もやもや固め
2010/01/20/Wed
そらパパさんまだいじってたんだけど、ちょ、そらパパさん、そのコメント公開しちゃだめじゃーん!
なんかはずいわー。なんだろ、試合で流血して戦ってたプロレスラーが飯一緒に食ってる、みたいなさ。
あーでもあれ、わたしを悪者にしていいよ、つってるんだよね。わたしそういうの慣れてるし、基本的にわたしそらパパさんという人種とは対立する人間だと思うし。表向きだけ仲よくやってもどうせいずれ喧嘩しちゃうんだろうから、最初から敵同士の方がお互いやりやすいっしょ? 的なー、みたいなー。
そうじゃなくて、さすがのそらパパさんもキレて公開したのかね。それならいいや。
公開してね、つった方のわたしのコメント。
そこでわたしが言ってることさ、そらパパさんにはじめて絡んだ時のこの記事でも言っていることだよね。
=====
この「アスペルガーの大バーゲン」とは、非現実的な話ではない。わたしのこのブログのテーマの一つである、「ポモとはスキゾイドじゃない人間もスキゾイドになりたがる傾向である」に連結する。スキゾ化を目指してスキゾ仮面にしかなれなかったオタク文化や、従来のスキゾイド型ひきこもりと別物の社会型ひきこもりや、スキゾ的相対主義を口先だけで述べ本当の相対主義的主体は狂気の領域にあることを知らない者たち。類例はいくらでもある。
=====
思い出した? そらパパさん。「本当の相対主義的主体」はドードーとらさんの方なんだよ。
自分ですら相対化されているのが、本当に心が機械化した世界なんだ。
それだけ言いたかったけどさすがに脱線しすぎだと思ったのでこっちに書いた。トラバ打っとく。
とか書いてたら放浪人さんのレスが。
うん、そういうことだよ。「アスペルガーの大バーゲン」って。
でもこの言い方だと「(一律的に)不幸自慢しないでくれ」って言ってるって正常人は解釈すると思うなー。そうすると「不幸自慢」っつか苦痛をいかに文章化するかってのが一つのテーマになってるこのブログとかアウトになっちゃうちゃう。「わたしの苦しみをわかって」。いちおこの記事でも言ってるな。
=====
=====
もしかしたらたまきんこのブログ読んでんじゃねえか、と思い、わたしの「単に困難を提示しておしまい」的な文章を批判しているのではないか、と気になってしょうがなくなった。思い込みでいいよ。「被害妄想」って書いてるじゃんけ。「フレーム問題」で自閉症を語るのなんかそらパパさんもやってるし大体みんな思いつくことなんだろう、と自分に言い聞かせても気になる気になる。
=====
ふざけんな! その人間の「困難」を他の人が認知できなかった場合、まず「困難を提示する」ことが工程の一つとして必要だろうが。身体障害者などその困難さが目に見えてわかる。いやわかっていると見ている側が思い込んでいるだけだ。そいつが考える「身体障害者の困難」はあくまでそいつの想像にすぎない。妄想である。身体障害者本人が感じている困難と、それを見ている人間が妄想する「身体障害者の困難」は別物である。ならばそれをすり合わせることが先だろうが。何わかったような口聞いてんだ。お前のやってることなんて要は、数学の公式の内容を理解せずただ暗記して問題を解いているようなもんだ。バカがやることだ。たまきんお前はバカ丸出しだ。この文章において。反省しろ。
=====
多くの人がその不幸を冷静に分析しないのが問題だと思うんだ。なぜできないのか。正常人には。一律的に不快を回避する快楽原則があるから。
ま、これはどうでもいいんだけど。
あとさー、そらパパさんのコメントから、
=====
実のところ、仮にそれが向いていないタイプの人であっても、その役割をまっとうしなければならないわけです。
=====
いやわかるんだけどね。わからないんだけど。あたし子供いないし。親になんてなれる人間じゃないって自覚は結構昔からあったし。
でもさー、ふと思ったんだわ。自閉症ってのは「母からも父からも疎外されている」。だとしたら、理屈的に、自閉症児に限っては、幼いうちから専門の療育士のもとで育てるのがオーケーなシステム、ってのもありなんじゃね?
とか書くとさー、どうせお前らが勝手に自己規定した道徳観みたいなので「そんなの育児放棄じゃないか」とか言うんだろ?
いやあたしも言うと思うよ、それはフーコーが批判したごとき「狂気の隔離」にすぎない、とかって。でもなっていいとも思うんだ。そうやって専門の療育士に育てられた(知的障害のない)自閉症児たちが大人になった時、フーコーを読ませたらどうなるか、って実験感覚でやらせてみたい。
それこそ、悲惨な出来事が起きるかもしれないね。
で、こういった出来事を根拠にして、「ほーらやっぱり育児は父母がする方がいいんだ」ってオイディプスの三角形が強化されていく、っと。ドゥルーズやガタリもあの世で泣いているんだろうな。
要するにさ、なぜ「その役割をまっとうしなければならない」のか考えてみそ、ってことだ。なぜ自分はそう考えてしまうのか考えろ、と。
君の自己の底にいる他者に出会えるかもよ。
結局さ、社会を厳密に語れば語るほど、正常人たちの内面における一人相撲に帰着してしまうんだよ。
さらに。
=====
かなり発散したコメントになっているので、
=====
どこが発散しているのだろう。いやそらパパさんの主観の中で発散している、と判断したわけだな。
つかさー、社会なんてのは、大多数派の正常人の心が反映されているに決まってるじゃん。道徳然り、法律然り。経済はびみょーだと思ってたりするけど。
で、君は社会を語った。社会っつのは正常人の心が色濃く反映されたものである。だとしたら、社会を語るには、なぜその社会がそうなったかを語るべきで、その根拠である正常人の心を語るべきじゃないかい? とわたしは思うんだな。つかそういうルートを考えてはいた。ただの予定だから大雑把にしか述べてないけど、議論を続けるならそういう方向に持っていきたいなーとは思ってた。自閉症者を社会に参加させることとは、一人対一人のコミュニケーションに相似させるなら、自閉症者と正常人の認知認識の差異に帰着するだろう、従ってそこを論じることは自閉症者の社会参加の問題にも繋がる、と。
でもなんかでもあほらしくなった。なのでばらした。手の内を。
ま、君にそこまで考えさすのは、さすがのわたしでも当該記事からの脱線になるとは思うし。
そういうことよ。
自閉症の心は機械的。機械的に考えてごらん? 物事を複雑にしているのは、正常人の心が原因になっているとわかるはず。
でもそうできないのが正常人が正常人たる所以。
抑圧ではなく排除しているわけだからね、そういう思考方法を。ビオンの言葉なら「思考する者なき思考」を。
あ、ごめん最後は独り言ってかこの記事自体がすでにそらパパさん個人に向けてのものじゃないけど。
つかさー、わたしとその二人のコメントで、あなたの言う「精神的自立」がどういうものか、多少は具体化したと思うけどな。
でも全然足りない。全然具体的に理解できない。
ねえねえ、自分勝手に納得してないで、わたしらの言葉を咀嚼して、自分が考える「精神的自立」を言語化してみてよ。言えないなら、「精神的自立」ができてない状態とはどういうことか、でもいい。
ここすげえウィークポイントだと思うぜ、その記事において。
君は「経済的自立」ではないそれを、一つの療育の目標として論じている。だけどその目標に具体性がともなっていない。
「精神的自立」
君さ、この言葉によって、自分の論が「内面」に向かざるを得なくなってることに、気づいている? 気づいているよな。
=====
今回の「精神的自立」についても、より還元的に「選択できること」と定義していていることからご理解いただけるように、私はできるだけ「内面的な解釈に基づく議論」をしないようにしています。
=====
ここエポケー(「還元」って現象学的な意味だと解釈した)したら、君のやってることって、君がツイッターで言ってる「無理やりやらせる」ことになると思うんだけど。「選択しろ」という強制。アンテ・フェストゥムを死の祝祭へと導く手。
神の手。
うん、君のその記事の言説、宗教臭い。
全然「ご理解」できません。
ドードーとらさんって当事者は君になんて言った?
