考え方だと思ってください。
彼(スキゾイド)は、象徴界の内的動力が強いわけですから、Φの暗喩作用にも敏感です。普通の人はそれを生の欲動にしたがって「ある」と思いたがりますが、彼はうっすら「ない」かもしれない、と感覚的に気付いているのではないでしょうか。
Φに近づこうとすると、S2が短絡されたりして、パラノイア症状を引き起こしたりします。Φがないことを認めない、「欠如の否認」「(象徴的)去勢の否認」という奴です。彼らはΦがあると思ってそこに近づきますが、スキゾイドはないかもしれない、と思って近づくことになります。この、Φに向かうベクトルは、(S2「知」の)構造の無化、即ち死の欲動のベクトルになります。
生の欲動と死の欲動。「欲動」という言葉は、精神世界における「本能」のようなもので、それ以上わからないよ、みたいな感じの根源として仮設された概念です。なので、何故そういった力動になるか、という理由は説明しづらいのです。ここでは、「スキゾイドは何故、そうではない人より死の欲動のベクトルに向かう傾向があるか」という問いとしてそれを説明しましょう。
人の「欲望」は(これは厳密には「欲求」と違うものです)、対象aというものに近づこうとする力動が原因となっています。
この対象aを比喩的にいうならば、人が胎内にいた頃のような、母と子が愛情的に同一化した関係、そういう領域、です。そんなもの現実的には無理ですよね。人と人は同一人物になりえませんから。まあそういうわけでこの対象aという領域も到達不可能、と言えるわけです。簡単に言うなら、「愛」そのものです。
この対象aと、これまで紹介した記号で、生の欲動の「ベクトル」を表現しましょう。
/S→Φ(=S1)→S2(=A)→対象a -<Ⅰ>
これの逆方向が、死の欲動になります。「構造化」「構造の無化」の「構造」は、このS2(たくさんあります)で作られる構造を指しています。
Aというのが新しく出てきてますね。これは「象徴界の他者」を指しています。ここでは言葉そのもの、だと思ってくださって構いません。
ここで、鋭い方は、おや、象徴界の他者があるなら想像界の他者があってもよくないかい? と思われるのではないでしょうか。あります。それが対象aなのです。
え? 到達不可能な領域なんじゃないの? と思われるかもしれませんが、その到達不可能さを、体感的な他者に感じることがありませんか? 例えば、どんなに愛し合っている恋人同士でも、感覚的に理解できないところがあるでしょう。
また、人は誰を愛するか事前にわかりませんよね。つまり、全ての想像界の他者に、主体の愛する人になる可能性があるわけです。ゆえに、対象aを、「愛する人」と「体感的な他人」とに分けて考える必要がないのです。イマイチ納得できないかもしれませんが、ここはそういうものとして、厳密には言い方が少し悪いですが、Φのように、「ない」けど「ある」みたいな感じに捉えてください。
スキゾイドに戻りましょう。
この対象aは想像界の他者です。
<Ⅰ>と、「スキゾイドは(その内的動力が)想像界<象徴界である」を見比べてください。そうです。彼は、対象aが放つ欲望の引力のようなものに、(言葉は悪いですが)鈍いのです。
彼は、スキゾイドではない人に比べ、生の欲動を加速する「対象aの引力」が弱い、即ち、逆方向のベクトルに向かいやすい、という傾向がある、と言えます。
これが、「スキゾイドは死の欲動のベクトルに向かいやすい傾向(仮にそうだとして、ですよ)」の構造になると思います。
まとめましょう。
/Sという欠如=穴に捕まって、そこから這い出そうとする生の欲動ベクトルの力動を示すのが、統合失調症。
一方、死の欲動に従い、/Sに向かってしまうのがスキゾイド。
ベクトルが全く逆ですが、彼らがいる(S2の)構造の場所は、同じく/Sに近い場所になります。
精神分析における「症状」とは、精神世界の力動を現実的世界に表す「アクティングアウト」です。
結果、両者の症状=その言動が、何となく似ているように感じるのだと思います。