「当事者を岡山事件みたいなことに追い込むのは、あんたみたいな親だ」
君はその「精神的自立」がどういうものか、君の思っているそれはどういうものか、きちんと考えるべきだと思うよ。
いやわたしは第三者だからどうでもいいんだけどね。ただ「なーんだ、やっぱわかってないじゃん」ってだけで。
あなたはいまだとらさんのその言葉のままだ、とわたし個人が判断するってだけ。
わたしは他人だからあなたの娘がどうなろうと知ったこっちゃないしー。
自分が狂気に陥らない代わりに、他者を支配する、か。
おう、君放浪人さんへの返信で書いてるじゃん。
=====
そもそも人というのは「自分の痛み」はわかっても、「他人の痛み」は想像することしかできませんから、
=====
わたしは、「想像」ってレベルじゃないところで、それ以前のフェーズで、苦痛は伝染すると思ってるんだけどな。シュルレアリスムが目指した感動。狂気の伝染。プレコックス感そのもの。むしろ苦痛を「想像」することで、伝染された苦痛は劣化する。この記事から。
=====
フリスも言ってるだろ、「(共感できないと考えられている)自閉症者であっても共感していると思われる状況がある」と。でもこの共感はテレビで飢えている子供を見て空腹という不快感を惹起するものだ。感情移入の原始的なものだ。幼稚で稚拙な共感。幼稚園児によく見られる「大泣きの伝染」。そこに想像的あるいは象徴的な複雑な連鎖網はない。何重にも折り重ねられた意味などない。ピンポイントで響く共感。
=====
そうじゃなきゃわたしは生きてられない。
んなことじゃなくて、んなのどうでもよくて、さっきのツイッターのつぶやき、
=====
「相手の苦しみや反発を無視する」というニュアンス、入ってるよね?
=====
この返信自体にそのニュアンス入ってるよね?
なぜ君はそんなこと言ってしまったのだろう。
エポケーしたからだよ。
ぐぞ、そらパパさんの一件で書こうと思ってたこと忘れた。
そらパパさんってリバタリアンだったんだな。ちょーどネグリに触れてた時期でなんかピンポイントだな。とか書くと中坊さんあたりが「いやネグリはリバタリアンと言われているけど実はそうじゃない」とか言ってきそう。それに花風社事件の最中だったのも、ほんと偶然なんだよな。この記事でドードーとらさんのこと思い出して、それでしばらくぶりに見てみたら「あら、どっかで見た名前が」って感じ。
なんかすげーってほどじゃないがいくつかの偶然がガガガってきた。うわーこんなつまんねーことに運使っちゃったよ。あーあ。的なー、みたいなー。
そういや二方向同時攻撃ってこのブログ初だよな。調子いいんだろうか。こういう時いきなりガス欠くるから怖いんだよな。
こう、必然性を読み込みたくなる偶然の重なりって、まあシンクロニシティなわけだが、なんか、確かにファルス化しちゃうのかもね。わたしは今結構正常人してる。必然性を読み込みたくなるほどの、「何か意味はあるんじゃないか」と思ってしまうほどの、偶然の重なりは、主体をファルス化せしめる、のか。
あー。う? そもそも偶然を必然に変えるのが「愛」であり、意味自体である、って? シンクロニシティが原初に意味だとしたら、「愛」は接着剤みたいなもんだろうな。「この偶然には意味がある」ってわたしも思いそうになったけど、「やっぱただの偶然だよな」ってなるのは、わたしが情性欠如者だから、か。
そうだよな。社会的成功を経験した人が、「これは偶然だが意味のあることだ。必然だ」って思うから、その成功を維持できるわけで、まあ謙遜で「いやただの偶然ですよ」とかくらいは言うんだろうが、本気でそう思っている奴は、成功状態を維持できるわきゃないよな。ほんの一瞬。
うん、ただの偶然。全ては偶然。偶然以外のことは存在しない。
……あら?
なんかもうやめよ。ほんとやめよ。
死んどこう。しばし。
必然はないけれど、それは別に偶然じゃないんだよな。ただそうであるだけ。ただそうであるだけのことを、偶然って言って特殊化しているだけ。人間の知の外側が本当の世界なのに、外側部分を偶然だとか言うことで、内部に閉じ込めようとしているだけ。「男性的享楽による交接の取り込み」。
なんかね、この記事とかのタイトルについてコメントで指摘されてるけど、ほんと意識してなかったんだよ。これも偶然。
ああ、なんか怖くなった。
敏感な未去勢者たちはうすうす気づいてたんだろうな。ここ数日のわたしが正常人方向に動いたってこと。
さて、こっからどうなるでしょうか?
わたしにもわかりません。
ああ、うう、メモ。「コンプレックスについて」書かなきゃ。あと、あれ、「書かなきゃ」? 他者がいる。あれ。
うわぼ。
嘘だあ。ここ数日、本当に死ねそうだったのに。
きら、きら、こそ泥。
つかさ、わたしもひどいこと言ってるけど、そらパパさんも大概ひどくね?
=====
実のところ、仮にそれが向いていないタイプの人であっても、その役割をまっとうしなければならないわけです。
=====
ってさ、まー「仮に」だけど、「思い遣り過剰のうざい定型女」が、アスペ育児に「向いていない」って認めてるってことだよな。
そっちのが傷つくと思うんだけど(笑)。そらパパファンの「ツレション女」どもは。
あ、でもそれこそ「思い遣り過剰」=想像界主義なわけで、感情的に自分側の立場に立ってくれてたらいいのか、そういう牝豚どもは。
なるへそな。勉強になったよ。
なんか癇に障るんだよな。このブログではよく書いているけど、わたし基本的に自己美化したり自己肯定する奴が本当に嫌いなんだ。本能的に嫌い。
いやわざとやってるならいい。わかっててやってるなら。自覚してやってるなら。「本当は美しくも肯定できるようなものでもないけど、そうしないと生きていけないしさ」みたいな哀愁があるならいい。能動的ニヒリズムとかそういうもんだと思う。
だけど自己美化、自己肯定が無意識になっている奴が嫌い。飲茶とかいいこと言ってたな。「脂さんが攻撃するのは「無自覚権力志向型定型人」だ」ってね。自己美化、自己肯定が一個の行為ではなく動物的な習性になっているから「無自覚権力志向型人間」になる。この言葉は信頼できると思うぜ。某サイトのチャットでは、そらパパさんちでやった以上に他人を攻撃しまくってたんだが、飲茶はそれを見て言ってるわけだから。ちゃんとわたしを臨床して言った言葉。そのサイトっているの若い子ばっかだったんだよね。自分よりはるかに年下な人間でもムキになって攻撃して心を傷つけるような人間なんです。わたしって。大人だろうが子供だろうが関係ありません。テリブルマザーは平等に不愉快を恵むのです。
ウタ・フリスも、認知心理学の人じゃないらしいけど、癇に障った。「自閉症者は(定型発達者のように)高度で複雑なコミュニケーションに参入できない」みたいなこと書いてあったんだが、それって要するに定型発達者の心は「高度」だって言ってるわけだろ? 自分を高い位置に置いている。死ね、と思ったわ。
精神分析やれば全然「高度」じゃないってわかるんだけどな。精神分析では、特にクライン-ラカンといった死の欲動派(わたし命名)は、たとえば自我なんて、機能的に考えれば欠陥満載なものとなる。操作性も悪い、内部処理もその時々で違う。機械だったら、勝手に動いて勝手に不良品を作るようなもんだ。たとえば子供って親に怒られるのをおそれて拙い嘘をつくよな? それだよ、それが自我の雛形。「自己防衛のために嘘をつく」が、自我の機能の(極端すぎてはいるが)要約だ。ラカン派の解釈によれば。
自我が正常なのが精神医学で言う正常人だよな。つまり生物として機械的に不良品なのはむしろ正常人なんだ。
もちろん自閉症者だって自我という機械が壊れているだけで、ガタピシときしみながら作動はしている。わたしが観察していたある自閉症者は、まさに「親に怒られるのをおそれて拙い嘘をつ」いていた。でも発達していない自我だからすぐばれる。正常人のように自然に嘘がつけない。嘘をつき通せない。
認知の処理機械たる自我などといったものがそもそも不良品なのだ。不良品が不良品だから、たとえば「自閉症者は嘘をつけない」なんて大雑把な表現(当然これは先ほど述べたように事実としては誤っている)で示される症状となる。
正常人はそもそもが不良品としての自我が正常だから、嘘が多重になる。物事は複雑化する。正常人の主観世界において。正常人の心の「高度」さは、嘘が「高度」であるということだ。この「嘘」は「ごっこ遊び」と言い換えてもいい。「ごっこ遊び」が「高度」であるのが、正常人の心なのだ。
大多数の人間がそうだから、それを如実に反映した社会も複雑化する。矛盾を多く含んだものとなる。
社会なんてな嘘に嘘を重ねたものだ。ごっこ遊びにごっこ遊びを重ねたものだ。そういう意味で、社会とは人類が作り上げた最大の芸術作品だとわたしは解釈している。社会学なんてな一個の芸術作品を延々と批評・解釈し続ける学問だ、ってなる。余談だがこの「芸術」って原初的な意味だから「技術」「工夫」などとも表現可能なんだが、社会工学あたりになると、わたしのような解釈はありってなるだろうね。
なのになぜ、機械的な生命を不良品たらしめる自我が壊れている人間を異常者として、正常人の不良品たる心を棚上げにするんだろう? なぜ不良品たる心を搭載した生物が「高度」なんだろう?
自己美化、自己肯定も大概にしろ。
ある自閉症者は言った。「定型発達者は八割死ね」。
異常なのはお前らだ。異常者が多数派になっているから「我々は正常だ」と言ってるだけだ。
自己肯定も大概にしろ。
死ぬべきはどちらか明らかだろ。
そらパパさんにコメント消された。メモってはあったけどちょうどいい具合にPC固まってデータ壊れちゃった。
ま、いいや。そらパパさん本人が読んでたら。「政治的に応援している」ってのはほんとだからね。ただほら、たとえばある集団があって、「内ゲバしていると思われたらだめだから、集団内同士で批判しあうな」ってのがいまいちわからんのだよ、わたしは。結果的に集団の損になるのは頭ではわかるから従うこともあるけど、そんなにわたしの中ではウエイトが置かれないんだよね。この思考回路。だからすぐ「他の構成員に対する悪意」が勝っちゃったりする。だからわたしは群れられない。常に「裏切り者」。単に団体行動が苦手ってだけか。
つか自分であとから読んでちょっと「あーこりゃあかんわこんなこと言ったら」って思うコメントもあったし、むしろ感謝してる部分すらあったりする。いや基本凹んでるけど。内心ぼろぼろ。血まみれ。口調が軽いのはあれだ、ほんといやだから。こんなんで傷つく自分が。
でも一個気づいた。「わたしは人を傷つけるために精神分析って道具を利用している」ってのは、「思考実況」をより正確な実況にするための言い訳だったんだな。「人を傷つけちゃだめ」って幻想ルールで却下される言葉たちを却下しないための。で、実況してて「何これ」って自分で思うものもあって、そのために精神分析がある、と。自分を切り刻むためにあるんだ。自分を切り刻むことにはわたしの想像上の他人を傷つけることも含まれてる。