欲動レベルの力動は逆方向だけど、象徴界の状態は似ているところがあるから、症状も似ているように思ってしまうのでしょう。
まあ、そんな感じですー。
疲れた……。
<統合失調症=分裂病=スキゾフレニー>と<スキゾイド=分裂病質>は別物だ。
統計的にも両者の症状に因果関係は認められない。
何当たり前のことを、と思われるかもしれないが、ブログだしいーじゃんよー。
じゃーなんでそんなややこしい名前になってんのさ? と思うわけだ。普通は。思わない? このブログの人とかそう思っているみたいなので、そういうものとしておこう。
っていうのは、この両者の症状の雰囲気、イメージが似ているからだ。だから、分裂病質→分裂病、みたいな「感じ」じゃね? と思われていたらしい。もちろんそれは医学的に研究され、分裂病の発症前の状態は全くスキゾイドのそれと違うことがわかったけど。
んで、その器質的なものを排除して、私なりにその違いを(ラカン的精神分析の文脈で)考えてみたのです。それが自分でおお、と思えたので、メモしとこうかな、という記事です。
まず、人間の主体(エス)というものは、言葉を覚えることにより言葉の世界、象徴的な世界(象徴界)から失われます。言葉を覚えた子供から先の人間の、主体は「欠如」しているのですね。その欠如を斜線で表して、/S(斜線/はSの上にのっかっているものとして読んでください)などと表現します。欠如しているといっても、人間はなんとなくその存在を感じています。生まれた時から言葉を覚えているわけではないですからね。そのあるのは感じているけどない、という「感じ」を記号で表したのが、Φ=象徴的ファルスです。これは人間の思考の大元になります。全ての「知」や「言葉」はこのΦの暗喩作用を受けているのです。そういった側面を記号で表現したのが、知の中心、みたいな感じを意味するS1で、暗喩の連鎖として二番目以降にある「知」「言葉」がS2になります。う、話がそれそうだ。
まあ、人間の主体、精神世界の中心にあるものは、「穴」みたいなものなわけです。穴ですから穴の中身は「無」になります。「死」(という概念)なわけですね。
統合失調症の精神分析では、この「無」的な無意識が主役に踊りでます。とは言っても、今の精神分析論ではこれをきれいに説明できているわけではありません。
まあメモなので簡単に言うと、統合失調症は何らかの原因で、その精神世界の「穴」に片足突っ込んでいる状態ではなかろうか、と思うわけです。なので、穴の縁から「無」じゃない場所、生の場所に向かおうとしているのだと思います。
生の欲動=構造化=確かなもの化、ですから、その穴=「無」=「究極の曖昧さ」から逃れようとする方向は、生の欲動のベクトルだと言えます。
一方、スキゾイド。
先に、言葉の世界を象徴界といいましたが、そうじゃない、視覚や聴覚や体感的な世界を、想像界といいます。これに、実際的には到達不可能(死の瞬間以外では)な、器官のない身体がある世界を現実界と呼び、これらをラカンの三界と呼んだりします。まあ人の精神世界を三つに分けて考えようぜ、的なものです。それはおいといて。
言葉は生まれた後で覚えるものですから、発達する順番は、想像界(を形成する器質)が先になるわけですね。なので、人は体感的な刺激の方が、心の奥底に染みやすい、主体/Sを震わせやすいわけですが(セックスなんかまさにそうですよね)、何らかの原因で、象徴界(の内的動力)が人より発達してしまう人だっています。そうなると、その人の言動の印象が、比較的想像界(の内的動力)が弱い、という「感じ」になります。アスペルガーなどは、私はそういった性質のものだと思います。まあ簡単にアスペルガー=スキゾイドだと言うわけではないですが。
というわけで、スキゾイドとは、その内的動力が想像界<象徴界といった傾向を持つ方々ではないかな、と私は考えるのです。まあこれは(私自身に)わかりやすくするために、ごく単純化した考え方だと思ってください。