おろ、そらパパさんそのコメントは残すのね。まー自己擁護コメントだから当然か。
それに対して二点だけ言っておこう。
わたしは先にも書いたように「人を傷つけるために精神分析って道具を利用している」。なぜなら人は嘘をつく動物だから。従って、彼の批判する精神分析はわたしが利用する精神分析であって、他のそれはこの限りではない。また、彼の精神分析批判は、彼自身精神分析の知識が乏しいと明言していることから、「食わず嫌い」の言い訳のようなものであると言える。
つか
=====
今回、精神分析というツールを使って、私を肯定(応援?)したり、否定したり、
=====
とかさ、精神分析とか関係なくわたし最初から公言してるんだけど(ここのコメント欄参照)。大体ある一人の人について肯定する部分もあれば否定する部分もあるのが普通じゃん。一部分肯定したら全部肯定しなきゃいけないの? わたし肯定する部分は最初から肯定しているし(理論家としての能力、臨床を疎かにしてない点、浅見と対立したこと)、否定する部分は最初から否定している(性格)。もし彼が「肯定されたり否定されたり」することを不快に思ったなら、批判すべきはわたし個人だ。なんで「精神分析」にすり替えちゃうのかね? 以前もあったよな、文脈を全く飛ばして精神分析批判すんの。君、何か「精神分析」に特別な思い込みとかない? トラウマ的な。
あと一つ。このそらパパさん、以前岡山事件についてドードーとらさんってアスペ当事者と議論したことがあるんだけど、その時も「議論が発散している」とか言ってとらさんから逃げたんだよね。わたしはその議論を見ていたおかげで「フレーム問題」って便利な表現を発見した。で、あとで知ったんだけど、このそらパパさんも自閉症の症状について「フレーム問題」って概念を利用しているらしい(当然わたしより先に)。
つーことは、彼は口ではえらそうに述べているが、リアルな「フレーム問題」状態に陥った当事者を目の前にすたこら逃げちゃってるわけだ。
そんなレベルよ。いやとっても優秀な方だと思うけど。わたしの管見では。それとわたしが感じる生理的嫌悪は関係していないだけで。
わたしは当事者じゃないけど、わたしが「フレーム問題」って表現に気づいたのは、わたしの中にも生じる状態を根拠にしている。記事では便宜上アスペルガー症候群者にあてはめて述べることもあるけれど、基本的にわたしの中にもある状態だ。あっさり言えば「パニック状態」。わたしパニ障だからこっちの言葉を使うことが多い。
で、わたしはアスペルガー症候群と診断されてないので、こういった自分の症状に利用可能な概念として、精神分析文脈を利用した「未去勢者」という言葉を多用している、ってわけ。
つかさー、それこそ「フレーム問題」状態ってのは自閉症者の「内面」で起きている状態だろ? なのに「内面は論じない」って言うわけだ。そのくせ「それ」を表に出してみたとらさんとかを棄却する。
果たして彼はどうやって「フレーム」を構築するってんだろう。
「フレーム」を作る以前に、「フレーム」のない「それ」から逃げている。むしろ、「フレーム」がない状態でとめどなく「発散」している思考のうち、当事者がとりあえずと右往左往して「選択」して提示した、「それ」の「氷山の一角」のごとき言葉を、彼はもぐら叩きでもするかのようにいちいち上から別の「二次元」の言葉で塗り重ねていく。彼のような人間に療育を受けるアスペルガー症候群者は、相当のフラストレーションを溜めることが予測される(かと言ってこのことは理論家としての彼の能力を否定するものではない)。
だから当事者であるドードーとらさんはこう言ったのだ。
「当事者を岡山事件みたいなことに追い込むのは、あんたみたいな親だ」
「発散」とか「フレーム」うんぬん以前に、自分が語りたくない論点をわたしが提示したからじゃないかい? 確かにわたしの論じた内容は君の論じたい内容とはずれていよう。それらが完全に一致することなどありえない。しかし、わたしは君の言葉を聞いて論じている。わたしは「発散」しているつもりはない。ちゃんと君の言葉から連想したことを語っている。「自分が語りたいとは思わない」だけなら、コメントは削除しないだろう。おそらく君が適当にあしらっているコメントについては、君はそう思ってやっているだろう。しかし今回は削除した。つまり「自分が語りたいとは思わない」のではなく、「自分が語りたくない、また誰かに語られたくない」論点をわたしが提示したからではないか?
そりゃー自分では「発散」してないと思っていても「発散」しちゃうんだから、そんな論点も提示することはあろう。
わたしは自分がそう思ってなくても、人の心を傷つける発言をする。昔会社の上司に「お前の議論は議論ではなく相手をナイフで刺すようなものだ」と言われたことがある。ジェスチャーつきで(ここのコメント欄参照)。相手が語りたくない、語られたくない論点を、わたしは提出してしまうから、相手の心を傷つける、ということになるのだろう。
いやもちろん、最初から言っているように、わたしは彼に嫌悪を感じていた。これも口に出せばわたしの論点だ。わたしはわたしがしたい論点を、君が提出した論点と絡めて掘り下げただけである。
脳内そらパパさんの反論。「他の人だってそうするだろう」って?
中坊さんなんかよく耐えてるよ。まー彼抑鬱症者だけど。って今見てフイタ。コメント数350超えてるwww
さらなる反論。「彼へは優しいじゃないか」。
別にこっちは特別に優しくしようなんて思ってないけどな。君にも言っただろ? 「コメントほいほい公開しないでね」って。「もーやめる」とも連呼してたよな。これわたしの優しさだよ。人間としての。
まあでも、あえて理屈をつけるなら、中坊さんはそらパパさんのように棄却しそうにないんだな。そらパパさんからは、わたしは動物的嗅覚によって、何かを棄却したがっている臭いを感じた。いや単に君は鬱じゃない、って話なんだけど。自我という防衛機能に不具合を起こしている中坊さんなんかは棄却しにくいだろうな。わたしというアブジェを。
要するに君の無意識にある「何かを棄却したい」って本性を、ちょっとだけ噴出させてあげた、ってわけだ。
この「何か」にはいろいろあるんじゃねえ?
これまでほっぺひくひくさせながらも(勝手なわたしの想像)わたしのコメント公開していたのに、ここへきて急に削除したのは、君の娘について触れたからだろう。
とすると君の「何か」は「君の娘」に関することだ、と解釈できる。
ふーん。
疲れるだろうな。本まで出しちゃってるんだし。
あーいや、とらさんは二次元を最後まで拒否してたけど、わたしは二次元は二次元でありだと思うんだよな。二次元「だけ」なのがだめなんであって。
ほんとのらりくらりって感じ。
そらパパさんにしろ、自分を批判するアスペルガー症候群者を訴えた浅見にしろ、「精神的自立」だとか「自閉症は恥ずかしいことじゃない」とか言っておきながら、いざ未去勢者の負の部分を含んだリアルを目の前にすると、まるで汚らわしい物に触れたかのように、「それ」を棄却する。
アスペルガー症候群の「それ」に限んないけどね。
むしろ、なぜ人はそういうものを棄却してしまうのか。
こっちのが問題だと思うんだが。
なんかはずいわー。なんだろ、試合で流血して戦ってたプロレスラーが飯一緒に食ってる、みたいなさ。
あーでもあれ、わたしを悪者にしていいよ、つってるんだよね。わたしそういうの慣れてるし、基本的にわたしそらパパさんという人種とは対立する人間だと思うし。表向きだけ仲よくやってもどうせいずれ喧嘩しちゃうんだろうから、最初から敵同士の方がお互いやりやすいっしょ? 的なー、みたいなー。
そうじゃなくて、さすがのそらパパさんもキレて公開したのかね。それならいいや。
公開してね、つった方のわたしのコメント。
そこでわたしが言ってることさ、そらパパさんにはじめて絡んだ時のこの記事でも言っていることだよね。
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この「アスペルガーの大バーゲン」とは、非現実的な話ではない。わたしのこのブログのテーマの一つである、「ポモとはスキゾイドじゃない人間もスキゾイドになりたがる傾向である」に連結する。スキゾ化を目指してスキゾ仮面にしかなれなかったオタク文化や、従来のスキゾイド型ひきこもりと別物の社会型ひきこもりや、スキゾ的相対主義を口先だけで述べ本当の相対主義的主体は狂気の領域にあることを知らない者たち。類例はいくらでもある。
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思い出した? そらパパさん。「本当の相対主義的主体」はドードーとらさんの方なんだよ。
自分ですら相対化されているのが、本当に心が機械化した世界なんだ。
それだけ言いたかったけどさすがに脱線しすぎだと思ったのでこっちに書いた。トラバ打っとく。
とか書いてたら放浪人さんのレスが。
うん、そういうことだよ。「アスペルガーの大バーゲン」って。
でもこの言い方だと「(一律的に)不幸自慢しないでくれ」って言ってるって正常人は解釈すると思うなー。そうすると「不幸自慢」っつか苦痛をいかに文章化するかってのが一つのテーマになってるこのブログとかアウトになっちゃうちゃう。「わたしの苦しみをわかって」。いちおこの記事でも言ってるな。
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もしかしたらたまきんこのブログ読んでんじゃねえか、と思い、わたしの「単に困難を提示しておしまい」的な文章を批判しているのではないか、と気になってしょうがなくなった。思い込みでいいよ。「被害妄想」って書いてるじゃんけ。「フレーム問題」で自閉症を語るのなんかそらパパさんもやってるし大体みんな思いつくことなんだろう、と自分に言い聞かせても気になる気になる。
=====
ふざけんな! その人間の「困難」を他の人が認知できなかった場合、まず「困難を提示する」ことが工程の一つとして必要だろうが。身体障害者などその困難さが目に見えてわかる。いやわかっていると見ている側が思い込んでいるだけだ。そいつが考える「身体障害者の困難」はあくまでそいつの想像にすぎない。妄想である。身体障害者本人が感じている困難と、それを見ている人間が妄想する「身体障害者の困難」は別物である。ならばそれをすり合わせることが先だろうが。何わかったような口聞いてんだ。お前のやってることなんて要は、数学の公式の内容を理解せずただ暗記して問題を解いているようなもんだ。バカがやることだ。たまきんお前はバカ丸出しだ。この文章において。反省しろ。
=====
多くの人がその不幸を冷静に分析しないのが問題だと思うんだ。なぜできないのか。正常人には。一律的に不快を回避する快楽原則があるから。
ま、これはどうでもいいんだけど。
あとさー、そらパパさんのコメントから、
=====
実のところ、仮にそれが向いていないタイプの人であっても、その役割をまっとうしなければならないわけです。
=====
いやわかるんだけどね。わからないんだけど。あたし子供いないし。親になんてなれる人間じゃないって自覚は結構昔からあったし。
でもさー、ふと思ったんだわ。自閉症ってのは「母からも父からも疎外されている」。だとしたら、理屈的に、自閉症児に限っては、幼いうちから専門の療育士のもとで育てるのがオーケーなシステム、ってのもありなんじゃね?
とか書くとさー、どうせお前らが勝手に自己規定した道徳観みたいなので「そんなの育児放棄じゃないか」とか言うんだろ?
いやあたしも言うと思うよ、それはフーコーが批判したごとき「狂気の隔離」にすぎない、とかって。でもなっていいとも思うんだ。そうやって専門の療育士に育てられた(知的障害のない)自閉症児たちが大人になった時、フーコーを読ませたらどうなるか、って実験感覚でやらせてみたい。
それこそ、悲惨な出来事が起きるかもしれないね。
で、こういった出来事を根拠にして、「ほーらやっぱり育児は父母がする方がいいんだ」ってオイディプスの三角形が強化されていく、っと。ドゥルーズやガタリもあの世で泣いているんだろうな。
要するにさ、なぜ「その役割をまっとうしなければならない」のか考えてみそ、ってことだ。なぜ自分はそう考えてしまうのか考えろ、と。
君の自己の底にいる他者に出会えるかもよ。
結局さ、社会を厳密に語れば語るほど、正常人たちの内面における一人相撲に帰着してしまうんだよ。
さらに。
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かなり発散したコメントになっているので、
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どこが発散しているのだろう。いやそらパパさんの主観の中で発散している、と判断したわけだな。
つかさー、社会なんてのは、大多数派の正常人の心が反映されているに決まってるじゃん。道徳然り、法律然り。経済はびみょーだと思ってたりするけど。
で、君は社会を語った。社会っつのは正常人の心が色濃く反映されたものである。だとしたら、社会を語るには、なぜその社会がそうなったかを語るべきで、その根拠である正常人の心を語るべきじゃないかい? とわたしは思うんだな。つかそういうルートを考えてはいた。ただの予定だから大雑把にしか述べてないけど、議論を続けるならそういう方向に持っていきたいなーとは思ってた。自閉症者を社会に参加させることとは、一人対一人のコミュニケーションに相似させるなら、自閉症者と正常人の認知認識の差異に帰着するだろう、従ってそこを論じることは自閉症者の社会参加の問題にも繋がる、と。
でもなんかでもあほらしくなった。なのでばらした。手の内を。
ま、君にそこまで考えさすのは、さすがのわたしでも当該記事からの脱線になるとは思うし。
そういうことよ。
自閉症の心は機械的。機械的に考えてごらん? 物事を複雑にしているのは、正常人の心が原因になっているとわかるはず。
でもそうできないのが正常人が正常人たる所以。
抑圧ではなく排除しているわけだからね、そういう思考方法を。ビオンの言葉なら「思考する者なき思考」を。
あ、ごめん最後は独り言ってかこの記事自体がすでにそらパパさん個人に向けてのものじゃないけど。
つかさー、わたしとその二人のコメントで、あなたの言う「精神的自立」がどういうものか、多少は具体化したと思うけどな。
でも全然足りない。全然具体的に理解できない。
ねえねえ、自分勝手に納得してないで、わたしらの言葉を咀嚼して、自分が考える「精神的自立」を言語化してみてよ。言えないなら、「精神的自立」ができてない状態とはどういうことか、でもいい。
ここすげえウィークポイントだと思うぜ、その記事において。
君は「経済的自立」ではないそれを、一つの療育の目標として論じている。だけどその目標に具体性がともなっていない。
「精神的自立」
君さ、この言葉によって、自分の論が「内面」に向かざるを得なくなってることに、気づいている? 気づいているよな。
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今回の「精神的自立」についても、より還元的に「選択できること」と定義していていることからご理解いただけるように、私はできるだけ「内面的な解釈に基づく議論」をしないようにしています。
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ここエポケー(「還元」って現象学的な意味だと解釈した)したら、君のやってることって、君がツイッターで言ってる「無理やりやらせる」ことになると思うんだけど。「選択しろ」という強制。アンテ・フェストゥムを死の祝祭へと導く手。
神の手。
うん、君のその記事の言説、宗教臭い。
全然「ご理解」できません。
ドードーとらさんって当事者は君になんて言った?