彼(スキゾイド)は、象徴界の内的動力が強いわけですから、Φの暗喩作用にも敏感です。普通の人はそれを生の欲動にしたがって「ある」と思いたがりますが、彼はうっすら「ない」かもしれない、と感覚的に気付いているのではないでしょうか。
Φに近づこうとすると、S2が短絡されたりして、パラノイア症状を引き起こしたりします。Φがないことを認めない、「欠如の否認」「(象徴的)去勢の否認」という奴です。彼らはΦがあると思ってそこに近づきますが、スキゾイドはないかもしれない、と思って近づくことになります。この、Φに向かうベクトルは、(S2「知」の)構造の無化、即ち死の欲動のベクトルになります。
生の欲動と死の欲動。「欲動」という言葉は、精神世界における「本能」のようなもので、それ以上わからないよ、みたいな感じの根源として仮設された概念です。なので、何故そういった力動になるか、という理由は説明しづらいのです。ここでは、「スキゾイドは何故、そうではない人より死の欲動のベクトルに向かう傾向があるか」という問いとしてそれを説明しましょう。
人の「欲望」は(これは厳密には「欲求」と違うものです)、対象aというものに近づこうとする力動が原因となっています。
この対象aを比喩的にいうならば、人が胎内にいた頃のような、母と子が愛情的に同一化した関係、そういう領域、です。そんなもの現実的には無理ですよね。人と人は同一人物になりえませんから。まあそういうわけでこの対象aという領域も到達不可能、と言えるわけです。簡単に言うなら、「愛」そのものです。
この対象aと、これまで紹介した記号で、生の欲動の「ベクトル」を表現しましょう。
/S→Φ(=S1)→S2(=A)→対象a -<Ⅰ>
これの逆方向が、死の欲動になります。「構造化」「構造の無化」の「構造」は、このS2(たくさんあります)で作られる構造を指しています。
Aというのが新しく出てきてますね。これは「象徴界の他者」を指しています。ここでは言葉そのもの、だと思ってくださって構いません。
ここで、鋭い方は、おや、象徴界の他者があるなら想像界の他者があってもよくないかい? と思われるのではないでしょうか。あります。それが対象aなのです。
え? 到達不可能な領域なんじゃないの? と思われるかもしれませんが、その到達不可能さを、体感的な他者に感じることがありませんか? 例えば、どんなに愛し合っている恋人同士でも、感覚的に理解できないところがあるでしょう。
また、人は誰を愛するか事前にわかりませんよね。つまり、全ての想像界の他者に、主体の愛する人になる可能性があるわけです。ゆえに、対象aを、「愛する人」と「体感的な他人」とに分けて考える必要がないのです。イマイチ納得できないかもしれませんが、ここはそういうものとして、厳密には言い方が少し悪いですが、Φのように、「ない」けど「ある」みたいな感じに捉えてください。
スキゾイドに戻りましょう。
この対象aは想像界の他者です。
<Ⅰ>と、「スキゾイドは(その内的動力が)想像界<象徴界である」を見比べてください。そうです。彼は、対象aが放つ欲望の引力のようなものに、(言葉は悪いですが)鈍いのです。
彼は、スキゾイドではない人に比べ、生の欲動を加速する「対象aの引力」が弱い、即ち、逆方向のベクトルに向かいやすい、という傾向がある、と言えます。
これが、「スキゾイドは死の欲動のベクトルに向かいやすい傾向(仮にそうだとして、ですよ)」の構造になると思います。
まとめましょう。
/Sという欠如=穴に捕まって、そこから這い出そうとする生の欲動ベクトルの力動を示すのが、統合失調症。
一方、死の欲動に従い、/Sに向かってしまうのがスキゾイド。
ベクトルが全く逆ですが、彼らがいる(S2の)構造の場所は、同じく/Sに近い場所になります。
精神分析における「症状」とは、精神世界の力動を現実的世界に表す「アクティングアウト」です。
結果、両者の症状=その言動が、何となく似ているように感じるのだと思います。
欲動レベルの力動は逆方向だけど、象徴界の状態は似ているところがあるから、症状も似ているように思ってしまうのでしょう。
まあ、そんな感じですー。
疲れた……。