「当事者を岡山事件みたいなことに追い込むのは、あんたみたいな親だ」
君はその「精神的自立」がどういうものか、君の思っているそれはどういうものか、きちんと考えるべきだと思うよ。
いやわたしは第三者だからどうでもいいんだけどね。ただ「なーんだ、やっぱわかってないじゃん」ってだけで。
あなたはいまだとらさんのその言葉のままだ、とわたし個人が判断するってだけ。
わたしは他人だからあなたの娘がどうなろうと知ったこっちゃないしー。
自分が狂気に陥らない代わりに、他者を支配する、か。
おう、君放浪人さんへの返信で書いてるじゃん。
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そもそも人というのは「自分の痛み」はわかっても、「他人の痛み」は想像することしかできませんから、
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わたしは、「想像」ってレベルじゃないところで、それ以前のフェーズで、苦痛は伝染すると思ってるんだけどな。シュルレアリスムが目指した感動。狂気の伝染。プレコックス感そのもの。むしろ苦痛を「想像」することで、伝染された苦痛は劣化する。この記事から。
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フリスも言ってるだろ、「(共感できないと考えられている)自閉症者であっても共感していると思われる状況がある」と。でもこの共感はテレビで飢えている子供を見て空腹という不快感を惹起するものだ。感情移入の原始的なものだ。幼稚で稚拙な共感。幼稚園児によく見られる「大泣きの伝染」。そこに想像的あるいは象徴的な複雑な連鎖網はない。何重にも折り重ねられた意味などない。ピンポイントで響く共感。
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そうじゃなきゃわたしは生きてられない。
んなことじゃなくて、んなのどうでもよくて、さっきのツイッターのつぶやき、
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「相手の苦しみや反発を無視する」というニュアンス、入ってるよね?
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この返信自体にそのニュアンス入ってるよね?
なぜ君はそんなこと言ってしまったのだろう。
エポケーしたからだよ。
ぐぞ、そらパパさんの一件で書こうと思ってたこと忘れた。
そらパパさんってリバタリアンだったんだな。ちょーどネグリに触れてた時期でなんかピンポイントだな。とか書くと中坊さんあたりが「いやネグリはリバタリアンと言われているけど実はそうじゃない」とか言ってきそう。それに花風社事件の最中だったのも、ほんと偶然なんだよな。この記事でドードーとらさんのこと思い出して、それでしばらくぶりに見てみたら「あら、どっかで見た名前が」って感じ。
なんかすげーってほどじゃないがいくつかの偶然がガガガってきた。うわーこんなつまんねーことに運使っちゃったよ。あーあ。的なー、みたいなー。
そういや二方向同時攻撃ってこのブログ初だよな。調子いいんだろうか。こういう時いきなりガス欠くるから怖いんだよな。
こう、必然性を読み込みたくなる偶然の重なりって、まあシンクロニシティなわけだが、なんか、確かにファルス化しちゃうのかもね。わたしは今結構正常人してる。必然性を読み込みたくなるほどの、「何か意味はあるんじゃないか」と思ってしまうほどの、偶然の重なりは、主体をファルス化せしめる、のか。
あー。う? そもそも偶然を必然に変えるのが「愛」であり、意味自体である、って? シンクロニシティが原初に意味だとしたら、「愛」は接着剤みたいなもんだろうな。「この偶然には意味がある」ってわたしも思いそうになったけど、「やっぱただの偶然だよな」ってなるのは、わたしが情性欠如者だから、か。
そうだよな。社会的成功を経験した人が、「これは偶然だが意味のあることだ。必然だ」って思うから、その成功を維持できるわけで、まあ謙遜で「いやただの偶然ですよ」とかくらいは言うんだろうが、本気でそう思っている奴は、成功状態を維持できるわきゃないよな。ほんの一瞬。
うん、ただの偶然。全ては偶然。偶然以外のことは存在しない。
……あら?
なんかもうやめよ。ほんとやめよ。
死んどこう。しばし。
必然はないけれど、それは別に偶然じゃないんだよな。ただそうであるだけ。ただそうであるだけのことを、偶然って言って特殊化しているだけ。人間の知の外側が本当の世界なのに、外側部分を偶然だとか言うことで、内部に閉じ込めようとしているだけ。「男性的享楽による交接の取り込み」。
なんかね、この記事とかのタイトルについてコメントで指摘されてるけど、ほんと意識してなかったんだよ。これも偶然。
ああ、なんか怖くなった。
敏感な未去勢者たちはうすうす気づいてたんだろうな。ここ数日のわたしが正常人方向に動いたってこと。
さて、こっからどうなるでしょうか?
わたしにもわかりません。
ああ、うう、メモ。「コンプレックスについて」書かなきゃ。あと、あれ、「書かなきゃ」? 他者がいる。あれ。
うわぼ。
嘘だあ。ここ数日、本当に死ねそうだったのに。
きら、きら、こそ泥。
つかさ、わたしもひどいこと言ってるけど、そらパパさんも大概ひどくね?
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実のところ、仮にそれが向いていないタイプの人であっても、その役割をまっとうしなければならないわけです。
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ってさ、まー「仮に」だけど、「思い遣り過剰のうざい定型女」が、アスペ育児に「向いていない」って認めてるってことだよな。
そっちのが傷つくと思うんだけど(笑)。そらパパファンの「ツレション女」どもは。
あ、でもそれこそ「思い遣り過剰」=想像界主義なわけで、感情的に自分側の立場に立ってくれてたらいいのか、そういう牝豚どもは。
なるへそな。勉強になったよ。
なんか癇に障るんだよな。このブログではよく書いているけど、わたし基本的に自己美化したり自己肯定する奴が本当に嫌いなんだ。本能的に嫌い。
いやわざとやってるならいい。わかっててやってるなら。自覚してやってるなら。「本当は美しくも肯定できるようなものでもないけど、そうしないと生きていけないしさ」みたいな哀愁があるならいい。能動的ニヒリズムとかそういうもんだと思う。
だけど自己美化、自己肯定が無意識になっている奴が嫌い。飲茶とかいいこと言ってたな。「脂さんが攻撃するのは「無自覚権力志向型定型人」だ」ってね。自己美化、自己肯定が一個の行為ではなく動物的な習性になっているから「無自覚権力志向型人間」になる。この言葉は信頼できると思うぜ。某サイトのチャットでは、そらパパさんちでやった以上に他人を攻撃しまくってたんだが、飲茶はそれを見て言ってるわけだから。ちゃんとわたしを臨床して言った言葉。そのサイトっているの若い子ばっかだったんだよね。自分よりはるかに年下な人間でもムキになって攻撃して心を傷つけるような人間なんです。わたしって。大人だろうが子供だろうが関係ありません。テリブルマザーは平等に不愉快を恵むのです。
ウタ・フリスも、認知心理学の人じゃないらしいけど、癇に障った。「自閉症者は(定型発達者のように)高度で複雑なコミュニケーションに参入できない」みたいなこと書いてあったんだが、それって要するに定型発達者の心は「高度」だって言ってるわけだろ? 自分を高い位置に置いている。死ね、と思ったわ。
精神分析やれば全然「高度」じゃないってわかるんだけどな。精神分析では、特にクライン-ラカンといった死の欲動派(わたし命名)は、たとえば自我なんて、機能的に考えれば欠陥満載なものとなる。操作性も悪い、内部処理もその時々で違う。機械だったら、勝手に動いて勝手に不良品を作るようなもんだ。たとえば子供って親に怒られるのをおそれて拙い嘘をつくよな? それだよ、それが自我の雛形。「自己防衛のために嘘をつく」が、自我の機能の(極端すぎてはいるが)要約だ。ラカン派の解釈によれば。
自我が正常なのが精神医学で言う正常人だよな。つまり生物として機械的に不良品なのはむしろ正常人なんだ。
もちろん自閉症者だって自我という機械が壊れているだけで、ガタピシときしみながら作動はしている。わたしが観察していたある自閉症者は、まさに「親に怒られるのをおそれて拙い嘘をつ」いていた。でも発達していない自我だからすぐばれる。正常人のように自然に嘘がつけない。嘘をつき通せない。
認知の処理機械たる自我などといったものがそもそも不良品なのだ。不良品が不良品だから、たとえば「自閉症者は嘘をつけない」なんて大雑把な表現(当然これは先ほど述べたように事実としては誤っている)で示される症状となる。
正常人はそもそもが不良品としての自我が正常だから、嘘が多重になる。物事は複雑化する。正常人の主観世界において。正常人の心の「高度」さは、嘘が「高度」であるということだ。この「嘘」は「ごっこ遊び」と言い換えてもいい。「ごっこ遊び」が「高度」であるのが、正常人の心なのだ。
大多数の人間がそうだから、それを如実に反映した社会も複雑化する。矛盾を多く含んだものとなる。
社会なんてな嘘に嘘を重ねたものだ。ごっこ遊びにごっこ遊びを重ねたものだ。そういう意味で、社会とは人類が作り上げた最大の芸術作品だとわたしは解釈している。社会学なんてな一個の芸術作品を延々と批評・解釈し続ける学問だ、ってなる。余談だがこの「芸術」って原初的な意味だから「技術」「工夫」などとも表現可能なんだが、社会工学あたりになると、わたしのような解釈はありってなるだろうね。
なのになぜ、機械的な生命を不良品たらしめる自我が壊れている人間を異常者として、正常人の不良品たる心を棚上げにするんだろう? なぜ不良品たる心を搭載した生物が「高度」なんだろう?
自己美化、自己肯定も大概にしろ。
ある自閉症者は言った。「定型発達者は八割死ね」。
異常なのはお前らだ。異常者が多数派になっているから「我々は正常だ」と言ってるだけだ。
自己肯定も大概にしろ。
死ぬべきはどちらか明らかだろ。
そらパパさんにコメント消された。メモってはあったけどちょうどいい具合にPC固まってデータ壊れちゃった。
ま、いいや。そらパパさん本人が読んでたら。「政治的に応援している」ってのはほんとだからね。ただほら、たとえばある集団があって、「内ゲバしていると思われたらだめだから、集団内同士で批判しあうな」ってのがいまいちわからんのだよ、わたしは。結果的に集団の損になるのは頭ではわかるから従うこともあるけど、そんなにわたしの中ではウエイトが置かれないんだよね。この思考回路。だからすぐ「他の構成員に対する悪意」が勝っちゃったりする。だからわたしは群れられない。常に「裏切り者」。単に団体行動が苦手ってだけか。
つか自分であとから読んでちょっと「あーこりゃあかんわこんなこと言ったら」って思うコメントもあったし、むしろ感謝してる部分すらあったりする。いや基本凹んでるけど。内心ぼろぼろ。血まみれ。口調が軽いのはあれだ、ほんといやだから。こんなんで傷つく自分が。
でも一個気づいた。「わたしは人を傷つけるために精神分析って道具を利用している」ってのは、「思考実況」をより正確な実況にするための言い訳だったんだな。「人を傷つけちゃだめ」って幻想ルールで却下される言葉たちを却下しないための。で、実況してて「何これ」って自分で思うものもあって、そのために精神分析がある、と。自分を切り刻むためにあるんだ。自分を切り刻むことにはわたしの想像上の他人を傷つけることも含まれてる。
おろ、そらパパさんそのコメントは残すのね。まー自己擁護コメントだから当然か。
それに対して二点だけ言っておこう。
わたしは先にも書いたように「人を傷つけるために精神分析って道具を利用している」。なぜなら人は嘘をつく動物だから。従って、彼の批判する精神分析はわたしが利用する精神分析であって、他のそれはこの限りではない。また、彼の精神分析批判は、彼自身精神分析の知識が乏しいと明言していることから、「食わず嫌い」の言い訳のようなものであると言える。
つか
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今回、精神分析というツールを使って、私を肯定(応援?)したり、否定したり、
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とかさ、精神分析とか関係なくわたし最初から公言してるんだけど(ここのコメント欄参照)。大体ある一人の人について肯定する部分もあれば否定する部分もあるのが普通じゃん。一部分肯定したら全部肯定しなきゃいけないの? わたし肯定する部分は最初から肯定しているし(理論家としての能力、臨床を疎かにしてない点、浅見と対立したこと)、否定する部分は最初から否定している(性格)。もし彼が「肯定されたり否定されたり」することを不快に思ったなら、批判すべきはわたし個人だ。なんで「精神分析」にすり替えちゃうのかね? 以前もあったよな、文脈を全く飛ばして精神分析批判すんの。君、何か「精神分析」に特別な思い込みとかない? トラウマ的な。
あと一つ。このそらパパさん、以前岡山事件についてドードーとらさんってアスペ当事者と議論したことがあるんだけど、その時も「議論が発散している」とか言ってとらさんから逃げたんだよね。わたしはその議論を見ていたおかげで「フレーム問題」って便利な表現を発見した。で、あとで知ったんだけど、このそらパパさんも自閉症の症状について「フレーム問題」って概念を利用しているらしい(当然わたしより先に)。
つーことは、彼は口ではえらそうに述べているが、リアルな「フレーム問題」状態に陥った当事者を目の前にすたこら逃げちゃってるわけだ。
そんなレベルよ。いやとっても優秀な方だと思うけど。わたしの管見では。それとわたしが感じる生理的嫌悪は関係していないだけで。
わたしは当事者じゃないけど、わたしが「フレーム問題」って表現に気づいたのは、わたしの中にも生じる状態を根拠にしている。記事では便宜上アスペルガー症候群者にあてはめて述べることもあるけれど、基本的にわたしの中にもある状態だ。あっさり言えば「パニック状態」。わたしパニ障だからこっちの言葉を使うことが多い。
で、わたしはアスペルガー症候群と診断されてないので、こういった自分の症状に利用可能な概念として、精神分析文脈を利用した「未去勢者」という言葉を多用している、ってわけ。
つかさー、それこそ「フレーム問題」状態ってのは自閉症者の「内面」で起きている状態だろ? なのに「内面は論じない」って言うわけだ。そのくせ「それ」を表に出してみたとらさんとかを棄却する。
果たして彼はどうやって「フレーム」を構築するってんだろう。
「フレーム」を作る以前に、「フレーム」のない「それ」から逃げている。むしろ、「フレーム」がない状態でとめどなく「発散」している思考のうち、当事者がとりあえずと右往左往して「選択」して提示した、「それ」の「氷山の一角」のごとき言葉を、彼はもぐら叩きでもするかのようにいちいち上から別の「二次元」の言葉で塗り重ねていく。彼のような人間に療育を受けるアスペルガー症候群者は、相当のフラストレーションを溜めることが予測される(かと言ってこのことは理論家としての彼の能力を否定するものではない)。
だから当事者であるドードーとらさんはこう言ったのだ。
「当事者を岡山事件みたいなことに追い込むのは、あんたみたいな親だ」
「発散」とか「フレーム」うんぬん以前に、自分が語りたくない論点をわたしが提示したからじゃないかい? 確かにわたしの論じた内容は君の論じたい内容とはずれていよう。それらが完全に一致することなどありえない。しかし、わたしは君の言葉を聞いて論じている。わたしは「発散」しているつもりはない。ちゃんと君の言葉から連想したことを語っている。「自分が語りたいとは思わない」だけなら、コメントは削除しないだろう。おそらく君が適当にあしらっているコメントについては、君はそう思ってやっているだろう。しかし今回は削除した。つまり「自分が語りたいとは思わない」のではなく、「自分が語りたくない、また誰かに語られたくない」論点をわたしが提示したからではないか?
そりゃー自分では「発散」してないと思っていても「発散」しちゃうんだから、そんな論点も提示することはあろう。
わたしは自分がそう思ってなくても、人の心を傷つける発言をする。昔会社の上司に「お前の議論は議論ではなく相手をナイフで刺すようなものだ」と言われたことがある。ジェスチャーつきで(ここのコメント欄参照)。相手が語りたくない、語られたくない論点を、わたしは提出してしまうから、相手の心を傷つける、ということになるのだろう。
いやもちろん、最初から言っているように、わたしは彼に嫌悪を感じていた。これも口に出せばわたしの論点だ。わたしはわたしがしたい論点を、君が提出した論点と絡めて掘り下げただけである。
脳内そらパパさんの反論。「他の人だってそうするだろう」って?
中坊さんなんかよく耐えてるよ。まー彼抑鬱症者だけど。って今見てフイタ。コメント数350超えてるwww
さらなる反論。「彼へは優しいじゃないか」。
別にこっちは特別に優しくしようなんて思ってないけどな。君にも言っただろ? 「コメントほいほい公開しないでね」って。「もーやめる」とも連呼してたよな。これわたしの優しさだよ。人間としての。
まあでも、あえて理屈をつけるなら、中坊さんはそらパパさんのように棄却しそうにないんだな。そらパパさんからは、わたしは動物的嗅覚によって、何かを棄却したがっている臭いを感じた。いや単に君は鬱じゃない、って話なんだけど。自我という防衛機能に不具合を起こしている中坊さんなんかは棄却しにくいだろうな。わたしというアブジェを。
要するに君の無意識にある「何かを棄却したい」って本性を、ちょっとだけ噴出させてあげた、ってわけだ。
この「何か」にはいろいろあるんじゃねえ?
これまでほっぺひくひくさせながらも(勝手なわたしの想像)わたしのコメント公開していたのに、ここへきて急に削除したのは、君の娘について触れたからだろう。
とすると君の「何か」は「君の娘」に関することだ、と解釈できる。
ふーん。
疲れるだろうな。本まで出しちゃってるんだし。
あーいや、とらさんは二次元を最後まで拒否してたけど、わたしは二次元は二次元でありだと思うんだよな。二次元「だけ」なのがだめなんであって。
ほんとのらりくらりって感じ。
そらパパさんにしろ、自分を批判するアスペルガー症候群者を訴えた浅見にしろ、「精神的自立」だとか「自閉症は恥ずかしいことじゃない」とか言っておきながら、いざ未去勢者の負の部分を含んだリアルを目の前にすると、まるで汚らわしい物に触れたかのように、「それ」を棄却する。
アスペルガー症候群の「それ」に限んないけどね。
むしろ、なぜ人はそういうものを棄却してしまうのか。
こっちのが問題だと思うんだが。